2003年に刊行され、ドラマ化されるなど、大ヒットした『交渉人』シリーズの最新作が待望の連載開始! 今回は、「交渉人」シリーズの主人公・遠野麻衣子が、交渉人になるまでの物語。偏見と差別が色濃く残る警察組織の中で、麻衣子はいかにして交渉人となったのか。

交渉人ゼロ

大人気「交渉人」シリーズ新作連載! 五十嵐貴久『交渉人ゼロ』 第7回

ネゴシエイト7 殺人

 日本最大の警察本部である警視庁には捜査支援分析センター、略称SSBCが置かれている。他道府県警察本部にはない特殊な部署だ。
 二〇〇九年、警視庁刑事部に設置されたSSBCはあくまでも捜査支援に特化した性格を持つ。そのため、分析官の多くは民間企業出身のいわゆる特別捜査官だ。ほとんどが科学捜査もしくはサイバー犯罪捜査の経験を持っている。
 SSBCにおける最も重要な任務は防犯カメラ画像の分析だ。警視庁が公に認めている防犯カメラ設置数は約千台だが、実際にはその数倍ある。
 警察が設置している防犯カメラ以外にも、東京であれば都、区、市町村による防犯カメラ、警備会社の防犯カメラ、企業による防犯カメラ、銀行その他金融機関による防犯カメラ、コンビニ等店舗型防犯カメラ、更に家庭用防犯カメラ、車載ドライブレコーダーなど、総数を把握する者がいないほど多くの防犯カメラが街に配備されている。
 一般的な社会人が朝電車で出勤し、外回り、昼食などで数時間外出し、その後帰宅するまで、一日に最低二十回防犯カメラに映る、という警視庁科学捜査研究所の実験結果もある。東京、特に二十三区内での行動は何らかの形で防犯カメラに撮影されていると考えていい。
 ただし、警視庁の防犯カメラは別として、他の防犯カメラは型が古く、解像度の低い物も多い。正面から撮影しても人相の特定が困難な場合があるほどだ。
 店舗型防犯カメラ、車載ドライブレコーダーは天候によって映りが極端に悪くなる。また、サーバーの容量が少ないため、保存期間も短い。
 さまざまな弱点があるが、ハード、ソフト両面から改善が進んでいる。科学捜査の進歩によるものだ。
 二〇一三年、約二十年間逃亡を続けていた地下鉄毒ガス事件実行犯の動画がテレビその他で公開された。SSBCが開発した人物認証ソフトが実行犯を特定したためだ。
 事件が起きた一九九五年から二十年近く経っている。加齢による自然な人相の変化、整形等も含め、防犯カメラに映っていても人物の特定は難しい。
 だが、当時SSBCは指紋、虹彩、顔認証に加え、歩行認証機能を組み込んだ人物認証ソフトの開発に成功していた。二歩歩行するだけで、過去の動画との対比により、人物の特定が可能になるソフトだ。
 実行犯と共に潜伏していた共犯者の逮捕により、実行犯の行動範囲が判明したため、SSBCは付近の防犯カメラ画像をすべて回収し、人物認証ソフトで実行犯を検索した。
 歩行認証機能を使えば解像度に関係なく人物を特定できる。膨大な量の画像から、目的の人物を数秒で検索できる能力も合わせ持っている。
 その後画像補正ソフトを使い、実行犯の顔が識別できるようになった。そのため、テレビその他で動画を公開、市民に情報提供を要請した。
 画像の公開は、警察が潜伏先を知っていると犯人に伝えるのと同じだ。ニュースを見た犯人はすぐに逃亡を図るだろう。
 犯人の顔が明確であれば、市民からの情報提供によって捜索、確保が可能だが、不鮮明だと犯人の逃亡を幇助することになりかねない。
 だが、情報提供の方が逃亡より早い、と警察は判断していた。テレビでニュースが流れた翌朝、潜伏先のネットカフェ従業員から通報があり、実行犯は逮捕されている。
 もちろん、人物認証、画像補正、その他による分析が百パーセント正しいわけではない。トイレ等、防犯カメラが設置できない場所もある。
 カメラの特性上、光がない場所での撮影は不可能だ。暗視カメラが防犯カメラに使用されることはない。
 そのため、逃亡、潜伏中の犯人すべてを発見できるわけではないが、年々防犯カメラの設置数は増大し、高性能化が進んでいる。
セトクが追っている十六人の受け子、出し子についても、SSBCが全員の顔写真、動画、声、その他の情報を入手し、AIが都内の全防犯カメラ画像を検索し、居場所の検知に成功していた。
 ただ、防犯カメラに逮捕はできない。受け子の現在位置をAIが捕捉しても、状況によっては撮影不能になり、姿を見失うこともあり得る。
 犯人の進行方向を予測するソフトも開発されているが、AIも人間の突発的な行動は予測できない。闇に紛れ、カメラの死角をついて移動すれば、逃走は可能だ。
 警察が設置している防犯カメラの場所は主に繁華街、大きな幹線道路などで、どこに設置しているかは調べればある程度わかる。そこが防犯カメラの限界で、現場捜査員との相互協力が必要だった。
 三月三十日、セトクへの編入命令が出てから、麻衣子を含む十二人の捜査員は毎日十六人の受け子たちを監視し、行動を追っていた。
 四月に入り、暖かい日が続いていたが、週明け五日、月曜の朝七時、警視庁本庁舎十一階のA会議室に集まった捜査員たちの顔には脂が浮いていた。肉体的、精神的な疲労のためだ。
 全員の着席を待ってから、厳しいのはわかってる、と八木が口を開いた。
「SSBC、サイバー犯罪対策課の協力で、警視庁が直接管理している防犯カメラはもちろん、会社や店舗その他の防犯カメラ画像をAIがチェックし、受け子の動きを逐一諸君に伝えている。だが、我々の狙いは受け子や出し子の逮捕じゃない。言ってみれば、奴らは我々の情報屋なんだ」
 彼らの通話、メール、LINE、SNSから、世田谷グループの横の繋がりを調べなきゃならん、と八木が話を続けた。
「横といっても、受け子同士、出し子同士ってレベルじゃない。リクルーター、ディレクターのような正社員との接触を待っている。通話記録を調べるのは難しくないが、どうしても時間差がある。その間にリクルーターたちは電話機そのものを破棄するだろう。メールやLINEも同じだ」
