「母」ではなくて「親」として、妊娠・出産・育児をしてみると、世界は変わって見えてくる! 周りを照らす灯りのような赤ん坊との日々を描く、全く新しい出産・子育てエッセイ。

母ではなくて、親になる

最終回 汚れて、洗って

最終回 汚れて、洗って

 まだ赤ん坊は立てないし歩けない。だが、つかまり立ちと伝い歩きはできるようになったので、靴を買った。
 近所の公園で遊ばせると、石の馬につかまってにこにこする。そして、石の馬の背を舐める。舐めていいのかなあ、体に毒なんじゃないかなあ。
「駄目だよ」
 抱えて離すと、
「まんま、まんま、まんま」
 と平気な顔をしている。妊娠中は土を食べてはいけないと言われていたのに(トキソプラズマに感染するから。まあ、土を食べる人なんていないとは思うが、「土の付いた野菜はよく洗うように」「庭仕事は手袋をして」というような注意があった)、赤ん坊は食べていいのか。まあ、「舐めた方がいい」ということは決してないだろう。
 でも、外に出たら何かしらは口に入ってしまうものではないか、とも思う。すでに手袋も服も靴も土だらけになっている。赤ん坊は白が似合うので、白いダウンジャケットを着ている(ベビー服は性別イメージを変に表現した服が多くてつらい。シンプルな白い服を私は選ぶことが多い)。白は汚れが目立つ。赤ん坊は「汚れた」なんてまったく思わないから、そのままどんどん土の上を這っていく。汚れた手袋を舐めそうな勢いで手を動かす。手袋を外し、服を払うが、そんなに簡単に汚れは落ちない。
 外は汚い。汚れないようにしたかったら、家の中で過ごすしかない。でも、家の中だけで過ごしていたら、刺激がない。
 出かけるしかない。無菌状態のまま老人になる人はいない。

 赤ん坊を見ていると、生きるというのは汚れることなのだなあ、としみじみ感じる。生まれてからすぐにうんちをする。目やにも出るし、爪も伸びる。
 自身の分泌物で汚れるだけでなく、外部からも汚れていく。
 人が会いにきて、赤ん坊に触る。
「うがいして」「手を洗ってよ」と、入院中に会いに来た夫や母にしつこく主張した。新生児の頃は、家に遊びに来てくれた人が手を洗うかどうかも気にしていた。
 しかし、数ヵ月すると気にならなくなった。買ったばかりの傘の持ち手がきれいにビニールで包まれている状態のときは丁寧に扱っても、少しでもビニールがめくれてくるとどうでも良くなって全部剥いでしまうみたいに、赤ん坊も生後一ヵ月で乳児湿疹が顔や体に出て翌月には治って、肌が新品の状態ではなくなった感じがしたら、どうでも良くなってくる。それから、消毒した哺乳瓶ばかりを口にあてがっているときはぴりぴりしていても、そのうち赤ん坊は勝手にオモチャを舐めたり家具を噛んだりし始めるので、(最初は、「駄目だよ」と取り上げていたが、やっていられなくなって、なんでも舐めさせるようになった。そうすると、哺乳瓶だけ消毒しているのはおかしいので、それも止めた)、細かいことが気にならなくなってくる。むしろ、汚れた方が可愛いのではないか、という気さえしてくる。
 スーパーに出かけたとき、知らない老婦人が、
「まあ、可愛い。何ヵ月ですか?」
 とベビーカーに乗っている赤ん坊の頭を撫でてくれるのが、むしろ嬉しくなる。
 いろいろな物に触り、様々な人と触れ合って、大きくなっていくといい。
 
 赤ん坊の世話は、洗濯をして、口の周りを拭いて、歯を磨いて、食べこぼした床を拭いて、哺乳瓶や食器を洗って、風呂に入れて、といった「汚れの除去」の作業が大半を占める。こんなに汚れるということは、育つには汚れることが必要なのだろう。そして、汚れたまま、というのも良くないのかもしれない。

 文学を勉強していると、「無垢」「イノセンス」という言葉に度々会う。「トルーマン・カポーティは無垢な人々を描いている」といった感じで。
 学生の頃は、「無垢とは、どういう状態なのだろう?」と首を傾げた。汚れがない、ということなのだろうが、汚れというのがなんのことかがそもそもわからない。恋愛だとかセックスだとかは汚れではないのだろうな、カポーティの登場人物はやりまくりだから。では、常識だとかルールだとかが汚れなのだろうか。そうかもしれない。世間に迎合せず、独自の考えでまっすぐに生きる人々をカポーティは描いている。
 多くの人が、こういうまっすぐな人のことを好きだ。他人の顔色を読まず、自分自身の考え方のみで人間関係を築く純粋な人に、みんなが憧れる。
 だったら、なぜ、みんな、常識やルールを身につけようとするのか。憧れの人物になることより、汚い人間になって生き抜くことの方が大事なのか。世間というのは、汚れないと生き難い場所なのか。
 
