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「文藝」春季号から連載開始! 皆川博子「風配図 Windrose」第1回を試し読み

ゴットランド島に流れ着いた一艘の難破船。いま、二人の少女の運命が大きく動き出す―。バルト海交易で栄えた三都市を舞台に紡がれる壮大な物語、堂々開幕。

 

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皆川博子
「風配図 Windrose」第1回

 空軍省が爆撃機軍団に送った空襲指令書では、最も人口が密集した市街地が攻撃目標にあげられている。「敵国市民の、とくに工場労働者の士気そのものが作戦の第一目標である、との決定がなされた」。

 はっきりしなかったのは、人口密集地域の住人の士気をどうやって攻撃すればいいのかということであった。この軽視できない問題の解決を任されたのが、一九四二年二月二二日に爆撃機軍団の司令官となったアーサー・ハリスである。

 

 頑固にして実際的な男であったハリスは、一つの都市を燃やそうと提案するに当たって成功の約束された都市を選んだ。リューベックである。

 

 ハリスは満月を待ち、一九四二年の棕櫚(しゆろ)の聖日前夜の三月二八日夜、四〇〇トンの爆弾を搭載した二三四の飛行機を送った。爆弾の三分の二は焼夷弾であった。破壊すべき区画は、ハンザ同盟時代以来の商人と船員の居住地である。そこは入り組んでいて、トラーヴェ川とヴァケニッツ川にはさまれて島状をなし、空からはっきり見えた。

 

 二万五〇〇〇個の焼夷弾の他に、このときはじめて二五〇ポンド〔約一一三キロ〕のベンジン・ゴム爆弾が使用された。

 

─『ドイツを焼いた戦略爆撃 1940−1945』  

                   イェルク・フリードリヒ 香月恵里訳─

 

 

                   われその船を泛(うか)べばや  

                   われその水を渡らばや  

                   しかず纜(ともづな)解き放ち   

                   今日は和子(わくご)が伴(とも)たらん  

 

                   ─「海の聲」伊良子清白─

 婚礼の宴は二日目も続いた。儀式はヴィスビューの教会で昨日行われた。家に戻ってからの祝宴には司祭も同席したが、異教の名残を感じ不安になったか、早々に辞した。馬なら一走りの道のりだ。リンシェーピングの司教の巡察が近い。それを迎える準備に忙しいという口実もあった。

 母屋(スカーリ)の中は鯨飲する男たちの臭いが充ち、床には食い散らした肉の骨が散乱する。両の壁に沿って据えられたベンチを兼ねる長櫃(ながびつ)に酔いつぶれ寝倒(ねたお)れたものたちの鼾(いびき)が騒々しい。

 山羊の膀胱(ぼうこう)を幕代わりに張った天窓から西に傾きはじめた五月の陽光が差し込むが、室内の隅々までは届かない。獣脂に浸した灯芯が悪臭を放ちながら燃え、わずかな明るみをもたらす。半球形の容器を支えるのは、土を固めた床に突き刺され直立する鉄の燭台の、螺旋状にねじれて枠を作る先端である。

 アグネは床に屈みこみ、骨を拾い集め手籠に入れる。

 一方の壁沿いの中央に設けられた高座(オンドヴエギ)に傲然と腰を据えた父が、アグネの視野に入る。父ソルゲルのほかに座すことを許されない高座に、隣の席の兄エギルがもたれて眠っている。エギルは、昨夜はヘルガと明け方まで二人きりで過ごした。二人のために母屋に続く住まいが新たに造られている。母屋の四半分もない小屋だが、新しい木の香りがさわやかだ。

 父の高座と炉を挟んで向かい合う客人用の高座を占めているのは、ヘルガの父親だ。アグネの父は衣の上からでも筋肉の盛り上がりがわかるが、ヘルガの父親オーラヴは贅肉がたるんでいる。二人のあいだに、親密なようで緊張した気配をアグネは感じる。家格も所有地の広さも同等なのだが、互いにわずかでも優位に立とうとしているような。

