大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第6回
2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第6回

ネゴシエイト6 特殊詐欺

 三人になると厳しいですね、と苦笑した会澤がアイスコーヒーをひと口飲んだ。確かに、と平河がうなずいた。
 三月二十九日月曜の夕方六時、麻衣子たちは研修終わりに桜田門のコーヒーチェーン店にいた。紀美が去ってから二週間が経っていた。
 その後、研修の内容はさほど変わっていない。心理学、精神分析学に始まり、電子システムなど情報系の講義、あるいは企業の販売促進部、営業マンが実戦的な交渉術を教えることもあったが、どこまで役に立つかはわからなかった。
 動きがあったのは先週の木曜だ。午後の研修が中止になり、帰宅の許可が出たが、夜七時、本庁へ戻れと指示された。混乱が起きているのは、考えるまでもなかった。
 二時間会議室で待機したが、九時過ぎに入ってきた河井が帰って構わないと言った。何らかの事件が発生し、捜査に加えるつもりで呼び戻したが、保留になったのだろう。河井の顔に脂が浮いていたが、徹夜のためではないかと麻衣子は思っていた。
 金曜、何事もなかったように研修が再開されたが、石田の講義は休講となり、説明もなかった。
土曜の夜、会澤からLINEが入った。研修メンバーによるLINEグループを作ったのは二月末で、提案した紀美は既に退室している。
<刑事部の同僚から聞きましたが、都内で大規模な特殊詐欺グループの摘発が始まるようです>
<どういうことですか?>
<詳しいことはわかりませんが、以前からSITが内偵を進めていたみたいですね>
 SITですか、とLINEに平河が入ってきた。
<警視庁の特殊詐欺対策本部長は副総監ですよね?>
 いわゆるオレオレ詐欺に代表される特殊詐欺は数多くある詐欺のバリエーションのひとつで、警視庁は架空料金請求詐欺、還付金詐欺など十種に分類している。
 特殊詐欺が顕在化したのは二〇〇〇年前後で、マスコミが注意喚起のため手口をニュース等で取り上げたが、それが逆効果になり、次々に模倣犯が生まれ、被害件数、金額が一気に増大した。
 全国に先駆け、警視庁が対策本部を設置したのは二〇〇四年で、当初、捜査の主体は刑事部捜査第二課第一から第六までの知能犯特別係だったが、それだけでは対応が難しいと判断され、二〇一〇年にはSITからも人員が派遣された。今では二課とSITの二班体制になっている。
<二課の八木警視が捜査中の詐欺グループへの頂上作戦を始めるらしい、と同僚が話していました>
<そりゃ大事おおごとですな>
<かなり大規模なグループのようです。捜査本部を設置するという噂も聞きましたが、それ以上はわかりません。ただ、ぼくたちがそこに加わるのは決定事項のようです>
<石田警視の指示ですか?>
 麻衣子の問いに、他に考えられませんと会澤が答えた。
警察官は憶測を嫌う。職業的な習性で、裏付けのない話は無意味だという意識が根底にある。
 人事情報や署内での恋愛について興味本位で話すことはあるが、極秘案件の捜査本部について話しても仕方ない。
 異動の辞令が出れば従うしかないし、三人ともそれはわかっていた。尻つぼみするように、LINEが終わった。
 正式に捜査本部入りを命じられたのは三月二九日の朝だった。明日三十日付けで“世田谷グループ特殊詐欺捜査本部”に臨時異動、研修も兼ねるという。
 世田谷グループは二課の八木警視がつけた仮称だ、と夕方四時に会議室へ来た河井が説明を始めた。
「去年の十月、世田谷区内で大規模な特殊詐欺が同時多発的に発生した。いわゆるオレオレ詐欺、キャッシュカード詐欺、架空請求詐欺、還付金詐欺その他の複合型で、手口も巧妙だった。翌十一月に杉並区、十二月には武蔵野市で同様の事件が起きている。それは知ってるな?」
 被害総額二十億円とニュースでやってましたね、と会澤が言った。ここで言っても始まらないが、と河井が苦笑した。
「副総監が本部長を務める対策本部は各部署の寄り合い所帯で、情報共有その他問題が多く、うまく機能しているとは言えなかった。だが、今回は違う。専従捜査班を作るべきだと上が判断し、八木警視をトップに捜査本部を設置することが決まった。二課とSITを中心に二十名の捜査員が招集され、八木警視が捜査本部長兼第一班長、石田警視が第二班長を務める。生活安全部、組織犯罪対策部その他からも人員が来るし、オブザーバーという立場で金融庁、国税庁から課長クラスが加わる」
 大掛かりですなと目を丸くした平河に、そうでもないと河井が渋面を作った。
「捜査に直接タッチするのは二課とSITだけだ。生安のサイバー犯罪対策課、組対の暴力団対策課、その他捜査支援分析センター、科捜研も協力するが、あくまでも捜査支援という立場だ。捜査本部の略称はセトク、世田谷特殊詐欺の頭の文字を取った。自分から言えるのはそれぐらいだ。明日午前七時、本庁十一階のA会議室に集合のこと」
 遅れるなとだけ言って、河井が会議室を出て行った。
その後、三人でコーヒーチェーン店に入ったが、今日辞令が発令され、明日から特殊詐欺の捜査本部に移れというのは突然過ぎるだろう。
 事情もよくわかっていない。首を捻る時間が長く続いた。
 河井さんが難しい顔をしていましたな、と平河がカフェオレをスプーンでかき回した。
「世田谷区の特殊詐欺事件については、詳しく聞いています。去年の十月末、確か二十五日だったと思いますが、午後一時過ぎ、約四十軒の家に電話で犯人グループが接触したそうです。警察官、弁護士、郵便局員、銀行員、社会的な信用度の高い者を装い、金を銀行口座から引き出させています。疑った者は一人もいなかったということですが、よほど慣れていたんでしょうな」
 わたしたちに何をさせるつもりでしょう、と麻衣子は言った。
