大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第5回
2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第5回

ネゴシエイト5  思考実験

 

 人数が減りましたな、と平河がハイボールのグラスを手にした。麻衣子、紀美、そして会澤が小さくうなずいた。

 模擬訓練が終わったのは夕方五時だった。何をしたわけでもないが、お互いの顔を見れば疲れているのがわかった。

 精神的な疲労ではなく、肉体的に消耗している。脳をフルに稼働させていたため、体内の酸素のほとんどが頭に集中した感覚があった。

 お茶でも飲みませんか、と声をかけたのは麻衣子だった。普段はそんなことを言わないが、誰かと話してストレスを吐き出さなければ、頭がオーバーヒートするとわかっていた。

 その相手も、模擬訓練に参加した者でなければならない。説明や前置き抜きで話せる誰かが必要だった。

それは三人とも同じで、警視庁本庁舎を出る頃には、誰が言ったわけでもないが、酒を飲みながら話すと決まっていた。 

 有楽町線で月島まで移動し、もんじゃ焼きの店に入り、それぞれがドリンクをオーダーした。麻衣子と紀美はビール、飲めない会澤はウーロン茶、そして平河はハイボールだった。

 ひと月も経たないうちに半分になった、と紀美が中ジョッキを傾けた。

「晴が降りるとは思ってなかった。最初はともかく、前向きに取り組むようになってたのに……」

 向き不向きはありますよ、と会澤が苦笑した。

「ぼくも甘く考えていましたが、模擬訓練とわかっていてもプレッシャーがありました。交渉の現場では小さなミスも許されません。ひとつ対応を誤れば、最悪の事態を招くことになるでしょう。そんな現場に耐えられない、と並木さんが考えたのはわかりますよ。無断で辞めたのは、逃げるしかなかったからじゃないですか? それぐらい追い詰められてたんですよ」 

 わたしも逃げたかった、と麻衣子は無言で中ジョッキを見つめた。細かい泡がその中で揺れている。

 石田警視は意図的に心理的な圧をかけます、と平河が言った。

「態度や言葉が高圧的だというのではありません。もっと深い部分で、我々の心を揺さぶってくるような……意図してのことなのか、無意識なのか、そこはわかりませんが」

 時間が早いためか、店には他に二組の客がいるだけだった。奇妙な人ですよ、と平河がハイボールのお代わりを頼んだ。

「我々への要求が厳しいのは、良く言えば期待の現れなんでしょう。所轄にいるとわかりにくいのですが、思っていたより交渉人が対応すべき事件は多いようです。人材確保が頭にあるんでしょうな。重要なことではありますが、警察庁のキャリアが自らそれを行なうというのが不思議です……それだけ急を要しているのかもしれません。我々にプレッシャーをかけているのは、そのためでしょうね」

 優秀なキャリアなのはわかります、と会澤が言った。表情に不満に似た色が浮かんでいる。

「しかし、キャリアの本来の仕事は全国都道府県警察本部の統括、つまり管理や人事でしょう。現場で捜査の指揮を執ったり、交渉人として犯人と対峙するような立場じゃありません。いつ石田さんが警察庁に戻ってもいいように、能力の高い交渉人を育成する……それが義務だと考えているようですが、何かあったんでしょうか?」

 いずれは警察庁長官になるかもしれない人材だと上司が話してました、と麻衣子はうなずいた。

「幹部候補生なのは確かです。わたしは年次も下ですし、石田警視のことは名前しか知りませんでしたが、研修に参加する前、何人か先輩に話を聞きました。仕事ができて頭も切れるが、やり過ぎるところがある、そんな風に話していました。どちらかと言えば、否定的なニュアンスが強かった気がします」

 一般の会社でもそうだが、能力が高いから昇進が早いとは限らない。多くの場合、同僚、先輩後輩、上司や部下とのコミュニケーション能力に長けた者の方が組織内での評価は高くなる。

 三人にはあえて言わなかったが、麻衣子が知る限り、警察庁内で石田修平の評判ははっきりと悪かった。

独断専行、傍若無人、上層部に忖度しない、管理者としての適性に欠ける、目的のためには手段を選ばない、そんな噂が麻衣子の耳にも入っていた。

 警察庁は各省庁と人事交流を常に行なっている。全省庁の上に立つ官僚組織、内閣官房には慣例として警察庁の出身者が必ず入る。そこで求められるのは調整能力であり、事件解決の実績は関係ない。

 石田の調整能力は高いと麻衣子は思っていたが、官僚としての立ち回りが巧いとは思えなかった。そうであれば、もっと評判が良くなければおかしい。

 別の見方をすれば、誰もが石田を恐れているようでもあった。その正体は、異質な何かに対する恐怖心だ。

 私も諦めかけています、と平河がへら・・にもんじゃを載せた。

「交渉人としての資質がないのは、自分でもわかっていますよ。注意力に欠けると高校の教師に言われたのを思い出します。その点、会澤さんには驚かされました。犯人の津軽弁のイントネーションに、よく気づきましたな」

 平河さんにも違和感はあったはずです、と会澤がウーロン茶を飲んだ。

「村山さんも遠野さんもそうでしょう? 何となくですが、アクセントが標準語と違うと……一億円を用意しろ“ど”は、わかりやすい例として挙げただけで、もっと根本的なイントネーションの違いを聞き取っていたのでは?」

 でも指摘できなかった、と紀美が別に頼んでいたウインナーを齧った。

「何か変だ、どこかおかしい、とわたしも感じていた。最初に交渉人と犯人の会話を聞いた時からよ。だけど、何度も同じ音声を聞いていると、それがどんどん薄れていった。慣れたからじゃなくて、会話の内容を分析する方が優先されると思ったの。あなたは?」

