2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載開始! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第1回

2003年に刊行後、ドラマ化されるなど、大ヒットした「交渉人」シリーズの最新作が待望の連載開始!
今作は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。女性への偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

 

交渉人ゼロ

プロローグ

 千代田区霞ヶ関二丁目一番二号、中央合同庁舎第二号館十六階、警察庁生活安全局生活安全企画課犯罪抑止対策室。

 遠野とおの麻衣子まいこは会議室のドアをノックした。入れ、と低い声がした。

 ドアを開けると、制服を着た犯罪抑止対策室長の広岡ひろおかが離れた席に座っていた。他には誰もいない。

 敬礼した麻衣子に、座れ、と広岡がパイプ椅子を指した。

「失礼します」

 ドアに近い椅子に腰を下ろした。広岡とは五メートルほど離れている。距離がそのまま立場の差を表していた。

「遠野警部補、異動だ」 

 麻衣子は私立早生大学社会人文学部を主席で卒業し、大学院の修士課程に進んだ。国家公務員総合職試験を受けたのは、大学入学時からの希望だ。

 院卒見込者は大卒見込者と試験区分が違う。基礎能力、専門の第一次、政策試験、人物、専門、英語の第二次試験を経て合格通知が届いたのは、一年半前の六月だった。

 その後官庁訪問があり、倍率の高い警察庁に入庁が決まった。強盗に祖母を殺害された過去が、警察庁を志望した理由だ。

 国家公務員総合職試験に合格した者はキャリアと呼ばれる。警察庁の場合、毎年十人前後が採用されるが、麻衣子もその一人となった。

 ノンキャリアの警察官は最も下の階級、巡査から経歴をスタートするが、キャリアは入庁と同時に警部補となる。二年後には全員が無条件で警部に昇進することも決まっていた。

 警察組織において、キャリアは警察官僚であり、警察官とは立場も役割も違う。誰もが羨むエリートだが、麻衣子にとって警察庁の居心地は最悪だった。

 ガラスの天井という言葉があるように、官僚機構には女性の昇進を阻む意識が強く、特に警察庁では顕著だ。それは警察の伝統でもあった。

 警察庁は警視庁を含む全国の都道府県警を束ねる行政機関という役割を持つ。警察官の基本的な職務は犯罪防止、そして犯罪の捜査と犯人の検挙だが、逮捕に当たっては犯人の抵抗が予想される。そのため、警察官は女性に向かない職業とされていた。

 その意識は、警察庁にも根強く残っている。直接的なハラスメント行為こそないが、同期で唯一の女性である麻衣子に対し、周囲の目は厳しかった。出世コースとはいえない犯罪抑止対策室に配属されたのもそのためだ。

「異動……どこへですか?」

 広岡が手元のクリアファイルをテーブルの上で滑らせた。麻衣子はそれに目をやった。

『辞令・二月一日付けで警視庁刑事部捜査一課特殊事件捜査犯係第一班への異動を命ず』

 ちょうど一週間後の月曜日だ。突然過ぎますと首を振った麻衣子に、異例なのは認める、と広岡が薄い唇を動かした。

「事情を説明する。一課の特殊事件捜査犯係は知ってるな?」

 SITですね、と麻衣子はうなずいた。SITとはSpecial Investigation Teamの略称で、警視庁以外の各道府県警にも同様の部署があるが、名称はそれぞれ違う。例えば大阪府警ではMAATと呼ばれている。

 警視庁が刑事部捜査一課に特殊事件捜査犯係を設置したのは一九六四年(昭和三十九年)で、主に誘拐事件捜査を専門とする部署だったが、その後人質を取った立て籠もり事件、ハイジャック、脅迫、恐喝事件、交通機関のテロなども担当するようになった。携帯電話とインターネットの普及によって爆発的に増加したネット犯罪、特殊詐欺の捜査も任務に加わっている。

 犯罪の多様化ってやつだ、と広岡がテーブルを指で軽く叩いた。

「時代が変わったとはいえ、SITの本来の目的は、犯人との交渉だ。以前から交渉人の育成が課題となっていたが、FBIで研修を受けた石田いしだ修平しゅうへい警視が半年前から準備を進めていてね。警視庁四万五千人の警察官の中から、七人が選抜されている。君は八人目だ。交渉人研修への参加を命じる」

「なぜわたしが?」

 人事のバランスだよ、と広岡が低い声で言った。

「平成二十九年、男女雇用機会均等法が改正された。国会の決定だから、どこの省庁も無視できない。それどころか、率先して範を垂れるべき立場にある。建前だけのザル法でもだ。加えて、警察にはキャリアとノンキャリア格差の問題がある。交渉人研修に警察庁からも誰か出せ、という話になった。その時点で選ばれていたのは男性五人、女性二人だったから、バランスが悪いという話が出たんだろう。君が選ばれた理由はそれだ」

「女性だからですか? キャリア組からも誰かを出さなければならなくて、人数合わせのために……」

 それ以上は言うな、と広岡が顔をしかめた。

「これは名目上の異動だ。三カ月間の研修が終われば、君を警察庁サッチョウへ戻すことになっている。石田警視も了解済みだ。少し変わった男だが、彼もキャリア組だから我々の立場は理解している。不満かもしれないが、三カ月の辛抱だ」

 わたしは石田警視を知りません、と麻衣子は言った。

「変わった男……どういう意味です?」

 石田は三十四歳だ、と広岡が時計を見た。

「優秀な男で、三年後には警視正になるだろう。同期では最速だし、幹部候補どころか、警察庁長官になってもおかしくない。ただ……我々キャリア組は行政官だ。全国の警察、警察官を管理する立場にある」