 どちらの高座も両脇に柱を持つ。柱の表面の浮き彫りは、今では禁じられている北の古い神々の姿である。

 ヘルガの長兄と次兄が、父親を護衛するように、両側の柱の傍らに座を占めている。どちらも白目の血の脈が赤らみふくれてはいるものの、酔い乱れてはいない。正体なく寝腐(ねくた)れている己が息子エギルを、父ソルゲルは苦々しく思っているようだ。

 建物の造りは素朴だが、高座や長櫃の上に敷かれた毛皮は一族の富をあらわす。かつて祖が武器を携え長大な船で海を渡り、星より遠い東の異国から持ち帰ったタペストリが壁を飾る。長い歳月に色褪せたとはいえ、金糸銀糸を織り込んだ豪奢なものだ。

 アグネの父ソルゲルの一族、ヘルガの父オーラヴの一族、その縁者知人らもうち集い、酔い喰らっているのは男ばかりで、女たちは忙しく立ち働く。

 細長くのびた長櫃の列の隅に、ぼろ布の塊のように横たわっているのは、父の祖父である。父の父母──アグネの祖父母──はすでに土の下に在る。上掛けの裾をアグネはめくり、打ち上げられた流木のような両脚の間が汚れていないのを確認した。曾祖父が何か言った。アグネは顔を近づけた。男たちの発する臭いとは異なる、いっそう不愉快な臭いが曾祖父のまわりに漂う。死に近いものの臭いだと、アグネは思う。のび放題の白茶けた髭に埋もれた薄いくちびるが、わずかに動いた。荒れる、というふうに聞こえた。

 気にとめず、骨を集めた籠を抱えて外に出た。地に放る。犬たちがわらわらと集まり、争奪する。

 畜舎と鍛冶場が付随した母屋を中心に、広大な農場(ブール)に十数棟の小屋が散在する。めでたい祝宴の最中であろうと、下働きの者たちに休息はない。羊の毛を刈る時期である。羊や牛や馬の数が増えたのは、ヘルガが持参したからだ。

 小屋の壁、屋根、柵などの一部は真新しい。冬の風雪に傷んだ箇所を修繕したばかりだ。

 次の冬に備えての干し草つくりは、夏の始まりと同時に、もう開始されている。

 ヘルガは、アグネの母の傍らにいた。鍵の束を腰帯に下げた母は、機織(はたおり)小屋の中をヘルガに見せていた。ヘルガはさして興味もないふうだ。ヘルガの父の農場でも同じことが行われている。男たちが刈りとった羊の冬毛を、女たちが紡ぎ、織る。結婚したところでヘルガの暮らしに何も大きな変化はないのだと、アグネは思う。居場所が移るだけだ。二つの一族の結びつきを強化し勢力を増大させる。そのために──そのためだけに──女の子は結婚させられる。誰に教えられたともなく、アグネはそれを知っている。

 ヘルガの脇にアグネはそっと立った。十二歳のアグネの目に、三つ年上のヘルガはすばらしく大人に映る。

 一昨日──婚礼の前の日、ヘルガはこの家に馬で到着し、女にだけ強いられることをやらされた。取り憑いているかもしれない悪魔や悪い力を祓(はら)うために、蒸し風呂に入るのである。男には悪魔は取り憑かないのか。狭い小屋の中で火の塊みたいに熱くした石に水を掛ける。立ちこめる湯気のなかに、ヘルガと一緒にアグネも入った。ほかに数人の女の子も。婚礼のとき花嫁に付きそう役のものは皆、清らかにならねばならない。熱い靄(もや)のなかで、くすくす笑いが行き交ったのだった。古い神々を崇めていたころから続く慣習は、崇める対象が変わっても禁じられてはいない。その後、ヘルガの長く垂らした髪は結い上げられ、うなじが露わになった。髪を結ぶのは働き者の〈良き主婦(フースフレイヤ)〉の象徴だと、これもアグネは知っていた。

 杼(ひ)が走る。

 ヘルガの手に指を絡めてみた。強く握り返された。視線を上げる。少し怖いと思っていたヘルガの眦(まなじり)が、やわらかみを帯びた。そう、アグネは思った。機を織る女たちに母が何か注意している間に、アグネとヘルガは共犯者の視線を交わし、手を取りあったまま走り出た。銀に碧(みどり)色の石を嵌(は)めた留め金が、ヘルガの胸元で陽の光を照り返す。