 正社員の顔がわかれば先に繋がる、と石田が言った。
「情報交換のため、正社員同士が会うこともあるだろう。その場に店長がいてもおかしくない。繰り返しになるが、世田谷グループがアジトを構えているのは確かで、その場所さえわかればガサ入れができる。ただし、店長以下幹部社員全員の一斉逮捕が条件となる。そのため、君たちの任務が過剰になっているが、連休が始まる前までに、奴らは第五の大規模オレオレ詐欺を実行するはずだ。どんなに長くても後二十日ほど、ここが我慢のしどころだな」
 世田谷グループの規模は過去のオレオレ詐欺グループと比較にならないほど大きい。その分詐取する金額も巨額になるが、グループの維持には莫大な金がかかる。
 統率力に優れた店長がいても、二百人をまとめていくのは難しい。彼らを繋いでいるのは金だけだ。
 どんな仕事、業界でも、給料の未払い、遅配があれば社員、アルバイトから不満が出るだろう。会社員なら会社への忠誠心が関係性を強くするが、オレオレ詐欺グループは違う。逮捕のリスクが高い受け子、出し子ほど、その不満は大きい。
 一般的なオレオレ詐欺グループには地縁による繋がりがある、と第二班の横川が言った。二課では八木に次ぐポジションで、オレオレ詐欺の実態に詳しいのは麻衣子も聞いていた。
「同じ高校を出た、小学校からの友達、地元の仲間、家族ぐるみの付き合い、そんな人間関係がある。だから、簡単には裏切らない。裏切ることができないと言うべきかもしれんな」
 仲間を裏切れば厳しい制裁が待っている。単純な暴力に留まらず、店長は親族の情報も握っている。親兄弟を殺すと脅されれば従うしかない。
 家族を人質に取られているのと同じで、逮捕された受け子、出し子が黙秘を続け、罪を被るのは仲間を裏切ればどうなるかわかっているからだ。
 更に言えば、他に居場所のない彼らにとって、仲間こそが家族であり、家族を裏切るわけにはいかないという倫理もあるのだろう。
「だが、世田谷グループは違う。地縁や人間関係ではなく、金によって繋がっている。百人、二百人という数を地縁だけで集めるのは無理だ。有能な人材をスカウトする方が早いし、効率的でもある」
 おそらく世田谷グループは過去にオレオレ詐欺の経験がある者の集まりだ、と横川が言った。
「能力主義と言えば聞こえはいいが、精神的な繋がりは弱く脆い。八木警視はそこが世田谷グループの最大の弱点と考えているが、自分も同意見だ」
 弱点だが強みでもある、と八木が顔をしかめた。
「関係性が薄いから、店長たち正社員は受け子や出し子を守らない。オレオレ詐欺において、受け子、出し子は使い捨てと相場が決まっている。周辺に警察がいると気づけば、あっさり見捨てるし、場合によっては殺害してもおかしくない」
 それがセトクの行動を制限している、と麻衣子はため息をついた。野川や丹原など、判明している受け子の行動を追い、居場所がわかっていても手を出すことなく、監視だけに留めているのは、小さなミスが命取りになるからだ。
 私の読みでは、と八木が左右に目をやった。
「近いうちに受け子、出し子がアジトに集まるはずだ。次のオレオレ詐欺の計画、それぞれの役割を説明する必要があるためで――」
 それはどうでしょう、と麻衣子の隣に座っていた第二班の高梨が首を傾げた。
「過去、オレオレ詐欺グループは連絡手段として主にメール、LINEを使い、電話で連絡を取り合うのはレアケースです。受け子や出し子と店長が直接顔を合わせることもほとんどないはずです。全員がアジトに集まるとは思えません」
 ぼくは特殊詐欺の捜査経験がありませんが、と会澤が手を挙げた。
「それでも、知識はあるつもりです。高梨さんが言ったように、全員を集めて直接説明をするのはリスクしかないように思います。ズームやチャットでも指示できるのでは?」
 警察だけではなく、犯罪者も最新技術の導入に余念がない。法律の縛りがないため、犯罪者の方が有効に活用しているかもしれない。
 顔や雰囲気こそ典型的な刑事だが、意外なほど八木に固陋なところはなかった。下の意見をよく聞き、柔軟性を持っていると麻衣子もわかっていた。
 高梨や会澤の意見の方が正しいと思っていたが、そうとは限らない、と八木が肩をすくめた。
「まず、世田谷グループは他のグループと規模そのものが大きく違う。組織の編成も異なる。その意味で、過去の事例は参考にならない」
 私もそう思う、と石田がうなずいた。
「もちろん、一度に百人、二百人という人数を集めて次のオレオレ詐欺の説明をするとは思っていないが、過去四件の事件に共通しているのは、指示の徹底とそれによる連携だ。誤解を招く発言かもしれないが、世田谷グループはプロの集団と考えていい。ただし、悪く言えば寄せ集めに過ぎない。店長、幹部は下の連中を信用していないんだ。リスクはあるが、直接顔を見て話した方がさまざまな意味でメリットが大きいと判断するだろう。その点で、私と八木警視の意見は一致している」
 まずこっちの話を聞いてくれ、と八木が言った。
「基本的にオレオレ詐欺グループは毎日ターゲットを探しているが、アジトを置く必要があるから、狙いをつけるのは必然的にアジトと近接した区域になる。世田谷グループの特徴は、ある一日に集中してオレオレ詐欺を仕掛けることだ。リスク回避のためで、一日で犯行を終えると、アジトを捨て、一時解散ってわけだ。頭のいいやり方だよ」
 世田谷グループは信頼性の高い名簿を高額で購入し、ターゲットを絞り込んだ上でオレオレ詐欺を仕掛けている、と第二班の中條がうなずいた。
「短時間に大量の人数を集中的に動員し、一気に大金を奪う。こいつは過去にない手法で、そのためには受け子や出し子、そして掛け子に精度の高い訓練を課さなきゃならないはずだ」
 見方を変えれば、準備にほとんどの時間を費やしていることになる、と八木が言った。
