大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第3回
2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第3回

交渉人ゼロ 第三回

交渉人の原則

 桜田門駅のホームに立ったのは、夕方四時近かった。いつもより一時間以上早い。
 数分待つと、地下鉄の車両がホームに入ってきた。空いていた席に座り、麻衣子は紀美と晴の顔を思い浮かべた。
 警視庁本庁舎の正門を出てから、二人とチェーン店のカフェに入り、研修、そしてお互いのプライベートな事情についてしばらく話した。
 階級は警部補の麻衣子が上だが、三十六歳の紀美より十歳下だ。言うまでもないが、警察官としての経験は紀美の方が長い。
 二十四歳の晴はもちろんだが、麻衣子にも先輩を立てるつもりがあった。公の場であれば別だが、年齢や経験で関係性が決まるのは、警察も一般企業も同じだろう。
「石田警視ってどんな人なんだろうね」
 コーヒーを飲みながら紀美が言った。麻衣子は紅茶、晴はオレンジジュースをオーダーしていた。
警察庁サッチョウのキャリアなら、予算や人事がメインなわけでしょ? それなのに、交渉人制度の確立とか、研修までするなんて、変わってるよね。特殊事件捜査犯係は刑事部捜査一課の一部署に過ぎない。そこまで降りてくるキャリアなんて、聞いたことがない」
 上司から聞きました、と晴が遠慮がちに言った。
「事件捜査の指揮を執ることもあるそうです。やりにくいって声が現場から上がってるみたいです。警察庁の警視は捜査の経験がそれほどないですよね? だけど、立場もあるから命令に従わなきゃならない……犯人との交渉役を務めるのはいいとしても、越権じゃないか、そんな風に言われることもあるみたいですよ」
 噂だから本当かどうかわからないけど、石田警視が捜査本部に入った事件は早期解決するみたい、と紀美が首を傾げた。
「どうやって捜査のスキルを身につけたんだろう……三十四歳って聞いてる。頭がいいのはわかるけど、経験がないと捜査はできないでしょ?」
「アメリカで研修した際に学んだのかもしれません」
 そう言った麻衣子に、下としてはやりにくいよね、と紀美がコーヒーをひと口飲んだ。
「何もわかっていない素人のくせにって、現場の刑事が文句を言うのが目に浮かぶけど、気にしないのは変人だからなのかな」
 多少辛辣だが、的を射ていると麻衣子は思った。
 警察庁のキャリアは警察官僚だ。その職務は警察制度の企画立案が主で、捜査そのものではない。
 捜査本部が設置される規模の事件が起きれば、警察庁刑事局その他の部署から管理官としてキャリアもそこに入るが、それは予算、人員等の管理担当者という立場だ。
 問われれば捜査会議で意見を言うこともあるだろうが、よほど大きな事件でない限り、捜査自体を指揮することはない。捜査本部の指揮官は、すべての責任を負う立場で、そこにはリスクしかないからだ。
 事件を早期解決に導いたとしても、本来の仕事とは違うから、評価の対象にはならない。反対に初動捜査のミスで解決が遅れたり、未解決に終われば、キャリアとしての前途は断たれたも同然だ。
 リスク回避は、すべての省庁の官僚にとって本能に近い。現場がキャリアを歓迎するはずもない。よそ物扱いされるのは目に見えていた。
 交渉人制度の確立、交渉人の育成を企画立案するのは重要な職務だ。それはキャリアにしかできない。
 だが、石田は交渉人として犯人と対峙している。警視庁に出向し、特殊事件捜査犯係を率い、時には捜査本部に臨場して事件捜査の指揮を執るキャリアなど、一人もいなかっただろう。
 リスク以外の何物でもない行動を取っている。変人、と紀美が言ったのは、的確な人物評だった。
 浜内巡査部長の外し方もそうだけど、即断即決の人みたいね、と紀美が苦笑を浮かべた。
「あたしたちは書類選考を経て、研修に参加している。本庁勤務の会澤巡査部長も、石田警視のことをよく知らないと言ってたでしょ? 浜内さんのことを知ってたはずがない。それなのに、声を聞いただけで、適性がないと判断するってどうなの?」
 男の人としては少し高い気がしましたけど、普通の声でしたよね、と晴が言った。よく聞くと耳障りなところがあると麻衣子は思っていたが、それは口に出さなかった。
 研修初日にあそこまでするとはね、と紀美が男のように肩をすくめた。
「あたしたちもいつ外されるかわからない。本庁も所轄もない、資質のある者だけを残す……それが石田警視の方針なんだろうな」
 外したのではなく、切り捨てたと言うべきだろう。不要と判断すれば即座に排除する。
 石田に感情や感傷はない。乾いた感性は日本人離れしていた。
 ただ、それだけではないのかもしれない、と麻衣子は考えていた。残しても浜内のためにならないと考えたから、早い段階で外した。その方がダメージは少ない、という配慮が石田にあったのだろう。
 ドライだが、効率だけを考えているわけではない。計算と人間味が矛盾なく両立している。悪人というより、奇妙な男というべきかもしれなかった。
 会澤くんは二十七歳だっけ、と紀美がそれぞれの印象を話し始めた。全員の年齢や経歴がわかったのは、カフェに入る前に先輩刑事に問い合わせていたためで、十年以上警察官として働いているから、それだけのコネがあるのだろう。