 緑がみずみずしい林を背に、ゆるやかに起伏する牧草地を走る。すでに毛を刈られて貧弱な姿になった羊たちがそこここで草を食む。

 丘の中腹に立つと、鎌の刃のように湾曲した浜が見渡せる。海の向こうは、ウプサラやリンシェーピングのような街のある陸地だけれど、目に入るのは海と空ばかりだ。アグネは、自分が住むのがゴットランドと呼ばれる島であることもほとんど意識していない。

 浜の南端は聳(そび)える断崖に断ち切られる。

 海鳥の産卵期だ。一端を懸崖の上に、もう一方の端を腰に結んだ長いロープを頼みに男たちが、岩棚の巣を探り卵や羽毛を集めている。光の縞(しま)が空を裂く。海鳥だ。ヘルガの父の所有地は海に面していないので、この光景は珍しいようだ。熱心に眺めているので、アグネは少し嬉しくなる。

 浜には船小屋が幾つかあり、その傍の丸太を組んだ干し場には鱈(たら)がびっしりと吊り下がっている。船を漕ぎ出し収獲するのは男たちだが、一匹ずつ丹念に鱗をこすり落とし、頭を断ち切り、腹を割いて内臓を搔き捨て塩水に漬け込み、二匹の尾を細縄で結び桟に掛け天日に干す、指の先がふやけるこの厄介な作業は、女や子供の役目だ。アグネも、いやというほどやらされた。いま隙間なく吊り下がっているのは、その成果だ。ヘルガにしてみれば楽しくはない仕事が一つ増える。卵採りのほうが面白そうだね、とヘルガは言った。

 面白いよ。風が強いときはちょっと怖いけれど。

 海になりたい、とヘルガは呟(つぶや)いた。

 右手──北──に目をやれば、ソルゲルやオーラヴの一族よりもさらに富裕な人々が住む平地がひろがる。ヴィスビューと呼ばれる一帯だ。

 ヴィスビューの富豪たちは、広い農地を経営するとともに異国との交易にも力を入れている。異国に船を乗り出し、異国からの船を迎え入れる。人の一生ほどにも長い冬のあいだ仮死の状態にあった船たちは、夏、一斉に帆をかかげ、舞う。

 ヴィスビューの港には、粗末な木の桟橋が幾つかのび、繋留(けい りゆう)された小舟が揺れている。水深が浅いので、交易船は沖で帆を下ろし、碇泊する。小舟が行き交い、荷担ぎの男たちで桟橋のあたりはごったがえすだろう。

 異国からきた船乗りたちは、天幕を張って寝起きするだろう。そうして、市が立つだろう。ソルゲルの一族もオーラヴの一族も、自家製の乳酪や、鍛冶場で作った農具、武具などを荷車に積みこみ、牛馬に牽(ひ)かせて市に運ぶだろう。さらに、ソルゲルの男たちは海の産物、オーラヴの男たちは石切場から切り出した石灰岩を特産として運ぶだろう。ノヴゴロドからの船がもたらす高価な毛皮や蜜蠟も入手するだろう。石切場はソルゲルの領内にはない。オーラヴの石工は巧みに洗礼盤を造るので、海の向こうからきた商人たちに買われもする。

 武具をととのえ喫水の浅い長い船で海に乗り出し、東の大陸に渡り、その奥地まで突き進んだヴァリャーグ(ヴァイキング)の行為は百年も前に終焉し、船の形も変わり、ソルゲルの一族は海洋活動からは手を引いていたが、ヴィスビューの富商たちは危険も大きいが収益も莫大な異国との交易網を拡大している。もはや襲撃や掠奪は伴わない穏当な取引である。

 ゴットランドとノヴゴロドは関わりが深い。アグネが生まれてもいないころから、互いに商館をおき交易の拠点としている──木造の小さい建物ではあるが──。同じキリスト教でも宗派が異なるので、それぞれのための教会もある。ノヴゴロドは正教でありローマ教皇の権力が及ばない。去年の夏の初め、前もっていろいろ取り決めるためか、それとも父が招待したのか、ノヴゴロドの商人が数人、ソルゲルの農場を訪れた。その中の一人にアグネは心惹かれた。彼についてアグネが知るのは、若くて容姿がよいということだけだが、十一の女の子にはそれで十分だった。ノヴゴロドの船はもうヴィスビューに入っているのだろうか。あの若い男は今年もくるだろうか。

