第18回 十ヵ月の赤ん坊
「母」ではなくて「親」として、妊娠・出産・育児をしてみると、世界は変わって見えてくる! 周りを照らす灯りのような赤ん坊との日々を描く、全く新しい出産・子育てエッセイ。

母ではなくて、親になる

第18回 十ヵ月の赤ん坊

 赤ん坊と遊ぶというのをどうやっていいのかわからないので、私はしょっちゅう絵本を読んでいる。
 たぶん赤ん坊は、話を理解していない。絵も怪しい。うちは動物を飼っていないので、犬や猫もわからないだろう(なぜだかわからないが、絵本というものには、犬や猫、あと、兎と象と熊が大量に登場する)。動物園に連れていったことはあるのだが、動物をどう認識しているのか。ただ、きっと、顔はわかっている。人間でも動物でも絵でも、目や鼻の形をじっと見つめるので、顔が好きなのだと思う。絵本の表紙を見せるだけで、にこっと笑うときがある。本を読める喜びを噛み締めているのだと捉えていたが、絵の中の顔と目を合わせているのかもしれない。
 とにかく、赤ん坊は絵本を喜ぶ。赤ん坊を抱えて絵本を読んでいたら、手をのばしてくるので、めくり易いように一枚だけ爪で軽く浮かせてみた。すると、ぱっとめくった。まずボール紙でできた分厚い絵本をめくれるようになり、それから薄い紙もめくれるようになった。私自身、本というものに随分と助けられてきたので、ほっとした。ページがめくれるなら、大丈夫だ。生きていける。現実でつらいことが起きても、別の世界が持てるのだ。私だって、子どもの頃、本を読むのが好きでも、話を理解なんてしていなかった。わからないページは飛ばして、適当に読み進めていた。今だって、完璧に読解できているかどうか自信がない。でも、国語のテストではなくて、趣味で読んでいるときには、どう読んだって構わないのだ。読解能力の高い人になるより、わからないままでページをめくれる人になった方が、断然生き易い。「本好きな子を育てるにはどうしたらいいのか?」という問題をよく目にするが、わからないままに読み進める勇気を持つのが重要だと私は思う。なんとなく面白い、で十分だ。
 最近は、床に本を置いておくと、ひとりでぱらぱらとめくって遊んでいる。少し前まで、紙を見たら破ることしか考えていない感じだったが、本の醍醐味がそこにはないことがわかってきたみたいだ。それでも、赤ん坊が触ると、大人が読むのと違って本がぼろぼろになる。それで図書館から借りた本は触れないところへ置いておくことにした。でも、家の本だったら多少ぼろぼろになっても気にしないことにした。紙の本は経年変化が魅力でもあるわけだし。

 体の動かし方も変わってきた。つかまり立ちを始めたばかりのときは腰を下ろせずに転倒するのでヘルメットをかぶせたが、三週間ほどでゆっくり腰を下ろせるようになり、必要なくなった(つかまらずに、普通に立てるようになったら、また危なくなるのかもしれないが)。今は重心が安定して、伝い歩きをしている。顔をテーブルの上にちょっとだけ出して左右に動いているのをソファから眺めていると、ゲームみたいだ。インベーダーゲームのインベーダー、あるいは、モグラ叩きのモグラのようだ。縁に沿ってぴょこぴょこ現れるので可愛らしい。
 赤ん坊は日々成長している。
 ただ、「十ヵ月くらいになると、人真似をするようになる」「バイバイと手を振る」「パチパチと拍手する」といったことが育児本に書いてあるが、これらはまったくしない。本には、「赤ん坊によって様々なので、しなくても気にする必要はない」と注意書きも添えてあるので、べつに問題はないのだろうが、やってくれた方が嬉しいので、手を振ったり、拍手したり、しつこく赤ん坊の前でやってみた。赤ん坊はどこ吹く風だ。夫は、
「オリジナルなんだなあ。人の真似なんか嫌なんだなあ」
 と笑っている。
 まあ、確かに、真似したい気持ちがない人に、私の真似をしろ、と言い続けるのは感じが悪いだろうから、諦めた。