「所轄から本庁へ上がるには、管内で殺人やそれに類する大事件が発生しないと無理よ。簡単に言うけど、殺人は日本全国で年間約千件、警視庁管内だと二百件ぐらい? だけど、三分の二以上が現行犯逮捕される。誰が犯人かわからない事件なんて、月に一、二件よ。捜査本部に入ること自体が難しい。強運の持ち主ね」
 運だけでしょうかと言った晴に、まさか、と紀美が首を振った。
「優秀じゃなきゃ、本庁だって引っ張ろうとは考えない。機転が利くのは、何となくわかったでしょ? でも、交渉人を目指すモチベーションは低いんじゃないかな。警察官にとって、本庁捜査一課以上の部署はない。彼にとっては不本意な研修かもね」
「蔵野さんはどうです?」
 晴の問いに、勘のいい男ね、と紀美が答えた。
「石田警視の仕掛けに気づいたのは、正直すごいと思った。よく考えれば違和感だらけだったけど、あの状況では誰だって冷静になれない。単に頭の回転が速いんじゃなくて、ひねくれた性格なのかもね」
 冗談めかした言い方だったが、そうは聞こえなかった。斜めに考える癖があると言ってましたね、と晴がうなずいた。
 人としてどうなんだって話だけど、警察官としては優秀よ、と紀美が言った。
「それは江崎巡査部長も同じ。王子の連続強姦事件のことは知ってる?」
 犯人は女子高生や主婦を襲ったんですよね、と晴が声を潜めた。暴力も酷かったそうよ、と紀美が渋面を作った。
「四人の被害者はいずれも顔を殴打されて、中には失明した者もいた。所轄の刑事が一人で深夜の巡回を続けて犯人を逮捕したのがきっかけで、本庁勤務を命じられたと噂で聞いてたけど、江崎くんだったのね……粘り強く、正義感のあるいい刑事だと思うし、本庁勤務を望んでるんでしょう。彼は今回の交渉人研修をチャンスと捉えているはず。平河警部補だってそうよ」
「でも、自分には向いていない、諦めたって……」 
 所轄の刑事は本庁勤務のチャンスを虎視眈々と窺っている、と紀美が言った。
「でも、そんな機会はめったに巡ってこない。平河さんは四十二歳でしょ? 今回を逃せば次はないって、本人が一番よくわかってる。一歩引いた風を装ってたけど、あれはポーズよ。並木さんだって、本当はそうでしょ?」
「あたしは……」
 正直に言いなさいよ、と紀美が軽く肩を小突いた。
「上に言われて仕方なく来た? そんなわけないじゃない。あたしも交通課にいたことがある。ノルマばっかりで、つまらない部署よね。本庁に移れば、環境も変わるし刺激もある。隠すことはないわよ」
 違いますと否定した晴を無視して、あなたはどうなの、と紀美が麻衣子に目を向けた。
「警察庁キャリアと言っても、女性にとっては辛い職場でしょ? 警視庁の方が女性刑事の数も多いし、肩肘張らなくて済む……あなたも少しは話してよ、あたしばっかり喋ってるみたいじゃない」
 現場には興味があります、と麻衣子は言った。
「キャリアの大半がそう考えているはずです。テレビドラマや映画の影響もありますし……でも、わたしには現場経験がありません。交渉人が務まるのか、自分でもわからなくて……」
 やる気がないなら、二人ともさっさと降りてと紀美が言った。嫌みがないのは、さっぱりした性格のためだろう。
 カフェを出て日比谷まで歩き、三人でランチを取った。初対面の相手と話すのが苦手な麻衣子は聞き役に回ったが、紀美と晴の会話を聞いているだけでも楽しかった。
 警察庁の同期に女性はいない。一番近くても三期上で、部署が違うためお茶を飲むこともなかった。
 紀美が積極的な性格なのは、話すまでもなくわかっていた。何としても研修をパスすると意気込んでいたが、悪い感じはしなかった。熱意のある警察官、という印象だ。
 晴も交渉人を目指しているわけではないのだろうが、現状に満足していないのは確かだった。どこか怯えた感じがするのは、性格のためなのか、年齢が一番下だからか、そこはわからなかった。
 地下鉄が成増駅で停まった。麻衣子は南口を出てハンバーガー屋の前を通り、光が丘団地が見えてきたところで足を止めた。
 人のことは言えない、と苦笑が漏れた。自分のことはほとんど話さなかった。他人とコミュニケーションを取るのが苦手で、誰とでもすぐに話せるタイプではない。
 紀美と晴の問いには答えたが、それは警察庁キャリアとしての回答だ。年齢と簡単な経歴以外は何も言っていないのと変わらなかった。
 紀美が結婚していること、相手が同じ警察官だということ、晴が大学の同級生三人とシェアハウスで暮らしていること、プライベートな話題も出たが、麻衣子はただ聞いていただけだ。
 横断歩道を渡り、路地を右に折れると、四階建の小さなマンションが目の前にあった。バッグから鍵を取り出し、麻衣子はエレベーターのボタンを押した。

 麻衣子の母校である早生大学のキャンパスは高田馬場にあるが、大学院は和光市に本館がある。院への進学が決まった時、四年間暮らしていた九段下のワンルームマンションを出て、成増の1DKマンションに引っ越した。
 二年で院を卒業し、警察庁に入庁したが、有楽町線で乗り換えなしで桜田門へ出勤できるため、転居はしなかった。
 通勤に一時間かからないし、家賃が八万円と比較的安いこともあったが、収納が多く使い勝手がいいのと、慣れているという理由の方が大きかった。環境の変化を避けたいと考えるところがあるのは、自覚していた。