「平河さんも会澤さんも、特殊詐欺捜査の経験はありませんよね? わたしも同じです。ピーク時の二〇一四年には被害総額五百六十億円、その後減少傾向にあるといっても、去年も二百八十五億円以上が騙し取られています。全国の警察本部に対策本部が設置されていますし、警察庁も特殊詐欺を重大犯罪に指定していますが、犯人グループには反社組織、いわゆる半グレ、大学生やサラリーマン、公務員が加わっていた例もあります。経験のないわたしたちに何ができると?」
 意図があるんだと思いますよ、と会澤がアイスコーヒーのグラスに触れた。
「石田警視が無意味なことをするとは思えません。研修も兼ねるということですが、特殊詐欺は交渉によって解決する種類の事件ではないはずです。いわゆる“引っ掛かったふり作戦”要員ってことかもしれませんね」
「引っ掛かったふり作戦?」
 特殊詐欺の手口は認知度が高くなっています、と会澤が言った。
「かかってきた電話に出ると〝もしもし、オレオレ、オレだよ、大変なんだ、助けてくれ〟などと一方的に連呼して被害者をパニックに陥れ、会社の金を使い込んだ、株で大金を失った、交通事故の示談金、さまざまな名目で被害者を騙し、現金を用意させる……手口は年々多様化していますが、基本は同じです」
「はい」
「被害件数は二〇一七年をピークに減っていますが、認知が徹底したためと言われています。何かおかしい、怪しい、そう思う高齢者が増えているんです。特殊詐欺のターゲットとなる高齢者に、犯人逮捕への協力を呼びかけている自治体もあります」
「それは知っています」
「事情はわかった」
金を用意するから一時間後に来てくれ、と引っ掛かったふりをするんですな、と平河がカフェオレをひと口飲んだ。
「その間に警察に通報、のこのこ現れた受け子を現行犯逮捕する……引っ掛かったふり作戦というネーミングはともかく、それなりに効果的です。ただ、弊害もあります。犯人側がそれを逆用するんですな」
「逆用?」
「例えばオレオレ詐欺の電話を入れた直後、警察官を装って高齢者の家へ行き、今オレオレ詐欺の電話がありましたね、犯人逮捕に協力してください、金を準備して犯人に手渡せば現行犯逮捕できます……そう言われたら、信じるしかないでしょう。実際には通報などするはずもありませんし、被害者が金を渡したらそれっきりです。受け子を尾行して、アジトを探れということですかね?」
 でも、と麻衣子は平河と会澤を交互に見た。
「わたしは尾行の経験さえないんです。下手に動いて犯人に気づかれたら……」
 今日はこれぐらいにしましょう、と会澤が空になったグラスをトレイに載せた。
「明日になれば説明がありますよ。異動といっても、研修を兼ねるということですから、断れるはずもありません。朝七時集合か……ぼくは帰ります」
 そうですな、と平河が腰を上げた。麻衣子はティーカップに残っていた冷めた紅茶をすすった。

 おはよう、と正面の席で固太りの男が言った。警視庁刑事部捜査二課の八木警視だ。
 最近では珍しいが、スリーピースの背広を着ている。表情に独特な険があった。四十代後半だろう、と麻衣子は思った。
 三月三十日火曜日、朝七時。長机が五列並び、そこに二十人の捜査員が座っていた。壁際の席で、九人の男が八木と隣に並んでいる石田を交互に見ていた。服装や雰囲気で捜査支援要員だとわかった。
「セトクの指揮を執る八木だ」
まず、ざっくりと説明をしておく、と八木が口を開いた。野太い声だった。
「去年の十月二十五日午後一時半、世田谷区内で大規模な特殊詐欺事件が発生、被害件数四十五件、被害総額は約九億円。ファーストコンタクトはすべて電話で、どれも午後一時半ジャストにかかっている。組織的な犯行で、同一グループによるものだ。簡単に言うが、並みの特殊詐欺グループではできない」
 確かに、と麻衣子はうなずいた。被害に遭ったのは世田谷区内の高齢者、と八木が話を続けた。
「一人は架空口座に六千万円を振り込んでいる。事前にターゲットの資産を調べていたのは間違いない。いくつかの手口を組み合わせ、銀行、郵便局などの金融機関を利用したり、ネットバンキングの誤誘導、アポ電を入れた後、自宅に押し入るなど強引なこともしている」
 通常ではあり得ない、と八木が首を振った。
「特殊詐欺グループは各々の手口を特化させるものだ。オレオレ詐欺ならシナリオを練り込み、巧妙な演技で高齢者を騙す。複数のグループが同じ日に犯行を決行したのかと最初は思ったほどだ。もっとも、そんな偶然があるはずもない。高度に組織化されたグループで、人数も多いだろうとSITの石田警視から指摘があったが、私も同意見だ」
 八木が右に顔を向けると、続けてください、と石田が微笑んだ。
ちょうどひと月後の十一月二十五日、と八木が声を張った。
「隣の杉並区で約四十件の特殊詐欺が起き、七億円が奪われた。考えるまでもなく、同一グループによる犯行だ。十月末の時点で我々は世田谷グループと呼んでいたが、今後も呼称として用いる。命令系統が確立されていること、犯行に要する時間が短く、指示が的確だったこと、百人以上が動いていたと考えられることから、過去に例がない大規模な特殊詐欺グループと認定、セトクが設置された。目的は世田谷グループの壊滅だ」
 特殊詐欺グループはある意味で会社と似ている、と八木が左右に目をやった。
「受け子、出し子が一番下、その上に掛け子がいる。それを取り仕切る店長と呼ばれる現場責任者がいて、その上には資金を出すオーナー、横は名簿屋、情報屋、道具屋その他と繋がっている。他と違うのは、世田谷グループが組織化を徹底していることで、軍隊に近いと私は考えている。犯行は統制が取れ、スピーディーであり、訓練の精度が高いことが窺える。今までの体制では太刀打ちできない。情報共有、捜査効率を考慮し、少数精鋭でセトクを設置した。経緯は以上だ」
 私が第一班、石田警視が第二班を率いる、と八木が石田に顔を向けた。
