ミルクとコロナ

白岩玄と山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ『ミルクとコロナ』第18回 癇癪とコミュニケーション

2004年、『野ブタ。をプロデュース』でデビューした白岩玄さん。同じ年『人のセックスを笑うな』でデビューした山崎ナオコーラさん。ともに20代で文藝賞を受賞し、作家活動をスタートした二人が、子どもの誕生をきっかけに、まるで手紙のやりとりをするように、育児にまつわるエッセイの交換を始めた。
互いに第二子の誕生を挟んで、ゆっくりと3年半もの歳月をかけて綴られた往復エッセイ。それらはコロナ以前、およびコロナ下の育児を記録しながら、日々の身の周りの出来事を通して、社会の問題を考えるものになった。
コロナ下での生活が長引く今、2020年の年末から2021年6月までに書かれた「アンダー・コロナ」の部分を、特別公開します!

 

 第18回 癇癪とコミュニケーション

 世の中が育児者に対して求めてくる態度がある、という山崎さんの指摘は、すごくよくわかる。ぼくの場合は、父親の一人としてメディアで発言を求められたことがこれまでに何度かあるのだが、そのときに感じたのは、父親は育児のことを話す際に成績表を提出しなければならないんだなということだった。要は、あなたはどれくらい家事や育児をしていますか、ということを、まず第一に訊かれることが多いのだ。母親にはおそらくしないであろうその質問に答えてからしか子育てのことを話せないし、そこである程度の成績をおさめていることを証明しないと、何を言っても聞く耳を持たれないような雰囲気すらある。

 

イラスト 白岩玄

 

 似たようなことで言えば、たとえば小説で、家のことを普通にやっている父親を書く際も、その男性が家事や育児に主体的に取り組んでいる様子をいちいち書かないと、そういう男性だと思ってもらえないということがあると思う。母親であれば、別に何も書かなくても、それなりに家事や育児をやっているのだろうと読み手が勝手に想像してくれるのだが、父親の場合は、どうしても世間一般のイメージに引っ張られて、何も書かれていない=家のことはあまりやらない人、になってしまう気がするのだ。だから、その先入観を取り払うために、いつも過剰に家事育児をしている場面を描いているのだが、本来であれば、まったく必要ではない描写をしているようで、なんだかなぁと思ってしまう。

 もちろんこれらは、女性が家事育児をするのが当たり前に思われていることの裏返しでもあるのだが、一方で、家事育児を日常的にしている男性が、いつまでも成績表の提出を求められたり、あるいはフィクションの中で、読み手の誤解を解くためだけに男性に家事育児をさせなければならない現状は、あまり健全とは言えないし、どうにか変えていきたいものだ。

 さて、山崎さんが気にされていた、子どもの挨拶についてだが、うちの四歳になったばかりの息子も挨拶をしない。本当につい先日、知らない人にも「こんにちは」の挨拶はしようね、と教えると、その人に聞こえないくらいの声で「こんにちは」と遠くから言うようにはなったが、あまり挨拶の意味をなしていない(できたことはすごく褒めたが)。「おはよう」も同じで、人形遊びをするときなんかは、人形が眠りから覚めた際に「おはよう」と連呼しているのに、普段の生活だと、朝、保育園の先生に「おはよう」と声を掛けられても、返事をせずにもじもじしている。おそらく自分が言いたいかどうかが大きいのだろう。人としての礼儀とか、人付き合いを円滑にするためにする挨拶というのが、息子にとってはまだ難しいのかもしれない。

 ちなみに、「さようなら」や「ばいばい」は一応言えるが、促されないと口にしない。逆に、挨拶ではない「ありがとう」と「ごめんなさい」は割と言う方で、ぼくが車のドアを開けてやったときでさえ礼を言うくらいだから、それなりに習慣づいていると思われる。ごめんなさいも、以前は何か悪いことをすると謝れずに泣いてしまっていたが、最近は自分から謝るようになった。ただ、しばらく時間が経つと、同じことをまたしてしまうので(下の子が遊んでいるおもちゃを奪い取ったり、体をどんと押したりして泣かせてしまうことが多い)、とりあえず謝っているだけかもしれない。

 そんなわけで、息子は四歳にして、未だに挨拶が身についていない。親がやっていればできるようになるというのも、今のところは「本当に?」と疑いたくなるほどで、ぼくらは日頃からやっている方だと思うが、一向にまねする気配がない。でもまぁしばらくは厳しくしつけたりせずに、ちょくちょく促しながら、自然にできるようになるのを待つつもりでいる。たしかに挨拶ができないと、あまりいい子だとは思われない節はあるが、親の目を気にして挨拶をするようになったら、それは挨拶ではない気がするからだ。

 コミュニケーションについて、もうひとつ書きたいことがある。

 息子にかんしては、挨拶ができないことよりも、ときどき起こす癇癪の方が心配だった。最近はそんなでもなくなったが、二歳から三歳の半ばくらいまでは、些細なことでも苛立ちが募ると大泣きして、泣き止まなくなることがときどきあった。言葉の発達が他の子よりも遅れ気味だったので、そのぶん体で表現するというか、地団駄を踏んだり、寝転がったり、ぼくらを蹴ったり叩いたりする。そして周りに人がいたら、誰もが残らずこっちを見るような大声で三十分近く泣き続けるのだ。

