大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第2回
2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第2回

交渉人ゼロ 第二回

 

ネゴシエイト2  籠城犯 

 

  1 

 

 スマホに耳を当てていた会澤が小さく首を振り、ありがとうございましたと言って通話を切った。

「第三強行犯の先輩に確認しましたが、立て籠もり事件の報告は入っていないそうです」

 どういうことだと江崎が腕を組んだが、ないとは言えない、と麻衣子は思っていた。

 籠城、立て籠もりといっても、その形はさまざまだ。人質を取らず、家、部屋、店舗などに一人で立て籠もり、自殺すると騒ぐ者もいる。

 あるいはバスや電車、学校や病院などで大勢の人質を盾に、何らかの要求を繰り返すというパターンもある。

 規模や場所などによって、事件の様相は変わる。それによって、対応する部署も違ってくる。

 都内で立て籠もり事件が発生しても、すべてが警視庁に報告されるわけではない。それでは警視庁の機能がすぐにパンクするだろう。

 殺人、誘拐等重大事件は別だが、立て籠もり事件の場合、基本的にはまず所轄署が動き、手に負えないとわかれば警視庁の関連部署に連絡を入れることになっている。ドラマでは“事件に大きいも小さいもない”と刑事が叫ぶが、現実には厳然と大小がある。

 石田が会議室を出て行ったのは、当初簡単に解決すると見通しを立てていた所轄署が、人質の人数が多い、飲酒、覚醒剤等の使用により、犯人が暴力的になっているとわかったためではないか。

人質の命に危険が及ぶと判断し、警視庁に応援を要請したと考えれば、石田の表情が緊張していた理由がわかる。

 立て籠もり事件の担当は警視庁捜査一課で、部署で言えば特殊犯捜査係だ。一課長は報告を聞いているはずだが、情報漏れを防ぐために最低限の人数にしか伝えていないのだろう。

 会澤が確認の連絡を入れたのは第三強行犯捜査二係の先輩刑事で、担当外のため何も聞かされていないか、誰にも話すなと命じられているのかもしれない。

 ネットで検索してみたけど、と紀美がタブレットから目を離した。

「まだニュースにはなっていないみたいね。どこで何が起きているのか――」

 しばらくは伏せますよ、と平河が言った。

「テレビ、ラジオ、インターネットなどを通じ、犯人が警察の動きを察知する恐れがありますからな。派手な騒ぎになっていればマスコミも気づくでしょうが、警視庁にすべての事件を知らせる義務はないんです。正直なところ、マスコミは捜査の妨害になりますから、情報を管理するのは当然です」

 何が起きているんですか、と晴が左右に目をやった。不安のためか、顔が青白くなっている。

 知ったところで何もできない、と江崎が苦笑した。

「ぼくたちは研修中だし、もっと言えば研修初日だ。交渉人になったわけでもないし、犯人と交渉できる立場でもない。石田警視が待機を命じたのは、ぼくたちに何もできないとわかっているからだ。下手に動けば邪魔になると考えたんだろう。いつまでここにいなきゃならないのか……長くなりそうだな」

「長くなる?」 

 顔を上げた晴に、常識だよ、と江崎が言った。

「犯人がどこに立て籠もっているのか、人質が何人いるのか、いずれにしても交渉には時間がかかる。事件が発生したのは一時間以上前、石田警視がそれを知ったのは三十分ほど前だ。一度、ここを出て行っただろ? あの時、報告を受けたんだ。だけど、所轄で対応できると言われたんじゃないか? そうでなきゃ、ここへ戻ってくるはずがない」

 初日だしね、と紀美が唇をすぼめた。

「でも、所轄では解決できないと連絡が入り、石田警視が呼ばれたってこと? 犯人の情報収集から交渉は始まるって話していたけど、確かに時間がかかるよね」

 目をこすった蔵野が頬づえをついた。事件に興味がないのか、退屈そうな様子だ。

 何をしていればいいんでしょう、と会澤が顔をしかめた。

「ただ待てと言われても――」

 その時、タブレットの画面が切り替わった。

 

  2 

 

 麻衣子は画面に目をやった。やや粗い動画が映し出されている。

 古い三階建のアパート、その二階の外廊下にいくつかドアが並んでいた。奥から二番目のドアに、制服警察官がじりじりと近づいていた。

『全員、注目』

 石田の声がスピーカーから流れ出した。

『許可が下りたので、君たちにも状況を伝えておく。今、私は港区飯倉片町交差点近くのアパート、フラワー荘正面に停めた指揮車内にいる。映像は届いているな? 同アパートの202号室で、犯人が一名の人質と共に立て籠もっている』

 会澤が唾を呑む音が鳴った。犯人は浅井寿郎、五十歳と石田が言った。

『人質は内縁の妻、内藤可南子、年齢は四十二歳。一階102号の住人から通報が入ったのは、午前七時二十四分。202号室で怒鳴り声と悲鳴、ガラスが割れる音が聞こえた、と通信指令センターの担当者に話している。浅井と内藤が同居していること、最近口論やケンカが続いていたことも伝えた』

 麻衣子はタブレットを見つめた。一週間前、内藤が麻生東署に浅井のDVについて相談していた、と石田が先を続けた。

『麻布東署の警察官が同アパートを訪れ、事情を聞いている』

 やや早口だが、発音が明瞭なため、内容が頭にすんなり入ってきた。

「ぼくたちは何をすればいいんですか?」

 江崎の問いに、事件の推移を見て、後でレポートを提出するようにと石田が答えた。

『君たちは過去に立て籠もり事件を担当したことがない。それほど頻繁に起きる事件ではないが、警視庁管内で年間百件ほど同様のケースがある。ついでに言っておくと、立て籠もり事件の人質の数は平均一・四人、七四パーセントは家族だ。その意味で本件は典型例と言っていい。参考になるだろう』

 交渉人の目的は人質の解放と犯人の投降だ、と石田が咳払いをした。

『ケースバイケースで、時間の予想はできない。これもひとつの学びの場だ。何が起き、我々がどう対処したか、自分ならどう動いたか、その他をレポートにまとめてもらう。交渉の準備があるので、直接君たちと話せなくなるかもしれないが、情報は河井刑事が伝える。いいね?』

 麻衣子はタブレットに別窓を開き、現場の動画を見ながらメモができるようにした。さらに、持っていた大学ノートとボールペンを並べて机に置いた。

 アナログなやり方だが、タブレット、デジタルメモパッドなどを使うと、誤って消してしまう恐れがある。二度手間だが、無駄ではない。

(あの人は?)