 ドアを開け、鍵をシューズボックスの上に置いてから、洗面台で手を丁寧に洗った。鏡を見ると、暗い目をした女がそこにいた。 
 クールといえば聞こえはいいが、冷たい印象を与えるルックスだ。可愛げのない顔だ、と苦笑するしかなかった。
 黒のパンツスーツとコートをクローゼットのハンガーにかけ、白のブラウスを洗濯籠にほうり込んでから、部屋着に着替えた。
 マキシ丈の黒いワンピースで、フードがついている。通販で買った服で、クローゼットの中はほとんどがそうだった。
 もともと、ファッションに興味がない。身長一六五センチ、体重は五十一キロなので、通販で買ってもジャストサイズだった。
 もっと色味のある服を着てもいいのだが、高校に入学した頃から、他人の目を意識するようになっていた。不快な記憶を忘れるために、麻衣子は強く首を振った。
 冷蔵庫を開け、ペットボトルの水をひと口飲んでから、中に入れていたプレートを取り出した。大学院に通っていた頃から、日曜日に一週間分の夕食を作り、すべて冷凍することにしている。
 朝、その日の夕食を冷蔵庫に移せば、帰宅する頃には半解凍されている。サラダだけ作れば、後はプレートごとレンジで温めるだけだ。
 炊いた米は小分けにしてラップに包み、冷凍してある。料理そのものは好きだが、手間を掛けたくなかった。
 朝はトーストとコーヒー、昼は警察庁の食堂で日替わり定食を食べる。警視庁にも食堂があるから、食生活は今までと変わらないだろう。
 リモコンでテレビをつけると、夕方のニュースが始まっていた。豚バラ肉とタマネギの炒め物、豆もやしの胡麻和えが載ったプレートをそのままレンジに入れ、洗ったレタスを手でちぎり、ドレッシングをかけて即席のサラダを作った。レンジのスイッチを押すと、二分で加熱が終わった。
 ニュースを見ながら、早めの夕食を摂った。プレートが空になるまで、十分もかからなかった。
 プレートを軽く水洗いして食洗機に入れ、ドリップ式のデカフェにポットの湯を注いだ。温かいカップを両手で包むと、少し気分が落ち着いた。
 つまらない女だ、とつぶやきが漏れた。優等生でいる自分を好きになれない。だが、他の何かになれるわけでもなかった。
 どこかで他人の目を意識し、無意味に怯え、常識の枠から外れることを恐れて生きている。友人といえる者もいない。
 寂しいとは思っていない。人付き合いが苦手で、下手でもあった。人間関係の煩わしさから逃げたい、という想いが心のどこかにある。
 理由はわかっていた。押さえつけていないと、あふれ出す感情が自分の中にある。それをコントロールできなくなるのが怖かった。
 スマホに目をやった。原崎からのLINEは開いていない。既読がつけば、電話がかかってくるだろう。マナーモードに切り替え、スマホを伏せた。
 デカフェを飲みながら、テレビをぼんやり見続けた。煽り運転による交通事故、日暮里で起きた放火事件、老人の孤独死、気が滅入るようなニュースばかりが流れている。
 七時になり、画面がクイズ番組に変わった。麻衣子はテレビを消し、バスタブに湯を溜めて、入浴の準備を始めた。
 

 翌日の火曜から、本格的な研修が始まった。一日五コマ、九十分、朝七時から夕方五時まで、休憩を挟みながら講義を受ける。
 最初の一カ月は集中的に心理学を教わることになっていた。講師は大学の教授職に就く者ばかりで、内容も専門的だった。
 心理学は基礎心理学と応用心理学に大別される。細かく分類すると三十以上、更に各分野ごとに枝分かれしているため、一カ月で学べるものではない。
 理数系的な側面もあり、ある程度数学を理解していないと、表面をなぞるのがやっとだ。平河や江崎はただ板書をパソコンに書き写しているだけだし、麻衣子を含め他の四人もほとんど同じだった。
 石田の講義は水曜と金曜の午後、三時半からひとコマずつある。そこでは実戦に即した講義を行なう、と事前に説明があった。
 全員が交渉人という仕事に興味を持っていた。水曜日、昼食休憩後の講義を真剣に聞いている者はいなかった。石田が何を話すのか、そればかり考えていたからだ。
 三時半、石田が会議室に入り、退屈だろうと苦笑を浮かべ、そのまま椅子に腰を下ろした。
「ここにいる全員が文系だ。今日の午前中は数学だったな? 何を言ってるのかさえわからなかったかもしれないが、基礎は押さえておくべきだ。しばらくの辛抱だよ」
 何がなんだか、と平河が頭を掻いた。
「正直なところ、場違いなんじゃないかと思っております」
 みんな同じだ、と石田が小さく笑った。リラックスした様子だった。
「要点を整理しておこう。交渉人は主に現在進行中の事件を扱う。要請があれば現場に入るが、通常の捜査は行なわない。犯人に目的、要求等があれば、それを聞いて対処法を考えるし、どちらも不明であれば、目的が何なのかを探る。可能な限り徹底的かつ迅速に犯人についての情報を調べた上で接触する。ここまではいいね?」
 どの程度まで調べたら、と江崎が手を挙げた。
「犯人との交渉に入っていいんですか? 名前、年齢、職業その他基本的なデータはともかく、目安になるラインを教えてください」
 まず戸籍の確認だ、と石田が言った。
「話を簡単にするために、犯人が人質を取り、自宅に立て籠もっているとしよう。その場合、真っ先に犯人の住民票を取り寄せる。それだけで人質との関係性がわかるはずだ。住民票に記載されている項目は?」
 石田が右に顔を向けた。氏名、出生年月日、と会澤が指を折った。