 気づいていたつもりです、と麻衣子は言った。

「でも、自信がなくて……判断ミスをしてはならない、そればかり考えていました。誘拐された少女の命が懸かっていると思うと、何を言うのも怖くて……」

「会澤くんは交渉人になるつもりなの?」

 紀美の問いに、微妙ですねと会澤が答えた。

「興味はあります。ただ、ぼくは二カ月前に本庁勤務が決まったばかりで、捜査官としての経験が足りません。いわゆる刑事として、もっと現場を踏まないと使い物にならないでしょう。警察官を志したのは市民の安全と治安を守るためで、交渉人もそれは同じだと思いますが、扱う事件が特殊なのも確かですよね? ぼくにはもっとやるべき仕事があるんじゃないか、率直に言えばそういうことです」

 ずいぶん真面目なご意見ですこと、と紀美が会澤の肩を叩いた。

「市民の安全と治安を守る? 今は交渉人より刑事として経験を積みたい? それなら研修から降りてよ」

 麻衣子は紀美の肘を引いた。酔っているのは、少し前からわかっていた。

 今夜は飲みましょう、と平河がグラスを掲げた。

「模擬訓練とはいえ、犯人は逮捕され、人質も無事保護されたんです。乾杯しませんか?」

 かんぱーい、と紀美が大声を上げた。麻衣子に目をやった会澤の頬に苦笑が浮かんでいた。

 

 

 三月に入ると、講義の内容がより具体的になった。

 それまでは基礎心理学と応用心理学、いずれも概論という形だったが、各論ごとに詳しい教え方になり、ただ講義を聞くだけではなく、意見を求められることも多かった。

 講師も大学の教授、准教授に限らず、商社マン、スーパーマーケットのバイヤー、実演販売者、証券会社のセールスマンなど、多岐にわたった。

 いずれも石田がコネクションを持つ者で、職業、年齢、学歴、出身など何もかもが違うにもかかわらず、石田に対するリスペクトが感じられた。

 その間、石田も講師の一人として講義を行なっていたが、専門性の高い話をしていたわけではない。基本的には過去に交渉が失敗に終わった事件を取り上げ、その理由を考えるという教え方だった。

 三月十二日、金曜の午後三時半、石田が壇上の机の前に座り、警視庁において交渉人の歴史はそれなりに長いと話し始めた。それは石田の口癖でもあった。

「以前にも話したが、昭和三十九年に本庁刑事部捜査第一課内に特殊事件捜査犯係が設置されている。半世紀以上のデータが蓄積され、研修、育成もそれに基づいている。つまり、我々にはマニュアルがある。だが、交渉が失敗に終わった事件は少なくない。なぜだと思う?」

 石田の問いに、マニュアルだけでは対応できない事件が起きるからでしょう、と会澤が答えた。

「それぞれの事件には相違点があるはずです。交渉においては、犯人の心理が常に揺れていると考えられます。マニュアルだけでは、アクシデントに対応できません」

 マニュアルに沿って我々は交渉を行なう、と石田が言った。

「基本は大事だが、私に言わせれば挨拶に近い。朝、君たちと会えば、おはようと言うし、夜ならお疲れ様と言うだろう。基本を守れない者に、交渉はできない。だが、面白いもので、マニュアルを守っていれば交渉に成功するとは限らない。交渉においては想定していなかったアクシデントが必ずと言っていいほど起きるし、その際の対応が正しかったのか間違っていたのかは、結果が出ないとわからない。マニュアルを守りつつ、臨機応変に対応し、更に幸運や偶然が味方についた時、交渉は成功する。こんなことを言ったら身も蓋も無いが、交渉の場において真っ先にやるべきなのは神頼みかもしれないな」

 今のは冗談だと苦笑を浮かべた石田が、失敗には必ず理由があると言った。

「よく言うだろう? 勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなしと……交渉失敗はイコール警察の敗北だが、ほとんどの場合、その原因は犯人を感情的にさせたためと考えていい。わかりやすいのは怒りだな。犯人が怒り、いわゆるキレた状態になると、交渉不能になる。その後どうなるか、説明はいらないな?」

 そうは言いますが、交渉人が犯人を怒らせるようなことをしますかね、と平河がゆっくりと首を傾げた。

「交渉人も警察官です。警察官には長年の経験があります。犯人の話を黙って聞き、要求に対してノーと言わない。以前、石田警視が話していたことですが、犯人を刺激するような言葉を使う警察官はいないでしょう。交渉人であれば、うまく説得できるのではありませんか?」

 交渉人は説得をしない・・・・・・・・・・、と石田が首を振った。

「交渉人は犯人と対等の立場で話す。人間同士がコミュニケーションを取るために重要なものは何だ?」

 石田と目が合い、麻衣子は思わず立ち上がった。

「それは……会話です。正確に言えば、会話を試みる努力を続けることだと思います」

「会話を通じ、互いを人間として認め合う」座っていい、と石田が小さく笑った。「交渉人が話す相手は犯罪者だが、むしろ何らかの理由で窮地にいる者と考えるべきだ。助けてあげる、救ってやるというような、上からの発言をしてはならない。だからといって、下手に出る必要もない。お互いを問題解決のパートナーと考えるんだ。交渉人だけでも犯人だけでも問題は解決できない。お互いが理解し、協力し合わなければならない。話すきっかけとして、交渉人は自身の情報を開示することもある。自分の名前、年齢、プロフィールを伝え、人間性の理解を促す。二人でトラブルを解決したいと誠意を込めて話しかける。コミュニケーション不足が交渉を失敗に導くケースは、君たちが考えているより遥かに多い。相互理解の前に解決策を提示すると、犯人は交渉人を信じなくなる。警戒心が先に立つためだ。そこがポイントだな」