 江崎たちも麻衣子と同じように準備を始めていたが、蔵野だけは腕組みをしたまま、目をつぶっていた。メモを取る気がないようだ。

 動画はオートで記録されるから、同時進行でメモを取る必要がないと考えているのか。現場の映像を見るそぶりもなかった。

『馬鹿野郎!』

 凄まじい怒声がスピーカーから響いた。タブレットの画面が左右に揺れ、ピントが大きくずれたが、撮影者の動揺が伝わってくるようだった。

 カメラが202号室をズームした。玄関ドア横にある小窓のガラスが割れ、破片が飛び散っている。黒いセーターを着た大柄な男の姿が一瞬見えた。

『近づくなって言ってるだろうが! 見えてるんだぞ、この野郎!』

 外廊下にいた制服警察官が数歩下がった。ふざけんなよ、という喚き声が繰り返し続いている。

 酔っているようです、と会澤が囁いた。

「呂律が回っていません。声の大きさも普通じゃないですし、自分の拳で窓を割っていました。酔っていなければ、あんなことはしません。泥酔してるのでは?」

 ドラッグ類かもしれません、と平河が渋面を作った。

「浅井の仕事は何です? 月曜の朝、自宅にいるのは定職がないからですか? 内縁の妻と石田警視は言ってましたが、犯人の年齢を考えると、結婚していないのは――」

 憶測はやめましょう、と江崎が言った。

「ぼくたちが交渉の場に立つわけじゃないんです。正確な情報が入ってくるまで、様子を見ているしかありません。それに、命じられたのはレポートの提出です……ただ、石田警視も犯人に投降を呼びかけるべきだと思うんですが」 

 どうして黙ってるんですか、と晴が唇を震わせた。

「何もわかっていなくても、声をかけた方がいいのでは? 犯人を落ち着かせるのも、交渉人の役目ですよね? それに、交渉は電話を通じて行なうと話してました。どうするつもりでしょう?」

 ドロップフォン、と紀美が自分のスマホを手にした。

「研修に参加が決まって、資料を読んだの。ドロップフォンのことも書いてあった。石田警視は携帯電話を犯人に渡すはず。玄関ドアの前に置くか、それとも割れた窓から投げ込むのか――」

 会議室のドアが開き、緊張した表情を浮かべた河井が入ってきた。

「浅井の履歴がわかった。二年前まで大手宅配便会社でドライバーとして働いていたが、対人事故を起こして退職している。被害者は足を骨折、一カ月入院した。保険金に加え、会社が示談金を支払ったが、原因は浅井の居眠り運転だった。そのため懲戒免職扱いとなり、退職金は出ていない」

「その後は?」

 質問した江崎に、アルバイト暮らしだと河井が答えた。

「事故の際、浅井はハンドルで頭を強打し、頻繁に偏頭痛を起こすようになった。新宿の頭痛外来に通っていた時期もあったが、治らなかったようだ。病院へ行かなくなったのは一年半前、その頃から昼夜構わず酒を飲むようになった。今では完全な依存症と言っていい」

 ため息をついた会澤に、まだある、と河井が話を続けた。

「半年ほど前から、内藤に手を上げるようになった。それまでも物に当たったり、暴言を吐くなどハラスメント行為があったようだが、DVが酷くなったんだ。彼女は宅配便会社のパートで、知り合ったのは四年前、その一年後にフラワー荘で同棲を始めている。籍を入れていないのは内藤に離婚歴があるためで、それは本人がDVの事情を確認に行った警察官に話している」

「浅井の要求は何です?」

 はっきりしない、と河井が肩をすくめた。

「深夜四時頃から二人が喧嘩を始めた、と階下の住人は言っている。物音や怒鳴り声が聞こえ、非常識だと注意しに行こうかと思ったが、普段から浅井が乱暴なのを知っていたので、トラブルを恐れて放っておいたそうだ。だが、六時過ぎに言い争う声が激しくなり、浅井が内藤を殴っているのがわかった。以前から、いずれ何か起きると思っていたらしい」

「それで通報したんですか?」

 七時二十分頃、内藤の悲鳴と助けてくれという声を聞いて110番通報した、と河井が言った。

「その後、内藤の声は聞こえなくなった。暴行を受けて意識を失ったのか、口を塞がれ、拘束されている可能性もある。現場に向かった麻布東署の刑事の一人が、内藤を殺して自分も死ぬという浅井の怒鳴り声を聞いている」

 何のためですと言いかけた紀美に、浅井は酒を飲んでいると河井がしかめ面になった。

「駆けつけた麻布東署の連中の話では、ドアの外までアルコール臭が漂っていたそうだ。階下の住人は、浅井が夜中にコンビニで発泡酒を買っているのを何度も見ている。飲酒が習慣になっていたんだろう。かなり酔っていると考えていい。日頃の不平不満が爆発したのか……」

