大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第4回
2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第4回

交渉人ゼロ 4回  ネゴシエイト4 模擬訓練 

 

 

「次回からは犯人の身元が不明な事件を扱う」

 石田がそう言ったのは二月五日、金曜日だった。あれから二週間が経っている。石田の講義は週二回あるが、十日、十二日、十七日、十九日、いずれも中止になっていた。

 理由はわかっていた。大規模な特殊詐欺グループ摘発の動きが警視庁内にあり、石田がその指揮を執っていたためだ。 

 十日の午後三時半、状況を伝えておく、と会議室に入ってきた河井が話し始めた。

「警視庁刑事部特殊事件捜査犯係は三班制で、石田警視が課長代理を務める第一班一係、二係は誘拐や立て籠もり、恐喝、脅迫事件、第二班はテロ及び産業災害その他業務過失に関する事件、第三班はインターネット犯罪を主に扱う。特殊詐欺は本来第三班の担当だが、先週から開始された頂上作戦では石田警視が総指揮官を任命された。研修が始まったばかりで、君たちにとってタイミングが悪いのはわかっているが――」

 頂上作戦というのは何でしょう、と平河が質問した。許可が降りていないので詳細は言えないが、と河井が声を潜めた。

「君たちもいわゆるオレオレ詐欺のことは知ってるな? 受け子、出し子の逮捕は毎日のようにあるが、奴らは使われているだけの下っ端に過ぎない。最近じゃ、高校生の出し子も珍しくないぐらいだ。特殊詐欺グループは組織化されていて、下の連中を何人逮捕してもダメージにならない。その辺は常識だろう」

 特殊詐欺は警察庁内でも重大犯罪として認識されている。例えば二〇二〇年の被害額は約二八五億円、内訳で最多なのはいわゆるオレオレ詐欺で、約百二十三億円と半分近くを占めている。法整備が実状に合っていないDVと並び、指定犯罪になっていた。

 トップを逮捕することで組織の弱体化を目的とする取締りの通称が頂上作戦だ。

 特殊詐欺グループの組織化は早くから指摘されており、実行犯の受け子、出し子、彼らをスカウトするリクルーター、架空名義の携帯電話、銀行口座を用意する道具屋、マンションなど部屋を借りる準備屋、名簿屋、その他複数かつ大人数が関係し、役割も細分化されている。

 現場で命令を下す“店長”はともかく、その上にいる役員、社長の正体はグループ内でもほとんど知られていない。そのため、実行犯の逮捕はできるが、そこで捜査がストップしてしまうというジレンマがあった。

 二〇一五年には四十人のグループを一斉逮捕、二〇一二年には首謀者以下二十八人が逮捕されるなど例はあるが、氷山の一角に過ぎない。近年では拠点を海外に移し、衛星電話、いくつものサーバーを経由したIP電話で実行犯を動かし、年間数十億円を詐取するグループも少なくない。

 国内ならともかく、海外となると簡単に逮捕できない。河井はそれ以上詳細を話さなかったが、石田が特別チームを率い、東南アジアに潜伏している主犯の逮捕に向かったのは察することができた。

 その間は自習と言われたが、警察は学校ではない。水曜と金曜、午後三時半からの講義がなくなり、五人で話すようになった。

 年齢が上ということもあり、平河がまとめ役を買って出ていた。毎日、朝から晩まで心理学や数学の講義が続いていたから、気分転換が必要なのは誰にとっても同じだった。

 最初の一週間で、研修メンバーは八人から五人に減っている。想像していたより、石田の基準は高かった。

 研修への参加を命じられた時、交渉人になるつもりは麻衣子になかった。男性と女性のバランスを取るため、そしてキャリアとノンキャリアの壁をなくすための要員と言われている。モチベーションが高くなるはずもない。

 だが、石田の意識の高さに気持ちの変化が生じていた。どこまでできるか、試してみたくなった。

 交渉人という仕事への興味もある。警察庁でくすぶっているより、交渉人として捜査に加わった方がいいかもしれない、と思うようになっていた。

 自信がないと話していた平河、そして推薦でやむを得ず来たと言っていた晴も、やり甲斐のある仕事だとわかったのか、前向きになっていた。

 紀美は本庁勤務のチャンスと捉えていたし、会澤もステップアップになると考えているようだ。多少の温度差はあるが、全員が真剣に取り組んでいた。

 五人の性格ははっきりと違った。仮に全員が同じ年齢、同じ高校の同じクラスにいたとしても、友人にはならなかっただろう。性差でもジェネレーションでもなく、個性の違いによるものだ。

 交渉人の条件のひとつは冷静さで、他の四人からは向いていると言われたが、違うのは麻衣子自身がわかっていた。クールに見えるかもしれないが、誰よりも感情的な性格だ。自分の感情を優先し、原崎に別れを告げた。交渉人としての適性があるとは思えなかった。

 知識という点で、誰よりも交渉人と交渉テクニックについて詳しいのは紀美だった。五年前からSITで働きたいと考えるようになり、私立大学に聴講生として通い、密かに勉強を重ねていたという。

 心理学は数学に基づく学問で、人文学科卒の麻衣子は文系だから、どちらかと言えば苦手だ。それは平河たちも同じだが、紀美は研修での講義の理解度も高かった。

 五人の中で最も警察官らしい性格で、気も強い。交渉は得意分野だろう。

 平河は調整型の性格だった。五人で雑談している時も、もっぱら聞き役に回り、黙りがちな晴に意見を促すなど、視野も広い。自分が石田なら、平河を選ぶと麻衣子は思っていた。