「性別、現住所、前の住所、世帯主……本籍も載っていたと思いますが」
 他に続柄、住民票コード、マイナンバーなどがある、と石田がうなずいた。
「住民票でわかるのは、主に個人情報だが、配偶者や家族の情報も辿れる。持ち家であれ賃貸であれ、不動産業者が保証人や犯人の勤務先までも把握している。最近は保証会社も増えているが、基本的に保証人は血縁者で、そこからも情報が取れる。勤務先の同僚、上司、取引先の関係者その他から事情を聞くことも可能だろう。関係者の連絡先が判明し、情報の確認ができたら、交渉に入っても構わない」
 学生時代の友人はどうでしょうと質問した紀美に、情報はひとつでも多い方が望ましい、と石田が答えた。
「交渉の糸口になるのは動機だ。立て籠もり事件を引き起こす犯人の動機を調べるのは、それほど難しくないが、友人関係を当たるのもひとつの手だろう。ただ、立て籠もり事件ではスピードが要求される。家族や会社の人間とは違い、昔の友人とどの程度まで連絡を取り合い、親しくしているか、簡単にはわからない。また、家族や勤務先の関係者はともかく、友人となると情報提供を強要するわけにもいかない。積極的に協力を申し出る者もいるだろうが、犯人をかばう者がいてもおかしくない。それはわかるね?」
「はい」
 私は家族を第一次情報、会社関係者を第二次情報と呼んでいる、と石田がタブレットに指で文字を書いた。
「友人等は第三次情報だ。第一次情報がない状態で、交渉に臨んではならない。それは交渉の必要絶対条件だ。第二次情報は必要条件で、状況によってはそれがなくても交渉を始めることもあり得る。第三次情報は時間の経過と共に必要条件になるが、初期段階ではノイズになることも多い。そこは注意が必要だろう」
 交渉の目的は何か、と石田が麻衣子たちの顔を順に見回した。人質の解放と犯人の投降ですと蔵野がタブレットを指で弾いた。
「一昨日も石田警視はそこを強調してましたが、犯人が人質に危害を加える可能性が高い場合はどうすればいいんです?」
 そうさせないために交渉人がいる、と石田が微笑んだ。
「交渉人が絶対に守らなければならないのは、犯人を含む事件関係者の安全を確保することだ。一昨日の再現演習レベルであれば、交渉で解決を図れということになるが、犯人が武器を所持している、人質の数が多い、飲酒、ドラッグ、その他の要因によって凶暴化している、あるいは立て籠もっている時間が長いと、強行突入して犯人を捕らえるべきだという意見が必ず出る。極論だが、人質が総理大臣であれば射殺命令が出るだろう」
 そりゃそうでしょう、と蔵野が鼻の頭を掻いた。
「一国の総理大臣ですよ? 守れなかったら、警察の存在意義が問われます」 
 しかし、犯人を射殺すれば警察の存在意義はなくなる、と石田が首を振った。
「警察には社会の安全と治安を守る責任がある。それは市民の安全と同義だ。安全と治安を守るのは、あくまでも市民のためだ。そこを勘違いしてはならない。総理大臣を守るために犯人を射殺すれば、警察の暴力が正当化される。そんな警察を誰が認める?」
「しかし、緊急時には――」
 やむを得ないという判断もあるだろう、と石田がうなずいた。
「だからこそ、交渉人がいる。警察は実力行使によって最悪の事態を防いできたが、そこには必ずリスクがある。総理大臣が人質になるような事件はあくまでも例だが、どんな状況でも理性で対処するべきで、誰が人質であっても同じだ」
 難しい、と麻衣子はタブレットに目をやった。理想として、交渉で事件を解決するべきなのはわかるが、犯人と人質の二者択一を迫られる場合もあるのではないか。
 さまざまな考え方がある、と石田が足を組み替えた。
「正解はないが、正解に一歩でも近づこうとトライするべきだろう。交渉人は警察組織の中でも特殊なポジションにいる。そのため、前例や常識に囚われず、自由な発想が可能になる。今後はその辺りも教えていくが、今日は交渉人の原則について話をしよう」
 人質の解放と犯人の投降はイコール事件解決を意味する、と石田が言った。
「そのためのポイントとして、交渉人は中立でなければならない。警察組織の代理人として犯人と交渉するが、警察の側に立つわけではない。無論、犯人の味方をするわけでもない。どちらにとっても納得できる解決策を提示する」
 そんなことができるでしょうか、と会澤が首を傾げた。
「中立の立場と言っても、犯人が信用しないのでは? 犯人にとって交渉人は警察の一員で、敵対する存在と考えるでしょう。交渉人を信頼する犯人がいるとは思えません」
 交渉人とは、交渉する者と解釈できる、と石田が小さくうなずいた。
「犯人がそう考えるのは当然だし、警察側の代理人を務める交渉人を信じるはずがない。だから、交渉人は交渉をしない・・・・・・・・・・
「交渉をしない?」
 君たちの頭にはこんなイメージがあるはずだ、と石田がこめかみに指を当てた。
「犯人と話し、その心情に寄り添い、境遇に同情し、理解した上で犯人のために自首を勧める。一般的な交渉人像は、そんな感じじゃないか? あるべき交渉人の姿と言ってもいい。だが、それは間違っている」
 交渉人は交渉をしない、と石田が繰り返した。
「説得もしないし、犯人に共感することもない。ただ犯人の話に耳を傾ける。真摯に話を聞くだけで、多くの犯人が投降する。そのメカニズムは心理学で解読できる。そのために、講義の多くを心理学に充てている」