 言いたいことはわかりますが、と紀美がこめかみを強く指で押した。

「時間的制約がある場合はどうすればいいんです? 強引にでも説得を試みるべきでは?」

 何度でも言うが、交渉人は交渉も説得もしないと石田が首を振った。

「犯人を感情的にさせてはならないと言ったが、事件の当事者である犯人は最初からまともな精神状態じゃない。興奮しているし、混乱もあるだろう。錯乱状態、あるいは逆上という言葉を使ってもいいが、そんな相手に冷静さを求めても効果はない。理屈も論理も通用しない」

「では、どうすればいいんです?」

 沈黙だ、と石田が唇に指を当てた。

「叫び、怒鳴り、喚いている犯人に対し、沈黙を続けるのは難しい。人間であれば、どうしても言葉をかけてしまう。その意味で、交渉人にとって最も重要なのは忍耐力かもしれない。付け加えると、私が言った沈黙とは、完全な無言という意味ではない。犯人から問いかけがあれば、最小限の言葉で答えなければならない。ただし、使っていいのは“はい”“いいえ”その二つのワードだけだ。イエス、ノーという意味ではなく、事実関係の確認のためのワードだ。時間の経過と共に、犯人の体力は落ちていく。極度な興奮状態に陥っている者ほどそうだ。犯人が疲れるのを待て。時間的制約があった場合と村山くんは言ったが、その時間を稼ぐのが交渉人の仕事だ。一分で状況が変わることもある。それを待てない交渉人は、必ず失敗する」

 どんな事件でも解決には時間がかかる、と石田が腕時計に目をやった。

「交渉人が臨場する事件も例外ではない……私はこの後、会議の予定が入っている。次回の講義については河井が説明する」 

 石田が口を閉じるのと同時に、河井が入ってきた。後は頼む、と肩を叩いた石田が足早に出て行った。

 十分ほどある、と河井が口を開いた。

「来週月曜、テストを行なう。研修が始まってひと月半、各自の適性を計るには十分な時間が経ったと我々は考えている」

 ここに四台のスマホがある、と河井が持っていた布の袋を開いた。

「月曜の朝八時、君たち四人にこれを渡す。どれを選ぶかは君たちに任せる。八時半になったら、登録してある番号に電話をかけろ」

「誰と繋がってるんです?」

 会澤の問いに、アルバイトの大学生だと河井が答えた。

「前に高遠大学の三石教授の講義があったのは覚えてるな? 三石ゼミの三年生から男女二人ずつを選んでもらった。全員二十歳で、警察OBの名簿をデジタルデータにするアルバイトと伝えてある。念のために言っておくが、昭和四十年の名簿で、機密情報ではない」

 これがその名簿だ、と河井が薄い冊子を机に置いた。

「名前、生年月日、退職時の所属、階級、その他が載ってる。表彰された者もいるが、それもデータに含まれている。単純作業で、一人のデータを入力するのに一分もかからない。平均すれば一分で二、三人だろう。この名簿には約二千人の名前があるが、できるだけ多くと四人の大学生には伝えてある。午前九時スタート、昼の十二時から一時間の休憩を挟み、夕方五時に終了する。実働時間は七時間、一分で二人のデータを入力したとすれば、八百四十人前後になる」

 それは単純計算ですよね、と紀美が尖った声で言った。

「時間が経てば、入力スピードは落ちます。実際にはもっと少ないのでは?」

 おそらくそうだろうし、他にも少なくなる理由がある、と河井がうなずいた。

「アルバイト代は日給一万円で、それは支払済みだ。作業をするのは彼らの部屋、四人とも地方出身者で、一人暮らしをしている。作業を監視する者はいない。言い方は悪いが、誰でも手を抜くだろう。当然、効率は落ちる。八百人以下になってもおかしくないが、意図的に我々はこの状況を作っている」

 君たちの交渉力でデータ入力の効率を上げろ、と河井が言った。

「君たちは八時半に電話をかけ、五分間だけ話していい。何をどう話すかは、君たちが考えろ。話した結果によっては八百四十人どころか、九百人を越えてもおかしくない。君たちの交渉力を試すのがこのテストの目的だ。夕方五時、大学生たちは入力データをこちらへ送る。その数が最も少なかった大学生を担当した者は今後研修に出席しなくていい」

 失格ということですかと尋ねた平河に、河井がうなずいた。

「何か質問はあるか?」

 何を言えばいいんです、と会澤が顔をしかめた。

「こちらの事情を説明して、限界まで努力しろ、そう言っても構わないんですか?」

 構わん、と河井が言った。

「君たちが何を話すかは、それぞれの考えによる。ただ、交渉人研修生としてのプライドがあるなら、そんなことは言わんだろうがな。五分間を有効に使い、大学生のモチベーションを高めろ。君たちの言葉で彼らを動かせ。なお、君たちが大学生と話す様子は録画して、後で検討する。彼らが午前九時に作業を始めたら、その後の行動は自由とする。夕方五時までにここへ戻ること。その場で結果が出る。いいな?」

 禁止事項はありますか、と麻衣子は左右に目をやった。特にない、と河井が答えるのと同時に、ブザーが鳴った。

 月曜の朝八時だ、と最後に言った河井が会議室を後にした。意味がわからないと紀美がつぶやいたが、麻衣子もそれは同じだった。

 

 

 三月十五日、月曜日。麻衣子は七時半に会議室に入った。石田も河井もいない。他の三人もまだ来ていなかった。

 金曜、河井が出て行くと、誰もが困惑した表情を浮かべていたが、相談はしなかった。できなかった、と言うべきかもしれない。

 河井の説明で、石田の意図はわかったつもりだ。アルバイトの大学生は犯罪者ではないが、コミュニケーションの取り方によってモチベーションが変わる。与えられた五分間という制限時間の中で各人、何ができるのかを試すテストだ。