 晴はまだ二十四歳で、警察官としての経験は二年ほどしかない。そのため、誰かが話を振らないと口をつぐんだままだ。その意味では適性に欠けるが、晴の声には独特な心地よさがあった。

 麻衣子を含めた四人の声には、どこか圧がある。警察官という職業に就く者の多くがそうだが、仕事柄身についたもので、わかっていてもどうにもならない。

 経験が浅いためか、性格的なものかもしれないが、晴の声は圧を感じさせなかった。誰よりも交渉人に向いているのかもしれない。 

 わかるようでわからないのが会澤だった。バランスが取れた性格なのは、話していればわかったし、会話のリズムも心地いい。意図して調子を合わせているのではなく、天性の資質と言っていいのではないか。

 性格も積極的で、決断力もあるようだ。独特の軽さが言葉の端々に出ていたが、石田がそれをどう評価するかはわからなかった。

『次回の講義では模擬訓練を行なう』

 石田の名前で短いメールが届いたのは、二月二十三日火曜の夜だった。

 

 

 二月二十四日水曜日、午後三時半。麻衣子はトイレから会議室に戻った。壇上で石田が自分のスマホに触れている。他の四人は席についていた。

 遅れてすみませんと頭を下げて席に座ると、こっちこそ悪かった、とスマホを手にしたまま石田が笑みを浮かべた。

「河井から説明があったと思うが、急を要する事態だったので、君たちのことが後回しになった。これでも課長代理だから、現場のまとめ役もしなければならなくてね」

 それでは模擬訓練について説明する、と石田がスマホを机に置いた。

「前回、次は犯人の身元が不明な事件を扱うと私は言った。覚えてるね?」

 全員がうなずいた。二〇一〇年、港区で誘拐事件が起きたと石田が話を始めた。

「私が警察庁に入庁する前で、当然だが捜査にはタッチしていない。ただし、記録はすべて残っている。今度はフェイクではない。実際に発生した事件だ」

 石田がタブレットをスワイプすると、全員のタブレットの画面が切り替わった。新聞記事、雑誌の記事、ニュース番組のアーカイブ、すべて誘拐事件を扱っていた。記事の三分の一ほどが黒く塗りつぶされている。

 プライバシーの問題があるので、人名、施設名その他変更している部分がある、と石田が新聞記事を拡大した。

「簡単に事件の概要を話しておこう。二〇一〇年二月、高輪湊小学校五年生、十一歳の少女、鈴木花子が誘拐された」名前は仮名だ、と石田が笑った。「下校中に誘拐されたと考えられるが、現場を目撃したものはいなかった。学校から自宅までは約一キロ。途中に公園や人通りの少ない道もあり、犯人はどこで花子をさらってもよかった。次に家族構成だが、父親の鈴木太郎は五十歳、一部上場の商事会社役員を務めている。妻は四十歳で、同じ会社の別の部署で働いている。鈴木太郎の母親と鈴木家の三人は高輪の高層マンションに住んでいた。ここまではいいね?」

 麻衣子はメモを取りながらうなずいた。ペンを走らせている者、タブレットに直接書き込んでいる者もいた。

「孫娘の帰りが遅いのを心配した祖母が鈴木、その妻に電話をしたが、二人とも会議中で出ることができなかった。祖母も誘拐とは考えず、両親のどちらかと一緒にいると思い、その後電話をしていない。夜八時、帰宅した妻が異変に気づいて夫に連絡し、すぐに鈴木は会社を出て自宅マンションに向かった。八時半、娘のスマートフォンから妻のスマホに電話があり、娘をさらった、明日の夕方までに一億円の身代金を用意しろ、警察には言うなと一方的に犯人が言って電話を切った。声がおかしく、ボイスチェンジャーを使用していたようだ、と後に妻は警察に話している。九時過ぎ、帰宅した鈴木が妻に犯人からの電話のことを聞き、警察に通報した」

 十時、所轄の南高輪署の捜査官が鈴木のマンションへ行き、詳しい事情を確認、誘拐事件と認知したと石田が言った。

「典型的な身代金目当ての誘拐で、所轄の手に負えるはずもない。南高輪署に捜査本部が設置され、本庁捜査一課第一特殊犯捜査一係長が指揮を執り、鈴木本人が犯人と話していなかったため、今後犯人との交渉は鈴木を装った交渉人が務めることが決まった。こういう場合の常套手段で、感情的になってしまう肉親より、交渉人の方が冷静に話せる。遠野くん、誘拐事件発生時、最優先されるべきことは何か?」

 犯人の逮捕ですと答えた麻衣子に、人質の救出だと石田が微笑んだ。

「従って、誘拐事件の発生自体を秘匿しなければならない。警察が動いているとわかれば、人質に危険が及ぶ可能性が高くなる。マスコミは報道協定で押さえが利くが、捜査は困難になる。クラスメイトの家に電話をして、何か見ていないかと聞くわけにもいかない。そこから情報が漏れることもあり得るからね。人質の無事な救出は、警察にとってマストだ。並木くん、次に警察が考えるべきことは何だ?」