 あと、できないのが、水やお茶を飲むことだ。
 母乳や離乳食で水分は十分に摂れているらしい。でも、飲める子は麦茶や白湯などを飲んでいるみたいなのだ。
 七ヵ月くらいから哺乳瓶は止めて、ストローマグという、プラスティックのカップにストローをセットできる食器で飲料を飲ませ始めた。すると、ジュースやミルクなどの甘い物だったらごくごく飲むようになった。だが、味がしない飲み物を毛嫌いし、水だったら眉をしかめて一切口に含まず、麦茶や赤ん坊用番茶だと、飲むふりをして吸ったり戻したりを繰り返し、あるいは、一旦飲んだあとに、ピューッと吐き出す。そして、泣く。「わああああ。契約したじゃないですか。この先ずっと、乳と蜜の流れるところに案内するって」という雰囲気を出してくるので、まるで私が意地悪で駄目なものをあげている気分になる。赤ん坊の好物は、バナナ、サツマイモ、カボチャなどの甘い物で、白い粥も嫌う。水やお茶も味がないから嫌なのだ。
 水が駄目なら、とリンゴをすりおろしたのを絞って混ぜてみたところ、飲む。それを少しずつ薄くしていこうと企んだのだが、ちょっと薄めただけで気がついたらしく、「わああああ」と泣く。インターネットで調べてみたら、「お茶を飲まないからといってジュースをあげていると、お茶をあげたときに『甘いはずなのにおかしい』と余計に飲まなくなるので、ジュースはあげない方が良い」という情報があったので、止めた。
「ルイボスティーの味はうける」という情報もあったので、あげてみたら、ちょっと飲んだ。歯が六本ほど生えてきたので、虫歯に気をつけなければならない。食後に水かお茶を飲ませ、歯ブラシをくわえさせないといけない。お茶は歯を着色するので水が一番いいらしいが、それは難し過ぎるので、ルイボスティーで頑張ることにする。
 もしも、「保活」が上手くいって保育園に入れたとしたら、飲み物を上手く飲めるようになっていないと、本人も保育士さんも大変だろう。お茶を、できたら、水を、飲めるようになってもらいたい。