 だが、高遠大学の三石ゼミの学生というだけで、名前はもちろん、性格もわからない。相手が男性なのか、女性なのかもだ。

 条件を均等にするのがその目的なのはわかるが、初めて話す相手に何をどう言えばいいのか。交渉人は交渉も説得もしないと石田は話していたが、五分間ではどうしようもない。

(じたばたしても始まらない)

 開き直りに近い感覚が麻衣子の中にあった。とにかく、大学生は犯罪者ではない。ミスがあっても、誰が傷つくわけでもない。

 席で待っていると、平河が入ってきた。すぐに河井が来て、まだか、というように会議室を見渡した。

 七時五十五分、紀美と会澤が席に着いた。五分前行動は警察官の習慣だ。

 河井が布の袋から四台のスマホを取り出し、机の上に並べた。

「どれが誰に繋がっているのか、自分も聞いていない。混乱を避けるため、一から四まで番号を振ってある。どれを選んでもいい。一台取って、席に戻れ」  

 ジャンケンでもしますかと苦笑した平河に、そうしましょうと紀美がうなずいた。順番を決めるだけだから、簡単な方法で構わない。

 何回かジャンケンを繰り返し、紀美、平河、会澤の順でスマホを取り、自分の席に戻った。麻衣子は最後だった。

 手の中のスマホに小さく切ったガムテープが貼ってある。そこに四と数字が記されていた。

 一は会澤だな、と河井が顔を向けた。

「席を移動しろ。前列の左端だ。二は村山か? 同じく前列の右端へ……三の平河は後列の左端、四の遠野は後列の右端だ」

 指示に従って席を移ると、そこにブルートゥースイヤホンとタブレットが置かれていた。スマホに同期の上、耳に装着、と河井が命じた。

「席を離したのは、通話相手の声を聞きやすくためだ。電話をかける前に、タブレットの録画ボタンを押せ。同期が完了したら、指示があるまで待機。自分は一度ここを離れるが、すぐに戻ってくる」

 河井が出て行くと、参ったな、と会澤が頭を掻いた。紀美と平河は無言だ。

 考える時間は週末に十分あった。電話の相手に何を言うか、全員が決めているだろう。条件は同じで、有利も不利もない。

(でも、運はある)

 麻衣子は同期を終えたスマホを見つめた。番号に触れれば電話が繋がり、男性か女性か、どちらかが出る。

(女性であってほしい)

 研修が始まって、ひと月半が経っている。その間、交渉人について調べ、考えた。警察庁の窓際に座っているより、交渉人として働きたいと強く願うようになっていた。

 研修中、何度か広岡に呼び出され、途中経過の報告を命じられた。高圧的な物言いに反感があった。

 警察組織における女性のポジションは常に低い。他の省庁と比較にならないほどだ。

 全国の警察本部、それを統括する警察庁、いずれも事情は変わらない。女性軽視、悪く言えば女性蔑視がまかり通っている。女性キャリアに発言権はなく、上長の命令に従うだけの存在だ。

 この数年、社会的なコンプライアンスに配慮して、女性管理職を増やす動きがあるが、百年経ってもその割合は一〇パーセントを越えないだろう。警察はこの国の極端な縮図だ、という思いが常にあった。

 麻衣子が交渉人研修に参加しているのは、男女の比率を合わせるためだ。だが、本気で交渉人を目指したらどうなるのか。

――これは名目上の異動だ。三カ月間の研修が終われば、君を警察庁へ戻すことになっている。石田警視も了解済みだ――

 異動の辞令が出た時、広岡はそう言ったが、石田は本当に了解しているのか。そうは思えなかった。

 ひと月半、石田を見てきた。感情に流されない性格で、情にもほだされないだろうが、能力を正当に評価する男、という印象があった。 

 もし、自分に交渉人としての適性があれば、石田は必ず残すだろう。警視庁刑事部捜査一課特殊事件捜査犯係の課長代理として、優秀な人材を欲している。誰であれ、必要と判断すれば石田は離さない。

 警察庁キャリアでありながら、自ら進んで警視庁に出向しているのは、信念に基づく行動で、柔軟に見えるが、一度決めたら考えを変えない頑固さを併せ持っている。

 石田の経歴について、詳しいことは何も知らない。ただ、犯罪を憎んでいるのは確かだった。

 単に正義感が強い、ということではない。過去に何かがあったのではないか、と麻衣子は思っていた。麻衣子自身もそうだったからだ。

 強盗に殺害された祖母の顔が頭から消えたことはない。祖母の死体を発見したのは麻衣子で、苦悶に満ちた表情が血に染まっていた。

 あの時から、犯罪と犯罪者を憎み続けてきた。あの時、自分には何もできなかった。

 中学生だから、というのは言い訳に過ぎない。大学を卒業し、警察庁に入庁してからも、何もできずにいるのは同じだ。

 祖母の無念、そしてあらゆる犯罪の犠牲者のために、犯罪者と戦うと決めていた。だが、ドラマや映画の刑事のように犯人と殴り合うわけにはいかない。

交渉人として捜査の最前線に立つことなど、考えたこともなかったが、交渉人の実態を知るにつれ、他に道はないとさえ思うようになっていた。

 電話の相手が女性であってほしいと願ったのは、その方が有利だからだ。もちろん個人差はあるが、今回のような単純作業のアルバイトであれば、男性より女性の方が仕事を確実にこなすはずだ。

