単行本 - 外国文学

エンターテイメントに富んだ傑作ミステリ

約束
イジー・クラトフヴィル 著 阿部賢一 訳

 

 

エンターテイメントに富んだ傑作ミステリ

 

[レビュアー]中原昌也

 

クラトフヴィルなんて作家は聞いたことないし、どこの馬の骨だかわからない人間には極力関わらないに越したことはないが、そのような見ず知らずの人間に唐突に「約束」などという短く重い言葉を突きつけられるのは、いくらフィクションの世界ではあっても、それは困る。例えば「潮騒」とか「雪国」ならともかく「悪人」だとか「怒り」などと突きつけられるように迷惑。たまたま通りかかった書店の棚から、無意識にそういった書名が飛び込んで目に入ってきて、それが記憶に残っただけでも、強引に草むらに連れ込まれた気分。
しかし、その本を実際に手に取ってしまった。しかも、何の因果か(いや、単に書評の依頼を不覚にも請け負ってしまったため)、最後の頁まで読んでしまった。これは読み終えるのにも難物だった。読んでいる間はとにかく「何なんだ?」と妙な気分にさせられるだけだったのだが、これは結局何の物語であったのだろうかと、読後の虚脱した放心状態の中、マイクによるハウリングの鳴り止まないカラオケスナックの席で、営業時間内にどこかへ消えた従業員を待ち続けるような気分になる。この本の言葉がもたらした世界がいつまでも消えない耳鳴りの如く生々しく、関わりを安易に断ち切れずにいた。
もう面倒なんで「戦後間もないチェコの都市ブルノを舞台に、ノワール的な要素が満載!」と簡単に本書の物語を、いかにもエンターテイメントに富んだ傑作ミステリーとして紹介して片付けたいところなのだが……作家本人の家系と思しき人物が作中登場するが自伝的などいうことはなく、何よりもタイトルの「約束」とは主人公の妹とのものであるのだが、その部分は驚くほどアッサリとした説明(というか妹そのものは作中、回想に少ししか登場しない!)で流し、僕のような読解力の乏しい人間を、ひたすらミスリードの不安へと闇雲に誘うのだった。謎が謎を呼び、さらに謎が謎を呼び、そもそも謎の何が謎だったのかも謎となり、自分はいったい何を読んでいるのだろうという気分にまで陥る。特に肉屋から刑事に転身する探偵の、ヨガを駆使しての独特な調査法には、思わず「気が狂ったか?」と読んでいる自分を何度も疑った。
そう、文句ばかり言っているように聞こえたかもしれないが、本心ではいつでも、もっとミスリードの海に溺れたいという欲望に飢えている。水の中で、酸素というわずかなものが欠けるだけで、自分はこの世界に存在できないのを知るように、言葉という確かなフリをして実際には最も曖昧な浮き輪が、ズブズブと沈んでいくスリルを感じたい。僕には少なくとも、その欲求だけが読書に向かわせる理由だ。確かに作品そのものが、作中に登場する地下空間のような厄介な物件であり、追い討ちをかけるように、本邦初紹介の作家による、追体験しようのない「50年代のチェコの地方都市」の暗黒の物語で、僕にとってこういうものこそが「エンターテイメントに富んだ傑作ミステリー」だと思うので、一般人たちとはますます小説に対する認識に大きな溝が広がるのである。

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著者

イジー・クラトフヴィル

1940年ブルノ生。60年代から短編執筆するも、共産党体制下では発表の機会を断たれ、90年に長編『熊の小説』でデビュー。数多くの国内賞を受賞し、ミラン・クンデラ直系のチェコ作家として不動の地位を築く。

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