「各班、我々も含め十人編成だが、他部署及び外部からの出向者は本部で待機、情報分析と管理を担当する。相互協力の観点から知能犯六係とSITをシャッフルし、それぞれ三名ずつ、実働部隊は六名。メンバーは事前に私と石田警視で決めたが、六係の藤丸、大田原、久山、SIT平河、遠野、会澤が第一班、他は第二班だ」
 席を移れ、と八木が顎をしゃくった。立ち上がった六人がそれぞれに頭を下げると、自己紹介は後でいい、と石田が言った。
 石田がカミソリだとすれば、八木は鉈だ、というのが麻衣子の印象だった。鋭さは石田の方が上だが、押し切る力は八木の方が強い。
 二〇一五年前後から特殊詐欺捜査の主力がSITに移った、と麻衣子は聞いていた。犯人逮捕より被害を未然に防ぐことを優先する警察庁が方針を転換したことがその理由だ。
 どの部署であれ、刑事は犯人逮捕のために捜査を進める。自転車窃盗レベルから殺人に至るまで、犯人逮捕は刑事の本能と言っていい。
 ただ、特殊詐欺に関しては事情が違う。犯人の逮捕も重要だが、犯行防止が可能な犯罪だ。
 特殊詐欺はイタチごっこで、実行犯を逮捕してもグループそのものを壊滅させるのは難しい。生き残った者が一人でもいれば、また新しいグループが生まれる。警察としては、対応が後手に回らざるを得ない。
 犯人逮捕より、犯行防止を優先すると警察庁が方針を変更したのは、負の連鎖を断ち切るためだった。
 今では常識だが、金融庁の指導で全国の銀行、信用金庫、郵便局、その他全金融機関に特殊詐欺の注意喚起通達が出ている。
例えばキャッシュディスペンサー前で携帯電話の使用を制限する銀行があるが、犯人からの指示を防ぐための方策だ。 
 銀行員、郵便局員も、大金を他の口座に振り込もうとする高齢者に注意し、不審だと判断すれば事情を聞くことになっている。コンビニでも大量のギフトカード購入者などに確認を取るようになって久しい。
 キャッシュディスペンサーでの出金制限その他の施策により、特殊詐欺の旨みが減っているのは確かだ。
行政の力によるもので、関係省庁との折衝をSITが担当したため、二課との二班体制が続いているが、SITが捜査を主導することになった。
 ただし、すべての特殊詐欺を防げるわけではない。また、高齢者から大金を騙し取った犯人は逮捕しなければならない。
 実際に特殊詐欺が起きてしまった場合の担当は経済犯、知能犯捜査を専門にしている刑事第二課で、世田谷グループのような大規模特殊詐欺犯捜査に関しては二課がメインとなる。
セトクの指揮官が八木になったのは、逮捕を前提とする捜査本部のためだ。
 どうする、と八木が苦笑を浮かべた。
「君から話した方がいいんじゃないか? 交渉人なら慣れてるだろう」
 いえ、と石田が首を振った。
「全体の指揮を執るのは八木警視です。お願いします」
 うなずいた八木が全員の顔を順に見た。
「世田谷、杉並、武蔵野、去年の十月から十二月にかけて、連続して集中的な特殊詐欺事件が起きている。一月は何もなかったが、二月二十二日、今度は港区で同じ手口の特殊詐欺が発生した。ただし、被害金額は二億円弱だった」 
 理由がある、と八木が言った。
「三箇所の特殊詐欺は同一犯によるもので、必ず四箇所目の事件が起きると予測されていた。それに基づき、新宿区、渋谷区、豊島区、港区、千代田区を重点警戒地域に指定し、注意喚起を行なった。金融機関にも協力を仰いでいる」
なぜその五区なんですかと質問した会澤に、本来なら二十三区全域としたかったが、と八木が答えた。
「だが、警察にそこまでのマンパワーはない。石田警視のアドバイスもあり、人口その他バランスを踏まえて五つの区に絞った」
 一月に世田谷グループが動かなかったのは我々の動きを察知していたためだろう、と八木が話を続けた。
「世田谷グループに関しては警察庁も神経を尖らせている。これだけ大規模な特殊詐欺事件は過去に例がない。関係省庁と協議し、世田谷グループの逮捕が至上命令となった。マスコミにも協力を要請し、打つべき手はすべて打ったつもりだ。一月に事件が起きなかったのは、奴らが動かなかったからじゃない。動けなかったんだ」
 だが、百人以上の巨大グループだ、と八木が深いため息をついた。
「いずれは必ず動くと考え、五つの区で網を張ったが、港区において我々は意図的に弱い部分を作っていた。交番勤務の警察官の巡回頻度を減らすなど、麻布周辺の警戒を緩め、罠を張ったんだ。年明けから、狙われる可能性が高い高齢者の自宅を港区役所の職員が訪れ、協力を要請した。不審な番号から電話があった場合、指示に従ってほしいと頼んだ」
 乱暴過ぎませんかと麻衣子に囁きかけた会澤に、聞こえてるぞ、と八木が長机を太い指で何度か叩いた。
「そんなことは百も承知だ。強要はしていない。あくまでもお願いベースだ。今回、警察庁と警視庁は特別予算を組み、捜査費二億円を計上している。それで世田谷グループを潰せるなら安いものだ。協力を了承した各家に防犯カメラを設置、受け子の写真を撮影できるようにした」
 タブレットを開け、と八木が命じた。
「私と石田警視の名前でメールを送っている。添付ファイルに受け子の写真がある」
 麻衣子はタブレットのメールを開いた。十六人の若い男の写真が並んだ。
 八木が自分のノートパソコンのキーボードを押すと、タブレットに動画が浮かび上がった。映っているのは二十代半ばの男で、黒いダウンジャケットを着て歩いている。
 渋谷の宮下公園付近だ、と八木が言った。
「十六人の受け子、出し子の顔写真を捜査支援分析センターがコンピューターに入力し、都内に警視庁が設置した約九百台の防犯カメラに同期させている。該当する人物が映り込むと撮影が始まり、AIが自動で情報を送ってくる」
位置、進行方向などからアジトが判明する可能性は高い、と八木がうなずいた。
「世田谷グループの関係者と接触することもあるだろう。改めて言うが、受け子、出し子、掛け子レベルを逮捕するなら、ここまでの大仕掛けは不要だ。狙いは本丸にある」