 ドアが開き、河井が戻ってきた。しばらく腕時計を睨んでいたが、時間だ、と顔を上げた。

「電話をかけていい。五分以内に会話を終えろ」

 麻衣子は登録されていた十一桁の番号にタッチした。呼び出し音が七回鳴ったところで、もしもし、という声がした。男だった。

「わたしは警視庁の遠野といいます。アルバイトの件で連絡しています」

『ああ、三石教授のあれですよね? わかってます、ちゃんとやりますよ』

 早口の返事に、麻衣子は目をつぶった。話し方で性格はわかる。ちゃんとやりますと言う男が、ちゃんとやった試しはない。

「教授から聞いてると思いますが――」

 はいはい、と男が言った。言葉の軽さに目眩がするほどだった。

『九時になったら始めればいいんですよね? 夕方の五時に終わったら入力したデータをそっちのアドレスに送信する。それでいいんでしょう?』

「失礼ですが、名前を確認させてください」

『ぼくですか? 本橋です。本橋ノリミチ、三石ゼミの学生です』

 本橋くん、と麻衣子は声のトーンを落とした。

「今、自分の部屋ね? アパート、それともマンション住まい?」

 何の話ですか、と本橋が戸惑ったような声を上げた。

『ワンルームマンションですけど、それが何か?』

 高遠大学のキャンパスが市ケ谷にあるのは知ってる、と麻衣子は言った。

「大学からは近い?」

『曙橋です。わざわざ不便なところを借りたりはしませんよ』

「三石教授の紹介で、このアルバイトをすることになった。そうよね?」

『はい』

「では確認させてください。住所をお願いします」

『住所ですか? ええと、新宿区富久町……』

 麻衣子はタブレットに別窓を開け、ストリートビューを使って新宿区富久町を検索すると、本橋が住んでいる曙橋エメラルドマンションの映像が出てきた。

「目立つデザインね。家賃が高いんじゃない?」

『そんなことないですよ。曙橋の駅から離れてますし、狭いワンルームで、普通じゃないですか?』

 時計に目をやった。三分が過ぎている。

 本橋くん、と麻衣子はブルートゥースイヤホンに中指を当てて自分の計画を話し、通話を切った時点で、四分二十秒が経っていた。

 平河、会澤が順に通話を終え、粘っていた紀美がブルートゥースイヤホンを外したのは四分五十九秒だった。

 夕方五時までにここへ戻れ、と河井が言った。

「遅刻は厳禁だ。いいな? スマホを席に置いて退出しろ」

 命令に従い、麻衣子たちは廊下に出た。最後に出てきた平河が、どうしますかね、と時計を見た。

「まだ九時前です。喫茶部でお茶でも飲みますか?」

 うなずいた紀美が、あなたはどうするの、と目で聞いた。用事があるので、と麻衣子はコートの袖に腕を通した。

「すいません、失礼します」 

 エレベーターで一階に降り、桜田門駅から有楽町線で市ケ谷駅に出た。

 地上に出て、靖国通りでタクシーを停めた。往復一時間、とつぶやきが漏れた。

 

 

 夕方四時五十分、麻衣子は会議室に戻った。会澤と平河が立ったまま話していた。

「村山さんは?」

「一時間ほどお茶を飲んでましたが、一度自宅へ帰ると言ってましたよ」

 遠野さんこそどこにいたんです、と平河が顔を覗き込んだ。

「時間潰しに苦労しましたな。自分は会澤さんと映画をハシゴしましたが、それでも時間が余って……警察官がパチンコってわけにもいきませんし、参りました」

 ドアが開き、石田と河井が入ってきた。時間が空いたんでね、と石田が笑みを浮かべた。

「様子を見に来た。河井、どうなってる?」

 まだ五時前です、と河井が苦笑した。

「あと六分あります。五時ジャストに作業終了、その後四人の大学生が入力したデータをこちらへ送ってきます。それまで待ってください」

 石田が壇上の席に腰を下ろした。河井は別の席でパソコンを立ち上げている。

 戻ってきた紀美が石田に気づき、遅れてすいませんと言って自分の席に座った。ぎりぎりセーフだ、とパソコンに目をやりながら河井が言った。

「そのまま待て。すぐに結果が出る」

 数分、沈黙が続いた。データが届きました、と河井が石田に顔を向けた。

「会澤は九百十一件、村山は八百六十件、平河が八百八十二件……遠野は千二十二件、以上です」

 麻衣子は安堵の息を吐いた。紀美の表情が険しくなっている。

 思っていたより差はつかなかったが、と石田が軽く机を叩いた。

「村山くんが一番少なかった。残念だが、所属していた署に戻ってもらう。君の研修は今日で終わりだ」

 納得できません、と紀美が石田を睨みつけた。

「四人の大学生の入力スピードは、能力によって違います。速い者も遅い者もいたはずで、わたしと平河さんの差は二十二件しかありません。誤差の範囲だと思います。こんなことで研修から外されるんですか?」

 不本意かもしれないが、数字は嘘をつかないと石田が言った。

「そして、君と他の三人の間には明確な違いがあった。このテストは君たちがアルバイトの大学生とどのように交渉し、作業を順調に進めるために何を話すか、そこがポイントだ。君たちと大学生の会話を映像で確認したが、村山くんはひとつ大きなミスをしていた」

「わたしがミスを? 何です?」

 交渉に正解も間違いもない、と石田が首を振った。

「だが、交渉人にはルールがある。交渉人と交渉相手の立場は同じだ。どちらが上でも下でもない。対等に接し、相互理解の下、交渉を進める。そのために必要なのは名前の確認だ」 

 名前、と紀美がつぶやいた。名前は人格でもある、と石田が言った。

「村山くんは名乗っていなかった。相手の名前も聞いていない。そうだね?」

 その必要はないと考えたからです、と紀美が言った。

「大学生はわたしが警察官であること、アルバイトの内容も知っていたし、警視庁の担当者から連絡があるのもわかっていた、そうですよね? 名前の確認より、作業に当たるモチベーションを上げる方が優先されると考えました」