「浅井と内藤は何を話していたんです?」

 そこまではわからない、と河井が首を振った。

「確かなのは、朝七時前後に浅井が内藤に暴力をふるい、お前を殺して俺も死ぬと怒鳴ったことだ。室内の様子は不明だが、包丁ぐらいはあるだろう。凶器を持っていることになる」

 状況は良くない、と河井が口をへの字に曲げた。

「石田警視からは、情報だけを伝えろと言われているが、こういうケースが一番まずい、理屈が通用する相手じゃないし、コミュニケーションも取れない。アルコールによる被害妄想が起きている可能性もある。何をするかわからないし、衝動的に内藤を刺すこともあり得る。一刻も早く手を打つべきだが……」

「石田警視は何をしているんですか?」

 晴の問いに、何も、と河井が答えた。

「指示があるまで動くな、と命じられた。アルコール依存者は体力の消耗が激しい。二、三時間内藤と言い争い、その後暴力行為に及んでいる。いつ倒れてもおかしくないし、それを待って室内に踏み込み、浅井の身柄を確保するつもりだろうが、気になることがある」

「何です?」

 宅配便会社で働いていた頃、浅井は危険ドラッグを使用していたという証言がある、と河井が言った。

「勧められたが断った、と複数の同僚が話していた。人身事故と直接の関係はないと考えられるが、影響があったのかもしれない。君たちにとっては釈迦に説法だろうが、下火になったとはいえ、危険ドラッグは現在も都道府県警、厚労省地方厚生局麻薬取締部の捜査対象だ。それでも売人は手を替え品を替え、法の目をかい潜り、危険ドラッグの販売を続けている。浅井が常用者だとすると……」

 まずいですね、と会澤が目を伏せた。危険ドラッグの成分は、製造者もよくわかっていない場合がある、と河井がうなずいた。

「効果も人によって違う。エフェドリン系であれば、興奮剤として作用するだろうし、アルコールと併用した場合は効果が長期化する傾向がある。被害妄想に陥っていれば、周りのすべてが敵に見えるはずだ。いつ内藤を刺してもおかしくない」

「それなら踏み込むべきでは?」

 腰を浮かせた紀美に、強行突入は最後の手段だと河井が言った。

「それに、石田警視は強行突入を最悪の手段だと常に言っている。テロやハイジャックならともかく、過去にこういうケースで突入を命じたことはない……河井です。聞こえています」

 河井が耳のブルートゥースイヤホンに手を当てた。タブレットの映像が右へ動き、同時につんざくような女の悲鳴が聞こえた。男の怒鳴り声がそれに重なった。

『馬鹿野郎、殺すぞ、この野郎』逃げようとしやがって、と浅井が叫んだ。『ふざけんじゃねえぞ、どういうつもりだ?』

 ごめんなさい、とかすかな声が何度か続き、やがて聞こえなくなった。浅井の喚き声がしたが、何を言ってるのか聞き取れない。

 人質の女性が危険です、と江崎が立ち上がった。

「交渉人じゃなくても、それぐらいわかりますよ。浅井が冷静になるのをただ待ってるだけですか? 危険ドラッグ、アルコールの過剰摂取によって、浅井が興奮状態にあるのは間違いありません。女性に暴行を加えているのも確かです。話しかけて落ち着かせた方がいいのでは?」

 わたしもそう思います、と紀美がうなずいた。

「交渉人としての石田警視の実績は知っているつもりです。わたしたちはある意味で素人ですから、余計なことかもしれませんが、何のために交渉人はいるんです? ただ黙って待つだけなら、子供にもできます」

 浅井の電話番号を調べている、と耳に手を当てたまま河井が言った。

「自宅に固定電話がないのは確認済みだ。奴は携帯電話しか持っていない。原則として、交渉は電話を通じて行なう。犯人を感情的にさせないためにも、その方がいい。宅配便会社に問い合わせたが、退社後に番号を変えたのか、履歴書の番号に電話をかけても繋がらない。大手三社を調べたが、番号は登録されていなかった。本人名義ではないとすると、番号がわかるまで時間がかかる」

 電話にこだわる理由がわかりません、と会澤が顔を上げた。

「石田警視は現場アパート前の指揮車内にいるんですよね? 現場は二階ですから、声は届くでしょう。電話ではなく、直接の交渉も可能では? 原則は理解できますが、状況によるでしょう。説得を試みるのが――」

 落ち着け、と石田の声がタブレットのスピーカーから流れ出した。

『君たちが浮足立ってどうする? 交渉人が冷静さを失えば、必ず判断を誤る。それが最も危険だ』

「ですが――」

 画面が切り替わり、室内が映し出された。画像が歪んでいるのは、魚眼レンズで撮影しているためだ。

 部屋の構造だが、と石田が言った。

『間取りは1LDK。玄関ドアを開けると、そこがリビング兼ダイニングだ。キッチンはドア側で、外廊下に面している。所轄の刑事が特殊ケーブルに魚眼レンズをつけ、換気口から中へ通した。映っているのが浅井だ』

 包丁を手にした大柄な男が、喚きながら熊のように歩き回っている。女性の姿はない。

 奥の部屋だと石田が言うと、茶色の扉がアップになった。

『閉まっていて見えないが、寝室に使っていると考えていい。浅井は内藤をそこで拘束、監禁している。泣き声が聞こえるか? 呼吸音は? 耳を澄ませろ。全神経を耳に集中するんだ』

 麻衣子は耳に装着していたブルートゥースイヤホンのボリュームを上げた。女の細く長い泣き声が聞こえる。ひきつけを起こしたような、せわしない呼吸音がそれに混じっていた。

 呼吸は早いが規則的だ、と石田が低い声で言った。

『暴行を受けたのは確かだが、刺されてはいない。傷が深ければ、呼吸音のリズムが刻々と変わる。浅くても呼吸は不規則になるが、その様子はない。怯えているのが、危険とは言えない。今、浅井に声をかければ、それが引き金となって内藤を刺す可能性がある。そんなリスクを冒す意味はない』