 不意打ちのように、突風が二人を襲った。風は海を裏返した。足元が浮くアグネを、ヘルガが抱き留めた。いったん沖に引いた波は、水平線に近づきつつある太陽を隠してそそり立ち、岸に覆い被さった。

 断崖で卵を採っていた男たちは、狼狽(うろた)えながら崖の上によじ登る。一人が海に落ちるのを目の端に見た。

 ぴしっと頬に礫(つぶて)が当たった。風ではね飛んだ小石か。いきなり、夜の暗さだ。母屋に向かって駆ける。

 幾重にも密集して走る黒雲は、原野を踏みにじる軍団の、奔馬の群れを思わせる。礫が頬を打つ。大粒の雨か。雹(ひょう)か?

 男たちが羊を集め、畜舎に押し込む。

 母屋にたどりついた。

 煙出しの穴を男たちが獣皮で塞いでいる。隙間から風は吹き入り、獣脂蝋燭の弱々しい灯を容赦なく消した。夫になったエギルが母屋にいるので、ヘルガもそのままとどまった。アグネは自分の寝床の半分をヘルガに提供した。寄り添って横たわる。

 嵐の季節ではないのに。

 冬が立ち戻ったか。

 男たちの声が、闇の中を行き交う。

 雷神(トール)の怒りだ。いささかの畏怖を交えた声が言う。

 海を隔てた西の陸地でもっとも大きな街ウプサラの、聖堂が立つ場所は古い神々の神殿を壊した跡地だという。

 ヴィスビューに木造の小さい教会が建てられたのはいつのことかアグネは知らないが、古い神々しかいなかった時代に生まれ育った曾祖父は洗礼を受けていないらしい。何か不祥事があるごとに、ビョルンのせいだと囁(ささや)かれる。

 ビョルンはエギルとヘルガの結婚が気に入らないのだ。囁き声は激しい風に紛れる。ぶち壊してくれと、ビョルンがトールに願ったのだ。アグネの祖父さえ生まれていなかったころ、アグネたちの祖とヘルガたちの祖は不仲であったという。武器を取っての激しい争いもあった。ビョルンが隻眼なのは、幼かったそのとき、敵の礫を受けたためだとも言われる。正確なことはアグネは知らない。大人に訊ねると、それぞれ違うことを言う。からかわれているとわかり、訊くのをやめたのだった。

 壁が揺れる。悲鳴のような音とともに天窓から水の束がなだれ落ちた。一瞬の稲妻が、裂けて垂れた幕を見せつけた。

 夜が明ける。土の床を泥沼にして嵐は鎮まった。

 足は泥まみれ、上半身は衣ごとずぶ濡れで、皆、外に出る。太陽を浴びる。ソルゲルが先立って点検してまわる。牧草は倒れ伏し、木々の梢は折れ、修理をしたばかりの小屋小屋は冬の被害を再現していた。納屋の屋根も一部が飛び、干し草の山は濡れ通って潰れていた。

 磯浜を見下ろせば、干し場の柱や桟は倒れ、夥(おびただ)しい干鱈は水浸しになって散乱していた。柱の下敷きになったものは形が崩れている。形は無事でも、洗いなおして干したら味が落ちる。来たる冬の食糧として備蓄する干鱈だが、余剰は市に出す。これでは売り物にならない。

 だが、男たちの目は耀いた。浜に向かって走る。

 トールは、荒れ狂った代償に、素晴らしい贈り物をソルゲルの一族に恵んでくれた。それとも、主イエスか聖母さまかあるいは守護聖人がお恵みくださったのか。

 破れた帆布が波の上に広がり、大きくうねっていた。帆桁を括(くく)りつけたまま根元近くから折れた帆柱は、十字架を思わせた。

 舳先(へさき)が割れ目に食いこむほどに帆船を断崖に叩きつけた力は、アグネにはトールのものとしか思えなかった。北の神々は、まだ屈服していない。

 打ち寄せる巨大な波は、さまざまなものを浜に残して、引く。甲板や舷側はばらばらの板だの棒きれだのになって漂う。積荷の多くは水の底だろう。水深はさほど深くない。引き潮だ。やがて姿を現すだろうがそれまで待ちきれず、男たちは潰れた船小屋から潰れてはいない小舟を引きずり出し、獲物が沈んでいるであろうあたりに向かって漕ぎ出す。綱を腰に巻きつけ冷たい水に潜る。