 わかりません、と晴が首を振った。早期解決が責務となる、と石田がタブレットをスワイプした。

「この事件の人質は十一歳だ。PTSDを考慮すれば、早い段階で救出しなければならない。そして、誘拐は現在進行形の犯罪で、タイムリミットがある。人質救出までの時間が長くなれば、その分殺害される確率が高くなる。早期解決のためには、捜査の方向を一刻も早く決める必要がある」

 誘拐事件の捜査本部には大勢の捜査官が動員される、と石田が写真を拡大した。高輪湊小学生誘拐事件捜査本部、と大書きされた縦長の紙が写し出された。

「最低でも百人、それ以上になることもある。大人数が動けば犯人も気づく。効率的に配備しなければならない。そこで重要になるのが犯人像の推定だ。人質及び両親と犯人に関係があるのか、それともないのか、そこがポイントになる」

 早い段階で捜査対象を絞り込む必要がある、と石田がうなずいた。

「それによって、捜査態勢を決定する。交渉人は犯人と話し、会話の中から犯人の個人情報を抜き出し、人質、その家族との関係を推察する。前にも言ったかもしれないが、交渉人にはプロファイラーとしての能力が必須だ」

 警視庁には専門のプロファイラーがいますと言った会澤に、その通りだが、彼らは特別捜査官だと石田が軽くタブレットを叩いた。

「プロファイラーについても説明しておこう。統計に基づき、犯人像を推定するのがプロファイラーで、その手法がいわゆるプロファイリングだ。警視庁では二〇〇九年刑事部に置かれた捜査支援センター内の情報分析係に所属し、殺人、誘拐その他重大事件、あるいは未解決事件の情報を分析、捜査本部並びに継続捜査担当チームにアドバイスしている」

 警察庁では全国の警察本部に設置されている捜査支援部門に所属するプロファイラーを集め、年に数回、研修を行なっている。警視庁、大阪府警、北海道警など、プロファイラー育成に力を入れている警察本部もあるが、プロファイラー一名という県もあるためだ。

 ただし、プロファイラーは“特定の分野における犯罪捜査に必要な専門的な知識及び能力を有する者”いわゆる特別捜査官に当たる。特別捜査官は財務、科学、サイバー犯罪、国際犯罪の四つに種別される。 

 一九九五年の警察官任用規定改正による制度で、当初は警察内部の人材登用の狙いがあったが、多様化、国際化、専門化が進む各種犯罪に対しては優秀な民間人を警察組織に組み入れた方が有用とされ、現在では特別捜査官の八割以上が民間企業等の出身だ。

 その事情はプロファイラーも同じで、心理学者、カウンセラーなどが特別捜査官として採用されていた。その時点で、階級は巡査部長となる。

 特別捜査官は捜査会議に出席し、意見を言うが、捜査現場には出ない。あくまでもその立場はアドバイザーで、いわゆる刑事とは一線を画していた。

 交渉人と犯人の会話は同時進行でプロファイラーも聞いている、と石田が言った。

「彼らの意見を参考にするが、アドバイザーに責任を負わせるわけにはいかない。最終的な判断を下すのは交渉人だ。間違っていれば、人質が死ぬかもしれない。責任の重さは言うまでもないな? 交渉人にプロファイラーとしての能力が要求されるのは、そのためもある」

 プロファイラーには専門知識が必要です、と紀美が不満そうに言った。

「大学で心理学を専攻していたとか、カウンセリングの臨床経験、資格、他にもあったと思います。交渉術については以前から学んでいましたが、プロファイラーの能力が必要と言われても……」

 四角四面に解釈すればその通りだが、警察官は誰もがプロファイラーだ、と石田が微笑んだ。

「いわゆる“刑事の勘”は経験によって培われる。殺人現場に一歩足を踏み入れ、状況を見ただけで犯人像を直感的に思い浮かべることができる刑事は少なくない。彼らの脳内にはデータベースがあり、殺人事件の情報がファイリングされている。潜在意識下でそれを検索して、似たような事例をピックアップし、犯人像に迫る。それはプロファイラーの作業と同じだ。数字やデータの裏付けがないから、科学捜査が進んだ現代では重要視されないが、下手なAIより正確だ。君たちにもその力は備わっている」

 そこまでの経験はありません、と会澤が首を振った。

「警察に勤務して丸五年です。殺人事件の捜査本部に加わったのは一回だけで、ぼくに刑事の勘が備わっていると思いますか?」

 人間は誰もがプロファイラーだと言うべきかもしれないな、と石田が言った。

「日本人のほとんどが学生として集団生活を経験している。初めて会った者でも、友達になれるか、なれないか何となくわかる、そういう経験はあるだろう? それは経験による認識力、つまりプロファイリングによって、さまざまな要素を五感で瞬時に判断した結果だ。もちろん、すべてが正しいわけじゃない。身長一八〇センチ、体重一〇〇キロの高校生はケンカに強いと脳が判断しても、実際には他人を殴ったことさえないかもしれない。だが、それはプロファイラーも同じだ。過去の統計によるデータは、目の前の事件の傾向を示す指針になるが、魔法の杖ってわけじゃない。君たちには年齢と同じだけの経験がある。それを使って犯人像をプロファイリングすればいい」