「はい」

 石田には捜査に首を突っ込む癖がある、と広岡が舌打ちした。

「悪いとは言わない。だが、彼は現場に臨場するし、捜査本部で指揮を執ることもある。建前で言えば、それも警察庁キャリアの仕事だ。しかし、実際に捜査を主導するのは捜査一課だし、具体的に言えばノンキャリアの一課長だよ。捜査のミス、誤認逮捕などがあれば、石田の経歴に傷がつく。あれほどの人材をつまらないことで失うのは惜しい……とはいえ、彼が捜査を指揮した事件はすべて早期解決している。警察庁のキャリア組としては変わっているが、結果を残しているから止めるわけにもいかない」

 交渉人制度の改革も石田の提案だ、と広岡が話を続けた。

「彼は東大で心理学を専攻していた。それもあって、交渉人制度の研究のため、国枝くにえだ前警察庁長官が石田をFBIに派遣した。バージニア州のクワンティコ本部だ。有名な映画があるだろ?」

“羊たちの沈黙”ですねと言った麻衣子に、そんな題名だったと広岡がうなずいた。

「帰国後、志願して警視庁に出向した。去年起きた携帯電話会社社長誘拐事件は覚えているな? あの時、交渉人を務めたのが石田だ。人質の解放と犯人グループの逮捕を、電話一本でやり遂げたのは語り草だよ」

 事件のことは覚えていますが、石田警視の名前は聞いたことがありません、と麻衣子は首を振った。

「確か、警視庁捜査一課の刑事が犯人を逮捕したと……」

 石田は表に出ない、と広岡が言った。

「それが交渉人の鉄則だ、と本人が言ってる。手柄を誇ったり、吹聴することもない、あくまでも黒子に徹すると……どんな仕事でも評価が欲しくなるのは、誰だってそうだ。その一点だけを見ても、石田は変人だよ。何のためにキャリアになったんだか……話が逸れたな。とにかく、三カ月だ。研修終了時に石田が一名ないし二名を選ぶことになっているが、君は除外されるから心配しなくていい」

「除外?」

 全国すべての都道府県警に女性交渉人はいない、と広岡が立ち上がった。

「これは差別じゃない。適性の問題だ。とはいえ、建前を守るのも仕事のうちだ……質問は? なければ戻れ」

 失礼します、と麻衣子は辞令を手にドアを開けた。ドアのそばで頭を下げていると、広岡が前を通り過ぎていった。

 

ネゴシエイト1 交渉人研修室(仮)

   1

 二月一日月曜日、午前六時五十分。麻衣子は警視庁本庁舎のエントランスを抜け、受付で名前を言った。

 ダウンジャケットを脱ぐと、冬の冷気が体を包んだ。警察庁のある合同庁舎と隣接しているので、出勤のタイミングはいつもと同じだ。

「十階の特別会議室が交渉人研修室です」

女性警官がIDパスを渡し、首にかけてくださいと言った。エレベーターに乗り、服装をチェックしたが、黒のパンツスーツ、白のブラウス姿なのは、制服ではなく私服着用を指示されていたためだ。従うのは警察官としての習性だった。

 どうして、と不意に苦笑が漏れた。なぜここにいるのだろう。

 名目上の異動と広岡が話していたが、信じてはいなかった。体のいい厄介払い、というのが本音だろう。

(警察庁は厳しい)

 小さくため息をついた。犯罪抑止対策室には約五十人の室員がいるが、女性は麻衣子だけだ。

 友人どころか、話し相手すらいない。誰の目にも敵意か蔑視の色があった。面倒臭い奴、と思われているのもわかっていた。

 麻衣子にそんなつもりはないが、下手に声をかけるだけでもセクハラと訴えられかねない時代だ。腫れ物扱いされ、いつも一人だった。

 警察は絶対的な男性社会で、それはキャリア、ノンキャリア共に変わらない。常に男性が上に立ち、女性は従うだけの立場だ。

 だが、女性の権利を誰もが認めざるを得なくなっている。おかしな言い方だが、能力や適性に関係なく、女性のポジションを上げなければならない事情が警察組織にはあった。

 だが、ポストのひとつに女性が就けば、その分椅子が減る。男たちにとって、麻衣子は潜在的な敵だった。早く辞めろ、と心の中では牙を剥いているに違いない。

 広岡が異動を命じたのは、三カ月でも警察庁を離れれば経歴に空白が生じるためだ。それは今後の昇進にも影響する。

 もっとも、麻衣子としてはどうでもよかった。女性がトップに立つ省庁はほとんどないし、あってもお飾りだ。

 そして、警察庁長官に女性が就くことは絶対にあり得ない。どこか諦めに似た気持ちがあった。

(いい機会かもしれない)

 警察庁に入庁したのは、祖母を殺害されたためだが、事件捜査に関心を持っていたこともあった。交渉人も捜査官だから、現場に臨場することもないとは言えない。現場を踏みたいという思いは、キャリアにもあるものだ。

 エレベーターを降り、廊下を右に曲がると、突き当たりのドアに“交渉人研修室(仮)”と貼り紙があった。ドアを開けると、奇妙な光景が目の前に広がっていた。

(アメリカの高校)

 連想したのはそれだった。正面、一段高い壇の上に机、すぐ後ろにホワイトボードが置かれ、それを取り囲むように椅子が並んでいる。折り畳み式の小さなテーブルがついているが、そこにiPadが載っていた。

 席は二列、配置はランダムで、席間の距離もばらばらだった。座っていた五人の男女が顔を上げ、視線を向けている。麻衣子は小さく頭を下げ、空いていた後列の椅子に腰を下ろした。

