第19回 似ているところは探さない
「母」ではなくて「親」として、妊娠・出産・育児をしてみると、世界は変わって見えてくる! 周りを照らす灯りのような赤ん坊との日々を描く、全く新しい出産・子育てエッセイ。

母ではなくて、親になる

第19回 似ているところは探さない

「子どもが生まれました」
 と報告すると、
「どちらに似ていますか?」
 と聞かれる。
 それから、子どもに会いにきた人や、写真を見た人が、
「ナオコーラさんに似ていますね、可愛いですね」
 あるいは、
「旦那さん似ですね、可愛いですね」
 と言ってくれる。
 私も、友人や知人の赤ん坊に対して、「お母さん似ですね」「お父さん似ですね」「可愛いですね」と言ってきた。
 もちろん、嘘ではないのだが、なんでそう言っていたのだろう、と考えるに、他に言うことが思い浮かばなかったからだ。赤ん坊本人はただ生きているだけで何をやっている人でもないから、「誰かに似ているか」「可愛いかどうか」しか話しようがない。そして、似ているかどうかというのは、適当だ。明らかに違う顔立ちだったら「似ている」とはさすがに言わないが、「人種が同じだったら『似ている』と表現しよう」ぐらいの勢いで言っていたと思う。赤ん坊の顔は、よくわからない。
「似ていないですね」と言ったことは一度もない。必ず、どちらかに似ていることにする。あるいは、「目元はお母さん似で、眉毛はお父さん似ですね」などと「赤ん坊の顔立ちは親の顔立ちのブレンド」ということにするのがベストな答えだとも思ってきた。
 私も、他の人から、「似ていないですね」と言われたことはない。
「親と子が似ていないのはタブーだ」と、みんなも私も考えてしまっていたのだろう。
 おまけに、夫の両親が赤ん坊を見にきたときには、
「目が奥二重みたいですから、たぶん、○○さん(夫のこと)似ですよ。私は一重まぶたなんで」
 と私は言った。夫に似ている方が、夫の両親が喜ぶと安易に考えてしまったのだ。世間の空気からして、こういう風に言うものだろう、と深く考えずに喋った。
 だが、血が繋がっていると考えた方が赤ん坊を可愛く感じるはずだ、と相手の愛情のかけ方を推察するのは、相手を軽んじてしまっていたと今となっては反省する。
 夫の両親は、自由な気風の人たちで、赤ん坊をすごく可愛がりつつ、でも、私たちを尊重して必要以上に踏み込むことなく、距離を持って接してくれる。おそらく、血がどうの、なんて何も気にしていない。私たちと似ているかどうかなど、考えもしないだろう。
 多くの人は、新しい存在がこの世に誕生したと認識するだけで、「可愛い」と感じる。
 親に似ているかどうかを本気で審議したい人はまずいないし、「とにかく赤ん坊を褒めたい、でも、褒め方がよくわからない」とみんなが思っている。
「似ていますね」は、よく言われる無難な挨拶だから、多くの人がそのテンプレートを使っているだけだ。
 だから、深い意味など考えずに、言ってもらった方は、「ありがとうございます」と流せば良いのかもしれない……。

 でも、本当にそうだろうか、と赤ん坊を見ているうちに、疑問が湧いてきた。改めて考えると、ちょっと引っかかりを覚える。
 養子を育てている人は、こういった「似ている」に関する会話に接したとき、何か思うことはないのだろうか? きっと、顔立ちは似ていないだろう。人種が違う子を迎える人もいる。あるいは、顔立ちが似ていたとしても、「似ていますね」と言われたとき、複雑な気持ちになるのではないか。
 また、養子ではなく自身で赤ん坊を出産した人でも、他の人から卵子や精子の提供を受けた場合は、顔立ちはどちらかの親のみに似ているだろうから、「似ているとか似ていないとかといった話題は、できたら避けたいなあ」と思うのではないか。
 同性愛者のカップルは、医療で子どもを持つ場合は現代の医学ではどちらかにしか似ないだろうし、養子を迎える場合はどちらにも似ない。やはり、「似ている」に関する話は居心地が悪いのではないか。
 いや、そんなことを配慮しようとするのは大きなお世話で、本人たちはさばさばしていることも多いのかもしれない。
 とはいえ、親はまだしも、子どもの方は、「親と子は顔つきが似ているはずだ」という世間の空気を、つらく感じるのではないか。
 ステップファミリーの上の子はどうだろうか? たとえば、母親と元夫の間に生まれた子どもが、母親が離婚後に(あるいは死別後に)別の男性と結婚し、その男性がとても素敵な父親になってくれて喜んでいたとする。その後、母親と新しい父親の間に子どもが生まれたとき、「お父さんに似ているね」と赤ん坊を見た人たちが会話していたら、なんとも言えない気持ちになるのではないか。
 こういったことが起きて、子どもが傷ついたとしたら、もちろん、それは親のせいではない。社会の空気の問題だ。親に愛されてぬくぬく育っている小さい間は、子どもは顔立ちなんて気にしない。だが、大きくなったら家だけでなく社会の中で育っていくから、「親と子は似ている」ということが前提の会話が繰り返されたとき、きっと傷つくだろう。
 でも、大した問題ではない。社会が変われば、解決してしまう問題だ。
「親と子が似ているかどうか」を本気で気にしている人はおらず、なんとなくの挨拶が繰り返されているだけなのだから、それを少なくしていけばいいのだ。
 そう思い始めてから、私は赤ん坊を誰かに紹介するとき、極力、「似ている」という話は自分からはしないことにした。「似ていますね」と言ってもらったときは、「そうですかねえ」とにっこりする程度でとどめる。相手は、穏やかに会話を進めてこちらを良い気持ちにさせたいと慮ってくれているだけだろうから、にっこりすれば大丈夫だ。「似ている」という会話が少しずつ世間から減っていったら、誰もが生き易いと感じる雰囲気が生まれるのではないか。