 そういうときに、どうするのが正解なのか、ぼくにはよくわからない。育児書を開いたこともないし、専門家に相談したこともない。でも、ぼくらがその当時、自分たちなりに考えて取っていた方法を言うならば、とにかくまずはしっかりと息子をホールドして、それ以上暴れないようにする(そうしないとどこに走っていくかわからないし、周りにあるものを強く叩いたり、力づくで壊そうとするからだ)。そして、息子が何を嫌に感じていたのかを始めから順を追ってひとつずつあげていく。「○○が嫌だったんだよね?」「○○がしたかったんだよね?」そうやっていくつか列挙したあとに「そう?」と訊くと、泣きながら「そう」と返事がある。そのやりとりを何度か積み重ねていくうちに、言葉にならない感情が少しずつ外に吐き出されていって、だんだん気持ちが落ち着いてくるようだった。だから、ある程度それでうまくいくことがわかってからは、毎回その方法でなんとか乗り切っていた。

 あとは、息子は大泣きすると、ぼくや妻のことが嫌いだとわめくのだが、どれだけ嫌いだと言われても「パパは○○(息子の名前)のことが好きだよ」と繰り返し伝える、というのもよくやった。自分がもし息子のような状態になったときに、どんな言葉をかけられるのが嬉しいだろうと考えると、大泣きして感情の抑制がきかなくなっている自分を、それでも好きだよ、と言ってもらえたら、ちょっと安心するような気がしたのだ。あと、これのいいところは、息子のことが好きだと何度も口にすることで、自分自身の気持ちが少しずつ落ち着いていくことだ。あなたを大事に思っているというメッセージを送り続ける行為には、言った本人の他人を受け止めるキャパシティーを大きくしてくれる効用があるらしい。

 とはいえ、これらの方法でなんとかなったのは、比較的最近のことではある。もう少し前、二歳のイヤイヤ期と癇癪が重なったときは、もっと大変だった。言葉の理解が今よりもずっと曖昧だから、こちらの言っていることもあまり伝わっていないみたいだったし、ぼくらもまだ息子の癇癪の対応に慣れていなかったから、あれこれ気分を変えるような提案をしても「いやだ」と激しく首を振られ、息子の苛立ちを増長させることになってしまった。本当に、何をやっても効果がなくて、最終的には息子が服を脱ぎ散らかし、全裸で皿を投げて割り、頭がおかしくなったんじゃないかと思うくらい泣きわめいて、そのまま泣き疲れて眠ってしまったこともあった。その頃は本当に息子が癇癪を起こすのが怖かったし、機嫌が悪かったりして雲行きが怪しいときは、なるべく刺激しないようにそっとしておいたり、早めに楽しいことに誘って気持ちを切り替えさせたりしていた。

 そんな感じだったので、ぼくと妻も、息子が発達障害なのではないかと思ったことは何度もある。通っている保育園で癇癪に近いことを起こしたときは、療育に行かせることも考えた。でも、結果的に病院に行かず、様子を見ることにしたのは、(前も書いたが)三歳半を越えたぐらいの頃に、息子のコミュニケーション能力がぐっと伸びたからだ。息子は以前よりも自分の希望をはっきりと口にできるようになり、ぼくらの言うこともよく理解しているなと感じることが増えた。もちろん今でも機嫌が悪くなって大泣きすることはあるのだが、感情や思いをより正確な形で吐き出す言葉が使えるようになったのは、息子にとって大きなことだったらしい。

 とはいえ、この先、何らかの傾向が目につくようになって、やっぱり病院で診断を受けた方がいいと思うこともあるかもしれない。前回の山崎さんのエッセイを読んで反省したのだが、診断を受けたり、療育に通ったりすることを、もっと前向きにとらえるべきだなと思った。ぼくはどこかで、療育に通わなくて済むかどうかの基準で子どもを見てしまっていたけれど、自分の特性をきちんと理解するのは大事なことだし、ストレスを緩和したり、人生をよりよく生きていくためにも必要なことだ。ときにはプロの手を借りながら、自分たちもいろいろと試行錯誤して、息子とのコミュニケーションを深めていけたら、それが一番の理想だろう。

 今回はコロナのことが一切絡んでいない原稿になってしまった。でも、子どもとのコミュニケーションは、コロナに関係なく、難しさを感じるのが常だ。そして、ぼくはその難しさを、ある部分では、ずっと感じていた方がいいのではないかとも思っている。簡単ではないと思うからこそ、ぼくらは相手に敬意を持てるのだし、他人に対する想像力というのも、わからないと思わなければ、そもそも働かないからだ。

 挨拶ができなくても、癇癪を起こしても、そのままの息子を受け止めたい。目の前にいるのは、自分の思うようになんていかない他人であるということを忘れないようにしながら、子どもたちと関わっていたいものだ。

 

好評連載『ミルクとコロナ』が、本になります!「ビフォー・コロナ」と現在公開中の「アンダー・コロナ」の2部構成の単行本には、白岩さん、山崎さんの描き下ろしイラストも多数入っています。3年半にわたってじっくりとやり取りされた38のエッセイを、どうぞお楽しみに!

 

 

 

 

 

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著者

山崎ナオコーラ

1978年福岡県生まれ。2004年『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。小説に『美しい距離』『リボンの男』、エッセイに『かわいい夫』『母ではなくて、親になる』『むしろ、考える家事』など。

白岩玄

1983年京都市生まれ。2004年『野ブタ。をプロデュース』で文藝賞を受賞し、デビュー。小説に『空に唄う』『ヒーロー!』『世界のすべてのさよなら』『たてがみを捨てたライオンたち』など。

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