 ソルゲルが総指揮をとるが、ヘルガの父オーラヴもその傍らに立ち、自分の男たちに指図する。ヘルガの二人の兄も親族の男たちも付き従ってきた従者たちも、収奪に加わる。

 帆柱の先端から引き千切られ波に漂う旗によって、ノヴゴロドの船ではないことがわかる。初めて見る旗だ。船の乗り組みであろう男たちの屍体も浮き沈みする。波に運ばれ浜に置き去られた骸(むくろ)もある。からだを調べ、価値あるものを身につけていれば収得する。銀の腕輪だの、銀貨をおさめた小さい革袋だの。高価な布地で作られた服の幾つかは、丁寧に洗って干せば美麗さを取り戻すだろう。

 荷車だの土橇(どぞり)だのに、外側が傷だらけでも破損は免れた樽や梱(こり)を積み込み、馬も人も総がかりで納屋の近くに運び上げる。中身を確認する。水がしみ通っていない塩の樽はこよなく喜ばしい。重い梱には銀貨や銀の棒、天秤が一緒に収まっている。琥珀はノヴゴロドの商人が喜んで買い取るだろう。イコンの絵師が、熱した油に溶かして上塗りに用いる。

 浜に頭を突き出した岩を抱きかかえた形で倒れている骸の傍に、ヘルガが屈みこんでいる。

 何か、いいものを持っている? アグネは近寄って訊いた。

 振り向いて、死んでいないよ、ヘルガは応じた。

 岩にぶつかっただけなんだ。アグネは言った。水は飲んでいないね。

 よくわかるね。

 溺れたのを何度も見てるから。吐かせたら、生き返ったこともあるよ。

 男たちを呼び止め、倒壊を免れた小屋の一つに水難者を運ばせ、横たえた。そこが一番手近であったからだ。家畜の世話をする男たちの寝場所だ。戸口を開け放し、陽光を採り入れる。

 家畜の病や怪我の手当に牧夫らは慣れている。

 濡れそぼったチュニックを脱がせる。弱々しい呻(うめ)き声が洩れる。

 鼻梁の付け根も瞼(まぶた)も頬も青黒く腫れ上がった顔は異様な球体で、刃先で切れ目を入れたような筋が、眼だ。

 脚の骨が折れているようだと牧夫の一人が誰にともなく言った。

 歩けなくなるだろう。別の者が続けた。

 このまま召されたほうが幸せかもな。

 助けた俺たちを恨むだろう。

 呪うかもしれない。

 海に戻すか。

 殺したと、俺たちを二重に呪うだろう。

 乾いた布を牧童から借り、海を十分に吸いこんで重いチュニックを抱え、洗う、とヘルガに言って外に出た。ヘルガはチュニックをアグネの手からとり肩にかついだ。歩く後に雫(しずく)が滴った。

 真水の湧く井戸に向かう。粗末な服なら踏み洗いするけれど、鑑識眼のないアグネでも極上の布地を使っているとわかる。新しい水をかけては叩いて、海水を洗い流す。ヘルガも手を貸す。チュニックは色落ちせず、鮮烈な青をよみがえらせた。

 乾いた布の間に挟んで水気を吸い取らせ広げている傍を、いい物を手に入れたな、通りかかった男が声をかけた。

 高く売れるな、これは。

 違う。アグネははねつけ、ヘルガに、従兄のギースリと教えた。母の長兄──アグネの伯父──の息子だ。母の父──祖父──は没し、伯父が一族の長となっている。伯父は体の節々が痛む病で婚儀も宴も欠席し、長男のギースリが代理をつとめた。宴の席が末のほうだったのがギースリは不満らしい。父親が占めるべき席を供されてしかるべきだと、言動に滲ませた。この従兄にアグネは好感を持っていない。何故なのか、理由を問われてもアグネは説明できない。

 あの人、生きているの。綺麗にして着せるの。

 馬鹿。ぼろでも着せておけ。俺によこせ。

 ヘルガがアグネをかばって言い返そうとするのに被せて、ギースリは、アグネには意味の取れない言葉をヘルガに投げた。

 よほどひどい言葉らしく、ヘルガの表情が変わった。

 走ってきた男によって、言い争いは妨げられた。

 集まれ!