 保育園に入れなかった場合はどうなるだろうか。
 お茶が飲めるようになろうが、水が飲めるようになろうが、保育園に入れなかったら、家で赤ん坊とずっと過ごすしかない。
 最近、 仕事が終わらない。自分としては、結構やっている気がしているのに、なぜか終わらない。
 年末年始は十二月三十一日と一月一日のみ休暇とし(私の実家に一泊し、一日に夫の実家へ挨拶に行った。子がいなかったときはそんなこと全然しなかったが、どちらの家の人も赤ん坊に会うのをものすごく喜ぶので、そうすることにした)、その他はいつも通りに過ごした(夫もその二日しか休日はなかった)。
 私は土日も、一応、仕事を行なっている。まあ、昼間は出かけたり友人が来ることがあるのだが、朝四時に起きてリビングで仕事をし、七時になったらカフェに移動して十時まで仕事をする(平日も朝四時に起きるのだが、最近は私が起きると赤ん坊も目を覚ましてしまい、私のあとを追いかけてくるので、寝かしつけたり授乳したりして仕事にならない。夫のいる日曜日は、赤ん坊が起きたら夫が相手をするので、赤ん坊が泣いても放っといて仕事を続けている)(雑誌担当の夫は、休日である土曜日も品出しだけやっている。土曜日も朝の四時半から十時くらいまではいないのだ。日曜は休配なので、ずっと家にいる)。昼間は何かしら遊んでも、夕方は、四時に赤ん坊を風呂に入れ、五時からカフェに出かけて九時まで執筆をする(これは、平日とまったく同じだ。今は、時短勤務の夫が四時に帰ってくるので、速攻で風呂に入れ、そのあと子守を交代して、私はカフェで仕事をする)。このひと月ほど、夫と夕食をとる日がほとんどない。私はカフェで適当に食べている。それでも、仕事が終わらない。なぜなのか。
 赤ん坊がいても自分の時間は変わらないと思っていたが、何かしらが変わったのか。そういえば、赤ん坊連れで出かけようとすると、計画通りに進まない。たとえば、「十二時に家を出るから、十一時から準備を始めよう」と思って、十一時に準備を始めても、十二時に家を出られない。そうか、赤ん坊がいると準備に時間がかかるのか、と思って、その次は余裕を持って十時から準備を始めても、なぜかまた十二時に家を出られない。
 まるで、車体感覚のないままトラックを運転しているみたいだ。小回りの利く小型車を運転していたのを、大型車に乗り換えたのに、車体感覚を改めることができないでいる、そんな感じがする。
 でも、「仕事が終わらない」「時間を使いこなせていない」というだけで、つらくはない。保育園に入れなかったら、夫と食事をするのを完全に諦め、もっと時間の使い方を工夫すればいいと思う。数年のことだし、できるのではないか。赤ん坊と過ごすのが苦痛なわけではないので、やり方を変えて仕事を続けるしかない。職業を持つ多くの育児者がみんな工夫しているのだから、自分もやるしかない。
 それから、仕事を終わらせられなくて焦っているのに、同時に、「暇だ」と思う心が存在しているのは不思議だ。
 ばたばたしていても、充実していないのかもしれない。
 生理というものは、妊娠中は止まり、出産後数ヵ月してからまた始まる。母乳をあげていると、再開は遅くなりがちだというが(ホルモンの関係か?)、もう始まってもいいのにおかしいなと思っていたら、つい最近、再開した。それで、「また、子どもを授かれたら嬉しいな」という気持ちが湧いてきた。生理が再開したことも、二人目が欲しいことも、まだ夫に言っていない。それに、年齢のことがあるので、難しいかもしれない。でも、夢想に耽ってしまう。
 どうして子どもが欲しいのか。それは、このエッセイの連載の最初にも書いたが、寂しさがあるのだろう。そして、暇なのだと思う。
「寂しい」「暇だ」と子どもを欲しがってはいけないことは本当に承知しているのだが、自分の心を探って、正直なところを露わにしようとすると、「寂しい」「暇だ」という言葉が出てくる。
 もしも、今、仕事がものすごく上手くいっていて、充実感を持って生活していたら、子どもが欲しいと思わないのではないか。
 人類が、本当の幸せを追い求めて、行き着くところまで行ったら、もう子孫を残そうとはしなくなるのではないか。
「寂しい」「暇だ」という気持ちから、「未来に風穴を開けよう」と思うようになり、子を欲している気がする。
 どんなにあくせく働いても、「暇だ」と思う心はなくならない。もうひとり子どもがいたら暇ではなくなるのではないか。充実するのではないか、と、つい思ってしまう。
 やるべき仕事があって、見るべき赤ん坊がいるのに、「寂しい」「暇だ」といつも思っている。そして、「もうじき、流産してしまった子の命日だな」と考える。父親が亡くなったときのことも何度も思い出す。おそらく、何人産んでも、私は「寂しい」「暇だ」と思い続けるのだろう。
 数年前、自分の仕事に自信があった頃、新しい友人をどんどん作りたいと思っていた。しかし、今は、仲の良い友人と会おう、だとか、新しい友人を作ろう、だとか思わなくなった。仕事に自信がなくなったからなのか、流産したり父親が死んだりしたからなのかわからないが、子どもを産んで静かに暮らしたい、とひたすら思ってしまう。
 変な心の動きだが、最近はこんな感じで過ごしている。

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著者

山崎ナオコーラ(やまざき・なおこーら)

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら書いた『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。他の小説に『浮世でランチ』『カツラ美容室別室』『ニキの屈辱』『昼田とハッコウ』『ネンレイズム/開かれた食器棚』など。エッセイに『指先からソーダ』『かわいい夫』などがある。

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