 警察は伝統的に連携をしない。警視庁と神奈川県警のように警察本部同士が敵対することもあるし、内部でも部署間の壁は厚い。一九九五年のカルト教団によるサリン事件では、公安部は最後まで情報を他部署に渡さなかった。
 同じ刑事部の傘の下にいるが、一課と二課はそれぞれ思惑が違う。よほどの事情がない限り、情報共有はしない。
 セトクは組織横断型の捜査チームだ。刑事部以外の部署からも人員が派遣されている。
 総務省その他関係省庁の協力もあるはずだ。ここまでする以上、トカゲの尻尾ではなく、頭を潰すのが目的になるのは当然だろう。
 百人と言ったが、と八木が咳払いをした。
「最低でもという意味だ。二百人以上だと私は睨んでいる。普通は多くても四、五十人前後だ。その辺のチンピラや半グレじゃない。この数年、反社組織が特殊詐欺グループのバック、本丸になっているケースが複数報告されているが、世田谷グループもそうなんだろう。会社と言ったが、コンビニと考えた方がわかりやすいかもしれない」
 八木がキーボードを押すと、麻衣子のタブレットにピラミッドのイラストが浮かんだ。
「受け子、出し子、掛け子、この辺りはコンビニで言えばバイトだ。ピラミッドの一番下に奴らはいる。世田谷グループの規模を考えると、まとめ役のバイトリーダーもいるはずだ。そいつらは契約社員ってところだな。その上に数人の副店長、そして店長がいる。奴らは正社員だが、特殊詐欺事件において逮捕できるのは店長までだ」
 特殊詐欺グループの捜査が難しいのは、それぞれの関係が分断されているためだ。
受け子同士、受け子と出し子、出し子と掛け子はお互いの存在を知らない。大半は会ったことさえないだろう。
 会うとしても、本名を名乗ることはなく、雑談も禁止されている。連絡先の交換などあり得ない。
 与えられているのは飛ばしの携帯で、一度使えば捨てる。そのため、一人を逮捕しても他は顔も名前もわからない。そこで捜査がストップすることも珍しくなかった。
「世田谷グループも他の特殊詐欺グループと構造は同じだろう。だが、ここまで極端に組織化を徹底しているグループを私は知らない。受け子と、電話を掛ける掛け子を入れ替えるためのリクルーター、シナリオライター、ディレクターもいるだろう。その辺りは替えが利かない。正社員だからだ。どこの会社だって、簡単に正社員をクビにはできない」
 特殊詐欺で最も危険な役割を担うのは金を受け取りに行く受け子、そして銀行で金を引き出す出し子だ。受け子は被害者と顔を合わせなければならないし、出し子はATMの防犯カメラに撮影される。
 逮捕される可能性は高く、麻衣子のタブレットに載っている全員が受け子もしくは出し子だった。
 彼らはバイトで、最終的には使い捨てられる。だが、コンビニでもバイトがいなければ店は回らない。その補充を担当するのがリクルーターだ。
 インターネットのSNSを通じ、高収入バイトというようなハッシュタグをつけて拡散し、あるいは隠語を混ぜて受け子や出し子を探す。
 時には半グレや不良少年の中から直接スカウトすることもある。当然、受け子もリクルーターの顔を知っている。
 オレオレ詐欺においては、シナリオに説得力がなければならない。定形のシナリオが特殊詐欺グループの間で出回っているが、掛け子の年齢などによって設定を変更し、セリフをその場で書き換えることもある。それがシナリオライターの役目だ。
 多くの場合、シナリオライターはディレクターも兼ねる。効果音を流し、状況によっては複数の掛け子を使い、相手の対応次第でアドリブを交えて芝居をさせることもある。
 掛け子の演技が下手では、どんなシナリオも無意味だ。掛け子を集め、リハーサルを繰り返すグループもあるほどで、指導をするのはディレクターだ。
 リクルーター、シナリオライター、ディレクター、いずれも専門職で、簡単に替えは利かない。受け子や掛け子のまとめ役も彼らの仕事だ。
 正社員として、彼らは互いに連絡を取り、情報を伝え、常に状況を把握している。一日の売り上げを店長に報告する会計担当の役割も担っている。
 世田谷グループの弱点はそこだ、と八木がパソコンの筺体を指で弾いた。
「社員教育がしっかりしている会社だから、一糸乱れぬ行動を取れるが、そのために受け子、出し子、掛け子との接触が増える。親しくなれば話すこともあるだろう。本名その他個人情報を漏らしていてもおかしくない。完璧な組織であるがゆえに、構造的な弱点がある。狙い目はそこだ」
 アジトを持っているのも間違いない、と八木が言った。
「人数が多いから、ワンルームマンションというわけにはいかない。貸し事務所、それ以上のスペースが必要になる。飛ばしの携帯も十台、二十台では済まない。数百台、おそらくは千台以上持っているはずだ」
 常識ですな、と平河がつぶやいた。言うまでもなく、と八木がデスクを指で叩いた。
「アジトを準備する代行屋、携帯や架空口座を提供する道具屋、ターゲットのリストを持つ名簿屋、他にも受け子や出し子の監視役がいる。奴らは店長と接触する機会も多い。我々の狙いは本丸、つまりオーナーの逮捕にある。そのために重要なのは店長以下グループ全員を一斉逮捕することだ」
 特殊詐欺には複雑な仕掛けが不要なため、比較的参入は容易とされている。ただし、初期費用が必要になる。
 アジトとなる貸し事務所を借りるのも、敷金礼金を合わせれば数百万円かかる。しかも、大きなヤマを踏めば引っ越さなければならない。
 飛ばしの携帯電話は使い捨てで、非合法な携帯だから正価より高額になる。効率的に特殊詐欺を行なうためにはターゲットとなる高齢者リストがいるが、質の高いリストは数百万円で売買される。
 そのため、特殊詐欺グループのバックにはオーナーがいる。会長と呼ばれることもあるが、資金面のバックアップがその役割だ。