「犯行がひと月に一度なのは、そのせいもあるのかもしれんな。完璧な準備、計画に基づき、オレオレ詐欺を実行する。その辺を考えても、犯行前に十人、二十人単位でアジトあるいは別の場所にメンバーを集め、いくつかの状況を想定した上で訓練していると見られる。そうでなけりゃ、一日で数億円を奪うことはできんだろう」
 単なるオレオレ詐欺グループとは違うというのが十二人の捜査官の共通認識だった。その後もいくつか意見が出たが、いずれにしてもセトクが不利なのは、世田谷グループがいつ動くかわからないことだった。
 連休前と石田は言ったが、まだ二十日以上あるし、連休明けまで身を潜めるつもりかもしれない。状況によっては、更に遅れることもあるだろう。
 その点で、少数チームのセトクには限界があった。どんな事件の捜査でも同じだが、緊張は長く続かない。
睡眠、食事、入浴、トイレ、必ず隙が生まれる。全員の顔に疲労の色が濃くなっているのは、そのためもあった。
「だが、少しばかり状況が変わった」
 八木がタブレットに触れた。画面に地図と男の顔写真が浮かんだ。
 

 説明するまでもないが、と八木がタブレットをスワイプした。
「一週間、十六人の受け子、出し子を徹底的にマークし、行動パターンを探った。こっちは連中の本名や住所も知っているが、監視を始めてから奴らは自宅に戻っていない。偽名と捨てアドを使って都内のビジネスホテルを転々としている」
 店長の指示を待っているんだ、と八木が言った。 
「ネットを通じてホテルを予約し、偽名で宿泊する、支払いはすべて現金だ。予約にはネットカフェのパソコンを使う。携帯電話を使用した場合はその都度破棄するか、SIMカードを交換する、その辺りは徹底していて、統制が取れているのがわかる」
 ビジネスホテルのエントランスには防犯カメラが設置されています、と第二班の井出巡査部長が言った。
「各客室フロアの廊下に防犯カメラを置くホテルも多いので、受け子たちの所在は確実に押さえられます」
 その通りだが、と八木が舌打ちした。
「ただ、室内にカメラはない。中で何をしているかはわからん」
 室内で店長や幹部連中と連絡を取り合ってるんでしょう、と会澤が言った。
「蒸し返すようですが、そこで次の計画の説明を受けているのでは?」
 効率が悪い、と石田が首を振った
「数十人単位で集めた方が早いし、店長にとって重要なのは、顔を見て、受け子や出し子の様子を探ることだ。怪しい、腰が引けてる、そう感じたら切り捨てて補充人員を充てるんだろう。メールで連絡を取り、アジトに集合する時間を伝えるはずで、捨てアドで隠語を混ぜていたら、SSBCにも特定は困難だ。もちろん、行動そのものは防犯カメラで追跡できるが、前にも言ったように、夜間だと人物認証ソフトの精度が低くなる。それではアジトの場所がわからん。ただ、電話での会話もあると私は考えている」
 なぜですと尋ねた麻衣子に、オレオレ詐欺グループが奪う金はすべてキャッシュだ、と八木が言った。
「それが店長にとって最大の問題になる」
 意味がわかりませんと言った平河に、SITの三人には説明が必要だな、と八木がうなずいた。
「君がオレオレ詐欺の店長だとしよう」八木が平河に顔を向けた。「一億円の現金を持って銀行へ行き、新しく口座を開きたい、もしくは他人の口座に振り込みたいと言ったらどうなると思う? 間違いなく別室に連れていかれて、どういうことでしょうと事情を聞かれる。今時、一億の現金を持ち歩く者なんているはずがない。身元や金の出所を確認され、すぐ警察がやってくる。逮捕されるとわかっていて、銀行に金を持っていくような頭の悪い奴は店長にならない。それでは、一億円をどこに隠す?」
 自分の部屋でしょうと答えた平河に、一億ならどうにかなる、と八木が言った。
「スーツケースに札束を入れて、部屋の隅に置いておけばいい。だが、場合によっては十億、それ以上ということもあり得る。札束というが、要は紙の束で容積がある。トランクルーム? 目の届かない場所に大金を置いておく度胸があるか? 結局は自宅しかないが、リアルな話をすると、そう簡単にはいかない」
 素人が考えるほど現金は便利じゃないんだ、と石田が言った。
「札束はかさ張るし、重量もある。右から左へ持ち運べるわけじゃない。十億円を詐取しても、オーナーへの上納金、アジトの家賃や人件費その他、支払うべき金がある。すべてを管理するのは店長だ。ただし、詐取した金額を知っているのは店長だけで、目の前に十億円があったら、誰だって使いたくなる。だが、派手な金遣いは人目を引く。店長には強い自制心が必要だ」
 銀行をはじめ、郵便局、その他の金融機関のチェックは厳しい、と八木が顎の不精髭を撫でた。
「キャッシュディスペンサーで架空名義の口座に預け入れるとしても、一日百万円が限界だろう。それが何日も続けば、金融機関も不審な金の動きに気づく。店長には受け子や出し子と違うリスクがあるんだ」
 過去の事例で言えば、と横川が腕を組んだ。
「オレオレ詐欺グループ摘発のきっかけは内部告発かタレコミだ。高級クラブ、性風俗店で湯水のように金を使っている客がいる、そんなタレコミは少なくない。いくら金があっても、他に使い道がないんだ。どんな詐欺でも同じだが、一気に大金を詐取できるオレオレ詐欺では、どうしても金遣いが荒くなる」
 店長クラスを逮捕したことがあります、と藤丸が言った。
「捕まってほっとした、そんなことを言ってました。一日で二億、三億の金が自分の手元に集まり、一人では運べません。副店長の手を借りて自宅に運ぶが、それだけの大金だと裏切られるかもしれない。店長を殺して数億円を持ち逃げするとか、何だってありです。金にはそれだけの魔力がありますからね」
 わからなくもありません、と会澤がうなずいた。都内にはオレオレ詐欺グループ専門の強盗もいる、と横川が口元を曲げた。
「奴らは警察より情報収集が早く、正確だ。どこのオレオレ詐欺グループが動いたかわかれば、店長を見張り、自宅に金を持ち帰ったところを襲う。殺された店長は両手じゃ足りないだろう。根こそぎ持っていかれても、被害届は出せない。闇カジノや反社組織を通じて金を洗浄したり、オーナーに届けるのも店長の役目だ。大金が短期間で手に入るのは確かだが、長くは続かない。藤丸じゃないが、逮捕されてよかったという話はよく聞く」