 人質が寝室にいるなら、と江崎が大声で言った。

「ドアを壊して踏み込むべきでは? 浅井さえ確保すれば――」

 交渉人はギャンブルをしない、と石田が言った。

『映像をよく見ろ。浅井はドアの前にリビングのテーブル、四脚の椅子を積み上げている。簡易なバリケードで、突破するのは簡単だが、突入すれば椅子が崩れる。気づいた浅井は寝室に飛び込み、内藤を刺すだろう。交渉人は常に人命を最優先する。犯人の命も含めてだ』

 江崎が口を閉じた。全員を救い出すのが交渉人の仕事だ、と石田が言った。

『現時点で最も危険なのは、浅井を刺激することだ。現時点では、声をかけた際の反応がわからない。性格、状況、人質との関係、あるいは気温や湿度によっても心理状態は変化する。浅井が歩き回っているのは見えるな? 冷静さを取り戻そうという心理が働き、無意識のうちに動いているんだ。言葉をかければ、その妨げになる。交渉人は犯人を説得しない、、、、、、、、、、、、。今は浅井が口を開くのを待つ』

 浅井の携帯番号がわかりました、と河井が囁いた。

「そちらにメールで送信します」

 アルコール臭がしても酔っているとは限らない、と石田の声が続いた。

『危険ドラッグの使用歴があっても、現在も使っているとは言い切れない。状況の把握、確認、性格その他あらゆる情報を可能な限り速やかに集めた上で、どう対処するか判断を下す。携帯の番号がわかった今、連絡を取ることが可能になった。室内の撮影によって、犯人の動きもわかる。所轄と捜査一課から応援が来るし、必要であればSATに応援を要請する』

「待つしかないんですか?」

 平河のかすれた声に、そうだ、と石田が答えた。

『万全を期して、犯人に呼びかける。それが交渉人の鉄則だ。人質が危険なのは確かだが、一刻を争う状況とは言えない。冷静になることが何よりも重要だと――』

 もうええでしょう、という声に麻衣子は顔を向けた。苦笑を浮かべた蔵野が足を組んでいた。

 

   3

 

 真に迫ってましたけど、と蔵野が口を開いた。

「もう十分やと思いますよ。石田警視、どこにおるんです? 隣の会議室ですか? それともSIT? どっちでも構わんですが、早う戻ってください。並木巡査が泣いています。見てられませんって」

 どういうことだ、と江崎が左右に目をやった。タブレットの中で、浅井が歩き続けている。

 すぐにドアが開き、石田が姿を現した。照れたような笑みを浮かべた河井が敬礼し、会議室を出て行った。

 全員座ってくれ、と石田が椅子を指した。その表情で、すべてが仕組まれていたと麻衣子は悟った。

 騙すというより、様子を見るためだったのだろう。立て籠もり事件が発生したと思わせ、各員の意見を吸い上げ、アドバイスしていった。

 怒りも驚きもなかった。感心した、というのが一番近いだろう。何であれ、研修初日にここまでできる者はいないはずだ。

「蔵野くん、いつ気づいた?」

 石田の問いに、最初からです、と蔵野がアクセントを標準語に戻した。

「なぜわかった?」 

 タイミングです、と蔵野が答えた。

「言うまでもありませんが、事件は警察の都合と関係なく発生します。日曜だから今日は止めよう、そんな犯罪者はいません。立て籠もり事件がいつ起きても不思議じゃありませんが、年間で百件前後というレアな犯罪です。空き巣や窃盗ならともかく、そんな事件が交渉人研修の初日に起きるなんて、偶然にもほどがありますよ」

「ないとは言えないだろう」 

 石田の指摘に、ほぼゼロです、と蔵野が鼻の下を指でこすった。

「つまり、この立て籠もりはフェイクで、研修の一部だとわかりました。意図があってのことでしょうし、面白い試みだと思って成り行きを見ていました。他の連中は真剣に受け止めてましたけど、正直言って笑いを堪えるのに苦労したほどです。何でも斜めに見るぼくの方がおかしいのかもしれませんが」

「偶然起きるはずがないから、フェイクだと判断した?」

 他にもあります、と蔵野が言った。

「交渉人は犯人と相対しない、そう言ったのは石田警視です。犯人との会話はすべて電話を通じて行なう。顔を見るのは写真、動画のみ、そうですよね? ですが、事件発生の連絡を受けて、あなたはこの会議室から出て行き、飯倉片町へ移動したと連絡をしてきました。現場に行く必要はなかったはずで、タイミング的におかしいと最初から思ってましたけど、フェイクだと確信したのはそのためです」

 九十点だと石田が指を鳴らすと、タブレットの浅井が足を止め、カメラに向かって手を振った。奥の部屋から出てきたのは、制服を着た女性警察官だった。外廊下にいた制服警察官は、いつの間にか画面から姿を消していた。

「亀井、木下、お疲れさま。戻っていいぞ」

 タブレットが静止画面になった。面白い男だ、と石田が蔵野に視線を向けた。

「君の経歴には目を通している。大学は東京の私大だが、出身は大阪だね? 大阪府の警察官採用試験ではなく、警視庁を目指した理由は?」

 大阪人が嫌いなんです、と蔵野が口元を歪めて笑った。それはそれは、と石田が微笑を浮かべた。

「とにかく、よく気づいた。もっと長くなると思っていたんだが……蔵野くんが指摘したように、私は隣の会議室にいた。亀井と木下は本庁の広報課員だ。亀井はピーポくんの着ぐるみ姿で、都内の学校を回っている。大学の時は演劇サークルにいたから、芝居は達者だ」

