単行本 - 人文書

女性に「教養」は必要か。永遠に実現されない女性の夢の構造。

夢みる教養――文系女性のための知的生き方史

小平麻衣子

〈文学少女〉の時代から、文学部の「女性化」、「自分磨き」まで——「教養」という語に折りたたまれた、前向きに学ぶ女性たちの心性を解きほぐし、実現されない夢の構造を明らかにする。

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はじめに

 

■何かが欲しい!!

教養に、夢をみさせる以外の効力はあるのだろうか。とくに女性にとって。こう問うてみるのは、近代の歴史の中で、女性の学ぶことと、夢みることは切っても切れない関係であったからである。女性の教養の一つに文学が大きな位置を占めていたことをみるとき、それは明らかになる。

例えば、幻想的な作風でファンも多い野溝七生子(一八九七~一九八七年)が描く『山梔』(『福岡日日新聞』一九二四年九月九日~一九二五年一月一六日)では、主人公・阿字子は、「何かがほしい」と絶叫するのだが、この「何か」とは、とめどない知識欲であり、独自の言葉で話せる知性のことである。本を読む女性たちは、この小説の中で「魔法使い」と呼ばれている。阿字子は、奇妙な髪形を自分で編み出し、ギリシャに思いを馳せるために女学校では仲間外れにされ、世間並みの良妻の見本たる嫂とはげしく対立する。「魔法使い」は、そんな異端を表す言葉である。

だが、阿字子が読むのは、蔵に秘蔵されたおじいさまが読んだ本であり、兄が貸してくれる本なのである。厳格な軍人である父親は、「お祖父様は立派な学者だ。腐れ学問とは貴様のことだ」と、阿字子の知性への思いを一蹴するが、父親が本の内容を関知していない以上、彼女が女性だからという以外の理由はない。知識欲の伸長や活用が存分に行われないとき、それは、今・ここを抜けだす夢想として表象されざるをえない。

そもそも、どの分野であれ、学識と創造とは、思うほど離れていないはずである。夢がなければ、人は空を飛ばないし、古代文字を解読もしない。それが空想だと言われるのは、その実現がおぼつかないからだが、それは、ことの内容によるばかりでなく、それへの継続的なかかわりを妨げられているという場合もある。かかわれないから実現できないのであり、空想だという決めつけは、彼ら彼女らをあきらめさせようとする。かくして、抑圧の強い歴史の中で、女性の学びに対する姿勢の真剣さは、ある種の人からみれば浮世離れしてみえる内容と、矛盾もなくつながっている。女性の知性が文学と共に語られるとき、その想像的な側面が強く呼び出されがちなのも、これにかかわっていよう。

■得体の知れない〈教養〉

もちろん、こんな抑圧は、今はないはず、と思った方は多いだろう。それに、阿字子のような独自な知性が、本書がタイトルに掲げる〈教養〉なのかどうか、既に違和感を持った方もあると思う。教養とは、深い知識を前提とした物事に対する理解力や創造力、というのが一般的な理解であるのだが、現在では、役には立たないが生活を豊かにする知識とか、だれでも知っているべき一般常識まで、さまざまな意味内容を含んだ混沌とした概念である。

前者なら、美術やクラシック音楽といった芸術に造詣が深いなどとイメージされる場合もあろう。これは、暮らしに余裕のある選ばれた人が、仕事とは無縁に楽しむような感じがある。〈趣味と教養〉のように使われるのは、両者が似ているからに他ならない。また後者なら、特定の集団で持っているべきとされる知識のセットや、職業を遂行する上で必要になる社会的能力としてイメージされる。近年知識を生かす実践力をわざわざ「教養力」などというのは、教養が知識のストックになり下がっているからだろう。

同様に、「教養」の語は、就職の際の「一般教養」試験、などの形で目にすることもある。類似のものを「一般常識」という場合もあるところからすると、「教養」=「常識」、つまり最低限知っておくべきものということであろう。では女性は、と言えば、知性だけでなく、着物を着た際の立ち居振る舞い、とか、美しくみえるテーブルマナーなども教養と呼ばれそうだが、これはどちらだろうか。「常識」なのだろうか、全員に必要とは限らないハイソサエティなたしなみなのだろうか。より混沌は増すばかりである。

「教養」という語は、知性をどのような領域、あるいはレベルで考えるのかについてのそれぞれの人のイメージが反映される。個々人というより、歴史的な変遷が折りたたまれた言葉である。教養の崩壊、などということは、何十年も前から言われているのだが、実はそれだからこそ、各人が都合のよいイメージを投影できる教養という語は、生き延びていると言えるだろう。そしてそれは、当然ながら生き方のモデルにかかわっている。女性ならば、優雅な主婦であることが理想なのか、いきいきと働くことが輝いて見えるのか、はたまた働くことが義務だから自分だけの表現世界が必要なのか、それぞれの時代に求められる女性像が、教養の内容を入れ替えているのである。

