ミルクとコロナ

白岩玄と山崎ナオコーラの往復・子育てエッセイ『ミルクとコロナ』最終回 ニューノーマル

2004年、『野ブタ。をプロデュース』でデビューした白岩玄さん。同じ年『人のセックスを笑うな』でデビューした山崎ナオコーラさん。ともに20代で文藝賞を受賞し、作家活動をスタートした二人が、子どもの誕生をきっかけに、まるで手紙のやりとりをするように、育児にまつわるエッセイの交換を始めた。
互いに第二子の誕生を挟んで、ゆっくりと3年半もの歳月をかけて綴られた往復エッセイ。それらはコロナ以前、およびコロナ下の育児を記録しながら、日々の身の周りの出来事を通して、社会の問題を考えるものになった。
コロナ下での生活が長引く今、2020年の年末から2021年6月までに書かれた「アンダー・コロナ」の部分を、特別公開します!

 

   最終回 ニューノーマル

 医師や弁護士など、一部の専門職に就いている人を「先生」呼びすることに違和感があるという山崎さんの原稿を読んで、こんなことを思い出した。

 昔、二十二歳くらいのときに、何度か講演の依頼を引き受けたことがあるのだが、当日会場に着くと、迎えてくれる人たちが、みんなぼくを「先生、先生」と呼ぶのだ。一応「作家先生」という扱いらしいのだが、自分の親くらいの年齢の人たちにまで先生呼びされることになじめなくて、あるとき、アテンドしてくれた中年の男性に、「ぼくなんてまだ二十歳そこそこの若造だし、先生なんて恐れ多いですよ」と言ったら、その人は「いや、まぁ正直なことを言えばね、みんな名前を覚えるのが大変だから『先生』って呼んで済ませてる部分もあると思いますよ」と教えてくれた。ぼくは、なるほど、そういうことだったのかと感心して、それ以来どこで先生と呼ばれても、あまり違和感を覚えなくなった。その呼び方をする彼らにもメリットがあるとわかったからだ。

 とはいえ、山崎さんが指摘する違和感もわからなくはない。先生という言葉は人と人との関係にどうしても上下を作ってしまうし、それが必要なこともときにはあるのかもしれないが、上になる人を過剰に崇め、下になる人を必要以上に無能なものとして扱いかねないのも事実だ。本当はあらゆる人が互いに自分の知らないことを教え教わる関係が理想なのだから、そういう社会にしていくためにも、固定化された「先生呼び」を疑ってみるというのは意義のあることだと思う。

 個人的には、コロナ禍になってからよく聞くようになった「医療従事者」という言葉も、なんだか医療を提供する人というニュアンスが強すぎて、その人たちがプロフェッショナルだということ以外が見えにくくなっているように感じる。一人一人の人間が職業としてその仕事をしている限り、彼らも個人的な悩みや家庭の事情を抱えていたりするのだから、もっとごく普通の人たちであることが強調されてもいいような気がする。なかなか外には出てこない彼らの傷みや葛藤が、社会全体にもう少し共有されることで、世の中の人の行動が変わってくることもあると思うのだ。これまでにもメディアやSNSなどで彼らの個人の声が取り上げられているとは思うが、「大変だ」という言葉ひとつでなんとなく片づけられている気がするので、今後のためにも継続的にメディアで取り上げてもらいたいなと思う。

 

イラスト 白岩玄

 

 さて、この連載は今回で終わりなのだが、これから先の世の中についてちょっと触れておきたい。アフターコロナ、という言葉が山崎さんの原稿の中にも出てきたが、ぼくは同じような意味合いの言葉の中でも、特に「ニューノーマル」(新しい生活様式)という言葉が気になっている。もともとは経済の分野で使われていた言葉らしいが、コロナ禍の暗い印象をうまく閉じ込めて、新しさと前向きさを感じさせる面白い言葉だなと思う。なんというか、これがニューノーマルです、と言われたら、なんとなくそうかもなと思ってしまいそうになるのがすごい。

 ニューノーマルになった事柄はたくさんある。手の消毒やマスクの着用はもちろんのこと、リモートワークやオンライン飲み会もそうだし、ソーシャルディスタンスなんてのも、コロナの前までは影も形もなかった。時短営業、ステイホームなど、ぼくらは誰がどう見ても、これまでとは違う新しい世の中を生きている。

