
単行本 - 14歳の世渡り術
「絶対に学校を休んではいけない」と本気で思っていた――『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』はじめに
雨宮処凛
2021.02.09
『学校、行かなきゃいけないの? これからの不登校ガイド』
雨宮処凛
学校、行かないとどうなるの? そもそも「学ぶ」って何? 不登校その後の人生って?
フリースクール、学校関係者、精神科医、不登校経験者……多くの選択肢と先人たちの実践、コロナ禍での新たな学びの可能性まで――生きづらさをテーマに執筆をつづける雨宮処凛さんが取材をもとに10代にもわかりやすく書き下ろした、これからを生き抜くための不登校ガイド。学校「以外」の選択肢は意外とたくさんあります。
書籍刊行に合わせ、「はじめに」全文を公開します。
* * * * *
はじめに
「いじめられてる頃、夏休みが終わるのが怖くて仕方なかった。
月曜日も怖かった。
『逃げるな』『強くなれ』なんて言葉は大嘘だ。
今、私はあの頃の自分に『すぐに逃げろ!』と言いたい。
あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」
この言葉は2015年8月20日、不登校に関する記事を専門とする「不登校新聞」のサイトに寄せたメッセージだ。夏休みが明ける9月1日は子どもの自殺が増える日であることから、「学校に行きたくないあなたへ」のメッセージを、と依頼を受けて書いたのだ。
「あなたを大切にしてくれない場所にいてはいけない」
これは人が生きる上で、一番くらいに大切なことだと思う。
しかし、学校で教えられた多くは、それとは真逆の価値観だった。
暴力教師とヤンキー、そして受験戦争
「人生で一番つらかったときは?」
そう聞かれたら、迷うことなく「中学時代」と答える。
いじめに遭ったこともつらかったけれど、それがなかったとしても中学時代は絶対に、何があっても、たとえ5億円積まれようとも戻りたくない過去だ。
何が、と問われれば無数にあるが、私の人生においてもっとも「囚人度」が高かった数年であることは間違いない。
教室に大きく、「無言、敏速(びんそく)、整然」と書かれているのがつらかった。
髪の長さ、靴下の色、靴の色やスカートの長さなど細かすぎる校則が嫌だった。
教室での一挙手一投足がみんなに「監視」され、「唾(つば)を飲み込む」とかの生理現象でさえ細心の注意を払わないと悪目立ちしてしまう空気が息苦しすぎた。
運動音痴(おんち)でスポーツなんて興味ないのに、「部活に入らないと内申書に響く」と言われて嫌々入ったバレー部のすべてが拷問(ごうもん)だった。
毎日ガラスにヒビが入りそうな甲高い怒声で暴言を吐く部活顧問が恐ろしすぎた。機嫌が悪いと暴言は暴力になり、しょっちょう殴られたことも不条理すぎた。
このように、中学時代の思い出の多くは暴力に彩られている。
担任教師も「忘れ物をした」などの理由ですぐに暴力を振るった。
新学期、赴任してきたばかりの新人教師は、「授業中に笑った」というだけの理由で男子生徒の髪を鷲掴(わしづか)みにし、教室中を引きずり回した。数日後、その教師は「最初に誰か血祭りにあげておくと大人しくなるから」と説明し、得意げに笑った。全校集会があれば、「髪が茶色い」と判断された生徒たちが、やはり教師に髪を鷲摑みにされ、体育館から引きずり出された。1980年代後半。生徒への暴力など、問題にすらならない時代だった。
その上、当時はヤンキー全盛期。
学校には、「中学生に見えない」どころか、反社会勢力の幹部にしか見えないような見た目(サングラスにパンチパーマ、リーゼントなど)の上級生・同級生たちが廊下や踊り場にたまり、非ヤンキー生徒たちへの威嚇(いかく)行動に励んでいた。女子ヤンキーは全員が工藤静香(当時のアイドル。ヤンキーに人気だった。現在、俳優の木村拓哉の妻)の髪型を真似、いつも不機嫌な様子で私のような「地味目」生徒を見ては舌打ちしたりした。
猛獣(もうじゅう)がウロウロする檻(おり)の中にブチ込まれているような、生きた心地がしない日々。
怖いのは、ヤンキーだけじゃなかった。暴力教師とヤンキーに怯えて神経をすり減らす日々の中、生徒たちは常に「生贄(いけにえ)」を求めていた。自分以外の誰かがいじめの対象になってくれれば、それが続いている間は安泰だからだ。そのターゲットにならないために、みんながみんな、薄氷を履むように息を潜めて過ごした。秒単位で変わる教室の空気を読み、自分のヒエラルキーに見合った表情やリアクションをしなければ、その日から命の保証さえないことをその場にいる全員が知っていた。だからこそ、「空気を読まない」人間には、そのことに対する罰かのように壮絶ないじめが待っていた。
「悪目立ちしないこと」「ヤンキーに目をつけられないこと」。学校にいる間中、このふたつだけでへとへとだった。なのに、一人でいると「一人でいる奴」として目立ってしまうので同性の友達も作らなければならない。それなりにいい友人関係を結べた時期もあれば、「束縛(そくばく)」してくる友人もいた。中には他のクラスメイトとちょっと話しただけで急に不機嫌になる「面倒な彼女」みたいな女子もいて、勘弁してほしかった。
その上、勉強だってしなくちゃいけない。
特に私は団塊(だんかい)ジュニアでやたらと人数が多い世代。よって、高校受験は熾烈(しれつ)を極めた。北海道の片田舎という僻地であったため、都会のように「滑り止めを受験する」という選択肢はなく、もし高校受験を失敗したら、そのまま自宅で浪人生活、もしくは働かなければならないのだ。よって、大人たちは私たちを過酷な「受験戦争」に駆り立てた。
毎日毎日、何かに追い立てられているような日々だった。ほっと一息つける場所も、そんな余裕もなかった。
学校では、毎日のように事件が起きた。
ヤンキーが暴れたり、ヤンキー同士が喧嘩(けんか)したり、教師がいきなりキレて生徒を殴ったり、物が壊されたり誰かの持ち物が盗まれたり、隣のクラスでいじめに遭っていた女子生徒が授業中、泣き叫びながら教室を飛び出したり。そうかと思えばヤンキーカップルが廊下でいちゃつき始めたり。
そこはもう、「野生の王国」だった。