 言い分はわかる、と石田がタブレットに触れた。流れてきたのは紀美の声だった。

『……これは警視庁の資料で、できるだけ速く、正確に作業を終わらせることが重要になる。絶対に五時まで手を止めてはならない』

 ポーズボタンを押した石田が顔を上げた。

「四人の大学生がどこまでこの作業に本気で向き合っていたのか、それは私にもわからない。三石教授に伝えたのは、警視庁の名簿をデジタルデータにするアルバイトということだけだ。地方出身者で部屋を借りている者と条件をつけたのは、一人で作業ができる環境を持つ者でなければ君たちにとってフェアと言えないからだ。高遠大学の三石ゼミは人気があり、四人とも成績が優秀なのは聞くまでもなかった。とはいえ、そこは大学生だ。監視する者がいないアルバイトなら、適当にというと語弊があるが、真剣に向き合わなくてもいいと考える者がいてもおかしくない」

 要領がいい者ほどそうかもしれない、と石田が話を続けた。

「彼ら彼女らのモチベーションを上げるには、コミュニケーションが必須だ。村山くんは効率を重視して、人間関係の構築を怠った。最終的な数字の差は誤差じゃない。ある意味では当然の帰結だ」

 そうでしょうかと口を尖らせた紀美に、他の三人はまず自分の名前を言い、相手の名前を聞いている、と石田が机を指で叩いた。

「名前を呼ぶことでコミュニケーションを取るのが交渉の基本だ。実際の現場でも、交渉人は必ず名乗り、相手の名前を確認する。もちろん、犯罪者が素直に自分の名前を言うことはないが、その時は呼び名を決める。君、お前、あなた、その他二人称代名詞ではなく、名前そのものに人格を持たせる。そこが理解できない者は交渉人に向いていない」

 理解はしています、と紀美が言った。

「ですが、それとこれとは違うと……今回の場合、お互いの立場はわかってるわけですし……」

 君の熱意は伝わっただろう、と石田が肩をすくめた。

「単なるアルバイトではなく、重要な仕事だということもね。だが、相手には君が誰なのか、なぜそんな指示を出すのか、バックボーンがわからなかった。それでは誰も頑張ろうとは思わない。相手を感情的にさせてはならないが、感情に訴え掛けることは重要だ。わかっていたはずなのに、なぜそれをしなかった?」 

 しばらく黙っていた紀美が口を開いた。

「本庁勤務を希望していました」

 知っている、と石田がうなずいた。理由があります、と紀美が石田の目を見つめた。

「刑事は女性に向かない職業、とよく言われます。間違ってはいません。犯人逮捕には危険が伴います。抵抗されれば、逮捕術を学んでいても、女性の力ではかなわないこともあるでしょう。ですが、それを言っていたら、いつまで経っても警察は変わりません。本庁刑事部に勤務する女性捜査官が増えれば、後から続く者が働きやすくなると考えていました」

 警察に限った話じゃない、と石田が舌打ちをした。

「男性も女性も関係なく、それぞれが能力を発揮できる社会を目指すべきだが、現実は違う。特に警察組織は酷い。女性蔑視どころか、女性差別が横行している。だが、それと関係なく、君は交渉人に向いていない。女性だから落とすのではない。適性に欠けるから落とした。君ならその意味がわかるはずだ」

 石田がドアを指さした。肩を落とした紀美が一礼して出て行った。

 

 

 いいんですか、と平河が口を開いた。

「たった二十二件です。大きな差だとは思いません。村山さんは誰よりも熱心で、交渉人について学んでいました。ご自分の判断が正しいと言い切れますか?」

 仮に君と村山くんの数字が逆だったとしても、と石田が言った。

「彼女を落としただろう。彼女は基本的なミスを犯した。熱意もわかるし、女性捜査官の苦しい立場も理解しているつもりだが、私が必要としているのは優秀な資質を持つ者で、警察官としての能力と交渉人のそれは違う」

「そうかもしれませんが……」

 君は基本に忠実だった、と石田がタブレットに触れた。相原真由さんですね、という平河の声が流れ出した。

『相談の相に、はらっぱの原、真実の真に理由の由、相原真由さん、私は警視庁の平河といいます。たいらの平にさんずいの河です。高遠大学で三石ゼミに入っているんですね?』

『はい、そうです』

『言いにくいのですが、警視庁のデジタルデータ化が遅れています。非常に重要な仕事で、信頼できる方にしか頼めません。あなたは優秀な学生で、真面目な方だと三石教授から聞いています。何としても間に合わせなければならない事情はわかってもらえますか?』

『まあ、何となくですけど』

『今日中に二千件のデータ入力を終えないと、各部署のデータ作成がやり直しになります。あなたが渡された名簿には、二千人分の情報が載っていますが、すべてデジタルデータに変換してもらえますか?』

『……二千人は無理だと思います。ざっと見ましたけど、七時間でできる量とは思えません』

『では、手分けしてはどうでしょう? 私も入力作業を手伝います。相原さんは“あ行”から始めてください。私は“わ行”、名簿の最後のページから入力していきます。お互いに協力すれば、トータルで二千件になると思いますが』

『わかりました。それなら何とかなるかもしれません。やってみます』

 譲歩的依頼法をうまく使っている、と石田が音声を止めた。

「今日までの講義の中で、人間の心理について学んだはずだが、誰の心の中にも返報性の原理がある。わかりやすく言えば、貸し借りという意識だ。借りを作れば、返さなければならない。逆も同じだ。人種、宗教、文化を問わず、それはDNAレベルで脳に刷り込まれている。無意識の契約という表現をする心理学者もいるが、そういう規範が社会を潤滑に回しているんだ」