 隣に座っていた三十代の男が、わざとらしく空咳をした。首からIDパスを下げているので、名前がわかった。江崎えざき康生こうせい、階級は巡査部長、所属は所轄の赤羽署刑事係だ。

 警察官のIDパスは年齢その他と関係なく共通で、名前、階級、所属が記されている。麻衣子のIDに目をやった江崎が、サッチョウと唇だけを動かした。

 警察庁からも交渉人研修に人員が派遣されているのは知っているはずだが、女性とは思っていなかったようだ。

江崎のつぶやきに、前列の女性が振り向いた。村山むらやま紀美のりみ、西銀座署少年課巡査長。

 かなりのやせ形で、目尻の皺が目立っている。三十代後半だろう。麻衣子は一六〇センチちょうどだが、紀美は十センチ以上背が高かった。

 交渉人研修には本庁、所轄も参加してると紀美が囁いた。

「でも、本人の希望と上長の推薦が必須条件よ。遠野さんも手を挙げたってこと?」

 同じ女性、年齢が上ということもあってか、明け透けな物言いだった。ただ、嫌な感じはしない。さっぱりした性格なのだろう。

「手を挙げたわけでは……上に勧められたので、従っただけです」

 キャリアは違いますね、と江崎がこめかみの辺りを指で掻いた。

「望まなくても道が開ける……羨ましいですよ」

「羨ましい?」

 本庁に上がるチャンスはめったにありません、と江崎が言った。敬語なのは、階級がひとつ下だからだ。

「所轄の刑事課にいたら、そんな機会は巡ってきませんよ。ですが、交渉人研修を受ければ捜査一課に配属されると聞きました。願ってもない話です」

 刑事課ならともかく、少年課だと可能性はゼロ、と紀美が眉間に皺を寄せた。

「他の所轄でも、女性警察官がこぞって許可を願い出たそうよ。だけど、推薦が出たのは五人もいない。あたしが何度頭を下げたか……警察庁のキャリアでも、遠慮はしない」

 遅れて入ってきた男と女がそれぞれ頭を下げ、空いていた席に座った。一分も経たないうちに、七時のチャイムが鳴った。

 少し遅れる、といきなり誰もいない壇上の机から声が響いた。深い森の中で、木々の間を通り抜けていく風のような声だ。

『全員、着席して待つように。互いに自己紹介してはどうだ? 私は十分以内に着く』

 スマホだ、と最後に入ってきた若い男が指さした。気づかなかったが、机の上にスマホが置かれていた。

 スピーカーホンからの声だとわかり、麻衣子は小さく息を吐いた。誰もいない机から声がすれば、誰でも驚くだろう。全員の顔に、苦笑が浮かんでいた。

「今のが石田警視ですか?」

 若い男が首を捻った。歳は麻衣子より少し上だ。会澤あいざわ一樹かずき、捜査一課巡査部長、とIDにあった。所属が記されていないのは、本庁勤務のためだ。

「同じ一課なら、石田警視のことを知っているはずでは?」

 角刈りの四十代の男が尋ねた。柔道をやっていたのか、固太りの体型で、背こそ低いが、腕が丸太のように太かった。

「城西署の平河ひらかわといいます。本庁のことはよくわからんのですが、部署が同じなら――」

 同じ一課でも、石田警視は特殊事件捜査犯係ですと会澤が言った。

「ぼくは二カ月前に水上署から本庁に上がってきたばかりで、まだわからないことも多くて……同じ一課ですが、特殊事件捜査犯係とはフロアも違います。本庁舎には一般職員を含め、約四千人が勤務していますから、ひとつフロアが違えば誰が誰なのかさっぱりです。大企業と同じですよ。噂ぐらいは聞いてますが……」

 麻衣子は左側に顔を向けた。女子大生のようなルックスの色白の女性が座っていた。並木なみきはる、杉並署交通課の巡査だ。

 集まった八人の中で一番若いので、声がかけやすかった。あなたも希望したんですかと尋ねると、一応そうです、と曖昧な返事があった。

「でも、交渉人になりたいのかって言われると、そういうわけじゃなくて……交通課で毎日ミニパトに乗っているんですけど、何かつまんないなって思っていたら、上司にこの研修のことを教えられました。推薦してもいいと言われたので――」

 おいおい、と三十代半ばの男が掛けていた眼鏡の位置を直した。浜内はまうちひさし、本庁二課の巡査部長だ。

「やる気がないなら、帰ってくれ。こっちは何年も前から交渉人……いや、SITに行きたいと転属願を出しているんだ。そのために勉強もしたし、資格も取った。最終的に一人か二人残すそうだが、ライバルは少ない方がいい」