 特殊詐欺においては、十人のグループでも一日数億、それ以上の収益を上げることが可能だ。過去には一人で五億七千万円の被害に遭った者もいる。
 二〇一四年には窃盗事件の被害総額の三倍以上となり、今もほぼ同じ水準にある。警察庁が重大犯罪に指定し、警視庁をはじめ全国の警察本部が特別対策本部を設置しているのはそのためだ。
 一億円を特殊詐欺グループに投資しても、ひと月で回収できる。多くの場合、店長は売り上げの半分をオーナーに上納する。逮捕されるのは店長までで、オーナーは安全圏にいながら大金を手にすることが可能だ。
 簡単にはいかないだろう、と八木が言った。
「だが、世田谷グループには穴がある。油断、慢心もあるはずだ。二月、港区で起きた特殊詐欺で彼らが得た金は二億円、想定より遥かに下だったと考えられる。メンバーが百人だとしても、ランニングコストはひと月一億円を軽く越える。三月にもう一度ヤマを踏むと見ていたが、慎重になったのか、今日まで何も起きなかった。だが、それも限界だ。近いうちに、奴らは必ず動く。都内の限定された区域で高齢者を騙し、十億レベルの金を奪う計画を立てていると考えていい」
 だが、こっちにも備えがある、と八木が机を平手で叩いた。
「十六人の受け子、出し子を徹底的にマークし、まず横の繋がりを押さえる。その後、リクルーターや道具屋、社員連中の身元も調べ、アジトを突き止め、店長を逮捕する」
 そこまではわかりますが、と会澤が手を挙げた。
「それは過去の特殊詐欺グループ摘発でもやっていたのではありませんか? どうやってオーナーの逮捕に繋げるんです?」
 そのためのセトクだ、と八木が笑った。
「メンバー全員を一斉逮捕、同時にアジトをガサ入れする。過去の特殊詐欺グループ捜査では、受け子、掛け子など、下から逮捕していくしかなかった。店長にたどり着く頃には情報が回り、オーナーの名前、電話番号、連絡先、その他をパソコンごと消去できた。犯行を認め、すべて自分がやったと供述する。詐欺罪は罰金刑がなく、十年以下の懲役と刑法で決まっているが、初犯なら二年がいいところだ。沈黙を守って出所すれば、オーナーから莫大な褒賞金が出る。二年で五億なら、誰だって泥を被る」
 今回は違う、と八木が鋭い目を左右に向けた。
「全員の逮捕とアジトのガサ入れを同時に行ない、電子情報、通話記録その他を消去する時間を与えない。こっちにはサイバー犯罪対策課がついているから、その場でデータの復元もできる。そうだな?」
 別のデスクに座っていたメガネをかけた男が小さくうなずいた。世田谷グループにはバックがいる、と八木が会澤に目を向けた。
「単なる金主ではなく、反社組織だろう。組対課員がセトクに加わっているのはそのためで、何であれ証拠が見つかれば、暴対法に基づき組織犯罪対策部が総力を挙げて動き出す。頂上作戦と聞いているはずだが、世田谷グループだけではなく、反社組織ごと壊滅に追い込む。刑事部、生活安全部、部署の垣根を越えて奴らを逮捕するんだ」
過去、ここまで機能的なチームは警視庁、他の警察本部にもない、と八木がネクタイを締め直した。
「石田警視が粘り強く各部署と交渉を重ねたためで、本来なら私ではなく彼が本部長になるべきだが――」
 それは違います、と石田が言った。
「現場を仕切るのは二課であるべきです。SITが出る幕じゃありません」
 謙遜しなくてもいいだろう、と八木が石田の肩を叩いた。
「ここからは第一班、第二班に分かれる。まず十六人の受け子及び出し子を調べるが、事前に分担は決めてある。十分休憩しよう。第二班はB会議室に移れ。私からは以上だが、君はどうだ?」
 いえ、と石田が首を振った。十分後に集合、と八木が立ち上がった。

 八時十分、麻衣子はトイレからA会議室に戻った。机の配置が変わり、コの字型になっていた。
「どこでもいいから座れ」コの字の縦の棒に当たる席で八木が言った。「すぐ他の連中も来る」
 麻衣子は末席に腰を下ろした。入ってきた他の五人に、さっさと座れ、と八木が椅子を指した。
「適当でいい。まずはこれを見ろ」
 八木がノートパソコンを開いた。六人の捜査員が自分のタブレットをそれぞれ立ち上げると、映っていたのは白髪の目立つ老婦人だった。
 七十歳ぐらいだろう、と麻衣子は画面を見つめた。表情に品の良さが漂っている。
「江原百合恵さん、六十八歳。港区麻布十番に住む一人暮らしの女性だ」
 それだけ言って、八木が口を閉じた。同時に、若い男の細い声がスピーカーから流れ出した。
『ばあちゃん、ごめん。本当にごめん。だけど、他に頼れる人がいなくて……』
 マサルくん、と百合恵が固定電話の受話器を強く握っている。母さんには言えないよ、と男が言った。
『会社の金を先物取引で使い込んだなんて……うまくいくはずだったんだ。何でこんなことに……父さんが死んで、母さんには苦労ばかりかけてきた。百合恵ばあちゃんにもだ。迷惑はかけたくない。だけど、もうどうしようもない。ばあちゃんに頼るしかないんだ』
 何があったの、と百合恵が声を潜めたところで、説明が必要だろう、と八木がストップボタンを押した。
「これは二月に港区で起きた特殊詐欺の映像だ。言うまでもないが、百合恵さんの了解を取って録画、録音している。八年前、彼女の夫がオレオレ詐欺に引っ掛かり、八百万円を騙し取られた。精神的なショックが大きかったのか、半年後に脳溢血で倒れ、死ぬまで寝たきりだった」
 酷い話ですな、と平河がつぶやいた。一度オレオレ詐欺に引っ掛かった者は名簿に載る、と八木が言った。
「特殊詐欺のターゲットリストだ。一度引っ掛かった者は二度目も騙される。それがセオリーで、世田谷グループが百合恵さんに狙いをつけたのはそのためだ。掛け子が名前で呼んでいるのは、名簿に記載があったからだろう。だが、奴らは二つのミスを犯している」
「ミス?」
 麻衣子の問いに、ひとつは百合恵さんが特殊詐欺の犯人に強い憎しみを抱いているのを知らないことだ、と八木が指を一本立てた。