 ……ということを考えた、と夫に話すと、夫も、「確かに、そうだ」と頷いた。それで、私たちの間では、赤ん坊と私たちの相似は探されることがなくなった。夫は、「オリジナルだね」「唯一無二の存在だね」と赤ん坊に話しかけている。
 赤ん坊が可愛いのは、親に似ているからではない。手をかけて育てようと考えるのは、自分に似た存在だからではない。
 血なんてどうでもいい。赤ん坊は誰とも繋がっていないまっさらな存在だ。
 なぜ人間は子どもを産んで、何度も同じことを繰り返すのか。私は長年、それが不思議だった。人類を長いスパンで見ると、もう一度同じことを勉強して、上の世代と似た存在になれるように努力するのは、意味がないと感じる。そんな風にするよりも、ひとりの人が長く生きられるようにした方が効率的ではないか。自分が神だったら、死というものをなくして、ひたすら長生きできるようにし、個人で勉強を続けさせ、どんどん頭が良くなるようにする。新しい子どもが、また一からやり直しをして生きていくのは、無駄な努力が多く、人類の発展に繋がらない。
 だから、神がそうしなかったのは(神がいないとしても、地球は生物の発展を目指しているはずなのに、そういう流れになっていないのは)、同じ個人がだらだら生き続けるよりも、新しい存在が新しい生き方をして、まったく違う道を模索した方が、発展がある、ということなのではないだろうか。
 つまり、まったく違う存在が生まれて、多様な生き方をしていった方が、地球が面白くなるのではないか。

 夫婦は長く一緒にいるうちに似てくると言われる。養子として育てている子も、親に似ていくかもしれない。暮らしを共にしていたら、誰だって似通ってくる。表情の作り方や、所作や、言葉の選び方などが、似た雰囲気になってくる。でも、それをことさらに言うのも、私の好みではない。
 やっぱり、「似ているね」と言うのは枷になる。「それぞれだよ」と言う方が、自由に生きていけそうな気がする。

 私の家にいる赤ん坊も、親と自分が似ているかどうかなど微塵も考えずに、私が想像もできないような新しい生き方をしてくれたら嬉しい。もしかしたら、現時点では、顔つきが私や夫に似ているところもあるかもしれないが、そんなことは私も夫もできるだけ気にしないようにしたい。そして、自分たちからどんどん離れていって欲しい。
 それに、似ているところを見つけると、自虐ネタを言うときみたいに、つい、人前で謙遜したくなってしまう。あと、「こんな顔で苦労しないだろうか」だの、「性格も私に似たら大変ではないか」だのといったことが頭に浮かんでしまう。こういう感覚が盛り上がっていったとき、虐待が起こるのかもなあ、とも思った。自分と繋がりが切れていない存在だと、自分が自分を苦しめるのは自分の自由だと感じるのと同じように、子どものことも苦しめて構わない、成長させる目的だったら躾として苦しめていい、という考えが湧いてきそうだ。
 でも、まったく新しい存在が、たまたま自分の側にいるだけ、と考えると、苦しませるなんてできない。
 唯一無二の赤ん坊が家にいるなあ、と思いながら、今後も育てていきたい。
 

関連本

バックナンバー

著者

山崎ナオコーラ(やまざき・なおこーら)

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら書いた『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。他の小説に『浮世でランチ』『カツラ美容室別室』『ニキの屈辱』『昼田とハッコウ』『ネンレイズム/開かれた食器棚』など。エッセイに『指先からソーダ』『かわいい夫』などがある。

イベント

イベント一覧

お知らせ

お知らせ一覧

河出書房新社の最新刊

[ 単行本 ]

[ 文庫 ]