 やや甲高い声だった。浜内さん、と江崎が腰を浮かせた。

「止めましょうよ。帰れと言っても、そんなことできるはずないじゃないですか。警察の人事は簡単に引っ繰り返せません」

 連続強姦事件の犯人を逮捕したのは君か、と浜内が江崎に鋭い目を向けた。

「それで抜擢されたと聞いたが、冗談もわからないのか?」

 この研修では本庁も所轄もない、と紀美が首を振った。

「立場は同じと聞いてる。誰だって、所轄で燻っていたいわけじゃない。今は石田警視を待つしかないでしょ」

 浜内が肩をすくめた。それまで黙っていた太った男が口を開いた。

「ごちゃごちゃ言うても仕方ないやろ。寝不足なんや。静かにしてくれ」

蔵野くらの 茂雄しげお、立川西署の巡査部長だ。三十歳後半だろう。アクセントに関西弁が混ざっていたが、警察庁では珍しい。

しばらく沈黙が続いた。五分ほど経った時、ドアが開いた。

 入ってきた男が壇上の椅子に腰を降ろした。一八〇センチ近い長身、顔が小さく、明るいグレーのスーツで均整の取れた体を包んでいる。

 刑事のイメージはない。商社マンと言われても信じただろう。

「聞いていると思うが、改めて自己紹介する」石田修平だ、と男が言った。「警視庁捜査一課特殊事件捜査犯係第一班長兼課長代理。年齢は三十四歳、階級は警視」  

 よく通る聞き取りやすい声だが、話し方は流暢と言えなかった。文章でいえば句読点の数が普通より多い。そのため、やや間延びした口調になっていた。

「今日から約三カ月、交渉人研修を実施する。最終面接は四月二十八日の予定だ。その間、指示がない限り、午前七時にこの会議室に集まること。研修中は所属、部署、階級、年齢、その他社会的な肩書を外し、お互い、名字で呼び合うように。私にもそうしてほしいところだが、さすがにやりにくいだろう。石田警視でいい。私の方は君たちを付けで呼ぶ」

 平河さんと遠野さんは警部補です、と江崎が手を挙げた。

「僕は巡査部長で、警察は階級がすべてと言っていい組織です。指示の意図はわかりますが、失礼ではないかと――」

 ここでは交渉術を教える、と石田が言った。

「犯罪者との交渉において、年齢や階級は意味を持たない。君が警視総監であっても、犯人には関係ない。総理大臣でもだ。その意識を徹底するために、研修中はすべてのかせを外す。いいね? それから浜内巡査部長。君は研修に加わらなくていい。たちばな二課長から命令があった。事情は直属の上長に聞いてほしい。私も詳しくはわかっていないが、事件が起きて人が足りないんじゃないか?」

 待ってください、と浜内が立ち上がった。

「班長の山根やまね警部と話したのは昨日です。交渉人研修に専念せよ、と命じられました。以前から何度もSITへの転属願いを出していますし、それは山根班長も了解済みです。交渉人になるため、基礎心理学はもちろんですが、応用心理学、特に犯罪心理については東亜大で塚本つかもと教授の講義を受けるなど、誰よりも学んでいる自負があります。いきなり戻れと言われても……」

 君を戻せと命じられたんだ、と石田が外国人のように手を広げた。

「熱意はわかるが、命令は命令だ。朝令暮改は警察の悪癖だな。とにかく一度戻って、山根班長と話してくれ」

 納得できません、と浜内が首を強く振った。

「昨日の今日ですよ? 人員不足だから戻れとは、山根班長も橘課長も言わないはずです。やっと掴んだチャンスです。研修自体、始まってもいないのに――」

 妙だ、と麻衣子は思った。交渉人研修に特例として選ばれたのは、自分だけではなかったのか。

 晴はともかく、他は自ら希望し、上長の推薦と許可を得ている。数日ではなく、三カ月に及ぶ長期研修だ。本庁、所轄、部署にかかわらず、人事も調整済みだろう。

 大きな事件が起きたのであればやむを得ないが、そんな話は聞いていない。浜内が抗うのは当然だ。

 研修は始まっている、と石田が机のスマホをスーツの内ポケットにしまった。

「命令に従うのが警察官の義務だ。言いたいことがあれば、上長に訴えるべきだろう。違うか?」

 唇を固く結んだ浜内が会議室を出て行った。始めよう、と石田が軽く手を叩いた。

 

   2

 今後について簡単に説明する、と石田がスーツの胸ポケットに差していたペンを握った。

「午前七時から夕方五時まで、九十分ひとコマ、休憩三十分、昼食時間もあるから、一日五コマで交渉人研修を行う。交渉人に必須の知識は心理学、言語学、精神分析概要、生理学、病理学、動物行動学、教育学、情報学、その他多岐に亘る。私だけではなく、それぞれ専門の講師が教える」

 石田の声がiPad上で文字になっていく。大学どころか、大学院レベルの講義になるのがわかった。

 今日は初日だから雑談だ、と石田がペンを左右に振った。

「殺人を例に挙げてみよう。認知の端緒はさまざまだが、代表的なものは何だ?」

 ペンを向けられた会澤が、通報でしょうかと答えた。人が殺される現場を見た、叫び声を聞いた、争っているのがわかった、と石田が指を折った。

「もっとダイレクトに、死体を発見したと通報が入ることもある。いずれにせよ、警察が動くのは事件が発生した後だ。傷害、強盗、窃盗、性犯罪、放火、詐欺その他経済犯、轢き逃げその他交通違反、少年犯罪、サイバー犯罪、暴力団等反社会組織による犯罪、銃器や薬物に関する犯罪……細かく分類すればきりがないが、犯罪発生前に警察が動くのは法律的に難しい」

全員がうなずいた。例えば殺人予告のように明らかな予兆があれば、と石田が話を続けた。

「防止のために介入することは可能だが、現実にはそうもいかないだろう。あくまでも一般論だが、殺人事件の場合、死体が発見されるまで、捜査は始まらない。その他の事件でも同じだ」

 ただし例外がある、と石田がペンを向けた。誘拐事件ですねと言った麻衣子に、それもある、と石田がうなずいた。

「人質を取った犯人による立て籠もり事件、他にもさまざまなケースが考えられるが、例にするなら誘拐がわかりやすいだろう。刑法224条、未成年者略取及び誘拐罪、同225条、営利目的等略取及び誘拐罪、同225条の2、身代金目的略取等の罪、同226条、所在国外目的略取及び誘拐罪、刑法的には四つに分かれるが、複合型もあり得る。交渉人が担当することになる身代金目的の略取誘拐を考えてみよう。その場合、最悪のケースは何だと思う?」