「もうひとつ、我々が事前に百合恵さんとコンタクトを取り、協力を得ている。電気工事を装い、家の周辺に防犯カメラを設置してある。電話がかかってきた際の対応もレクチャー済みだ。そして、彼女は十年前まで現役の舞台女優だった。芝居はお手の物だ。彼女はこの電話がオレオレ詐欺だとわかっている。掛け子は騙しているつもりだろうが、騙されているのは奴の方だ」
 二課は出回っている名簿のほとんどを入手している、と麻衣子の隣に座っていた男が言った。藤丸聖次、二十八歳の巡査部長だ。
「八木警視、名簿もSITに渡すんですか?」
 あらゆる情報を共有する、と八木が言った。
「よく聞け。世田谷グループを潰すまで、二課とSITは運命共同体だ。刑事部長の命令も出ている。全員、状況はわかったな?」
 八木がキーボードに触れると、止まっていた画像が動き出した。
『いくら使ったの? 先物取引って、おばあちゃんにはよくわからないけど……』
 言えない、と男が答えた。涙ぐんでいるのがわかるほど、真に迫った声だった。
『何言ってるの、マサルくん。お母さんに言えないのはわかる。満雄が交通事故で亡くなった時、和代さんがどれだけ苦労したか……ばあちゃんもいけなかった。意地になって、和代さんを許せなかった。和代さんのせいじゃないってわかってたのに……悪いことをしたって思ってる。マサルくんも間に入って大変だったでしょ? 困ってるなら、ばあちゃんが何とかする。和代さんには黙っておくから、いくらいるのか言ってちょうだい』
 五千万、と男がぽつりと言った。まあ、と百合恵が大きく口を開けた。
 名演技だろう、と八木が画像を止めた。
「私は知らないが、カミさんが彼女のことを知っていた。新橋演舞場の常連で、名脇役だそうだ」
 この男の芝居もなかなかです、と平河がうなずいた。
「リアルな感じがします。それにしても五千万ですか……強気に出ましたな」
 特殊詐欺では普通だ、と二課の大田原警部補が言った。
「最初に吹っかけて、様子を見る。五千万払えるならそれでいいし、無理だとわかれば、いくらなら払えるか聞く。被害者は駆け引きに気づかない。これだけ特殊詐欺に関する情報が世間に出回っているのに、どうして引っ掛かる人がいるのか、そんなことを言う奴は現実をわかっていない。突然孫から電話があって、助けてくれと言われたら思考停止状態に陥る。それが人間ってもんだ」
 八木が再生ボタンを押すと、五千万、と百合恵が首を振った。
『マサルくん、いつまでに用意すればいいの?』
『今日の四時。それなら、会社の経理部に送金できる。クビにはならないはずだ。ばあちゃん、頼む! お願いします!』
『今、何時? 二時過ぎてるじゃない……どうしてもっと早く言わなかったの! 二千万ならばあちゃんの口座にある。でも、後は定期預金だから、一時間じゃ解約できない。明日じゃ駄目なの? でも、明日は朝から病院だし……』
 二千万でもいい、と男が言った。
『他にも当てがあるんだ。全部ばあちゃんに何とかしてもらおうなんて、思ってない。二千万でも助かる。ごめんね、ばあちゃん。ありがとう』
『マサルくん、今どこにいるの? 家まで来てくれたら、一緒に銀行に行ってお金を下ろすし――』
 駄目なんだ、と男が言った。
『今、会社の外にいる。こんな話、誰かに聞かれたら終わりなのはわかるだろ? もう戻らなきゃならない。取引先と商談があるんだ……ばあちゃん、友達のユージは覚えてる?』
『ユージくん? あの坊主頭の子?』
 百合恵が言った。会話がスムーズなのは、事前のレクチャーで話を合わせると決めていたためだ。
今は伸ばしてる、と男が言った。
『ユージに家まで行ってもらう。前にも遊びに来たことがあっただろ? 三時にはそっちに着くから、ユージに二千万を渡してくれ。そうしたら、ぼくはクビにならずに済む。もしクビになったら……母さんは自殺するかもしれない』
 止めて、と百合恵が叫んだ。
『今から銀行に行って、二千万下ろしてくる。それをユージくんに渡せばいいのね? マサルくん、届いたら必ず電話して。わかった?』
 ありがとう、と男が二回繰り返した。
『本当にありがとう。ごめんね、ばあちゃん。金は絶対返す。約束するよ。これ以上迷惑はかけない。また電話する。ユージにも説明しておくから、お金だけ渡してくれればいい。じゃあ、会社に戻るよ』
 そのまま通話が切れた。顔を上げた百合恵が防犯カメラに向かってピースサインを出した。
 典型的なシナリオだが、それなりに巧くできている、と八木が動画を止めた。
「掛け子の芝居も堂に入ってる。何度も同じシナリオで演じたんだろう。背後に町のノイズが被っていたが、芸も細かい。引っ掛かる者がいるのは当然だ」
「この後、どうなったんですか?」
 会澤の問いに、百合恵さんは銀行に向かった、と八木が答えた。
「家を見張っている者がいてもおかしくない。二千万はキャッシュディスペンサーじゃ下ろせないから、リアルに見せかけるには銀行へ行くしかないんだ。麻布十番駅前の丸友銀行麻布支店へ行き、そこで待機していた刑事と合流した」
 久山だ、と八木が自分の右側に座っていた大柄な男に顎先を向けた。
「百合恵さんは携帯で我々に連絡を取り、久山が丸友銀行へ急行した。当然だが、銀行の了解も取っている。百合恵さんに渡したのは警察の捜査費だ。三十分後、帰宅した百合恵さんはユージくんとやらを待っていた」
 こいつだ、と八木がパソコンに触れた。髪を肩まで伸ばした色白の若い男が歩いていた。
「これはドローンカメラの映像だ。五十メートル上だから、気づかれるはずもない。科学の進歩に感謝だな……ただ、小回りが利かないのが難点だ。監視役の姿は確認できなかった」
 家のチャイムを鳴らしたユージが頭を下げた。飛び出してきた百合恵が、まあユージくん、と笑顔で言った。
『十年ぶり? もっとかしら? 大人になったわねえ……ずいぶん変わっちゃって、誰かと思ったわよ』