 同情することはないが、と八木が苦笑した。
「受け子、出し子、掛け子の管理も大変だ。使い捨てとはいえ、飴と鞭を使い分けなきゃならん。あるグループでは、オレオレ詐欺に成功すると高級風俗嬢を何十人も集めて乱交パーティーをするそうだ。金やクスリも渡す。逮捕されるリスクを背負っているんだ。そうでもしなきゃ、誰も従わない」
 そうでしょうな、と平河がうなずいた。ルールを破った者には制裁を加えなければならない、と八木が言った。
「半殺しどころか、山に埋めてそれっきりってこともある。見せしめだから、メンバーの前でやるが、ひとつ間違えれば自分が殺されるかもしれない。息もつけないだろう」
 金の運搬を受け子や出し子に手伝わせる店長は多い、と中條が眉間に皺を寄せた。
「友達に頼むってわけにもいかん。第三者の関与はリスクになるからな。店長が最も恐れているのは副店長クラスで、世田谷グループのように大人数を抱えていると、一人ですべてを仕切ることはできないから、サブリーダーとして副店長を置かなきゃならない」
 わかります、と会澤がうなずいた。だが、店長を飛び越えてオーナーと接触する副店長がいる、と中條が言った。
「チャンスがあれば店長を潰そうと狙っている。店長自身、そうやって今のポジションを得たんだ。信用できるはずがない」
 金で動く受け子しか信用できなくなってるんです、と藤丸が補足した。
「連絡手段がメール、LINEということもあるでしょう。ただ、具体的な場所を説明するには電話の方が便利なはずです。メールだと文字情報が残ります。もちろん、送ったメールはすぐに消去するでしょうが、誰かに見られたら、という不安は消せません」
 現状はこうだ、と八木が手を軽く叩いた。
「受け子や出し子の居場所はわかってる。奴らが同じホテルに泊まるのは一泊、長くても二泊だ。どれも典型的なビジネスホテルで、捨てアドでネットを使って予約しているから、次にどのホテルに泊まるかは当日までわからん」
 だが、一人馬鹿がいた、と八木が微笑を浮かべた。
「以前と同じ捨てアドで、今日泊まるホテルを予約したんだ。毎日気を張ってはいられない。油断したのかもしれんな」
 こいつだ、と八木がタブレットに触れた。麻衣子のタブレットに岡元憲次という男の顔写真が浮かんだ。
 都内のビジネスホテルの防犯カメラ画像を調べた、と八木が言った。
「こいつは岡元、岡江、岡田、岡井、その四つの偽名を順番で使っている。どんな間抜けでも同一人物だとわかる。しかも、本名は岡山だ。間違いなく、こいつが穴になる。各班から一名ずつ出し、岡元を集中的にマークする。第一班からは遠野、第二班は高梨だ」
「わたしですか?」
 思わず麻衣子は声を上げた。男同士だと怪しまれる、と石田が笑った。
「目付きの悪い二人組の男が近くにいたら、誰でもおかしいと思うだろう。他の十五人の受け子は我々が追うが、君たち二人は岡元専従だ」
 便利扱いしてるわけじゃない、と八木が太い指で長机を叩いた。
「いいか、岡山……ややこしいな、岡元と呼ぶが、奴は新大久保のサウスバウンドホテルに昨日から泊まっている。チェックアウトは明日の十時。ホテルの支配人には連絡済みで、奴が部屋にいるのは確かだ。まだ寝てるんだろう」
 羨ましい限りですと平河がぼやいた。八木がタブレットをスワイプすると、廊下を一台のカメラが映していた。一番奥、801号室のドアノブに赤い札がかかっている。
「いずれは起きてくる。一日中部屋に閉じこもっているはずがない。サウスバウンドホテルには飲食施設がない。岡元は監視に気づいていないから、飯を食いに外出するだろう」
「わたしたちに何をしろと?」
 麻衣子の問いに、ひとつは監視だ、と八木が答えた。
「奴が出てきたら尾行しろ。ただし、一人は残れ。部屋に小型カメラと盗聴器を仕掛ける」
「許可は出てるんですか?」
 私が責任を取る、と八木が長机を叩いた。
「ホテルの清掃員を装うことも考えたが、ビジネスホテルだとそうもいかない。ドントディスターブ、と客が言ってるんだ。勝手に入れば不審に思われる。普通は天井からワイヤーでカメラを入れるが、サウスバウンドホテルは八階建てで、801号室の上は屋上階だ。カメラを操作するスペースがない」
 すべての要素は考慮済みだ、と石田が言った。
「その上で最善手を選んだ。これは捜索差し押さえ、もしくは身体検査事案だが、いずれも令状が必要になる。山崎二課長に申し入れたが、裁判官が認めないと差し戻された。検察に余計な口出しをされると面倒だ。八木警視と私が責任を取る。指示に従って動くように」
 石田ではなく、八木の意向だろうと麻衣子は思った。だが、今はそれを言っても始まらない。
「出る前に装備課へ寄ってカメラと盗聴器を受け取れ」そっちの許可は取った、と八木が言った。「難しい話じゃない。支配人も協力すると言ってる。カードキーのコピーを受け取り、部屋に入ってカメラと盗聴器を仕掛けるだけだ。五分もかからないだろう」
 さっきも話に出たが、と石田がうなずいた。
「店長が金の運搬を頼むかもしれないし、道具屋その他から連絡があってもおかしくない。電話での会話は考えにくいが、運が良ければスマホのメール、もしくはLINEの画面を撮影できるかもしれない。絶対に電話がないとも言い切れないし、何もなくても損はないんだ」
 絶対に気づかれるな、と八木が鋭い視線を向けた。
「盗聴器は部屋の固定電話に仕掛ければいいが、問題はカメラだ。何しろビジネスホテルだから、ろくな隠し場所がない。撮影できなければ意味はないが、バレたら最悪だ。そこは現場で判断してくれ」
 出よう、と高梨が腰を浮かせた。小さくうなずいて、麻衣子はタブレットをトートバッグに押し込んだ。