 促された平河が額の汗を拭い、犯人との交渉の失敗ですと小声で言った。

「その結果犯人が逃走、身代金を奪われた上に、人質が殺害される……最悪の結末だと思いますが」

 違う、と石田が首を振った。

「人質の死、その一点に尽きる。極論だが、金はどうにでもなるし、犯人を逮捕できなくても構わない。人質の無事な救出が何よりも重要だ」

そういうものですか、と蔵野が首を捻った。アクセントが標準語になっている。使い分けができるようだ。

被害者が無事に解放されれば、マスコミや世論、ネットが何と言おうと警察の勝利と言っていい、と石田が微笑んだ。

「それが交渉人の存在意義だ。さて、誘拐と他の事件では大きく異なるポイントがある」

被害者を拉致した時点で、誘拐は犯罪として認知されます、と紀美がまっすぐ手を挙げた。

「ですが、現在進行形の犯罪と呼ばれると聞いてます。犯人が人質を取っている限り、警察も下手に手を出せません。それが他の事件との違いです」

 詳しいな、と石田が感心したように言った。

「拉致直後に人質を殺害し、生きていると見せかけて身代金を要求する犯人もいるが、昭和や平成の頃はともかく、現在の科学捜査はほとんどの場合その嘘を見破る。犯人の声から心理を分析する技術が発達したためだ。人質が死亡していれば、どんな手段を使ってでも逮捕する。つまり、犯人にとって人質は盾だが、矛でもある。暴力を行使すると脅し、身代金の支払いに同意させるための武器だ。前提として、人質が無事だと証明する必要がある」

 そこに交渉の余地が生まれる、と石田がペンをデスクに置いた。

「現在進行形の犯罪と呼ばれているのは、警察の出方や時間の経過、犯人の心理状態その他によって事件の様相が変わるためだ。ランサムウェアによる企業への身代金要求、ハイジャック、テロ組織等の犯罪、それぞれ性格は異なるが、交渉が可能になる事件が増加している。更に言えば、どんな犯罪においても交渉は有効な解決手段となる」

「どういう意味ですか?」

蔵野の質問に、今や警察は何でも屋だ、と石田が答えた。

「近隣トラブルの仲裁に入るのも警察官の仕事になっている。すれ違っても挨拶がない、物音がうるさい、ゴミ捨てのルールを守らない……些細なことがきっかけで口論が始まり、時には手を出すこともある。ニュースで取り上げられる機会が多いのは、知っているはずだ」

 それはわたしたちの仕事でしょうかと口を尖らせた紀美に、建前として警察は民事不介入だ、と石田が言った。

「だが、通報があれば現場に向かわざるを得ない。どこまで踏み込むか、その線引きは難しいが、実はそこでも交渉が行われている。当事者同士をなだめ、その場が丸く収まればいいが、警察官の仲裁が怒りを増幅させることもある。その場合、深刻な事態になりかねない。衝動的に殴り、死に至らしめることもあり得る。怒りの火種を徹底的に消しておけば、そんなことにはならない」

「交渉が不十分なために起こる事件があると?」

 平河の問いに、現に起きている、と石田が肩をすくめた。

「ケンカはやめなさいと言うのは簡単だ。ほとんどの場合、それで終わるだろうが、根本的な解決とは言えない。トラブルの原因は何か、お互いの言い分に耳を傾け、改善策を考え、当事者同士が納得するように妥協点を探り、譲歩できる落とし所を示す。話し合いでも説得でもない。交渉によって事件を未然に防ぐことができるんだ」 

 だが、警察という組織では事件を解決した者が評価される、と石田が言った。

「端的に言えば犯人の逮捕だ。知っての通り、警察の全部署にノルマがあり、その達成が求められている。評価の基準としてわかりやすいのは確かだが、本来警察官の任務は犯罪を未然に防ぐことだ。交渉人にはそれができる。ここではそれを教えるつもりだ」

 地味で、目立たず、評価されることもない、と石田が苦笑を浮かべた。

「要求される水準は高く、一ミリでも下回れば非難される。それが交渉人だ。今の話を聞いて、自信がないという者は申し出るように。即日、元の部署に戻す。人事考課にも関係ないし、ペナルティにもならないから、安心して――」

 石田が右耳に触れた。それまで気づかなかったが、ブルートゥースイヤホンが差し込まれていた。

 後ろを向いて小声で話していた石田が、少し待てと言って通話を切った。

「ちょっと外す。十分ほどで戻るが、その間、考えておくように」

 壇から降り、会議室のドアを押し開けた石田が振り返った。

「ひとつ宿題だ。浜内くんを外した本当の理由を考えておけ」

 ドアが閉まった。七人の口から、一斉にため息が漏れた。

 

   3

 何があった、と江崎が振り向いた。事件ね、と紀美がうなずいた。

「電話に出た時、顔色が変わった。小さな事件ではないはず」

 注意深い人だ、と麻衣子は思った。二班で対処できないのかと石田警視が言ってました、と平河が大きな鼻をこすった。

「二班というのは何です?」

 特殊事件捜査犯係には班が二つあるんです、と会澤が言った。

「第一班は石田警視、第二班は大谷おおたに警部が班長を務めています。大谷警部に任せられないのか、という意味でしょう」

「石田警視って、どんな人だ?」江崎が口を開いた。「今日まで会ったことがないと言ってたけど、会澤くんは噂を聞いたことがあるんだろう?」

 ドラマや映画では、本庁と所轄の刑事の間に軋轢があると描写されることが多いが、実際にはほとんどない。階級が同じなら、年次が上の者が上位に立つ。

本庁勤務の者でも、年長者が相手なら礼儀を持って接するのは、一般の企業と同じだ。

 場の雰囲気を察した江崎が意図的に中心に立ち、話を振っているのが麻衣子にもわかった。どこの署にも、あるいはどんな組織でも、江崎のようなタイプがいる。楽天的で物おじしないムードメーカーだ。