 簡単ではない、と麻衣子は唇を噛んだ。現段階でわかっているのは、犯人が娘のスマホを使って連絡を取っていることだけだ。

 母親は犯人と話しているが、会話の内容を正確に記憶していたとは考えにくい。要求こそはっきりしているが、連絡があるまで誘拐とは思っていなかったはずだ。

 動揺し、パニックに陥っても不思議ではない。しかも、犯人はボイスチェンジャーを使用していた。性別、年齢も不明だ。検討材料が少な過ぎて、プロファイリングはできない。

 捜査本部が設置された日の深夜一時、警察は鈴木が住むマンション周辺に人員を配置した、と石田が言った。

「深夜二時、港区及び隣接する区で覆面パトカーが巡回を開始し、飲酒運転取締りを装って、幹線道路に検問を張ったが、気休めに過ぎないし、もっと悪いかもしれない。犯人の所在は不明だし、この時間、港区周辺で車に乗っている可能性は低い。捜査官を疲弊させただけで、意味はなかったと私は考えている。この段階では、犯人からの連絡を待つしかなかったんだ」

 電話があったのは翌日土曜の午後四時だった、と石田が腕時計に目をやった。

「今から、録音していた交渉人と犯人の会話を再生する。交渉人として聞くように。まず考えるべきなのは、人質、その家族と犯人の関係性だ。私が指揮官役を務めるから、ここを捜査本部と思って意見を申告すること。では始めよう」

 石田がタブレットに触れると、着信音が鳴り始めた。

 

 

 鈴木だ、という男の声がした。父親を装って電話に出た交渉人だ、と石田が小声で言った。

『もしもし、花子か?』

 人名だけは別の声になっている、と石田が付け加えた。

『娘を誘拐した』

 聞こえてきた声は老人のようだった。ボイスチェンジャーを使用しているため、男性か女性か、それさえわからない。

 声にエンジン音と街のノイズが重なり、聞き取りにくい。犯人は車で移動、と麻衣子はメモした。

『昨日の夜、奥さんに一億円を用意しろど伝えた。準備はできたか?』

『待ってくれ、私は会社員なんだ。簡単に一億円の現金は用意できない』

『娘が死んでもいいのか?』

 許してくれ、と交渉人が叫んだ。

『頼む、何でもする。身代金は払う。約束する。ただ、今すぐには無理だ。私と妻の預金は、二人合わせても三千万円ほどしかない。だが、実家や友人に相談すれば、金を貸してくれるはずだ。必ず用意するから、少しだけ待ってくれ』

 交渉人の声に、麻衣子は胸が苦しくなった。娘を誘拐された父親の悲しみが伝わってくるようだ。その声は悲鳴に近かった。

『頼む、花子の無事を確認させてほしい。声を聞くだけでいい。お願いします』

『金が先だ』

『妻が茨城の実家に戻っている。義理の両親が生命保険を解約すると、一時間ほど前に連絡があった。四千万円あるが、手続きに時間がかかる。保険会社に怪しまれたら、そっちも困るだろう? 穏便に事を済ませたい。わかってほしい』

『七千万円か?』

 クラクションの音が二度鳴った。渋滞か、他に理由があるのか、麻衣子にはわからなかった。

 私の父は二年前に死んだ、と交渉人が言った。

『実家は青森で、祖父の弟が住んでいるが、余裕があるわけじゃない。七千万円で花子を返してくれ。頼む、頼みます』

 風の音が鳴っている。それに被さるように電子音が流れた。何の音だろう、と麻衣子は額に指を押し当てた。

『三十分後、また電話する』

 いきなり通話が切れた。交渉人の漏らすため息が聞こえた。

 

 

 犯人が電話をかけてくるのはわかっていた、とタブレットに触れた石田が音声を止めた。

「そのため、指揮官は逆探知の手配をしていた。君たちにとっては釈迦に説法だが、デジタル技術の進歩によって、固定電話、携帯電話、いずれも一瞬で発信番号がわかる。今回、犯人は娘の携帯を使っているが、車で移動していても、中継する基地局との距離を計算すれば、発信場所が割り出せる。だが、携帯番号、発信場所が判明しても、移動によって基地局が次々に変わるため、場所は確定できない。転送機能を使ったり、海外サーバーを経由して国際電話を装うことも可能だ。二〇一〇年当時でも、犯罪者が技術を悪用するのはよくある話だった」

 それを踏まえて犯人像を推定するように、と石田が言った。

「三十分後、犯人が連絡を取ってくる。それまでに犯人の情報を精査しなければならない。すべてを調べている時間はない。範囲を狭めることが重要だ。だが、何もない状態ではどうにもならない。ジグソーパズルのピースがひとつでもあれば、全体像を想像できる。さらに他のピースがあれば事件の輪郭が明確になり、細部まで見えてくるだろう。さて、犯人と人質、またはその家族との関係性を示す手掛かりは見つかったか?」

 後二十八分、と石田がスマホの画面を見た。犯人は外にいました、と会澤が手を挙げた。

「エンジン音が聞こえたのは、車に乗っていたためでしょう。移動を続けることで、現在地の特定を防ぐつもりだったと考えられます」

「他には?」

 犯人は十八歳以上です、と会澤が言った。

「無免許で運転はできません。二〇一〇年の道路交通法をざっと調べましたが、二〇〇四年六月の道交法改正により、運転中の携帯電話の使用に罰則規定が設けられています。おそらくですが、犯人はスマホをブルートゥースで車のスピーカーに繋ぎ、話していたんでしょう。また、自分の車を使うのはリスクが高すぎますから、犯人が運転しているのは盗難車です。しかし、現実は映画と違い、配線を繋ぐだけでエンジンをかける技術を持つ者はほとんどいません。従って、犯人は車両窃盗の前科があるか、修理工場その他の技術工が関係している可能性が高いと考えます」