「何も話さずに、犯人の信頼を得られるとは思えません」
 手を挙げた紀美に、極端な言い方をする悪い癖が私にはある、と石田が苦笑した。
「君が私に電話をかけて、私が黙っていたら不気味だろうし、不快に思うだろう。だから、会話はしなければならない。天気の話でも、食事の好みでも何でもいい。犯人のバックボーンがわかっていれば、そこから話題を選択できる。言葉によって、犯人の心を武装解除するんだ。暴力的な犯人を抑止するために、最も重要な武器は言葉だ」
 矛盾してませんか、と蔵野がからかうように言った。
「黙って犯人の話を聞いていれば事件は解決する。再現演習の時にそう言ってたのでは?」
 直接的な交渉はしないという意味だ、と石田が言った。
「悪いようにはしないから出てきなさい、かつてはそんな言葉で犯人を説得していた。投降は出頭と同じで、反省の意志があるとされ、情状酌量される可能性が高い。ざっくりした言い方になるが、投降した方が刑罰は軽くなるんだ。だが、犯人にとってメリットがあるから投降した方がいいというのは、説得のための論理に過ぎない。頭に血が上っている犯人に、そんなものは通用しない」
「では、どうしろと?」
「犯人が何を言っても、ノーと言わない。それもまた交渉人の原則だ。犯人の要求を聞き、どんな無茶でも断らず、受け入れる。まず、こちらが犯人を信じる。何度でも信じていると伝える。時間をかけて、犯人との信頼関係を構築するんだ」
 交渉人のノウハウを教えると言ってましたよね、と蔵野が不服そうな表情になった。関西弁のアクセントがきつくなっている。
「もっと具体的に、どうすれば犯人の信頼を得ることができるのか、その辺りを教えてもらいたいですね」
 第一段階として、犯人を理解しなければならないと石田が言った。
「犯人の性格がわからなければ、手の打ちようがない。性格によっては、対応を変更する必要が生じる。君のような臍曲がりに、言葉を尽くして誠意を示しても、鼻で笑われるだけだろう」
 言い過ぎでしょうと蔵野が苦い顔になったが、構わず石田が話を続けた。
「十人の狙撃手が君を射殺するために待機している、その方が君に対しては効果的かもしれないな。言うまでもないが、日本の警察はそんな無茶をしない。一九七九年、大阪で起きた銀行襲撃と籠城事件において、警察は発砲許可を出し、犯人は射殺された。この事件において、警察には犯人が死んでもやむを得ないという判断があったが、それ以降、射殺命令が出たことはない。だが、今回は違うと交渉人が言えば、犯人には投降以外の選択肢はなくなる」
 石田の顔に殺意に似た何かが浮かんだ。蔵野の顔色が青くなった。怯えが麻衣子にも伝わってきた。
 冗談だ、と石田が表情を緩めた。
「意外と気が小さいんだな……重要なのは、犯人が交渉人を信じるかどうかだ。そのためには犯人の人間性がわからないと話にならない。性格によって、かける言葉、声のトーン、口調、何もかもが違ってくる。安っぽいマニュアル本のように、こうすれば必ず成功する、絶対に資産が倍になる、そんな頭の悪いことは必要ない。まずは今言った原則を守ることだ。例えば逃走用の車両を用意しろと要求されたら、君はどうする?」
 指された会澤が、手配すると答えますと言った。
「ただ、時間がかかると付け加えるでしょう。車両に発信機をセットしておけば、追跡が可能になります。犯人がエンジンをかけると、自動でドアロックが掛かる特殊車両を準備してもいいのでは? 車の形をした牢屋と同じで、乗りさえすれば逮捕できます」 
 装備課の装備開発運用センターに配備されている、と石田が補足した。
「実戦で使用されたことはほとんどないが、有効かもしれない。平河くん、一億円用意しろ、さもなければ人質を殺すと言われたら?」
 金で済むなら払いますな、と平河が即答した。
「一億なら安いものです。十億円と言われたら、さすがに考えますが」
 村山くん、と石田が目を向けた。
「車両を用意しろ、人質の代わりに交渉人の君が乗れと言われたら従うか?」
 状況にもよると思いますが、と慎重に言葉を選びながら紀美が答えた。
「他に人質を救出する手立てがないなら、やむを得ないと考えます」
 遠野くん、と言いかけた石田が、全員に聞こうと左右に目をやった。
「指を一本切り落とせ、そうすれば交渉人を信じ、人質を解放すると要求されたらどうする? これは宿題だ。明後日の金曜朝までに、メールで回答すること。今日はここまでだ」
 言葉の終わりとブザーの音が重なった。九十分があっと言う間に過ぎていた。

 無視はないだろう、とスマホ画面の中で原崎一彦が苦笑した。すいません、と麻衣子は小さく頭を下げた。
「交渉人研修が忙しくて……」
 木曜、夜七時。麻衣子は自分の部屋にいた。いずれ原崎から電話があるのはわかっていた。
 スマホをコーヒーカップに立て掛けると、何が不満なんだと原崎が言った。
「付き合って半年、それで婚約は早いってことか?」
 原崎は三期上で、警察庁の出世コースである警備局に勤務するキャリアだ。去年の八月、お互いの上司が間に入り、交際がスタートした。
 一般に警察官は結婚が早い。警察官同士という夫婦も多い。危険を伴う仕事を理解できるのは、同じ警察官だし、上も積極的に勧める傾向がある。
 ただし、警察庁では圧倒的に女性キャリアが少ない。職員数で言えば十対一以下だから、キャリア同士のカップルは成立しにくい。その意味で、警察庁全部署の独身キャリアが麻衣子に関心を持っていた。