 やり過ぎでしょう、と久山が苦笑した。アドリブは止めてほしいと頼んだんだがな、と八木が頭を掻いた。
『すいません、オレもよくわかんないんですけど、マサルに頼まれて……あいつ、何やったんですか? 電話口で泣いてましたよ。おばあちゃんから封筒を預かって、会社に届けてくれって言ってました。詳しいことは聞いてませんけど……』
 これなの、と百合恵が風呂敷に包んだ分厚い封筒を差し出した。
『手紙も書いたから、マサルくんに渡してね。四時までに届けてほしいって言ってたけど、あの子の会社って深川でしょ? 間に合うかしら?』
 余裕ですよ、とユージが封筒をカバンに突っ込んだ。
『後は任せてください。おばあさんに心配かけるなんて、マサルの奴、許せないっすよ。オレが説教してやります。それじゃ、行きますね』
 気をつけて、と手を振った百合恵に頭を下げたユージが足早に去って行った。
 こんなところだ、と八木が画像を止めると、奴は麻布十番駅から南北線に乗った、と久山が言った。
「尾行したが、後楽園駅で降りたのは確認済みだ。ただ、最初から深追いするつもりはなかった。今、下手を打つと、後が面倒になる。あんなチンピラを捕まえても、何もわかりゃしない」 
 丸ノ内線の本郷三丁目駅方面に向かったのはわかっている、と大田原が言った。
「だが、雨が降り出して、防犯カメラの映りが悪くなり、それ以上は追えなかった。いずれにせよ、ユージの写真はコンピューターが読み込んでいるから、幹線道路に出ればすぐ見つかる」
 ここからが我々の仕事だ、と八木がうなずいた。
「タブレットの写真を見てくれ。十六人が映っているが、上の八人が第一班のターゲットになる。一人だけ赤いランプがついているが、野川昆、二十歳のフリーター、さっきのユージだ。高校卒業直後に暴力事件を起こし、逮捕されている。示談が成立し、起訴猶予となったが、身元は割れてる。他も似たようなもので、住所もわかってるが、ひと月以上戻っていない。別にアパートを用意されたか、リクルーターが匿っているのか、そんなところだろう」
 赤いランプは何ですと尋ねた会澤に、防犯カメラが現在位置を確認したというサインだ、と八木が答えた。
「専用のマップアプリを捜査支援分析センターが作った。野川は今六本木の芋洗坂にいる。夜通し飲んでいたんだろう。会澤、野川はお前に任せる。世田谷グループも馬鹿じゃない。アジトを構えているのは警察の防犯カメラがない場所だ」
「尾行します。しかし、野川はアジトへ行くでしょうか?」
 それはわからない、と八木が肩をすくめた。
「おそらく、行かないだろう。アジトの場所さえ知らない可能性の方が高い。だが、接触する者はいるはずだ。状況によっては野川を捨て、接触者に乗り換えろ。他の五人は待機だ。連中は夜行性で、午前中はめったに動かない。いつ動き出すかは何とも言えない。夕方ってこともあるだろう」
 一度帰っていいですかと笑った久山に、冗談のつもりか、と八木が真顔で言った。
「いいか、こんな機会は二度とない。捜査費には限りがあるし、組織横断型のセトクには反対意見も多い。二課長もそうだ。統制が取れなくなると危惧している」
「機会というのは?」
 平河の問いに、一カ月以内に世田谷グループは必ず動く、と八木が言った。
「資金がショートしたら、離反者が出る。店長やオーナーが最も恐れているのは情報洩れだ。今は金で口を封じているが、見合った報酬がなければ裏切り者が出る。過去の大規模逮捕のきっかけはほとんどが内部告発だ。世田谷グループを回していくには、特殊詐欺を続けるしかない。二月は警戒して動かなかったが、それも限界だ。だから上もセトクの設置を了承した。世田谷グループを壊滅させ、バックにいる反社組織も潰す」
 文字通り頂上作戦だ、と八木が分厚い手のひらで顔を拭った。
「他部署の協力が必要だが、事件は他にもある。世田谷グループもそうだが、こっちにもタイムリミットがあるんだ。このひと月で片をつける」
 なるほど、と平河がうなずいた。各員、分担を決めろ、と八木が命じた。
「今日からひと月、休みはないと思え。これ以上、特殊詐欺グループの好き勝手にはさせない。各員、マップアプリをスマホにインストールして、ターゲットが動けば尾行しろ。ただし、絶対に気づかれるな。今後、ターゲットは毎日変える。ミスは許されない。わかったな? 会澤、行け」
 了解です、と会澤がA会議室を出て行った。一カ月だ、と八木がつぶやいた。

 午後六時、麻衣子は飯倉片町にいた。
 担当を命じられた受け子、丹原宗佑が防犯カメラに探知されたのは一時間前だ。丹原がいるのは交差点近くのイタリアンレストランだった。
 問題ない、と麻衣子は自分に言い聞かせたが、不安は消せなかった。警察学校で尾行の訓練を受けていたが、実戦での経験はない。
 大丈夫だ、と警視庁を出る直前、八木に言われた言葉が頭を過った。
「いい意味で、君には警察官の臭いがしない。他の連中とは違う。彼らは経験が長いから、臭いが染み付いて取れない。この任務に最も適しているのは君だ」
 そうだろうか、と麻衣子はテーブルの紙コップを見つめた。
百メートル以上離れたファストフード店から、丹原の動きを監視している。スマホにインストールしたマップアプリに赤いランプが光っているので、位置は正確にわかっていた。
 通常の尾行とは違う。今、丹原が動いたとしても、慌てて追う必要はない。防犯カメラの撮影範囲内にいれば、自動でカメラが追尾する。
 主に幹線道路の信号機に設置されている警視庁の防犯カメラは二十四時間百メートル四方を撮影している。国道、あるいは都道上に丹原がいる限り、見逃すことはない。
(でも、脇道に入ったら)
 脇道、横道、路地、私道その他は防犯カメラもカバーできない。ただ、進行方向がわかっていれば、AIが目的地を予測する。そのため、先回りも可能だ。