 二人は本当に飯倉片町にいたんですかと質問した会澤に、そうだ、と石田がうなずいた。

「木下くんの父親が不動産関係の仕事をしているので、条件に合う部屋を探してもらった。取り壊し寸前で、誰も住んでいないアパートだ。撮影していたのはSITの班員だ。

君たちを騙すつもりで、こんなことを仕組んだわけじゃない、と石田が手を振った。

「私がFBIの研修に参加した際の経験が基になっている。再現演習、と彼らは呼んでいたが、実際にあった事件をそのまま再現し、研修受講者の反応を見るんだ。交渉人の適性というより人間性を観察するために行なう。こちらとしては、君たちの性格を知っておかなければならないからね」

 寿命が縮みました、と会澤が座り直した。

「いきなりだったので、焦ってしまって……」

 そのつもりはなかったとしても、と紀美が苛ついた声を上げた。

「結局、騙していたわけですよね? フェアなやり方だとは思えません」

 手厳しいな、と石田が椅子の上で長い足を組んだ。

「君たちの反応をタブレットのカメラで見ていた。蔵野くんを除き、全員が驚き、動揺していたね。人として、警察官としてはやむを得ない」

 だが交渉人は違う、と石田が首を振った。

「どんな状況でも、冷静さが要求される。先入観や感情を排し、客観的に事件を見る視点が必要だ。冷静さを欠けば、正しい判断ができなくなる。それは言ったはずだ」

 冷静ではいられませんよ、と江崎が口を尖らせた。

「ぼくたちはまだ交渉人じゃありません。研修に参加しているだけで、しかも初日です。判断も何もないでしょう」

 本庁、所轄、警察庁、と石田が指を折った。

「君たちはそれぞれ立場や階級が違う。ただし、自薦もしくは上長の推薦で、交渉人になるため研修に参加した。私の認識ではそういうことだ。現段階で交渉人ではないというのはその通りだが、希望したのであれば、心の準備をしておくべきだろう」

 何を教えたかったのでしょう、と麻衣子は質問した。ひとつは心構えだ、と石田が答えた。

「今後三カ月の間に何度言うことになるか、私にもわからないが、感情に流されてはならない。人質が危険な状況にいるのであれば、助けたいと誰でも考える。人間として、あるいは警察官としての本能と言ってもいい。スタートラインはそこだが、救出に至るルートは最善手を選ぶべきだ」

「最善手……?」 

 犯人との交渉は囲碁の対局と似ている、と石田がうなずいた。

「一度石を置けば、打ち直しはできない。交渉人の言葉もそれと同じで、些細なひと言が犯人を苛立たせ、怒らせることもある。交渉人が感情的になるのは論外だが、犯人の心をコントロールするためには、まず自分を疑え。自分の言葉が後にどんな意味を持つのか、あらゆる方向から検討を試みるんだ。自分は正しいと思っても、犯人にとっては違うかもしれない。だから、自分自身を疑え。それが最初の心構えだ」

 難しいです、と平河が戸惑ったような表情を浮かべた。

「映像を見ていて思ったのは、なぜ強行突入しないのかということでした。先ほど再現演習と話していましたが、モデルになる事件が過去にあったわけですか? あの男……浅井と呼びますが、浅井に関する情報がリアルな事実の再現だとすれば、非常に危険な状況だったと考えていいはずです。浅井はアルコール依存症で、危険ドラッグの常用者だったんですよね? 同居人の女性に危害を加える可能性が高い、と判断せざるを得ません。そう考えたのは自分だけでしょうか?」

 石田が左右に目をやった。麻衣子を含め、蔵野以外の六人が手を挙げた。

 今回の再現演習は平成十年に杉並区で起きた立て籠もり事件を踏まえている、と石田が言った。

「事件の経過は、ほぼそのままだ。通報から警察官の到着、換気口から特殊カメラを室内に入れたこと、その他あらゆる面で現実をなぞっている。一階住人の通報を受けて、現場に駆けつけたのは、所轄、機捜、そして本庁捜査一課の順だった。交渉人も現場に入っている。捜査を指揮したのは本庁捜一、第四強行犯の三係長だ。蔵野くんが見破ったために出番はなかったが、実際の事件ではその先があった」

「その先というのは?」

 捜査を指揮していた係長が突入を命じたんだ、と石田が言った。

「私が警察庁に入庁したのは十年ほど前で、杉並事件のことは直接知らない。ただ、最悪の結果になったことはわかっている。玄関のドアを開けようとした突入班が手間取っている間に、犯人は内縁の妻を刺殺した後、頸動脈を切って自殺した。今もこの事件はSIT内で最悪の教訓として取り上げられている。忘れてはならない事件だ」

 結果論ではないでしょうかと首を捻った会澤に、人命が失われた事件に結果論も何もない、と切り捨てるように石田が言った。

「警察にはそれだけの責任がある。少なくとも交渉人にはね。百人の人質がいるなら、百人全員を助ける。それが交渉人の存在意義だ。数人の犠牲はやむを得ない、と言う警察幹部もいるが、それは間違っている。今後、君たちが交渉人を目指すのであれば、その意識を持っていた方がいい」

 交渉人にも責任があったんじゃないですか、と蔵野が言った。

「現場の指揮を執っていたのは強行犯の係長だとしても、突入を止めなかった交渉人に問題がなかったとは思えませんね」

 皮肉めいた言い方は、蔵野の癖なのだろう。首を賭けてでも制止するべきだった、と石田がうなずいた。

「交渉人は警察組織の中でも特殊な立場にいる。捜査陣と犯人の真ん中に立ち、どちらの側にもつかず、問題の解決を図る。そこが理解できないと、研修の意味はない。実際には強行突入が成功した事例もある。だが、それこそ結果論だろう。警察は早期解決に囚われている。そこが問題だ」