 返報性の原理はさまざまなセールスの場面で用いられる、と石田が先を続けた。

「平河くんが使ったのは、ドア・イン・ザ・フェイス・テクニック、略してDIFTだ。状況を説明し、その上で過大な要求をする。七時間で二千人分のデータを入力するのは、どう考えたって無理だ。当然、相手は断る。そこで、要求を半分にする。断るという行為は心理的な借りとなる。平河くんの譲歩を彼女は受け入れ、半分ならできるかもしれないと答えた」

 不精髭を撫でた平河に、しかも君は自分も入力作業をすると申し出た、と石田が言った。

「もちろん、君はそんなことをしていない。一種の心理的アリバイだな。だが、それもまた貸しになる。千人分のデータは膨大な量だが、借りの意識を持たせることで、彼女のモチベーションを上げることに成功した。結果として千件には届かなかったが、それはどうでもいい。今までの研修を理解していたから、DIFTを使いこなせた。そこが村山くんとの大きな差だ」

 十日ほど前、車の営業マンが家に来た時のことを思い出したんです、と平河が鼻の下をこすった。

「プロのディーラーなら、客の懐具合がわかると話してました。とはいえ、それなりに大きな金額を支払うわけですから、誰でも慎重になります。買い手の背中を押すのがディーラーの仕事だと……まずわざと高級車を紹介し、とてもじゃないが無理だと断らせる。その後、客が購入できる予算内の車を薦めると、スムーズに商談が成立するそうです。参考にしたつもりはありませんが、無意識で使っていたんでしょう」

 君も相手の名前を真っ先に聞いていた、と石田が会澤に顔を向けた。

「君の使った手法はアンカリング効果の応用だ」

 確認してみよう、と石田がタブレットに触れた。桑山太一くん、という会澤の声が聞こえた。

『高遠大の三年生だね? 三石ゼミの学生ってことは、成績もいいんだろう。今回のアルバイトについて、詳しい事情は聞いているかい?』

 単純作業ですよね、とやや高い声で男が言った。

『名簿をパソコンに入力して、デジタルデータに変換する、それだけの仕事だと聞いています』

 君にとっては簡単だろう、と会澤が言った。

『退屈で欠伸が出るんじゃないか? どれぐらいのペースで進められる?』

『まだわかりませんが、一時間で百人分は問題ないと――』

『君がかい? そんなことはないだろう。百五十人でも可能なはずだ。問題はペース配分で、最初から飛ばすと後に響く。ぼくも同じ仕事をしたことがあるから、よく知ってるんだ。一分で三人の入力を目指せばいい。入力情報が多いと厳しいが、気にしなくていい。一定のペースを保つんだ。君ならできるさ』

『そうでしょうか?』

『保証するよ。改めて言うけど、ペースを崩さないこと。他に三人、同じゼミの学生がこのアルバイトをしている。ぼくの読みだと、三人とも千件前後を入力するはずだ。君にできないはずがない』

『とりあえず、やってみますけど……』

 タブレットの音声を止めた石田が、アンカリング効果とは何か、と三人の顔を順に見た。

「判断のための情報を提示されると、一方的であっても人間はその情報を基準とし、そこに合わせようとする。アンカリングとは錨によって船をつなぎ止めておくことだが、ここでは思考の固定化を意味する。会澤くんは最初に相手の能力を高く評価した。早い話、おだてたわけだ。その上で、他の三人は千件前後を入力すると基準を示し、それが目標数値となった。目標が明確になると、人間のパフォーマンスは向上する」

 アンカリング効果の例として価格の二重表示が挙げられる、と石田が言った。

「家電量販店で、メーカー希望小売価格と、その店での販売価格を並べているのを見たことがあるだろう? メーカーは十万円を希望しているが、うちの店では八万円で販売します、そんな感じだ。この場合、錨になっているのは十万円という価格で、購買者にとってはそれが基準となる。他では十万円、その店では八万円なら、今買った方がいいと思わせるのが狙いだ。会澤くんは千件前後という数字を錨にして、そこを目指せと示唆した。暗示と言ってもいい。できるはずがないと思ってやるのと、できるかもしれないと思ってやるのとでは、結果が違ってくる。アンカリング効果によって一定の結果を引き出せるのは、心理学者にとって常識でもある」

 そこまで深く考えたわけじゃないんです、と会澤が頭を掻いた。

「大学生の時、僕も似たようなアルバイトをしたことがありました。とんでもなく分厚い名簿を渡されて、それをデジタルデータ化しろと命じられましたが、あまりにも量が多すぎて、どうしていいのかわからないまま適当にやっていたら、翌日、本社から指導員が来て、今日のノルマはここまでとページ数を指示したんです。時間前に終わったら帰っていいし、バイト料も支払うと言われて、それでやる気が出ました。後でわかったんですが、過去のアルバイトのデータから、目安となるページ数が決まっていて、指導員はそれを言っただけでした。思惑通りというか、早く終わって帰ったことは一度もありません。騙されたというと違うかもしれませんが、ちょうどいいラインを彼らは知ってたんです」

 声のかけ方もいい、と石田がうなずいた。

「話し方、というべきかな? 声だけでも、君の人柄が伝わっただろう。年下の人間に対し、下手に丁寧に話せば侮られる。かといって、命令口調では反感を招くだけだ。君はフランクに話していたが、相手も気が楽になっただろう。単純作業の場合、リラックスして臨んだ方が効率は上がる」

 問題は君だ、と石田が麻衣子に目を向けた。

「最後まで迷った。村山くんではなく、君を研修から外すべきではないかとね」

 思いがけない言葉に、麻衣子は何も言えなかった。

 

 