 新大久保駅に着いたのは九時半だった。電車で移動している間にサウスバウンドホテルの場所を調べたが、駅から徒歩三分の路地にあった。
絵に描いたようなビジネスホテルだ。チェックアウトの時間だが、二階のフロントに客はいなかった。
 エレベーターの扉が開くのと同時に、いらっしゃいませと制服姿の中年男が頭を下げたが、すぐフロントから出てきた。麻衣子と高梨が刑事だと気づいたのだろう。
 緊張した表情のまま、先に立って非常階段の扉を開いた。鉄製の階段が一階から八階まで続いている。
 麻衣子も高梨も警察手帳を提示せず、八木の指示で来ましたとだけ言った。万が一に備えての配慮だ。
 聞いてます、と中年男が制服のネームプレートを指した。末次、と名前があった。
「客商売です。トラブルは避けたいんですよ」
 訴えるように言った末次に、わかってます、と麻衣子はうなずいた。現段階で岡元の逮捕や事情聴取をするつもりはなかった。岡元は世田谷グループに空いた小さな穴で、気づかれればすぐに塞がれるだろう。
 岡元に限らず、受け子、出し子を百人捕まえたところで意味はない。蛇を殺すには頭を潰すしかない。
 奴は部屋ですかと囁いた高梨に、そうだと思いますと小声で末次が答えた。
「身も蓋もない話ですが、うちのホテルは……つまり、そういう仕事をしている女性を呼べるんです。もう少しグレードの高いビジネスホテルだと、フロント階でエレベーターが止まりますが、うちはそれもありません。ただ、エレベーター内にカメラがあります。そこに映ってなかったので、まだ部屋にいるんでしょう」
「昨日の夕方チェックインしたんですね? その後は何をしていたかわかりますか?」
 見張ってるわけじゃないんで、と末次が非常階段の上に目を向けた。
「一階のエントランスと全フロアの廊下に防犯カメラがあります。画像をモニターで確認しましたが、入室してすぐドントディスターブの札をかけています。夜八時過ぎに外へ出て、二時間ほど経った頃戻ってきました。食事だと思います。連れはいません。三十分ほど後、ドアを開けて出てきましたが――」
 どこへ行ったんですと目で尋ねた高梨に、ペイチャンネルのカード自販機ですよ、と末次が苦笑を浮かべた。
「各フロアの一番奥に置いています。801号室の正面で、そこだけ壁が凹んでいます。他の客に見られないように、というホテルの気配りですよ」
 アダルトビデオですかと頭を掻いた高梨に、それぐらいいいじゃないですか、と末次が苦い顔をした。
「801号室はこの真上です。この辺のホテルはどこでもペイチャンネルがありますよ」
 自販機でカードを買った後はと尋ねた高梨に、部屋に戻りました、と末次が答えた。
「カードを買ったかどうかはわかりませんよ? 壁が凹んでるんで、カメラに映らないんです。でも、他に出る理由はないですから……それが昨夜の十時半頃で、深夜十二時までの映像を確認しましたけど、何もありませんでした。誰か来たとか、そんなことがあればすぐわかります」
 部屋から出てくれないと困るな、と高梨が下唇を突き出した。岡元がいると、小型カメラや盗聴器を仕掛けることができない。
 我々は外で待ちます、と高梨が言った。
「忙しいのはわかっていますが、ご協力願えますか? 八階の防犯カメラをチェックして、岡元が出てきたら連絡してください」 
 無理ですよ、と末次が首を振った。
「通常のフロント業務もありますし、十時半まではもう一人社員がいますけど、その後は私だけです。フロントは無人で、用がある客はベルで呼びます。私はバックヤードで事務作業をしなければならないんです」
「ですから、その間に――」
 責任持てません、と末次がやや強い調子で言った。
「防犯カメラと睨めっこじゃ、仕事になりませんよ。どうしてもって言うなら、刑事さんがバックヤードでモニターを見ていたらどうです? 協力すると言いましたが、業務に支障が出ない範囲で、という意味です。それ以外は無理ですよ」
 君が残れ、と麻衣子に視線を向けた高梨に、制服の予備は男性用しかありませんと末次がジャケットの襟を引っ張った。
「バックヤードでモニターチェックをしていても、トイレに行くとか、そんなことはあるでしょう? 背広姿でバックヤードから出てくれば、誰だっておかしいと思いますよ」
 仕方ない、と高梨が麻衣子の肩を軽く叩いた。
「俺がモニタリングする。君は外で見張ってくれ。そろそろ起き出す時間だ。一度出たら三十分は戻らないだろうが、忘れ物をしたとか、そんなことで戻ってくるかもしれない。俺が部屋で盗聴器を仕掛けている時、鉢合わせになったら面倒だ」
「はい」 
 八木警視は自分が責任を取ると言ったが、そんな簡単な話じゃない、と高梨が肩をすくめた。
「こっちの動きを世田谷グループが知ったら、全員逃げ出してもおかしくない。盗聴器はともかく、小型カメラの設置には時間がかかる。岡元が戻るようなら、すぐ連絡してくれ。盗聴器とカメラを持って部屋を出る。気づかれるぐらいなら、何もしない方がいい」
 了解ですと答えたが、問題があるのは麻衣子もわかっていた。外で見張ると言っても、都合のいい場所はない。エントランスの正面に立っているわけにもいかないだろう。
 麻衣子は非常階段から下を見た。
「正面にドラッグストアがありますが、他に店はありますか?」
 駅が近いんで、と末次が新大久保駅の方に顔を向けた。
「飲み屋、牛丼屋、スナック……何でもありますよ」
 どれも使えない、と麻衣子は首を振った。飲み屋やスナックはまだ開店前だろうし、牛丼屋に三十分以上いたら、不審に思われるだけだ。
「ホテルの出入り口は正面エントランスだけですか?」
 麻衣子の問いに、そうです、と末次がうなずいた。
「一階の非常口が裏の駐車場に繋がってますけど、お客さんは使いません」
「そこに防犯カメラは?」
「あります」
「非常階段はどうです?」
「ないですけど、降り口はエントランスにあるので、人が出入りすればカメラに映ります。それが何か?」
 いえ、と麻衣子は目を伏せた。戻りましょう、と高梨が末次の肘に触れた。