それぞれの人が思う教養には、いずれも夢がある。別に学問的な内容だけではない。現代なら、美しく見える立ち居振る舞いやイギリス式アフタヌーンティーの愉しみ方はワンランク上の主婦の座を、ビジネスマナーやパソコンの技術はキャリアのステップアップを、陶芸や写真の撮り方は自分だけの表現世界を。どれも、今・ここからほんの少し脱出させてくれる魔法である。すべてが女性の教養と呼ばれなくもないこうしたお稽古や資格取得の場は、常に前向きに学ぶ女性で溢れている。

■実現されない夢の構造を解き明かす

しかし、夢という言い方がある程度納得される時点で、われわれはみな、先ほどの阿字子の末裔なのではないか。単に娯楽であるようにみえても、女性は結構真面目である。例えば、ワインの学校で知識を極めてしまう女性。頻繁に旅行するわけでもないのに、語学を何十年も続ける人。これらも、見方によっては、学ぶ人の熱意に対して、対象が浮世離れしている例である。ワインや語学自体の社会的価値やイメージは悪くないのに、何かがずれているように感じられてしまうのはなぜだろうか。それなら、茶道の探究や、トレーディングの知識への深入りなら、よいのだろうか。

女性の学びは、それが真剣であるほど、自分探しになっている場合も多いように思う。なかなか自分に安住できずに〈何か〉を求めてしまうのだ。そこで、浮世離れした学びの対象を選んでしまうのは、単にそれぞれの女性が自分の資質を見極めないからなのか。そうではなくて、積極的に何かを学ぶことが良き価値と方向づけられながら、その達成が社会的な位置づけとしては測れない領域に限定されるとか、継続的なかかわりが阻害されるなどによって、それを夢に留めてしまう社会の構造があるのではないか。実際、先ほどの阿字子本人ではないかと目される『山梔』の作者、野溝七生子は、戦後は大学教員になって森鷗外や比較文学を講義し、創造を職業として生きた。環境が整えば、その夢は、学識と呼ばれるものだったのである。

夢は、心おどる希望である一方、夢でしかないものでもある。実は教養が、生活の知恵や処世術のようでもあり、高踏的で優雅でもあるような曖昧さを持つことは、女性を振り回すしくみを象徴し、かつ助長するものなのではないか。それを身につけるべきというのが大前提であればこそ、教養という語の使い方ひとつで、あなたはがんばりました、でも残念ながらそれではなかったようです、と言うことが可能だからである。

本書は、教養を視座に、歴史を探り、女性の実現されない夢の構造を解き明かそうとするものである。従って、今必要な本当の教養とは何かを見極め、それを学ぶことで理想の生き方に近づく、という指南本では、残念ながら、ない。それは、本書が大正期という古い時代から始まっており、その時期の教養が私たちにとってかけ離れたものになっているからではない。むしろ、教養が私たちを疎外するものであり、その同じ構造が、表面に見える事象を変えながら、現在まで続いている様相を描こうとしているからである。

取り上げる女性の多くは、得るべき教養を自信を持って教えてくれる成功者ではない。学ぶ熱意が社会的評価にはつながらず、従って今に名を残さない普通の女性たちである。知らない人の残したしるしを辿ることは、偉人たちの事績よりもむしろよそよそしく感じられるかもしれない。だが、そこには、あなたによく似た彼女がいるはずである。

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【目次】
第一章 〈人間〉にはエリートしかなれないというよく知られた事実――通俗小説からみる大正教養派
第二章 東大生〈以外〉はどんな本を読んできたか――女の教養の範囲
第三章 恋愛は女の革命か!?――マルクス主義と人文的教養の凋落
第四章 差別するにはまず女性を活用すべし――「教養」の二重底
第五章 向上心があなたをダメにする――教養雑誌の投稿から
第六章 〈文学少女〉はいない――文豪たちの邪悪な共同体
第七章 お稽古も命がけ――戦中における〈ほんとうの教養〉の呪縛
第八章 戦後文学部の女性化――〈役に立たなさ〉の大暴落
第九章 文系バブル崩壊――その後に残るもの

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著者

小平麻衣子

1968年生まれ。慶應義塾大学教授。日本近代文学におけるジェンダー/セクシュアリティを、さまざまなメディアや文化の広がりのなかで分析している。『女が女を演じる——文学・欲望・消費』など。

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