 なぜです、と言ったのは平河だった。

「千件を越えたのは遠野さんだけです。研修から外すべきというのは、どういう意味ですか?」

 微妙なところだ、と石田が顔をしかめた。

「今回のデータ入力だが、単純計算で一時間百二十件、七時間で八百四十件前後がいいところだろう。もちろん、入力スピードには個人差がある。タイピングが速い者なら、九百件を越えてもおかしくない。だが、千二十二件は異常な数字と言っていい。誰であれ、千件を越えるのは難しい」

 なぜだと思うと問われた会澤が、わかりませんと首を振った。人間だからだ、と石田が言った。

「大学生は機械じゃない。トイレだって行くし、同じ作業を続けていれば飽きてくる。当然だが、能率も下がる。おだてても脅しても、無理なものは無理だ。ただし、ひとつだけ手がある」

「何です?」

 会澤の問いに、強制だと石田がタブレットに触れた。流れてきたのは麻衣子の声だった。

『三石教授があなたを推薦したのは、真面目で信頼できる学生だからで、わたしもそう思っている』

『まあ、そのつもりですけど』

『でも、わたしは担当者として、作業の進捗状況を確認する義務がある。そのために、あなたの部屋へ行かなければならない。それがこのアルバイトの条件だと聞いてるでしょう?』

 聞いてないです、と本橋が焦ったように言った。

『確認? 立ち会うってことですか? だって、ぼくの部屋ですよ? 汚いし、狭いですし、三石教授はそんなこと言ってなかったと――』

『警視庁の資料を作るアルバイトよ? 個人情報だし、機密情報も含まれる。九時になったら、作業を始めて。今からあなたのマンションへ行く。立ち会うだけで、何かするわけじゃない。いいわね?』

『はあ……あの……』

ポーズボタンを押した石田が、監視による強制だよと言った。

「遠野くんはまず本橋くんの名前を聞き、次に確認のためと理由をつけて彼の住所を尋ねた。アルバイトの発注先は警視庁だとわかっていたから、彼は素直に答えた。そして、遠野くんは本橋くんの住むマンションへ向かった。午前十時から午後四時半まで、彼の部屋で後ろから監視していたんだ。強制と言ったが、脅迫とも言える。警視庁の女性捜査官が背後にいたら、手を抜くわけにはいかない。遠野くんは自らを強制力として、本橋くんのモチベーションを上げたんだ」 

 目的のためなら交渉人は常識を逸脱しても構わない、と石田がうなずいた。

「常識を壊すのも交渉人の仕事だ。常識に縛られていては、柔軟な発想ができない。だから、遠野くんの行動を咎めるつもりはない。だが、それ以前の問題として、交渉人のルールを破っている。それは見過ごせない」

 石田がタブレットをスワイプすると、麻衣子の声が再度流れ出した。

『わたしは担当者として、作業の進捗状況を確認する義務がある。そのために、あなたの部屋へ行かなければならない。それがこのアルバイトの条件だと聞いてるでしょう?』

 そんな条件はない、と石田が音声を止めた。

「作業の確認をする必要もない。最終的に入力データの数字を報告すれば、彼らの仕事は終わりだ。君は本橋くんの部屋に行かなければならないと言ったが、私も河井もそんな指示は出していない。つまり、君は本橋くんに嘘をついた。交渉人の嘘は最悪の結果を引き起こしかねない。何度も言ったはずだ」

 人間には他人の心理を推し量る能力がある、と石田が言った。

「子供にもその力は備わっている。緊迫した状況の中で、その場しのぎのため、あるいは時間を稼ぐためだとしても、交渉人は嘘をついてはならない。これもまた繰り返しになるが、交渉人と犯人を繋いでいるのは信頼感という一本の糸しかないんだ。ひとつ嘘をつけば、それを隠すために次の嘘をつくことになる。犯人は必ずそれに気づく。裏切られたとわかった瞬間、自暴自棄になり、何をするかわからなくなる。村山くんより君を外すべきではないかと考えた理由はそれだ」

 石田の声音がきつくなっていた。ですが千件を越えています、と会澤が言った。

「SIT班員でも千二十二件は難しいでしょう。よほどプレッシャーをかけたのか……」

 そうではありません、と麻衣子は首を振った。

「ただ後ろから見ていただけです。彼がプレッシャーを感じていたのか、それはわかりません。確かに、わたしは虚偽の情報を本橋くんに与えました。でも、交渉人のルールは守ったつもりです」

 眉だけを動かした石田に、麻衣子は言葉をぶつけた。

「犯人に対し、最初からすべてのカードを見せる必要はない。伏せておくこともある。それを嘘というなら、交渉において嘘をつくこともある……前に、そう教わりました。嘘をつき通すのが難しいのはその通りですが、今回の対象は犯罪者ではありません。嘘を重ねる必要はないという判断がありました。確認のためと言って、彼の住所を聞き出しましたが、それは事実の一部を伏せただけで、嘘ではありません。明確な嘘は、彼の部屋に行くのが条件だと伝えたことだけです。でも、本橋くんがそれを信じるのはわかっていました。状況によって判断を変えるのが交渉人の原則で、わたしはそれに従ったつもりです」

 肩をすくめた河井がポケットから取り出した缶コーヒーを差し出した。プルトップを開けた石田が、微笑を浮かべてひと口飲んだ。

「ちょっとした賭けを河井としていた。君がひと理屈言う方に、私は賭けていた。何を言うかも予想済みだ。君は嘘をつき通す自信があったから、あえて本橋くんに嘘をついた。そうだな? それなら、交渉人のルールを守ったことになる」

 ただし、と石田が缶コーヒーを机に置いた。

「これは一種の思考実験で、実際の事件現場とはまったく違う。現場で君の理屈は通じない。二度と嘘をつくな。それを了解するなら、研修受講を許可する」

 わかりました、と麻衣子はうなずいた。三月なのに、背中を冷たい汗が伝っていた。

第6回につづく(7月7日更新予定)

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著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

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