 石田が指でタブレットを弾いた。

「どんな事件であれ、捜査が長引けばそれだけ解決が困難になる。ひとつの例だが、殺人犯を逮捕できなければ、新たな犠牲者が出ることもあり得る。経費や人員にも限りがあるし、上層部はマスコミや世論の攻撃を避けたいだろう。捜査に進展がなければ、SNS上で強い非難を浴びるし、対応を誤れば担当部署に所属する刑事の個人情報まで晒されかねない。だが、そのために強引な手段で事件に幕を引くのは違う。何よりも優先されるのは人命だ。二度と杉並事件のようなケースがあってはならない」

「どう解決されるべきだったと考えてるんですか?」

 江崎の問いに、犯人の投降と人質の救出だ、と石田が言った。

「それ以外に望ましい結果はない。さて、そろそろ検討に移ろう」

「検討? 何のです?」

「君たちの反応だ」

 なぜ黙っているのか、声をかけた方がいいと言ったのは君だったね、と石田が晴に視線を向けた。

「落ち着け、冷静になれ、自分が何をしてるかわかっているのか、そういう言葉が必要な時もある。だが、状況を考えなければならない。興奮して頭に血が上った者には、どんな言葉も届かない。何を言っても反発して、人質に危害を加えることもあるだろう。北風と太陽の話は知ってるね? あの時点で声をかけても危険を招くだけだ。百の言葉を並べるより、沈黙の方が雄弁なこともあるんだ」

 でも、放っておけません、と晴が目に浮かんでいた涙を拭った。

「興奮している犯人が何をするか、そんなの誰にもわからないですよね? それに、アルコールや危険ドラッグを過剰に摂取していたら危険だと……」

 交渉の前に、まず犯人について詳しく調べる、と石田が言った。

「現場でアルコール臭がしたから、泥酔しているとは限らない。危険ドラッグの使用も確実とは言えない。何よりも危険なのは、予断を持って交渉に臨むことだ。十分な時間はなくても、可能な限り犯人のことを調べてから交渉に入る。材料がないまま声をかけても、落ち着くはずがない、それはわかるね?」

 そうかもしれませんが、と平河が手を挙げた。

「犯人が酒を飲んでいたか、どうやって調べればいいんです? 室内で飲んでいたかどうかは、誰にもわからんでしょう。アルコール依存症の犯人が飲酒していた可能性は高いはずですが、どの程度酔っていたかは……」

 現場はアパートで、両隣、上下階にも住人がいた、と石田が言った。

「真下の一階住人が夜中ずっと話し声を聞いていたのは、杉並事件でも同じだ。再現演習に使ったアパートは飯倉片町にあるが、杉並事件の現場となったアパートとよく似ている。築年数が古く、壁が薄いのはタブレットの画面からでもわかったはずだ。アパートの住人、近隣に住む人たちに犯人の生活習慣を聞けば、どれだけの量を飲んでいたか推定できる」

「杉並事件の時はどうだったんですか?」

 江崎の問いに、一階の住人に事情を聞いただけだった、と石田が舌打ちした。

「三階はともかく、左右の部屋の住人には話を聞くべきだった。ひとつの情報だけではなく、複数の情報があれば、それだけ精度が高くなる。事実を積み上げ、それを精査するのが交渉人の仕事だ。そのために犯人の実像を徹底的に調べる。もちろん、一〇〇パーセントとは言えないが、手ぶらで交渉はできない」

「危険ドラッグの使用を証明するのは、難しくありませんか?」

 平河の質問に、調べることはできると石田が言った。

「平成十年当時、危険ドラッグは合法ドラッグと呼ばれ、都市部でブームになっていた。その後、幻覚作用のある成分が含まれていることがわかり、規制が強化されたが、杉並事件の犯人も常用者だった。危険ドラッグの使用者が運転中に意識を失い、交通事故が多発したためブームは沈静化したが、販売ルートをネットに変え、今も売買が続いている。麻薬を扱っている業者も多いから、警視庁、厚労省、共に神経を尖らせている。警視庁では組織犯罪対策部が危険薬物の担当だ。彼らは常用者の情報を持っている」

 情報を渡すとは思えません、と会澤が首を振った。

「セクト主義は警察の悪弊ですが、体質的な問題ですから、そこはどうにもなりません。掴んだ情報を他部署に漏らすなんて、聞いたことがないです」

 それなら君が最初の一人になればいい、と石田が言った。

「警視庁に限らず、全省庁、あるいは一般企業においても、部署間には壁がある。特に警察では捜査上の機密を守る必要もあるから、情報を他に漏らすことがタブー視されている。だが、先例に従ってどうする? どんな手を使ってでも、犯人の危険ドラッグの使用歴を聞き出せ。詳しいことがわかれば、解決の一助になる。正面から頭を下げてもいいし、課長クラスを巻き込んで搦め手から攻めてもいい。それもまた交渉だよ」

 うまくいくでしょうかと首を傾げた会澤に、いかせるんだ、と石田が白い歯を見せて笑った。

「犯人と直接話すのは担当の交渉人だけだが、SITには他にも班員がいる。全員で犯人の情報を調べればいい。一対一の戦いでは、人質を取っている犯人に勝てるはずがない。警察が有利なのは組織力だ。交渉人は一人じゃない。犯人の性格、人間性がわかれば、交渉の方向性も自ずと決まる。短時間でどれだけ犯人の実像に迫れるか、そこが勝負のポイントになる」

 立て籠もり事件の七〇パーセントは犯人もしくは人質の自宅だ、と石田が数字を上げた。

「名前や職業もわかっているし、交友関係も把握できる。犯人の身元が不明な事件、例えば身代金目的の誘拐犯だが、その場合SITだけでは厳しい。他部署の協力が必要になるだろう。それは別の機会に話すつもりだ」