 カーマニアの可能性もあると思います、と紀美が言った。

「いずれにしても、男性と考えていいのでは? わたしが気になったのは、脅すような声音だったことです。もうひとつ、言葉数が少ないのが気になりました。ボイスチェンジャーを使っていたこともそうですが、プロの犯罪者、具体的には反社組織の構成員ではないでしょうか。前科があるのは、会澤くんと同じ意見です」

 石田が左右に顔を向けた。犯人が車を走らせていたのはJR山手線恵比寿駅付近だと思います、と麻衣子は手を挙げた。

「声に重なって、電子音のメロディーが聞こえました。映画“第三の男”のテーマ曲です。ビール会社のコマーシャルに使用されたことから、工場があった恵比寿駅の発車メロディーになったはずです」

 一番近いのは明治通りです、とタブレットで地図を検索していた晴が言った。

「駅のロータリーを出て、明治通りに入った……そこから渋谷、もしくは目黒方面に向かったのでは?」

「根拠は?」

石田の問いに、被害者の自宅は高輪です、と晴が地図を目で追った。

「品川区、港区、いずれも自宅に近づくことになります。わたしが犯人なら、警察官が張り込んでいる可能性が高い自宅から離れようとするでしょう」

 君はどうだ、と石田が目だけを向けた。さっぱりです、と平河が肩をすくめた。

「それぞれ、細かいことに気づくものだと感心していたぐらいで、何が何だか……ひとつだけ、犯人の年齢ですが、私より若い気がしました。勘ですが、三十歳前後でしょう」

 それだけか、と石田が机を軽く叩いた。

「犯人が車に乗っていたのは、誰でもわかる。君たちの意見は、当時の捜査本部で挙がったそれと変わらない。行動を追っているだけで、犯人の心を見ようとしていない。繰り返すが、重要なのは犯人と人質、その家族との関係性だ。犯人からの電話まで、十分ほどある。もう一度交渉人と犯人の会話を聞いて、よく考えるんだ」

 石田がタブレットで会話を再度流し始めた。全員が耳を澄ませたが、誰もが無言だった。

 

 

 石田がタブレットに触れ、次の会話を再生した。金はどうなってるという犯人の声に、三十分では何もできない、と交渉人が呻き声を上げた。

『妻の両親が解約した四千万円をここへ持ってくることになった。私と妻の預金を確かめたが、三千二百万円あった。合わせて七千二百万円、すべて君に渡す。それが限界だ。頼む、娘を返してくれ。せめて声を聞かせてくれ!』

 パパ、と小さな声がした。花子、と交渉人が叫んだ。

『パパだよ。大丈夫だ。怖いことは何もない。そこにいる人が、何か食べさせてくれる。何でもいい、好きなケーキを言いなさい。何が食べたい?』

 クラウンのショートケーキ、と女の子が囁いた。娘は無事だ、とボイスチェンジャーが言った。

『明日の昼、もう一度電話を入れる。七千二百万円をカバンに詰めておけ。後はまた指示する』

『言う通りにする。だから、娘を返してくれ。お願いです、食事と水を……花子は気が弱い子です。お願いですから、乱暴なことはしないでください。無事に返してくれれば、お礼をします。助けてくださいお願いします助けて――』

 唐突に通話が切れた。情報はここまでだ、と石田がタブレットを伏せた。

「身代金と引き換えに、警察は約二十時間の猶予を得たことになる。今から二十時間以内に犯人を特定し、翌日昼の連絡に備え、どう対処するか決定しなければならない。早い段階での人質の解放が望ましいが、無理をすれば命にかかわる。そのため、交渉人は犯人の身元を探ることに専念する。電話が三回あり、交渉人が話したのは二回だ。この間、両親と祖母は指揮官の判断で、自宅の別室にいた。一人娘が誘拐されて、動揺しない親はいない。犯人と直接話せば、何を言い出すかわからないから、そうするしかなかった。特に父親の混乱は酷く、憔悴しきっていた。犯人の声を聞かせ、心当たりはないかと尋ねても、何も考えられないと首を振るだけだったそうだ。さて、君たちは犯人像をどう推定する?」

 麻衣子は自分のタブレットに目を向けた。画面の端に16:41と数字があった。犯人が言った昼を午後十二時とすれば、二十時間を切っている。

 犯人は何らかの理由で大金が必要になり、誘拐の計画を立てたのだと思います、と紀美が言った。

「高層マンションの住人なら金があると考え、住人を探っていくうちに、鈴木が一部上場企業の役員で、小学生の娘がいることがわかった。犯人にとって重要なのは、子供の親に身代金を支払う能力があることで、鈴木なら一億円を準備できると判断し、誘拐を実行に移した……それがわたしの犯人のイメージです」

 悪くない、と石田が軽く手を叩いた。

「さまざまなイメージが君たちの頭に浮かんでいるだろう。思いついたことを、片っ端からメモして、それを時系列に沿って並べるんだ。矛盾があれば、新しい情報を加えて並べ直す。それが交渉人の手法で、村山くんの仮説は検討材料になり得る」

 ただし、欠落している部分もある、と石田が指摘した。

「計画的な誘拐だと君は考えているね? 一億円は大金だ。平河くんの勘では、犯人は三十歳前後、その年齢の人物が一億円を必要とする理由は何だ? 横領の穴を埋めるとか、株式投資の損失を取り返すためとか、そんな事情があったかもしれない。一億円の欠損を出すような事態は考えにくい」