 サウスバウンドホテルの前の道は幅四メートルほどで、広いとは言えない。駅に向かって飲食店が軒を連ねていたが、ファストフード店のような張り込みに都合のいい店はなかった。
 やむを得ず、麻衣子は百メートルほどホテルから離れ、道路に面した百円ショップに入った。開店したばかりで、客はほとんどいない。
 店頭のワゴンから適当に商品を選び、カゴに入れては戻す、その動きを繰り返しながらホテルに目を向けた。サウスバウンドホテルは張り込みに不向きで、不慣れな麻衣子にとって条件は最悪だった。
 三十分に一度、高梨からLINEが入ってくる。動きはない、という文字が四つ並んだ。
 二時間が経ち、十一時半になった。陽光が降り注ぐ中、麻衣子は薄いコートを脱いだ。
 岡元憲次について、詳しいデータがセトクからメールで届いていた。本名岡山基博、目黒区の普通高校を卒業後、定職に就かないまま、短期のバイトを繰り返し、その日暮らしを続けているフリーターだ。
 学生時代、そしてフリーターになってからも反社組織との繋がりはないと記載があった。よくあるパターンだが、ネットでバイトを探していて、高収入というワードに釣られ、受け子になったのだろう。
 岡元が困窮しているのは、容易に想像がついた。初期のオレオレ詐欺はいわゆる半グレの集まりだったが、十年以上前から学生やフリーターだけではなく、主婦やサラリーマンの受け子、出し子が増えている。
 中には、オレオレ詐欺の被害者になった高齢者がだまし取られた金を取り返すため、オレオレ詐欺グループに入った例もある。
 隣人がオレオレ詐欺グループにいてもおかしくない、と麻衣子はため息をついた。
 オレオレ詐欺の受け子、出し子、掛け子に対し、店長が厳しい訓練を課すことについては多くの証言がある。その際、店長はオレオレ詐欺の正義を説く。
――世の中、不景気が続いている。オマエらに金がないのは、ジジイババアがオマエらの金を奪って、溜め込んでいるからだ。あいつらは自分が良ければそれでいいと思ってる。オマエらと違って高い年金をもらい、遊んで暮らしてるんだ――
――犠牲になってるのはオマエらなんだ。ジジイババアの娯楽のために、何でオマエらが踏み台にならなきゃならない? そんな馬鹿な話があるか?―― 
――オレたちがやってるのは世直しだ。ジジイババアに奪われた金を取り返しているだけだ。これは犯罪じゃない。正義だ――
――経済活性化のためにも、やらなきゃならない。オマエらがその金を使い、景気を良くするんだ――
 無茶苦茶な論理だが、オレオレ詐欺グループの強みはそこにある。
 誰であれ、罪を犯すことには抵抗がある。しかも、相手は社会的弱者の高齢者だ。罪悪感に苛まれてもおかしくない。
 だが、徹底的に自分たちを正当化すれば、詐欺に加担しているという自覚すらないまま、オレオレ詐欺を繰り返すことができる。
 組織としての強靭さが備わっているのは、徹底的な理論武装によるものと言っていい。岡元もその理論を信じる一人だ、と麻衣子はつぶやいた。
 受け子、出し子の報酬はリスクに比して低い。詐取した金額の一割から二割というのが相場だ。
 十年前なら、混乱に付け込み、一千万円、それ以上の金額を高齢者からだまし取ることが可能だった。百万円なら多少のリスクもやむを得ない、と考える者もいただろう。 
 だが、今ではキャッシュディスペンサーの出金上限が五十万円になっている。生体認証なら一千万円まで出金可能だが、高齢者の場合、生体認証の手続きをしていない者の方が多い。実質的に、一回のオレオレ詐欺で詐取できる金額は五十万円ということになる。
 窓口なら、預金全額を下ろすことができるが、慌てた様子の高齢者が通帳にあるだけの金をすべて引き出すと言えば、銀行員、郵便局員は事情を確認する。注意喚起をしていない金融機関はない。
 その場で孫、あるいは子供に電話を入れ、オレオレ詐欺とわかり、被害を未然に防ぐケースも増えている。
 警察や行政の力により、ピークだった二〇一四年から被害総額が減っているのは事実だが、想定より減り幅は小さかった。大金の詐取ができなくなったオレオレ詐欺グループが小口の詐取を増やしているためだ。
 オレオレ詐欺グループを会社とすれば、前年度比で売り上げを落としたくないだろう。だが、大口契約はできない。
 そのため、小口のビジネスを増やすことにした。上限額の五十万円を何度も振り込ませる還付金詐欺はその代表的な手口だ。
 受け子、出し子も少額詐取を繰り返すしかない。その分、逮捕のリスクが上がっている。五万、十万のために詐欺罪で逮捕され、待っているのは懲役刑だ。
 損得もわからなくなっているのか、と麻衣子はため息をついた。もっとも、その計算ができるなら、最初からオレオレ詐欺にかかわらないだろう。
(遅い)
 麻衣子はサウスバウンドホテルのエントランスに目をやった。
 昨夜十時、岡元はホテルに戻っている。おそらくは一人で食事をし、その際酒を飲んでいたのかもしれないが、末次の話を聞く限り、それほど酔っていなかったようだ。
 その後、ペイチャンネルのカードを購入し、アダルトビデオの類を見たのだろう。それでも、二、三時間後にはベッドに入ったはずだ。
 就寝して十時間前後経っている。普通なら、起き出す時間だろう。
 外出するな、と店長から指示が出ているのかもしれないが、昨夜は外で食事をしていた。警察の監視に気づいていないのだから、不安もなかっただろう。
 世田谷グループのオレオレ詐欺で受け子を務めていたのは確かだが、岡元自身は警察のターゲットになっていることを知らない。食事、パチンコ、友人と会う、そんなことがあってもおかしくなかった。
 十一時半を回っている。空腹ではないのか。
<どうして岡元は動かないんですか?>
 高梨にLINEを送ると、俺もそう思ってた、とすぐに返事があった。
<昨夜の防犯カメラ画像をチェックした。足取りはしっかりしていたし、酒は飲んでいなかったようだ>
<はい>