 ソルゲルの男は、集まれ!

 棍棒を持って集まれ!

 中身の一部が取り出され陽光に晒(さら)されている樽や梱。その傍で、ソルゲルの男たちとオーラヴの男たちが対峙し、にらみ合う。

 ちょっとしたきっかけで取っ組み合いになろう。

 最初から双方が権利を主張し、引かない。

 ソルゲルにしてみれば、彼の領内で獲得した獲物である。所有権は当然、自分にある。異議を申し立てる者がいるなど考えもしなかった。助力してくれたオーラヴには応分の礼物を進呈しよう。相手は礼を持って応えるだろうと思ったのである。

 オーラヴの考えは違った。自分たちは総員、力を尽くして獲物を引きあげた。ソルゲルの恣意により恩着せがましくほんの一部を分配されるという措置は諾(うべな)いがたい。すべてを公平に折半せよと強く要求した。

 海に馴染んでいないオーラヴの男たちは水に潜ることはせず、専ら浅瀬で拾い集め運搬するだけだった、とソルゲルの側は主張した。その程度の協力で折半を要求するのは厚かましすぎよう。

 待て。事情を教えられたギースリが、双方を抑えた。

 二つの一族が、せっかく堅固に結ばれたのだ。血を流して争うなど愚行の極みだ。双方が少しずつ譲歩することによって、ことはうまく運ぶ。結束はいっそう強まろう。

 アグネとヘルガは、少し離れたところで成り行きを眺める。女と子供は、何も口を挟むことはできない。二つの一族が対立し争うと男たちが決めたら、ヘルガと別れなくてはならなくなる。アグネはヘルガの手を強く握った。

 ソルゲルの視野にアグネとヘルガが入ったようだ。ソルゲルの指示を受け、エギルが二人に近づき、去れ、と命じた。

 俺の妻ヘルガに、夫として、ソルゲルの言葉を伝える。去れ。

 俺の妹アグネに、兄として、ソルゲルの言葉を伝える。去れ。

 女、子供は、去れ。

 父の言葉に逆らうことはできない。

 ヘルガがオーラヴのほうに目を向けた。ヘルガの父も二人の兄も揃って、行けと顎で示した。

 アグネとヘルガは厨(くりや)に行き、山羊の凝乳(スキユル)と乳漿(シユーラ)を器にとりわけ、水難者を休ませてある小屋に戻った。

 ひとり横たわる男は腫れ上がった瞼を開けた。細い隙間からのぞく榛(はしばみ)色の瞳には気力が甦っていた。

 ヘルガは木の匙で乳漿を掬(すく)い、男の口元にはこんだ。喉仏が動いた。口の端からこぼれて顎をつたう飲み物を、アグネは布端でぬぐってやった。

いつ頃からかおぼえていないが、同じような夢をしばしば見た。

沖の一部が瘤(こぶ)のように盛り上がる。ぬうっと大きく伸び、人の頭になる。 

ある夜は肩の辺りまで、次に見たときは胸が露わになるまで。

夜毎、少しずつ岸に近づいてくるのだと思った。

恐怖はない。好奇心のみが強まるのだった。

 

続きは2022年1月7日発売の 「文藝」春季号でお楽しみください。

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著者

皆川博子

1930年生まれ。『壁 旅芝居殺人事件』で日本推理作家協会賞、『恋紅』で直木賞、『薔薇忌』で柴田錬三郎賞、『死の泉』で吉川英治文学賞、『開かせていただき光栄です』で本格ミステリ大賞、『インタヴュー・ウィズ・ザ・プリズナー』で毎日芸術賞を受賞。著書多数。

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