 先物取引の失敗や詐欺による損金、と紀美が男のように肩をすくめた。

「それなら、数千万円単位の欠損が出ることはあるでしょう。一億円を要求しているのはある種のハッタリで、本当に必要だったのは半分の五千万円ということも考えられるのでは?」

 君の犯人像と矛盾していないか、と石田がからかうように言った。

「犯人は下見をして、条件に合う人間を探していたんだろう? そこまで計画的な人間が数千万、あるいは一億円の欠損を出すかな?」

 三十歳というのは平河さんの勘に過ぎません、と紀美が言った。

「もっと年齢が上かもしれませんし、三十歳だとしても一億円が必要な状況に追い込まれた者がいてもおかしくないでしょう」

 年齢については間違いないと思っていますよ、と平河が紀美に顔を向けた。二人の視線が絡まり、同時に目を逸らした。

 結論を急いではならない、と石田が二人の間に割って入った。

「研修の最初に言ったはずだが、まず自分自身を疑え。先入観や思い込みのために、未解決になった事件は多い。柔軟に考えるんだ。都合のいい情報だけをピックアップして論理を組み立てれば、捜査全体を誤った方向に導くことになる」

 全員に聞こう、と石田が僅かに声を高くした。

「今まで出た意見の中で、確実だと言い切れることはあるか?」

 犯人は三十歳前後です、と平河が言った。

「それは確かです。経験則ですが、自分と同世代、あるいは年上なら、あんな話し方はしません」

 結局、勘じゃないですかと紀美が口を尖らせたが、わたしも平河さんと同じ意見です、と麻衣子はメモに目をやった。

「ボイスチェンジャーを使っても、話し方の癖は隠せません。わたしと年齢が近い印象を受けました」

年齢については保留しよう、と石田が苦笑を浮かべた。

「その前に説明しておくことがある。誘拐事件における最優先事項は人質の救出と保護だが、安否確認が前提条件になる。事件を担当した交渉人は教科書通りにそれをしていたが、気づいた者はいるか? 娘の声を聞かせてほしいと懇願し、犯人はそれに同意した。娘の声が聞こえると、すぐに食べたいケーキは何かと言った。クラウンというのは、鈴木一家がよく行くデパートの喫茶店で、ショートケーキが有名だ。本人確認と安否確認を同時に行なったわけだが、人質の無事が確認できたことで、救出を最優先にすると方針が決まった」

 犯人逮捕と人質の救出はイコールでしょうと言った会澤に、ニアイコールと言うべきだ、と石田が指を振った。

「九〇パーセント以上は同じだが、絶対とは言えない。例えば巡回中の警察官が犯人と人質を発見し、犯人が人質を置き捨てて逃走を図ったら、犯人逮捕より人質の安全確認が先なのは言うまでもないだろう。話を戻すが、交渉人の任務は捜査対象を絞り込むことだ。身代金目的の誘拐事件では犯人の七割弱が顔見知りというデータがある。友人、親戚、同僚、仕事関係、近隣住人、その他だ。見ず知らずの犯人というのは、二割強と少ない。それを踏まえて考えてみてはどうだろう?」

「二度目の電話の発信場所は割り出せましたか?」

 会澤の問いに、新宿の戸塚だったと石田が答えた。

「児童公園があるが、そこが発信場所だとわかった。覆面パトカーが急行したが、着いた時には誰もいなかった。犯人は少女を車に乗せ、移動したと考えていい。警察は付近の防犯カメラの映像を調べ、不審な車を特定、ナンバーから盗難車と判明したが、犯人は新大久保の路上に車を乗り捨てていた。その後はバスで移動していたが、この時点ではそこまでわかっていなかった」

 やはり犯人は男ですね、と会澤が言った。

「車を盗んだのは確定情報ですから、確実な根拠と言えます。さっきも言いましたが、車を盗むのは簡単じゃありません。ドアロックを開けるのも、素人には無理です。エンジンの構造にも詳しかったでしょう。女性とは思えません」

 絶対とは言い切れないと首を振った石田に、犯人はブルートゥースに接続したスマホで鈴木の妻に電話をしています、と会澤が言った。

「いわゆる“ながら運転”は取締り対象になります。犯罪者心理として、白バイに見咎められる行動は避けたかったでしょう。しかも、人質の女の子が乗ってるんです。リスクを避けるためには、ブルートゥースを使うしかありません。二〇一〇年、ブルートゥース機能はほとんどのスマホに標準装備されていました。同じ機種であれば別ですが、少女のスマホを操作するのは誰にとっても難しかったはずで、盗んだ車のブルートゥースと接続できるような女性は、ぼくの知っている限りいません」

 仮説を立て、根拠を確認する、と石田が軽く机を叩いた。

「矛盾が生じれば、仮説そのものが間違っていることになるが、会澤くんの論理に破綻はない。その線でプロファイリングを進めてみよう。他に意見は?」

 犯人はなぜその少女を誘拐したんでしょう、と平河が首を小刻みに揺らした。

「高輪の高層マンションに住んでいるから、両親に経済的な余裕があると考えた? しかし、あの辺りには高層マンションが多く、居住者の数はそれなりにいるでしょう。分譲でも賃貸でも、独身者が住むマンションじゃありません。家族で暮らしている者がほとんどで、小学生ぐらいの子供がいる家は珍しくないはずです。他にも身代金を支払う能力がある親がいたのでは? どうして鈴木花子だったのか、そこがわかりません」