 見えないところで綱引きがあったのだろう。上司が原崎を紹介したのは、将来警察庁の幹部になり得る優秀な人材と考えたからだと麻衣子もわかっていた。
 原崎はいい意味でキャリアらしくない男だった。尊大なところがなく、自分を大きく見せようとしない。さっぱりした性格で、信頼できる人というのが第一印象だった。
 昭和の頃とは違い、令和では上司が強制的に交際を命じることはできない。断っても構わないと言われたが、何度か会っているうちに、魅かれていく自分がいた。
 四度目のデートで交際を申し込まれ、その夜、男女の関係になった。多忙でも連絡を欠かさない誠実さが原崎にはあった。
 いずれ結婚するのだろうと漠然と思っていたし、問題は何もなかったが、先月の初めに原崎が婚約の話を始めた時、何かが麻衣子にストップをかけた。
 返事を保留しているうちに、交渉人研修への参加を命じられ、新しい仕事に慣れていないと理由をつけて原崎のLINEや電話に返事をしなかったが、どこかで区切りをつけなければならないのはわかっていた。原崎の電話に出たのは、別れを告げるためだった。
「焦ってるわけじゃないんだ」スマホの中で原崎がおどけた表情を作った。「だけど年が明けて、何となくそれがきっかけに……わかるだろう?」
「はい」
 別れたいのか、と原崎がため息をついた。
「顔を見ればわかるさ。他に男ができたのか?」
 違います、と麻衣子は首を振った。
「うまく言えませんけど……何かが違う気がしたんです。わたしが優柔不断なだけで、原崎さんのせいでは――」
 無理強いするような話じゃない、と原崎が言った。
「これ以上は無理だってことだね? それは仕方ないが、理由がわからないと納得できないよ。うちの部長も、そっちの広岡さんだって、どういうことだって言い出すのは目に見えてる。こんなことは言いたくないが、君を警察庁から出せ、という話になってもおかしくない。上司の顔に泥を塗ったのと同じだからね」
「わかってます」
 それは違うと思っている、と原崎がこめかみの辺りを指で掻いた。
「きれいごとで言ってるわけじゃない。もうそういう時代じゃなくなっている……だけど、上は昔の流儀で君に責任を押し付けるだろう。別れたいと言うなら、受け入れるしかない。ただ、高校生の恋愛じゃない。何となく嫌なんですじゃ通らないよ。それはわかってるだろう?」
 嫌になったわけじゃありません、と麻衣子はスマホの角度を直した。
「わたしのわがままです。自信がありません。ずるずる引きずれば、かえって原崎さんに迷惑がかかりますし……」
「会って話さないか?」
会わない方がいいと思いますと麻衣子は視線を逸らした。
 しばらく無言でいた原崎が、わかったとだけ言って通話を切った。麻衣子はスマホを伏せ、目を閉じた。
 ぼんやりした理由はあった。自分の意志で何かを能動的に決めたことがない、という悔いに似た想いが心のどこかにある。流されたくなかった。
 両親が教師だったこともあり、学ぶ環境には恵まれていた。成績が良かったため、進学校への推薦を受け、高校に入学した。
 早生大学を受験したのも、担任の勧めだった。大学院へ進んだのは、教授に推されたからだ。
 国家公務員試験を受けたのは、両親に強く言われたからだ。堅実な人生を歩んでほしいと考えたのだろう。
 警察庁に入庁したのは、殺された祖母のこともあったが、それより警察庁から強く誘われたという理由の方が大きかった。入ってから、男女のバランスを取るために採用されたと気づいたが、働き始めるとそれどころではなくなった。
 流されるままの人生だった、とまでは言わない。自分の意志もあった。
 だが、どこかで言い訳を作っていた。誰かに従って生きていた方が楽だという想いがあったのは否めない。
 男性との交際もそうだった。付き合わないかと言われると、断れない弱さがあった。他人を不快にさせるのが怖かった。
 原崎には好意を持っていたから、交際を申し込まれて嬉しかったが、何かが違うという想いを拭い切れずにいた。
 婚約の話が出た時に躊躇したのは、婚約が結婚に直結しているからだ。誰にとっても人生で最も重い決断だ。上司の勧めや原崎の将来性、安定した人生より重要なことがある。
 原崎に不満はない。男性として好きだし、愛している。
 それでも、結婚を決めるのは自分だという想いがあった。これだけは自分が考え、判断しなければならない。
 ノートパソコンを開き、書きかけのファイルを開いた。最初の一行に〝犯人の信頼を得るために、交渉人は何をするべきか〟とあった。
 

 金曜日の午後三時半、麻衣子は他の六人と共に会議室の席に座っていた。ブザーが鳴り、入ってきた石田が後ろ手でドアを閉めた。
「さっそくだが、一昨日の宿題について検討していこう」
 石田がタブレットに触れると、同期されている全員のタブレットの画面が切り替わった。
 交渉人を信じるために、指を一本切り落とせと犯人が要求してきたらどうするか、と石田が改めて言った。
「メールが届いた順に、回答を見ていく。まずは平河くんだ」
 促された平河が座ったまま自分のメールを声に出して読んだ。
「警察官の使命は、市民の安全を守ることに尽きます。交渉人も警察官ですから、それは同じと考えます。他に人質を救う手段がないのであれば、取り返しのつかない事態になる前に、指を切り落とすのもやむを得ません。あくまで仮定の回答ですが」