 早くから保育園に通わせることが不安な理由のひとつに、変な常識を植えつけられるのではないかという危惧がある。
 私の妹は三歳までゴレンジャーなどの男の子向けのキャラクターが好きで、色は原色を好み、青いTシャツに緑の短パンといった格好をしていたが、幼稚園に通い始めたら、あっという間にそういう趣味をすべて捨てて、サンリオの可愛いキャラクターが好きになり、ほんわかした色の服を好むようになった。大人になった妹は、髪はショートカットで、ボーイッシュなファッションを好んでいるので、それがずっと続くわけでもないのだろうが、やっぱり集団生活は恐ろしい。
 女の子は女の子らしく、男の子は男の子らしく、変化させられる。
「男の子は、恐竜や電車が好きなんだよ」
「女の子なのに、そんな言葉遣いしたら恥ずかしいよ」
「男の子なのに、スカートを穿いたら笑われるよ」
「女の子は、いつか結婚するんだよ」
「男の子は、女の子を好きになるんだよ」
「女の子は、お菓子屋さんやお花屋さんやアイドルに憧れるんだよ」
 こういったくだらないことを周囲の子どもや保育士さんたちからどんどん教え込まれそうで怖い。これらは、どう考えても、汚れだ。
 ばかばかしい性別イメージに赤ん坊を染めないためには、集団生活をさせずに家で養育することが一番だろう。家の中で、私の選んだ、性別イメージがあまりない服を着て、私が選んだ本を読んで、私の話を聞かせていれば、ばかばかしい性別イメージから逃れられる。
 でも、私が赤ん坊のすべてをコントロールすることが、本当に赤ん坊の幸せに繋がるのか。世間にはそういうイメージがあると教えないことで、赤ん坊の純粋さを保てるのだろうか。
 やっぱり、汚れてもいいかもしれない。「男は○○」「女は○○」と言われてもいい、と覚悟してしまったらどうだろう。そして、ばかな文言で汚された子どもを、石鹸で洗い流してあげたらいい。子どもが家に帰ってきたら、「そう思っている人もいるけど、そう思わなくてもいいんだ」「男の子もスカートを穿いていいんだよ」「結婚しない人もいるよ」「どんな言葉遣いをしたって自由なんだ」「誰が何に憧れるか、他の人にはわからない」と何度も言ったらどうだろうか。
 逆に、私が赤ん坊を汚していることもあるだろう。それは、保育園やその他、家ではない場所で洗い流してもらえるかもしれない。

 読まない方がいい本なんて一冊もない、と聞いたことがある。
 また、差別をしない子どもにするために差別の問題を教えるなという意見もあるが、教えない方がいい差別問題などない、と私は思う。
 知らないでいた方がいいことなどない。汚れたら洗えばいい。
 仏教には死体を見て修行する不浄観というものがあるが、自分も他人も汚いということをわきまえておいた方が、むしろ希望を持って生きていけるのではないか。世の中の、汚い考え方、他人を傷つける仕組み、目を覆いたくなる出来事を知って、そのあと頭を洗濯するように考えをまとめていったら、何も知らなかったときよりも純粋になれるかもしれない。

 先日、小さな丸いケーキを買った。赤ん坊はまだケーキを食べられないが、見せるだけと思ってケーキをテーブルの端っこに持っていって、ソファにつかまり立ちをしている赤ん坊に見せたら、さっと手をのばして潰し、手をクリームだらけにした。赤ん坊は手が汚れたともなんとも思っていないみたいで、にこにこしている。
 最近はウェットティッシュを部屋のあちらこちらに置いているので、それで拭く。まだべとべとしているので、洗面所に行って水で洗い流す。おそらく。赤ん坊は「洗っている」とは思っていなくて、「水で遊べた」と感じたのではないか。汚れたとも洗おうとも思わないのは幸せだな。でも、だんだんと、汚れや洗濯に意識的になっていくだろう。

 これからも、汚れて、洗って、汚れて、洗って、と繰り返していってもらいたい。

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「母ではなくて、親になる」は今回が最終回です。

なお、『母ではなくて、親になる』は、6月に弊社より単行本として刊行予定です。
WEBでの連載のほか、書き下ろしエッセイ9篇も加わりますので、どうぞお楽しみに。

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著者

山崎ナオコーラ(やまざき・なおこーら)

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら書いた『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。他の小説に『浮世でランチ』『カツラ美容室別室』『ニキの屈辱』『昼田とハッコウ』『ネンレイズム/開かれた食器棚』など。エッセイに『指先からソーダ』『かわいい夫』などがある。

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