 年齢も階級も平河の方が上だが、前に出る性格には見えない。四十代は一人だけという意識が、遠慮に繋がっているのかもしれなかった。

 どうなんだと促した江崎に、さっきも言いましたが、よく知らないんです、と会澤が首を振った。

「同じ刑事部でも、強行犯係はSITと接点がほとんどないので……ただ、警察庁のキャリアが自ら希望して警視庁に来たと聞きました。ある意味で、箔付けかもしれません。現場を踏んだ経験があれば、警察庁に戻った時に有利ですからね。最初は捜査一課の強行犯第三係だったそうです」

 殺人課か、と江崎がつぶやいた。強行犯第三係は殺人、傷害事件を扱う。

 殺人課と言っても、正式名称ではない。一種の符丁だ。刑事を志す者にとって、誰もが目指す部署でもある。

 二年ほど籍を置いていたようです、と会澤が言った。

「その間に、幼女連続誘拐殺人事件、未解決だった七年前の八王子スーパー殺人事件の犯人を逮捕しています。ですが、本人の要望もあってSITに移ったと……普通のキャリアなら、とっくに警察庁に戻っているはずで、変わった男だと先輩の刑事が話していました」

 変人かもしれないけど、頭の回転は早いと紀美がiPadを手にした。

「自動で音声をテキストにしているけど、教科書を読み上げてるみたいだった。論旨に乱れもないし、質問にも的確に答えている」

 石田警視は捜査本部で指揮を執るそうです、と平河が落ち着いた声で言った。

「帳場が立てば、キャリア組が名目上のトップに立つこともあります。しかし、普通は人員の手配や経費の管理をするだけで、捜査自体は警視庁、所轄の刑事が担当します。何か問題が起きれば、責任を問われますからね。キャリアは警察官僚で、経歴に傷をつけたくない、と考えるのは立場上、仕方ありません。ですが、石田警視は火の中に手を突っ込んで、焼けた栗を拾おうとする……変人だという噂は自分も聞いています」

 キャリアらしくありませんね、と江崎がうなずいた。

「管理に徹してもらった方が、何かと円滑に進むでしょう?」

 ですが、石田警視が担当した事件で現場が混乱したことはないはずです、と会澤が言った。

「そんなことがあれば、ぼくも噂を聞いていたでしょう。統率力に優れ、決断力、判断力がある優秀な指揮官……評価も高いですし、評判もいいです」

「何でSITに移った? 理由があったのか?」

 江崎の問いに、本人の希望と上の思惑が合致したようです、と会澤が答えた。

「もともと、SITは誘拐事件対策班として設立されていますが、他に立て籠もり犯やハイジャックなど、扱う事件の幅が広がっていきました。加えて、この十年ほどは企業のパソコンに不正アクセスして、個人情報の流出を盾に脅迫し、身代金を要求する事件が急増しています」

「そんなことは知ってる」

「サイバー犯罪課の連中の話では、表に出ていない事件も相当数あるようですね。企業情報誘拐でも、犯人との交渉はSITの担当です。オレオレ詐欺など特殊詐欺も同じで、SITの新システム構築を一任されたようですが、それ以上はわかりません」

 FBIへ研修に行ったそうです、と麻衣子は言った。

「優秀な交渉人育成のため、半年間クワンティコの本部で学んだと上司に聞きました。他部署と連携して、組織横断型の捜査体制を作るつもりかもしれませんね」

 交渉のスペシャリストだと杉並署の署長が話していました、と晴がえくぼを作った。

「署長は本庁の一課が長かったので、事情に詳しいんです。石田警視のことも知っていました。各道府県警に交渉人はいるが、プロフェッショナルと呼べるのは石田だけだと……でも、そんな感じには見えませんでしたよね? 意外でした。交渉人って訥々と話すんだなって……」

 確かにそうね、と紀美が苦笑した。

「立て板に水で、すらすら言葉が出てくるわけじゃないし、どちらかと言えばゆっくりした話し方だった。でも、わかりやすかったのは確かよ。さっきも言ったけど、頭の中に教科書があって、それを読み下すような……犯人との交渉の時も、あんな話し方をするのかな?」

 保育士さんのようだと思いましたな、と平河が言った。

「自分には十歳の息子がおるんですが、誰に似たのか、ちょっとやんちゃなところがあります。私の言うことなんか、聞きやしません。ですが、通っていた幼稚園の保育士さんが読み聞かせをすると、おとなしくなるんですな。話し方が石田警視とよく似ていました。子供でも犯罪者でも、あんな感じで話をされたら落ち着くでしょう」

 声の要素もある、と麻衣子は思っていた。一般的な意味での美声とは違うが、低く、静かで、それでいてどこまでも届くような声質だ。

抑揚も一定している。ベッドに入った時、石田が本を朗読したら、一分も経たないうちに眠りにつくだろう。

 石田の声は天から与えられたギフトだ。石田と話せば、どんな凶悪犯でも冷静さを取り戻すのではないか。

 浜内さんを研修から外した理由だが、と江崎が首を傾げた。

「考えろと言ってたけど、どういう意味だ?」

 二課で事件が起きたのよ、と紀美が言った。

「本庁だって、人が余ってるわけじゃないでしょ? 交渉人研修より、目の前の事件を解決する方が優先される。SITで交渉人になるために勉強してきたと話してたけど、個人の希望が簡単に通るなら、誰も苦労しない」