 浅井の仕事、月曜の朝自宅にいる理由、内縁の妻との関係も調べればわかる、と石田が平河に目をやった。

「私が何もしないのを、疑問に思った者もいたが、“何もしない”のではなく“何もしないという戦略”を選んだんだ。あえて沈黙を守り、犯人の動きを待つ。忍耐力も交渉人に必須の能力だ。待つことに耐えられず、こちらから動けば心理的に犯人が優位に立つ。その後どうなるかは、言うまでもないだろう」

 石田がタブレットに触れると、全員のタブレットで映像がリプレイされた。

「観察力も重要だ。犯人の言動に注意を払い、性格をプロファイリングする。立て籠もっている場所を見て、その特性を考えるのは交渉の初歩だよ。もちろん、障害物のない野外で犯人が人質を取っているようなケースでは、四方から接近して組み伏せることもある。一階で壁が薄い建物、そして内部の様子が撮影可能で、人質の安全が確保できるなら、強行突入してもいい。PTSDを考えれば、早い段階で人質を解放した方がいい。精神的外傷は肉体的外傷と同じだからね」

 精神的外傷の方が深刻な事態になることもあります、と紀美がうなずいた。だが、生と死は違うと石田が言った。

「命を失うリスクが少しでもあるなら、交渉で犯人を投降させ、人質を解放する。それがベストだ。人質を救うために踏み込むべきだと村山くんは言ったが、かえって危険だ。落ち着けと犯人に言うのではなく、自分自身に言い聞かせた方がいい。江崎くんも最初は冷静だったが、犯人に声をかけるべきだと態度を変えたね? 難しいのはわかっているが、訓練で身につくだろう……今日はそんなところかな? 君たちがいつフェイクに気づくかわからなかったから、午後のスケジュールは空けてある。蔵野くんに感謝した方がいい、彼がいなかったら、もっと長引いていただろう……何か質問は?」

 交渉は電話でするべきなんでしょうか、と会澤が手を挙げた。

「そこにこだわらなくてもいいと思ったんですが……アパートの二階なら、声も届きますよね? ドロップフォンのことを村山さんが話してましたが、携帯電話を届けるのもリスクになるのでは?」

 電話の利点は多い、と石田が言った。

「大声を出さずに会話できるのもそのひとつだ。声が大きくなれば、威圧的だと思う者もいる。犯人も怒鳴り返すし、そのために交渉人が感情的になることもある。面と向かって話せば、顔が気に入らないと言い出すかもしれない。電話を使うのは、リスクコントロールの一環だ」

 なぜ九十点なんです、と蔵野が不満げな声で言った。

「最初から何かがおかしいと気づいていたのはぼくだけです。直感に過ぎないと言われるかもしれませんが、すぐに違和感の正体がわかりましたし、証拠と言ったら変ですが、それも見つけたつもりです。マイナスの十点は何です?」

 九十九点でも良かった、と石田が笑みを浮かべた。

「一点だけ、交渉人が現場に行く必要はないと君は言ったね? 説明が足りなかったかもしれないが、それは間違っている。交渉人は可能な限り現場に近い場所にいるべきだ。通常、SITではワゴン車を使用し、車内で犯人と電話による交渉を行なう」

「なぜです? 犯人と顔を合わせるわけでもないし、電話を通じて話すんですよね? それなら、理論上はどこにいたって同じはずです」

 理屈はそうだ、と石田が両手を広げた。

「今回のような立て籠もり事件が発生すれば、人員を送り込み、最低でも三方向から撮影し、映像を捜査本部に送る。カメラの性能が上がっているから、それだけで十分だと思うかもしれない。だが、カメラと人間の目は違う。人間の目の方が遥かに優秀だ。ズーム、ロング、クローズアップ、一瞬で判断ができる。状況に対する理解度が深まれば、犯人の感情の動きを読める」

「それはわかりますが――」

 もうひとつ、と石田が耳と鼻に触れた。

「聴覚と嗅覚も重要だ。現場では指向性マイクを使い、立て籠もっている部屋の音声を拾うが、マイクの性能が高過ぎるために、余計な音をシャットアウトすることがある。その場にいなければ気づかない音もあるんだ」

 ノイズの中にも音は埋まってます、と江崎がうなずいた。気温や湿度のこともある、と石田が手のひらを開いた。

「天候によって、人間の感情が変化するのは説明するまでもないね? 真夏の東京は熱帯地域より蒸し暑い。湿度が高ければ、不快指数が上がる。統計的に見ると、夏の方が冬より圧倒的に凶悪事件が多い。立て籠もり事件では、犯人の感情を刺激する一因になる。ただし、気温が高くても、室内でエアコンが利いていれば、話は違ってくる。要するに、総合的な判断が交渉人には必要ってことだ」

「匂いもそのひとつだと?」

 杉並事件では現場にアルコール臭が漂っていた、と石田が言った。

「だから犯人が飲酒しているとは限らないのは、さっき話した通りだが、考慮すべき要素ではある。だが、大きなポイントになるのは生活臭だ」

「生活臭?」

 現場が部屋だとしよう、と石田がタブレットを指さした。

「そこには必ず生活の臭いがある。それは生活の質と密接に結び付いている。部屋だけではなく、そこを取り巻く環境臭にも注意が必要だ。見ただけではわからない人間の本質が、臭いを媒介に浮かび上がってくることもある」

 そこまで考えなければならないんですかと言った紀美に、あらゆる情報を収集し、分析する仕事だと石田が微笑んだ。

「そのためには現場へ行かなければならない。蔵野くん、わかったかい? 交渉人はいわゆる刑事とは違う。目の前の事件ではなく、犯人の人生を理解しなければ交渉はできないんだ……十一時か。今日はこれで終わりにしよう。明日の朝、また集まってくれ。レポートは提出しなくていい」