 次、と石田が後ろの席に目を向けた。メールにも書きましたが、と会澤が立ち上がった。
「詳細不明なままでは、イエスもノーもありません。ただ、現実的に考えれば、ぼくが了解しても指揮官が許可しないでしょう」
 次、と石田がタブレットを指でスワイプした。他に方法はないか考えます、と麻衣子は画面に目をやった。
「人質の解放に繋がるとは思えませんから、その要求は呑めません。ただ、拒否すれば犯人の信頼を失います。具体的に何をするべきかはわかりませんが、他の交渉を引き伸ばし、時間を稼ぐことで状況の変化を待ちます」
 次、と石田が目を左に向けた。犯人にノーと言わないのが交渉人の原則です、と蔵野が腕を組んだ。
「イエスと言うしかないでしょう。ただ、交渉は電話で行なっています。犯人には交渉人の姿が見えません。指を切断したとしても、確認はできないんです。指を切断したと伝えますが、実際にそんなことをするわけではありません。犯人の信頼を得るためには、やむを得ないでしょう」
 次、と石田が晴の顔を覗き込んだ。そんな要求をするとは思えません、と晴が首を振った。
「相手は犯罪者で、人質を取って立て籠もるような凶悪犯です。警察のことを信じていないでしょうし、最初からお互いに不信感を持っています。指を切断しても意味はないと話します」 
 君はどうだ、と石田が江崎を見つめた。ある種のブラフだと考えています、と江崎が言った。
「こっちの出方を見てるんです。試されているだけで、挑発に乗るのは警察官として間違っていると思います」
 君は、と石田が机を指で叩いた。難しいところですが、と紀美が口を開いた。
「呑める要求ではありません。ですが、ノーと言わないことを前提に考えました。まず、交渉人を務めているわたしが指を切り落とせば人質を解放するのか、その確認を取ります。その前にお前が指を切れ、解放するのはその後だ、と犯人は言うでしょう。その時、何らかの代案を出します。重要なのはわたしを信じさせることで、犯人の要求はそのきっかけになり得ます」
 しばらく黙っていた石田が、かつては胆力が刑事に必要とされたと低い声で言った。
「自分が替わりに人質になる、銃を持っていないことを示すためにシャツ一枚になる、要は気迫で犯人を制圧するという発想だ。自己犠牲の精神と言ってもいい。市民のためなら死んでも構わない、そういうことだ」
 それが刑事の義務ですと言った平河に、安っぽいヒロイズムだ、と石田が小さく肩をすくめた。
「命を張って人質を救うと言えば聞こえはいいが、警察官の命はそんなに安くない。交渉人はそんな形で事件を解決しない。現場に一滴の血も流さないのが交渉人の矜持だ。指一本ぐらいやむを得ない、そんな考え方は間違ってる。交渉人はヒーローじゃないし、ヒーローであってはならない。ぎりぎりまで冷静に解決の方策を探る」
 だが、ノーと言ってはならないとわたしは教えた、と石田が笑みを浮かべた。
「それが交渉人の原則で、一度でもノーと言えば犯人は交渉人を信用しなくなる。そうなったら終わりだ。どんな無茶を言われても、例えば両腕を切り落とせと言われたとしても、うなずくしかない。従って、検討すると答えるのが正解となる」
 それで納得するでしょうか、と会澤が首を捻った。交渉は誰でもする、と石田が言った。
「形は違うが、子供も大人もすることだ。マウントの取り合いもある種の交渉だし、企業に勤めるサラリーマンの仕事のほとんどは交渉事だろう。今回の設問は、無茶な要求をする取引先と考えればわかりやすくなる。それまでの契約を突然打ち切り、都合のいい条件を押し付けて、了解しなければ取引を停止する、そんなことを言い出す会社は世の中にいくらでもある。君ならどうする?」
 相手の立場が上なら、と蔵野が下唇を突き出した。
「とりあえずは条件を呑むしかないんじゃないですか? でも、不利益が出るわけですから、それに備える必要はあるでしょう。十人でやっていた仕事を五人に減らすとか、コストカットを考えますね」
 それは違うだろう、と江崎が体を蔵野に向けた。
「最低限の社会常識があるはずだ。商道徳と言ってもいいが、一方的に契約を解除して、自社に有利な条件を押し付けるような会社は間違ってる。昔とは違うんだ。そんなことが許される時代じゃない。ただ黙って条件を呑むんじゃなくて、契約違反を盾に戦う姿勢を示した方が、メリットが大きいんじゃないか?」
 真面目だな、と蔵野が鼻に皺を寄せて笑った。
「そんなに世の中は甘くない。企業には企業の論理がある。正論が通用するわけないだろう。お前の頭の中はお花畑か? 石田警視が言ってるのは、交渉の場でどうするかってことだ。企業には最低限の常識があるだろうが、犯罪者にそんなものはない。ノーと言ってはならない、それが交渉人の原則だ。会社員で言えば、一度持ち帰らせていただきますってやつだよ。この場合はそれが正しい答えで――」
 指を切り落としたと犯人に言うのは、と紀美が蔵野の話を遮った。
「刑事としてどうなの? 騙してるのと同じでしょ? どんなに巧く装っても、いずれ犯人は嘘に気づく。その時、人質がどうなってもいいってこと?」
 犯人を騙して何が悪い、と蔵野が机を叩いた。音に驚いたのか、平河が手にしていたペットボトルを床に落とした。
 机の周りが水浸しになり、慌ててポケットからハンカチを取り出した平河に、いい判断だ、と石田がうなずいた。