 そうでしょうか、と麻衣子は額に指を押し当てた。

「捜査二課の担当は主に経済犯です。例えば企業犯罪、詐欺、横領……贈収賄なども扱いますけど、緊急の事件は稀ですよね?」

 研修は始まっていると言ってましたよね、と晴がiPadに目をやった。

「あれはどういう意味ですか? 浜内さんを研修から外したのと関係が?」

 そんなことを言い出したら、と江崎が舌打ちした。

「訳がわからなくなる。事件以外の理由があって外したのは確かだろう。昨日の今日で人事を引っ繰り返すはずがないからね。だけど、なぜなのかはわからない」

 顔が気に入らなかったのよ、と紀美が冗談を言った。勘弁してや、と蔵野が肩をすくめた。

 

   4

 十分と言ったが、石田が戻って来たのは三十分後だった。全員が初対面なので、石田や浜内の件以外、共通の話題はない。座っているしかなかった。

 ドアを開けて入ってきた石田が椅子に座り、辺りを見回した。いわゆる刑事の目とは違い、その眼差しは温かかった。

「抜けて済まなかった。これでも管理職だから、いろいろあってね」  

 さて、と石田がペンで机を軽く叩いた。

「まず宿題を片付けよう。さっき、私は浜内くんに二課へ戻れと言った。理由は何だと思う?」

 麻衣子は顔を伏せた。他の六人も同じだ。学校と同じで、視線が合えば指されるだろう。

「並木くん、どうだ? 思いついたことがあれば言ってくれ」

 二課の刑事だからでしょうか、と晴が顔を上げた。

「二課が人員不足なのは、わたしも聞いたことがあります。事件が起きて、呼び戻されたとか……」

 一人加わったぐらいでは何も変わらない、と石田が白い歯を見せて笑った。

「平河くん、君は?」

 わかりません、と平河が答えた。江崎くん、と石田が視線を向けた。

「君の意見は?」

 何とも言えません、と江崎が僅かに首を傾げた。

「ただ……ぼくだけかもしれませんが、浜内さんの話し方に圧を感じました。それが関係しているのではないかと――」

 惜しいな、と石田が首を振った。

「クイズをやってるわけじゃない。答えを言おう。私はここにスマートフォンを置いていた」

 石田がスーツの内ポケットから取り出したスマホを全員に向けた。

「スピーカーホンを通じて、少し遅れると君たちに伝えた。私が行くまで、互いに自己紹介してはどうかとも言った。君たちが話す声を、私は聞いていた。内容はどうでもいい。聞きたかったのは声、正確に言えば声質だ」 

 声質、と会澤がつぶやいた。浜内くんの声を聞いて、交渉人の適性がないと判断したと石田が言った。

「彼に落ち度があったわけではない。声質を変えることは、誰にもできない。単に向いていなかった、それだけのことだ」

 淡々とした口調に、麻衣子は驚いていた。話し方がそれまでと変わっている。具体的には言えないが、浜内への思いやりが感じられた。

「向いていなかった?」余計なことかもしれませんが、と紀美が手を挙げた。「それは警視の偏見では?」

「交渉人の武器とは何か」一つしかない、と石田が指で唇を指した。「犯人に関する情報を可能な限り収集する。交渉はそのためのツールで、犯人との会話はすべて電話を通じて行なう」

電話、と蔵野が囁いた。交渉人は犯人と相対しない、と石田が言った。

「顔を見るのは写真、動画のみ。交渉に際し、最も重要な武器は声だ。話し方は訓練で矯正できるが、声質そのものはどうにもならない。浜内くんが交渉人を志望していたのは、二課長から聞いていた。熱心に勉強していたのも知っている。彼を外したのは、声が交渉に不向きだからで、他に理由はない」

 そうでしょうか、と紀美が眉をひそめた。

「普通の声だったと思いますけど……少なくとも、わたしは気になりませんでした。何か根拠はあるんですか?」

 成人男性が話す時、と石田が喉に指を当てた。

「その声は一二〇から二〇〇ヘルツ、女性だと二〇〇から三〇〇ヘルツが平均値だ。測定したが、浜内くんの声は二九〇ヘルツだった。日常会話をする際、支障はない。ちょっと高い声だと思うだけで、気にならないだろう。だが、話し声はこれぐらいだという認識が誰にでもある。感覚と言ってもいい」

 わかります、と晴がうなずいた。交渉の現場は常に緊張している、と石田が話を続けた。

「その状況で、浜内くんの声は違和感になる。犯人を刺激する可能性もある。交渉人の最初の仕事は、犯人との間に信頼関係を築くことだ。だが、彼の声質では厳しい。適性がなければ、研修に加わっても本人のためにならない」

 理路整然とした説明に、紀美が口を閉じた。警視庁には四万五千人の警察官がいる、と石田が言った。

「それぞれに向き不向きがある。希望する仕事が向いているとは限らないし、その逆もある。彼が交渉人になったとしても、必ずミスが起きる。小さなミスでも命にかかわるのが交渉人だ。だから外した。彼の上司とも話はついている」 

 自分はどうなんでしょう、と平河が空咳をした。

「声がいいと言われたことは、一度もありません。交渉人に向いてるとは思えんのですが」

 悪声とも言えない、と石田が微笑んだ。

「安心感を与える声だから残した。自信を持って話すことを勧める。説得力が増すからね。他に質問がなければ――」

 ひとつだけいいですか、と江崎が左右に目をやった。

「昭和の頃はともかく、平成に入ってから誘拐事件は減っていると聞いています。警察白書によれば、略取誘拐件数は年間二百件前後、検挙率は九〇パーセント以上、交渉人が出動したケースは一割もありません。これは全国のデータで、去年、警視庁管内で起きた誘拐事件は約二十件、その多くが親権を巡って争った両親のどちらかが子供を強引にさらっていくようなレベルで、誘拐と呼べるかどうか、それさえわかりません。いずれにしても、交渉人が出動したのは一件だけです」