<部屋でクスリでもやってたのか? いずれにしても、奴の部屋には誰も入っていない。岡元が出てこないと、カメラや盗聴器を仕掛ける隙がない>
<わたしたちがいると気づいて出てこないのでは?>
<それはないだろう。そうだとしても、いずれは出なきゃならないんだ。奴は何をしてる?>
 薬物の過剰摂取、という考えが頭を過ぎった。オレオレ詐欺グループでは覚醒剤で受け子や出し子を縛ることがある。室内で意識を失っているのかもしれない。
 若年性糖尿病による意識喪失、もしくは転倒して頭を打ち、気を失っていることもあり得る。
 監視を始めてから二時間ほどしか経っていないが、昨夜からの行動はすべて追っている。実質的には監視下にあったのと同じだ。
 昨夜十時、部屋に戻るまで、不審な行動はしていない。岡元にとっては、今日も昨日までと変わらない一日のはずだ。
 部屋に籠もって、半日以上が経っている。なぜ動きがないのか。
<嫌な感じがしませんか?>
<八木警視に報告して指示を仰ぐ。少し待て>
 麻衣子はカゴの中の商品をすべてワゴンに戻した。どす黒い不安が胸に広がっていた。

 十分後、現状を維持せよ、と八木から指示があった。焦って動くな、と言いたいのだろう。
 下手に動けば取り返しがつかなくなる。どんな事件でもそうだが、現場の先走った判断で、最悪の事態に陥ることは珍しくない。
 ただ、八木の認識は甘い、と麻衣子は思っていた。半日以上動きがないのは、どう考えてもおかしい。
 とはいえ、警察組織において上司の命令は絶対だ。待機するしかなかった。
 一時間が経ち、午後一時になった。801号室のドアは開かない。
 約十四時間、岡元は部屋に籠もっている。何をしているのか。
 一時十分、スマホに着信があった。石田だ、という声がした。
『八木警視も一緒だ。高梨とも繋がっている。彼も不審だと言ってるし、三十分前には突入許可の要請があった。それは却下したが、確かに時間が経ち過ぎている。焦ってはならないと百も承知だが、そうも言っていられない。君の意見は?』
 室内の確認が必要な状況だと思います、と麻衣子は言った。
「いくつか可能性が考えられますが、覚醒剤や睡眠薬の過剰摂取で意識を失っているのではないでしょうか?」
 それは考えた、と八木の太い声が割り込んだ。
『高梨の話だと、飲酒していた様子はないし、少なくとも泥酔はしていなかったようだ。こっちにも映像が届いている。確認したが、普通に廊下を歩いていた。ホテルのカメラは低画質で顔もはっきりしないが、それぐらいはわかる。岡元は手ぶらだった。ホテル内にビールの自販機があるが、奴は買っていない』
「はい」
『睡眠薬と君は言ったが、調べた範囲内で岡元が心療内科、精神科に通院していた事実はない。内科で処方するのは精神安定剤だ。大量に持っていたとは思えん。オレオレ詐欺グループと反社組織は親和性が高い。覚醒剤、あるいは何らかの麻薬をやってたのか……』
 ホテルの支配人に連絡した、と石田が言った。
『清掃を口実に801号室のドアをノックするところまでは了解している。ただ、その場合高梨を動かすわけにはいかない。男性の清掃員もいるだろうが、ビジネスホテルの場合、ほとんどは女性だ。岡元は眠っているだけかもしれない。高梨に行かせれば、刑事だと気づかれる恐れがある』
「わたしが行きます」
 そうするしかなさそうだ、と石田がため息をついた。
『ホテルに戻り、清掃員の制服に着替えてドアをノックしろ。返事があれば、ドントディスターブの札が外れていたと言えばいい。もし顔を見られたら、藤丸をそっちにやるから、交替するように』
「わかりました。ですが、返事がなかったら?」
 支配人からカードキーのコピーを受け取れ、と石田が指示した。
『それを使って部屋に入るんだ。眠っていたら、そのまま部屋を出ろ。風呂に入ってるとまずいが、うまくごまかしてくれ』
 待て、と八木が怒鳴った。
『風呂でもシャワーでも、ノックの音に気づかないはずがない。返事がなければ高梨を呼んで踏み込め。三十分前、横川と会澤を新大久保に向かわせた。二人にはホテル周辺の確認を命じている。岡元を監視している世田谷グループの仲間がいるかもしれん。君も注意しろ。何もなければ、全員本庁に戻って様子を見る』
「了解しました」
 横川と会澤から君と高梨に連絡が入る、と八木が言った。
『彼らがホテル周辺を調べてから、801号室に行け』
「もし……岡元が意識を失っていたらどうしますか?」
 支配人を呼べ、と石田が言った。
『彼が救急に通報する。警察、セトクは関与しない。様子がおかしいと思って部屋に入ったと説明させるから、そこは問題ない』
「わかりました」
『君が意識不明の岡元を見つけると、世田谷グループが警戒を強め、最悪の場合全員が逃亡する可能性がある。逮捕できるのは末端の受け子や出し子だけだ。そのためにセトクを設置したわけじゃない』
 ブルートゥースイヤホンを装着しておけ、と石田が命じた。
『横川と会澤が周囲の確認を終えたら連絡が入る。君は801号室に入り、室内の状況を報告するように』
 返事を待たず、石田が通話をオフにした。入れ替わるように着信音が鳴り、会澤の番号が画面に浮かんだ。

 一時四十分、麻衣子はサウスバウンドホテルに戻り、末次からカードキーを受け取った。そのまま更衣室で清掃員の制服に着替えた。
 バックヤードで待機していた高梨が、君はエレベーターを使えと言った。
「俺は非常階段で八階に上がる。横川さんから連絡があったが、ホテル周辺に不審人物はいなかった。念のため、会澤が周辺の防犯カメラ画像を捜査支援分析センターに送り、解析を依頼しているが、何も出てこないだろう」
「はい」
「予定通り、部屋をノックしろと八木警視から連絡があった。どうもおかしい。返事がなかったら中に入って、様子を探れ」
 耳に装着していたブルートゥースイヤホンから、石田の声が聞こえた。
『こちらは問題ない。すぐに801号室へ上がれ』