 通常の尾行では、一度姿を見失うとそこで中止せざるを得ない。だが、都内の防犯カメラには十六人の受け子と出し子の顔情報が入力されているので、いずれは探知できる。
――万一、気づかれたらすぐ離脱しろ――
 八木の声が頭に浮かんだ。
――受け子や掛け子なんか、どうだっていい。狙いは世田谷グループのオーナーだ。そのための絶対条件はアジトの発見で、確認ができたら監視を開始する。出入りする者を全員コンピューターに入力し、ヤサを押さえる。お膳立てが整ったら、一斉逮捕に踏み切る。その時は刑事部一課、二課、他部署も総動員する――
 奴らは用心深い、と八木が苦笑を浮かべた。
――少しでも怪しいと思ったら逃げ出すだろう。それだけは頭に叩き込んでおけ。尾行に失敗しても構わない。次の機会を待て――
 麻衣子はスマホに目をやった。八木の狙いは正しい。オーナーを逮捕するには、世田谷グループ全員の同時逮捕、そしてアジトの捜索が必須だ。
 それでも不安だった。特殊詐欺グループが狙うのは例外なく高齢者で、判断能力に衰えがある者が多い。
 この数年は過激さが増す一方で、家を襲い、高齢者を脅して銀行まで連れていき、自分で金を下ろしてこいと命じるケースの報告が相次いでいる。詐欺というより、強盗に近い。
 独居老人が増え、高齢者が彼らのATMになっている。市民の安全と治安を護るのが警察の役目で、何としても世田谷グループを潰すという八木の考えには麻衣子も賛同していた。
 だが、セトクの専従捜査員は二十名で、捜査本部としては規模が小さい。そして、稼働しているのは十二名だけだ。
 アジトの発見が急務だが、自分のミスで気づかれたらと考えただけで背筋が冷たくなった。もっと人員を増やすべきではないのか。
 二時間が経った。夜八時、スマホのランプが点滅を始めた。
 自動で画面が切り替わり、イタリアンレストランのエントランスが映し出された。歩道に丹原が立っていた。
 手を挙げた丹原がタクシーに乗り込んだ。ナンバープレートをタップしてから、麻衣子はファストフード店を出た。
 スマホ画面上のナンバープレートに触れると、捜査支援分析センターのAIがそれを読み込み、自動的に追尾が始まる。
 所轄の警察署がスピード違反取締りのために設置しているオービスと連動しているので、どこを走っているか確認は容易だ。
 麻衣子もタクシーを停め、まっすぐ行ってくださいと運転手に言った。
スマホの画面に走っている丹原のタクシーが映っている。六本木交差点を直進し、青山方面に向かっていた。
 トートバッグの中で、着信音が鳴り出した。SIT班員用のスマホだ。
『遠野くんか?』石田の声が聞こえた。『調子はどうだ?』
 のんびりした声音だった。尾行中です、と麻衣子はスマホを手で覆った。
「警視、ひとつだけ教えてください。今回の件ですが、交渉人研修も兼ねていると河井さんから説明がありました」
 そのつもりだ、と石田が答えた。世田谷グループの逮捕がマストなのはわかっています、と麻衣子は声を低くした。
「ですが、交渉人は特殊詐欺の捜査にかかわっていないと聞いています」 
 その通りだ、と石田が言った。
『交渉人は特殊詐欺捜査を担当しない。一般企業では部署が一緒でもそれぞれ取引先が異なるが、警察も同じだ。私は兼務しているが、君たちは違う。そもそも、君たちはまだ研修中で、交渉人ではない。SIT班員ですらないんだ』
「でも、わたしは交渉人になるために――」
 タクシーが信号で停まった。今回の件は交渉人の担当外と思っているのか、と石田がため息をついた。
『それは違う。広く言えば、交渉人はあらゆる事件を担当している。そういう性格を持っているんだ。君ならわかっていると思ったが、間違いだったか?』
 わかっているつもりです、と麻衣子は言った。
「交渉はどんな事件でも使えるツールですし、状況によっては交渉で事件を解決することもできると考えています」
 そういうことだ、と石田が小さく笑った。
『交渉人の資質を試すいい機会だと考えた。だから、君たち三人をセトクに送り込んだ。特に、君は警察官としての経験がほとんどない。それが悪いと言ってるわけじゃない。交渉人は警察組織の中で最も警察から離れた場所にいるべきだ』
 矛盾した言い方だがね、と石田が空咳をした。
『しかし、事件を客観視するためにはそうするしかない。俯瞰視点を持つ者は交渉人に適している。とはいえ、さすがに最低限の経験は必要だろう。君は交渉人としてセトクにいる。それを忘れるな』
「なぜ、わたしに電話を? 頼りないからですか?」
 君だけじゃない、と石田が言った。
『五分前まで、平河くんと話していた。次は会澤くんだ。それはいいが、尾行中と言ったな? 問題はないか?』
「わかりません。わたしは経験不足で、何が問題なのか、それさえわかっていないんです」
 無理はするな、と石田が深く息を吐いた。
『今、君は八木警視の指揮下にいる。私より五期上で、経験も長く、二課で特殊詐欺について誰よりも詳しい。指示があったはずだが、危険を察知したら即時離脱だ。わかってるな?』
「はい」
 君がアジトを発見する可能性は低い、と石田が言った。
『だが、ないとは言い切れない。その時は報告して、その場を離れろ。世田谷グループのバックには間違いなく反社組織がいる。何をするかわからない連中だ。交渉人は犯人逮捕に直接関与しない。それが原則だ』
「はい」
 気をつけろ、と言った石田が通話を切った。数分の会話だったが、心が解けた気がした。
 左折してください、と麻衣子は言った。青山三丁目の交差点に出ていた。
第7回につづく(8月4日更新予定)

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著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

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