「それで?」

 他にも交渉人の仕事があるのはわかっていますが、と江崎が語気を強めた。

「実際のところ、どうなんです? 交渉人は必要とされているんですか?」

 よく調べているが詰めが甘い、と石田が言った。

「昭和四十年代まで、誘拐事件は年間千件前後起きていた。その後、科学捜査の進歩によって、リスクの高い犯罪だと認識され、急激に減った。約三十年の平成において、発生件数は年平均で百五十件だった。しかし、五年前からプラスに転じている。理由はさまざまだが、格差が生み出した社会の縮図と言えるかもしれない。リスクを覚悟で、誘拐という手段を選ぶ者が増えている」

 もうひとつ、警察白書は公表されたデータだ、と石田が話を続けた。

「認知されている誘拐事件の件数が減っているのは間違いないが、表に出ていない事件はその数倍ある。推測だが、十倍以上だろう。かつて、誘拐事件の被害者は多くが子供だった。犯人の目的は身代金、つまり金だ。大金を支払ってでも子供を取り返したいと考えるのは、保護者だけだろう。それが常識だったが、今は違う」

 どう違うんですと質問した江崎に、少子高齢化の時代だ、と石田が微笑んだ。

「誘拐のターゲットが広がり、三十代から五十代も狙われるようになった。七十代、八十代の親は金を持っている。身代金も用意できるだろう。あるいは高齢者を誘拐し、その息子、娘に身代金を要求するケースも急増している。抵抗できないという点で、高齢者は子供と変わらない。ターゲット層の広がりが、そのまま発生件数に比例している」

「では――」

 誘拐の手法も変化を遂げ、進歩していると石田が言った。

「インターネットのダークウェブを通じ、仮想通貨を振り込ませるなど、複雑化する一方だ。犯人と話すことさえできないケースも多い。だが、誘拐事件においては、どのような形であれ、犯人は身代金を要求せざるを得ない。常に交渉の余地はあるんだ」

興味を感じたのか、蔵野が身を乗り出した。今は誘拐を例に挙げたが、と石田が時計に目をやった。

「立て籠もり、特殊詐欺、その他の事件でも交渉人が重要な役割を果たすことになっている。単に交渉だけではなく、心理分析官、プロファイラーの側面も求められている。君たちが考えているより、交渉人が必要とされる事件は多いんだ」

 確かに変わってる、と麻衣子は石田を見つめた。警察官らしくない、と言うべきかもしれない。

 過去のデータを参考にしても、細かい数字までは把握していない警察官の方が多い。科学捜査がどれだけ進歩しても、直感に頼る者が大半を占めている。

 現場百遍という言葉は今も生きている。理屈や能書きより、足で情報を集め、執念で犯人を逮捕するという精神主義が警察では美徳とされる。令和になっても、それは変わっていない。

 現在進行形という極めて特殊な形態を持つ誘拐事件では、秒単位で状況が変化する。要求されるのは即応性で、悠長に数字を調べている暇はない、という刑事がほとんどだろう。

 石田はそのバランスを取ろうとしている。常に客観的な立場を取り、過去のデータと目の前で起きている犯罪を比較、検討し、早期解決を目指す。

 それが理想なのは言うまでもないが、現実には難しい。犯人が被害者の喉元に刃物を突き付けていたら、数字やデータに意味はない。

 おそらく、石田は人間を信じているのだろう。理性に訴え、話し合おうと呼びかけ続け、最後まで諦めず、犯人との対話を試みる。

単に逮捕するのではなく、犯人を含め、事件にかかわったすべての人間を救おうと考えている。

 警察の常識からは外れているが、信頼できるとわかった。その感覚は警察庁に入庁してから初めて味わうものだった。

 もうひとつ、立て籠もり事件について考えてみよう、と石田が口を開いた。

「犯人が薬物を使用していたり、過度なアルコール摂取のため錯乱状態に陥り、感情をコントロールできない場合がある。非常に危険な状況と考えていい。それを想定すると――」

 ノックの音とともにドアが開き、スーツを着た中年男が飛び込んできた。顔に見覚えがあった。捜査一課の 河井かわい巡査部長だ。

 石田に近づいた河井が耳元で数語囁いた。いつだ、と石田が短く言った。

「五分前です」

「要求は?」

 不明です、と河井が低い声で答えた。麻衣子に聞こえたのはそれだけで、声を潜めて話していた石田が立ち上がった。

「しばらくの間、ここを離れる。君たちは、待機。状況がわかり次第、指示する」

 iPadを手にした石田が河井と会議室を出て行った。何があったの、と紀美がまばたきを繰り返した。

「入ってきた刑事が、立て籠もりって言ったのは聞こえた?」

 いえ、と麻衣子は首を振った。紀美の方が席が近い。河井の囁きが聞こえたのだろう。

「人質がいる、とも言ってた」家族らしい、と江崎が腕を組んだ。「立て籠もり事件か……まさか、このタイミングで起きるなんて――」

 事件はこっちの都合と関係ないですからな、と平河が渋面を作った。

「とにかく、今は待つしかありません」

 麻衣子は外に目をやった。冬の弱い陽光がガラス窓から差し込んでいた。

第2回につづく(3月3日更新予定)

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著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

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