「三人とも冷静になれ。熱くなってどうする? 平河くんがわざとペットボトルを落としたのがわからないのか? 君たちを落ち着かせるためには、言葉よりその方が効果的だと考えたんだ。簡単そうだが、意外と難しい」
 たまたまです、と平河が座り直した。江崎くん、と石田が机を指で規則的に叩いた。
「君の意見は正しい。だが、交渉人としては間違っている。所属している署に戻れ。報告は私がしておく」
 なぜです、と江崎が表情を僅かに歪めた。
「設問に対し、現実を踏まえて回答しました。犯人に指を切断しろと言われて、応じる指揮官はいません。許可したら統制が取れなくなります」
 君は優秀な警察官だ、と石田が江崎を見つめた。
「だが、交渉人には向いていない。適性だけで言えば、君が最も欠けている。本庁で働きたい意欲はわかるが、君なら必ずチャンスが巡ってくる。不向きなのは、自分でもわかってたんじゃないか?」
 無言のまま、江崎がうつむいた。交渉人はいわゆる警察官と違う、と石田が机を叩いていた指を止めた。
「正反対と言ってもいい。警察官は指揮官の命令に従わなければならないが、犯人と直接話しているのは交渉人で、ぎりぎりの信頼感が二人を繋いでいる。状況を考えなければならないが、全責任を負う覚悟があるなら、指揮官の命令に背いても構わない。君の覚悟は警察官としてのもので、交渉人のそれとは違う。交渉人の適性がないのは、優秀な警察官だからだ。矛盾した話だが、君なら理解できるはずだ」
 タブレットを掴んだ江崎が頭を下げて会議室を出て行った。蔵野くん、と石田が顔を向けた。
「君も同じだ。江崎くんとは別の意味で交渉人に向いていない。署に戻りたまえ」
 会議室にざわめきが広がった。麻衣子は石田と蔵野の顔を交互に見た。石田が本気なのは、声だけでわかった。
 蔵野が不満そうな顔になっていたが、当然だろう。石田のフェイクを見破ったのは蔵野だけだ。
 回答も論理的だった。誰もが蔵野に交渉人の適性があると認めている。なぜ交渉人に不向きだと石田が言っているのか、麻衣子には理由がわからなかった。
 ぼくは犯人の要求を呑むと答えてます、と蔵野が口元を歪めた。
「なぜ適性がないと? 間違ってるところがあるなら、教えてください。これじゃ納得できませんよ」
 ノーと言わないのは交渉人の原則だが、それだけではないと石田が言った。
「犯人に嘘をついてはならない。これも交渉人の原則だ。君は指を切断すると嘘をついた。一度嘘をつけば、それを隠すために嘘を重ねなければならなくなる。すべての交渉は、犯人の信頼を得るためにある。事実の一部を伏せただけでも、犯人は不信感を抱く。嘘をつき通すのは誰にとっても難しい。騙すための嘘は、必ず犯人も気づく。その後どうなるかは言うまでもないな?」。
 適性はあるつもりです、と蔵野が声を高くした。それは認める、と石田がうなずいた。
「君は頭の回転が速く、交渉人の原則も理解している。犯人に対し、最初からすべてのカードを見せる必要はないから、伏せておくこともある。それを嘘というなら、交渉において嘘をつくこともある」
「そうですよね? 安易な嘘が犯人に不信感を抱かせるのは、ぼくもわかってますよ。ですが、やむを得ない場合もあるはずです」
 蔵野の声に苛立ちが混じっていた。君の嘘には心がない、と石田が首を振った。
「心がない? どういう意味です?」
 あらゆる局面で人間は嘘をつく、と石田が言った。
「本音を押し付け合っていたら、社会はすぐにでも崩壊するだろう。だが、何もかもが嘘だったら、すべての人間関係が破綻する。目に見えない境界線があるんだ。だが、君は平気でそれを破りかねない。そのために誰かが犠牲になっても仕方ない、と思っている。頭がいいつもりかもしれないが、その分、言葉が軽い。才能はあるが交渉人には向いていない」
何も知らんくせに、と蔵野が吐き捨てた。
「研修が始まるまで、あなたと話したこともない。それなのに、ぼくのことがわかると?」
 わかるわけがない、と石田が苦笑した。
「だが、心のない嘘をつく者が責任から逃げるのを、私は知っている。適性というより、君には交渉人としての資質がないんだ」
 沈黙が続き、諦めたように蔵野が会議室を後にした。
 一週間で三人がいなくなった、と石田が残った五人を順に見た。
「ここからが本番だ。私は今回の研修に当たり、一名ないし二名を交渉人要員に選ぶと本庁内の各部署に伝えているが、ゼロということもあるだろう。妥協するつもりはない」
 ブザーが鳴った。これまでは犯人の身元がわかっているという前提の講義だった、と石田がタブレットをオフにした。
「次回からは犯人の身元が不明な事件を扱う。難易度が上がるぞ」
 白い歯を見せて笑った石田が足早に去っていった。何がなんだか、と平河がため息をついた。
「どんな事件のことを言ってるの?」
 紀美の問いに、例えば誘拐でしょうと会澤が囁いた。
 立ち上がった晴に続いて、麻衣子は会議室のドアに向かった。

第4回につづく(5月6日更新予定)

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著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

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