 タブレットを手にした石田が会議室を出て行った。全員のため息が重なった。

 

   4

 

 驚いた、とエレベーターに乗り込んだ紀美が囁いた。麻衣子たち六人以外、誰もいない。静かにエレベーターが降り始めた。

「心臓に悪いよね。立て籠もり事件が起きたから現場へ行くって言われたら、信じるしかないじゃない? すっかり騙された」

 やり方が巧みだった、と江崎が苦笑した。

「その前に、一度席を外しただろ? あれが伏線だった。何かが起きたとぼくたちに思わせ、その後の流れを信じ込むように仕組んだ。蔵野、よく気づいたな」

 気づかん方がおかしい、と蔵野が肩をすくめた。

「交渉人が出動する事件はそう多ない。警察白書に目を通しとったら、嫌でもわかる。あんなタイミングで起きるわけないやないか。朝っぱらから人質を取って立て籠もるアホがどこにおる?」

 あなたは交渉人に向いてるようです、と平河が言った。

「交渉人には観察力と注意力が必要なんでしょう。自分にそんな能力はありません。種明かしをされても、何が何だか……今回の研修には、上司の勧めで来ました。若い時から本庁勤務を希望していましたが、この歳になるとさすがに無理です。ただ、交渉人になれば本庁で働けると上司が言ったので……とはいえ、とてもついていけません。初日でわかって、気が楽になりました。これも経験ですから、最後まで付き合いますが、三カ月後には城西署に戻りますよ」

 平河が優秀な警察官なのは、麻衣子にもわかっていた。ノンキャリアでも試験を通れば警部補に昇進できるが、全警察官の中で警部補は約三〇パーセント、半分以上はキャリア組だ。ノンキャリアにとって、警部補は狭き門と言っていい。

 警部補は事件捜査の指揮を執る役割を担うため、事実上現場のトップとなる。よほど有能でなければ、警部補に昇進するのは難しい。

 その上の警部になると、全体の約六パーセントで、大半がキャリアだ。ノンキャリアの出世コースのゴールは警部と言われるが、その意味で平河はトップクラスの警察官だ。

 本人も話していたように、最初から本庁勤務を目指していたのだろう。優秀であれば当然だが、運や偶然の要素も大きい。

 捜査本部が設置されるような事件が起きた場合、一般的には本庁と所轄の刑事が組んで動く。その際、フットワークが軽い、機転が利く、筋がいいなどの理由で本庁の刑事の推薦を受け“本庁に上がる”パターンが多い。

 選択権は本庁側にあり、所轄の刑事は推薦を待つだけだ。どれだけ希望しても、捜査本部が設置されるほど大きな事件が起きなければ、どうにもならない。

 多くの警察官がチャンスを窺い、本庁で働きたいと考えている。子会社勤務の社員が本社配属を願うのと同じだ。

 平河にもその気持ちがあったはずだが、チャンスがないまま所属署で勤務を続けていた。今回の研修にパスすれば、自動的に特殊犯捜査係の一員となる。上司としては、チャンスを与えたかったのではないか。

 その辺りの事情は、江崎、紀美、そして蔵野も変わらないはずだ。多忙で責任が重い本庁勤務を避け、誘われても断る者が増えているが、警視庁捜査一課という肩書に憧れを抱く者は決して少なくない。そのステップになると三人が考えているのだろう。 

 自分はどうなのか、と麻衣子は思った。望んで研修に加わったわけではない。警察庁ではデスクワーク専門で、現場に出たことはなかった。

 広岡の指示で交渉人研修に参加したのは、他に選択肢がなかったからだ。指示といっても、実質的には命令で、断れる立場ではない。

 交渉人になりたいと思ったわけではないが、閉塞感があったのは確かだった。警察庁の組織から浮き、話し相手もいない日々に疲れていた。

 ここまで男性優位が徹底している省庁は、他にないだろう。ある程度予想はしていたが、予想以上だった。

 石田も話していたが、交渉人は警視庁の中でも特殊な立場にいる。何よりも重要なのは能力、適性であり、性差は関係ない。

 経済犯専門の二課長はキャリアが就くが、刑事犯捜査担当の一課長になるのはノンキャリアが通例だ。現場経験に乏しい者に、務まる職ではない。

 同じことが交渉人にも言える。専門性が強く、肉体的な負担も軽いから、能力さえあれば女性でも務まる。

 石田が男性、女性というレッテル貼りと無縁な人間なのは、キャリア組にもかかわらず、自ら希望して警視庁へ出向していることからもわかっていた。交渉人制度の確立のためで、優秀な人材の育成を考えていなければ、格下の警視庁への出向を望むはずがない。

 警察庁に戻って腫れ物扱いをされるより、警視庁で交渉人になった方がいいかもしれないと麻衣子は思った。

それだけの能力があるのか、自信はなかったが、そこは今考えても意味がないだろう。

 エレベーターが一階で停まり、ドアが開いた。お茶でも飲まない、と紀美が肩を叩いた。

「ちょっと早いけど、ランチでもいいかもね。こんなに早く終わると思ってなかったから、特にやることもないし……遠野さんもそうでしょ?」

 トートバッグの中で、スマホが一度鳴った。LINEの着信音だ。

「何かの縁で一緒になったんだし、三カ月間、一緒に研修を受けるんだから、親睦を深めようよ。並木さんも行くでしょ?」

 晴が小さくうなずいた。麻衣子はスマホをトートバッグから取り出し、画面を傾けた。

『会って話そう』

 原崎一彦の名前が画面にあった。スマホを戻し、麻衣子は歩き出した。

 

第3回につづく(4月7日更新予定)

関連本

バックナンバー

著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

イベント

イベント一覧

お知らせ

お知らせ一覧

河出書房新社の最新刊

[ 単行本 ]

[ 文庫 ]