 事前に調べていたんです、と紀美が平河に顔を向けた。

「車を盗んだこと、少女の学校を知っていたこと、その後の動きを見ても、計画的な犯行です。あの辺りのマンションに住む者なら、高額な身代金でも支払えます。条件に合ったのが鈴木花子だったのでは?」

 大ざっぱなことを言うようですが、と平河が眉をひそめた。

「いくら少子化が進んでいるとはいえ、犯人の条件に合う子供は高輪周辺だけで百人以上いたと思いますよ。ですが、支払い能力があるのと、自由に動かせる金は違います。一億円はなかなかの大金ですよ。現金で動かせるのは四、五千万円ではありませんか? それに、いきなり預金全額を下ろせば、銀行だって怪しみます。犯人が鈴木花子を選んだのは、両親の資産状況を知っていたからだと考えるべきでは?」

 調べてわかったのかもしれません、と会澤が低い声で言った。

「家族で外出したこともあったはずです。高層マンションに住んでいるからという理由だけではなく、服やバッグ、靴などがブランド品であれば、金を持っていると考えてもおかしくありません。車も判断材料になります。少女が通っていた小学校のランク、両親が勤めていた会社からも、資産は推定できます。他の子供、その親と比較して、鈴木が高額な身代金を支払えると考えたのかもしれません」

 確かにそうです、と平河が口をすぼめた。犯人は鈴木家に金があると知っていた、と紀美が机を規則的に指で叩いた。

「一部上場企業の人事情報は新聞に載ることもありますし、他にも調べる方法はあったはずです。犯人は過去に犯罪歴があると考えられますし、証拠を残さないように動いています。計画的な誘拐なのも間違いありません。前科がある犯罪者で、鈴木家と直接的な関係はなかったと考える方が犯人像に近いと思います」

 そんなに簡単に個人情報が漏れますかね、と平河が頭を描いた。

「二〇一〇年ですよ? 個人情報の管理がうるさく言われるようになっていたのを覚えています。高層マンションに住んでいても、ブランド品を持っていても、高級外車に乗っていても、銀行預金の残高まではわからんでしょう。自分は同僚の給料を知っていますが、預金は見当もつきませんね。親の遺産が入ったとか、もともと金持ちだったとか、事情は人それぞれです。預金がいくらあるとか、そんなことを話したりしますか?」

 付き合いによるんじゃないですか、と会澤が苦笑いを浮かべた。

「それは冗談ですが、鈴木は一流企業の役員で、同僚はもちろん、仕事上の関係者に前科がある者はいないでしょう。会社もそれぐらいは調べているはずです。万引きや痴漢レベルならともかく、誘拐は重犯罪です。普通の人間にはできません。村山さんの意見にぼくも賛成です。犯人は男性で、反社組織の構成員、または何らかの関係がある者、そう考えていいと思いますが」

 問題を複雑にしてはならない、と石田が首を振った。

「犯人は人質の両親を知っていた、もしくは直接的な関係はないが、生活実態を調べていた、そのいずれかだ。どちらであっても捜査対象の絞り込みは可能だが、だからこそ誤った判断を下すと取り返しのつかない事態を招く。つまり人質の死だ。ここが分水嶺で、先入観や思い込みは交渉人の最大の敵となる」

 会澤と平河が顔を見合わせた。五分休憩しよう、と石田が言った。

「頭がオーバーヒートすれば、正しい判断は下せない。五分後、改めて検討を始める」

 会澤の肩を軽く叩いた平河が、会議室を出て行った。トイレ休憩、という意味だろう。

 紀美と晴がその後に続いた。麻衣子は会澤と顔を見合わせ、小さくため息をついた。

 

 

 五分後、紀美と平河が戻ってきた。廊下で電話をしていた石田が席に着き、並木くんはどうした、と顔を左右に向けた。

「自信がないので、研修から外れたいと……」顔を伏せたまま紀美が言った。「止めたんですが、出て行ってしまって……」

 緊張に耐えられなかったのだろう。石田の研修には、それだけの厳しさがある。誤った判断を下せば少女が死ぬ、と麻衣子もわかっていた。

 やむを得ない、と石田が肩をすくめた。

「資質ではなく、性格的に不向きな者もいるからね。それでは、犯人の身元について再検討を始める。意見のある者は?」

 考えれば考えるほどわからなくなって、と紀美が息を吐いた。

「犯人は反社組織の構成員だと思っていましたが、先入観なのかもしれません。犯人が大金を必要としていたのは確かですし、前科があるのも間違いないでしょう。常識的に考えれば、犯罪歴のない者に誘拐はできません。でも間違っていたらと思うと……」