 オリンピックだって、コロナのことがなかったら、ここまで揉めたりしなかっただろう。開会式の演出など、それなりに問題はあったとしても、結局は普通に開催されて、IOCに対する不信感もそんなには生まれなかったかもしれない。そうした、オリンピックというものへの捉え方の変化だって、ある種のニューノーマルだ。ぼくらはこの先、オリンピックってそもそもどうなの、とどうしたって考えてしまうし、たぶんもっとたくさんの「これまでは当たり前だったこと」を疑うようになるだろう。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが、二十一世紀だなという感じはする。

 そしてもうひとつ、ぼくがどうしても気になってしまうのが「分断」のことだ。これはコロナ禍が始まる前から起こっていたことではあるけれど、SNSの普及によって、昔よりもはっきりと人々の価値観(たとえば人種差別や同性愛などに対する考え方)が乖離してきていることを肌で感じるようになった。コロナ禍で世の中に余裕がなくなってきたことで、その溝はさらに深くなっているように思えるし、もはや永遠にその溝が埋まることはないのではないかという気もする。

 そんな世の中で、四歳の息子と一歳の娘は、これからどんなふうに育っていくのだろう? ぼくにはまったく想像がつかないが、できればこうした状況のひとつひとつをなるべく肯定的に捉えられるようになってほしいなとは思う。

 これまで当たり前だったものを疑えるのは、悪い膿を出して、今までになかったものを作り出すチャンスだし、マイナスのイメージで語られることが多い分断だって、みんなが同じ考え方をしなくてもいいと思う人が増えてきたという意味では、そこまで悪いことでもなかったりする。おまけに、分断にかんしては、もし子どもたちが、互いにわかり合えないことを前提とした上で、それでもなお、自分と意見の違う人とコミュニケーションする方法を模索しようとしてくれるようになったら、こんなに力強いことはないだろう。ぼくなんかはつい価値観の合わない人とは距離を取ってしまいがちだが(もちろんそうすることもある部分では必要なのだが)、いつか息子や娘に、そういう考え方はもう古いよと言われてしまうかもしれない。自分を守ってばかりの情けない大人だな、と子どもたちに見限られないように、できる努力はしていきたいものだ。そうして、なるべく悪しきことではなく、善きことが、世の中のニューノーマルになっていけばいいなと思う。

 最後になるが、この連載のパートナーである山崎さんにお礼を言いたい。実はこの連載は、もともと子育てのことのみを書く予定だったのだが、コロナ禍になって、どうしても日常にコロナのことが入り込んできてしまい、だったら、いっそそのことも含めて書いてみようということになった。ただ、そうは言ってもコロナのことはデリケートな話題が多く、語り口が難しいので、本当に書いていいのかどうか、ぼく自身は正直迷いがあったのだ。でも、そんな中で、山崎さんが「やりましょう」と言ってくれて、ぼくはそれに背中を押されて連載を始めることができた。「個人のことを書く」という、作家がすべきことから逃げない山崎さんと一緒でなければ、ぼくはコロナ禍の中で誰と共有するでもなく溜め込んでいた様々な思いや感情に形をつけることすらできなかっただろう。

 また、山崎さんはご自身のことを頭でっかちだと書かれていたが、本やネットなどから得た様々な知識を、わかりやすく噛み砕いて書いてもらったおかげで、ぼく自身も非常に勉強になった。もしこの連載の書き手がぼく一人だったら、こんなにためになるエッセイは到底書けなかったと思う。

 文藝賞で一緒にデビューした山崎さんと、たまたま同じ時期に子育てをしている偶然と、何よりこうして共著という形でエッセイを書けたことに心から感謝したい。ありがとうございました。

 

好評連載『ミルクとコロナ』が、本になります!
「ビフォー・コロナ」と現在公開中の「アンダー・コロナ」の2部構成の単行本には、白岩さん、山崎さんの描き下ろしイラストも多数入っています。
3年半にわたってじっくりとやり取りされた38のエッセイを、どうぞお楽しみに!

 

 

 

 

 

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著者

山崎ナオコーラ

1978年福岡県生まれ。2004年『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。小説に『美しい距離』『リボンの男』、エッセイに『かわいい夫』『母ではなくて、親になる』『むしろ、考える家事』など。

白岩玄

1983年京都市生まれ。2004年『野ブタ。をプロデュース』で文藝賞を受賞し、デビュー。小説に『空に唄う』『ヒーロー!』『世界のすべてのさよなら』『たてがみを捨てたライオンたち』など。

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