 それでも決断を迫られる、と石田が言った。

「交渉人とはそういう仕事だ。君はどうだ?」

 違和感があります、と麻衣子は視線をタブレットに向けた。

「違和感とは?」

 石田の問いに、わかりませんと麻衣子は首を振った。何かあるのはわかっている。感じた、と言うべきかもしれない。

 犯人と鈴木家の関係に、自分は気づいている。でも、絶対とは言い切れない。根拠もない。

だから、意見を言えない。性格的な弱さは、麻衣子自身が誰よりもわかっていた。

 自信が持てない。自分を信じることができない。結論を出せないのは、そのためだった。

 肩をすくめた平河が、何も思いつきませんと言った。意見があるようだな、と石田が体の向きを変えた。

 休憩中に改めて考えてみました、と会澤が口を開いた。

「犯人は会社の同僚、あるいは取引先の関係者ではない、というのがぼくの結論です。鈴木が役員を務める商事会社は一部上場ですから、社員数も多いでしょう。従って、鈴木家の資産状況を把握できるのは、同じ部署もしくは関係の深い取引先の社員だけです。しかし、その中に犯罪歴がある者がいるとは思えません。会社関係以外で考えれば、友人もしくは親戚となります」

「それで?」

 犯人の声を聞き直しました、と会澤が耳に装着していたブルートゥースイヤホンに触れた。

「鈴木の実家は青森県ですね? それを頭に入れて聞くと、発音やイントネーションが標準語と少しだけ違っている気がしました。僅かな違いですが、鈴木の出身を考えると津軽弁の発音ではないか……直感に過ぎませんが、可能性はあるでしょう」

 仮説を立てたわけだ、と石田がうなずいた。

「続けて」

 おかしな言い方になりますが、犯人は標準語と津軽弁のバイリンガルだと思います、と会澤が先を続けた。

「身内や仲間とは津軽弁で話すが、外部の人間との会話では標準語を使う……犯人は電話で標準語を使っていましたが、それでも発音に津軽弁が残っていました」

 会澤がタブレットに触れると、交渉人と犯人の会話が流れ出した。

『鈴木だ。もしもし、花子か?』

『娘を誘拐した。昨日の夜、奥さんに一億円を用意しろ伝えた』

 会澤が音声をポーズにした。

「一億円を用意しろ“ど”伝えた、と犯人は言っています。標準語なら“一億円を用意しろと”になるはずです」

 もう一度会澤がタブレットに触れた。娘を誘拐した、と犯人が言った。

『昨日の夜、奥さんに一億円を用意しろ“ど”伝えた』

 確かに、と平河がうなずいた。専門家ではないので、調べたことしか言えませんが、と会澤がタブレットをグーグルの検索画面に切り替えた。

「単語、あるいは会話内の語中、カ行、タ行が濁音になる、という特徴が津軽弁にあるそうです。犯人は“一億円を用意しろと伝えた”と言ったつもりなんでしょうが、“一億円を用意しろ伝えた”と聞こえます。可能性が高いのは、犯人が青森県民あるいは青森県出身だということです。年齢は保留となっていましたが、鈴木の友人なら五十歳前後です。三十歳前後とは断定できませんが、五十歳にはなっていないと研修参加者全員が考えているはずです」

 そうだと思います、と紀美が言った。ですから鈴木の友人、知人ではありません、と会澤がタブレットを指で弾いた。

「会社関係ではない。友人知人でもないとすれば、他に鈴木家の資産状況を知っているのは親戚の可能性が最も高いのではないでしょうか。年齢を考慮すると、鈴木の甥もしくは従兄弟……要するに血縁者だと思います」

「それが君の結論か? 指揮官にどう伝える?」

 そこを重点的に調べるべきだと進言します、と会澤が言った。いいだろう、と石田が白い歯を見せて笑った。

「この事件の解決に寄与したのは、交渉人でもプロファイラーでもなく、捜査本部にいた所轄の刑事だった。彼は青森県の出身で、犯人と父親の会話を聞いて青森県民だと直感し、それを指揮官に話した」

 石田がタブレットに触れると、画面上の記事の黒塗り部分が外れた。誘拐事件の犯人を逮捕、父親の甥、という見出しがあった。

「指揮官はその刑事の意見を受け、鈴木に犯人と交渉人の会話を聞かせ、落ち着いて考えるように言った。甥の名前が出たのは、その時だった。ギャンブル依存で多額の借金があり、青森県から東京に逃げていたが、その時点で闇金から六千万円の返済を迫られていたのを、鈴木が思い出したんだ。鈴木は十年近くその甥とあっていなかった。娘を誘拐されたショックもあり、甥のことを思い出せなかったのは無理もない。甥の年齢は二十九歳、普段は標準語を使っているが、わずかな訛りとイントネーションはなかなか抜けないものだ。六年前、地元で車両窃盗の現行犯で逮捕されていた。叔父の娘を誘拐したのは、闇金業者に脅されたためで、他に返済手段がなかったこともあり、犯行に踏み切った。地元で鈴木は東京に出た成功者として知られていたし、犯人の親も資産状況をある程度わかっていた。犯人は親からそれを聞いて、一億円を支払う能力があると考えたんだ。そこからは簡単で、三時間後、アパートの自室に少女を軟禁していた甥が逮捕された。気の弱い男で、少女を傷つけるつもりはなかったと供述している。食事や水を与え、目隠し以外拘束はしていなかった。早期解決に至った理由は、所轄の刑事が津軽弁に気づいたことだ」

 模擬訓練は以上だ、と石田が時計に目をやった。

「犯人に繋がる情報は、交渉の中に必ず残っている。それを見逃してはならない。今回のケースでは、聞き逃してはならないと言うべきかな? 今日はそんなところだ」

 ブザーが鳴り、石田が会議室を出て行った。たいしたものです、と平河が軽く手を叩いた。

 麻衣子は何も言わなかった。気づいていたはずなのに、という悔いが胸にあった。

第5回につづく(6月2日更新予定)

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著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

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