 了解です、と短く答えた。怯えた目で見ていた末次がビニール袋に入ったタオルセットを渡してきた。
 麻衣子はエレベーターのボタンを押し、開いたドアから乗り込んだ。非常階段の扉を開ける高梨の背中が見えた。
 フロントのある二階から八階までエレベーターで上がった。廊下に出て、まっすぐ801号室へ向かった。
 ドアを軽くノックした。返事はない。
 もう一度、強くドアを叩いた。やはり返事はなかった。
 入りますとブルートゥースイヤホンに囁いて、カードキーでロックを解除した。小さな緑のライトが灯った。
 ドアノブを押し下げ、部屋に入った。失礼しますと言って、手にしていたタオルセットを持ち直した。
「お客様、いらっしゃいますか?」
 清掃の時間ですと言いかけたが、口を閉じた。狭いシングルルームのベッドで岡元が横になっている。
「お休み中、失礼しました」
 頭を下げた時、半開きになっていた右側のドアから浴室が見えた。赤いタオルが落ちている。暗い赤だ。
 浴室には誰もいなかった。床にもバスタブにも何もない。
 麻衣子は深く息を吐いてベッドに近づき、石田さん、とブルートゥースイヤホンに手をやった。
「岡元は部屋にいます。ですが……」
『どうした?』
 岡元の死亡を確認、と麻衣子は囁いた。
「下腹部を刺されています。失血死と思われます」
 待て、と八木の大声が耳を打った。
『何を言ってる? 岡元が殺されたってことか?』
 確認します、と麻衣子は室内を見回した。ベッド、冷蔵庫、小さなデスク。あるのはそれだけだ。
ドアのないクローゼットにコートがかかっている。誰かが隠れている気配はなかった。
「高梨さん、来てください」
 今、六階だと返事があった。ブルートゥースイヤホンに触れ、麻衣子は報告を始めた。
「801号室には誰もいません。岡元は殺されています」
『なぜ他殺とわかる?』
「凶器がありません」
『何だと?』
 八木の声が耳に響いている。絶対ではありませんが、と麻衣子は報告を続けた。
「狭いシングルルームです。凶器が落ちていればすぐわかります。犯人は岡元を刺殺、凶器を持ったまま逃げたようです」
『バスルームは?』
 見ました、と麻衣子は言った。
「凶器はありません。部屋にカーペットが敷いてあるので、判別できませんが、血痕が落ちているはずです。バスルームの床に、血を拭ったタオルが落ちていました。他には何も――」
 何も触れるな、と石田が鋭い声で言った。
「高梨はまだか? 彼の確認を待って、支配人に状況を伝える。岡元の死亡は間違いないのか?」
「はい」
 ドアが開き、高梨が入ってきた。無言のまま岡元の写真を撮り、セトクに送ってから、岡元の死亡を確認、と携帯電話を耳に当てた。
「Tシャツの裂け目から下腹部の傷が見えます。かなり深いですね。出血も酷かったようです。写真を送りましたが、血が乾いてるのがわかりますか? 死後十時間は経っているでしょう」
 数秒の間を挟み、通信指令センターに連絡したと石田が言った。
『第一発見者は遠野くんだ。高梨くんとそこに残り、機捜に事情を説明しろ。一課にはこちらから伝える。君も捜査員と名乗っていい。こちらの動きを気取られたくなかったが、殺人ではどうにもならない』
 高梨、と八木が言った。
『写真の岡元の顔が真っ白だ。遠野も言っていたが、失血死だろう。死後十時間と言ったな? 確かか?』
 十時間以上です、と高梨が訂正した。岡元は昨夜十時半まで生きていた、と八木が言った。
『ペイチャンネルの自販機でカードを買うため、部屋を出ている。そこまでは間違いない。カードを買った後、部屋に戻っている。その後、誰も部屋に入っていない。どうなってる? いつ刺された? 犯人はどこだ?』
 麻衣子は部屋を出た。目の前のペイチャンネルの自販機のすぐ横に、非常階段の扉があった。
 犯人は非常階段で八階に上がったと思われます、と麻衣子は言った。
「ペイチャンネル用のカードを購入するために部屋を出たのではなく、犯人から連絡があったんでしょう。岡元は非常階段のドアを開け、そこにいた犯人に下腹部を刺されたんです。カメラの死角になっているので映っていませんが、他に考えられません」
 後ろから腕を掴まれた。顔を向けると、携帯電話を耳に当てたまま高梨が床を指さした。かすれた血痕が数滴床に落ちていた。
 遠野が言ったように、と高梨が報告を始めた。
「岡元が刺されたのは非常階段のドア前のようです。犯人から逃げるために、岡元は部屋に戻ったんでしょう。奴の携帯電話が室内にあるはずで、調べれば電話もしくはメールの着信履歴がわかると思います」
 そうか、と八木がため息をついた。岡元はバスルームで止血を試みたようです、と高梨が言った。
「深手を負ったとわかり、119番通報をするためベッドに座った。そのまま大量出血のために意識を喪失、死亡したと思われます。犯人は世田谷グループの一員でしょう」
 何のためだ、と八木が怒鳴った。その時、麻衣子のスマホにLINEの着信があった。石田だ。
<一度電話を切り、非常階段に出て、私の携帯に電話しろ>
 指示に従い、非常階段の扉を開けた。誰もいないのを確認してから後ろ手に扉を閉め、石田の番号に触れた。
『高梨は?』
 部屋です、と麻衣子は答えた。タイミングがおかしい、と石田が言った。
『我々が岡元の監視に集中するのとほぼ同時に殺された。偶然とは思えない』
「どういうことです?」
 情報が漏れてる、と石田が声を低くした。
『セトクは世田谷グループ逮捕のために設置された。編成上のトップは二課長だが、実際には八木警視が指揮を執っている。岡元の監視を知っているのは我々十四人の捜査員、そしてSSBCの担当者だけだ』 
 二課長もです、と麻衣子は言った。
「令状を取るため、山崎二課長に申し入れをした。そう話してましたよね?」
 そうだった、と石田が苦笑した。
『どこから漏れたのか……本庁内に世田谷グループと関係する者がいるようだ。八木警視と話す。また連絡する』
 石田さん、と麻衣子は非常階段の踊り場に降りた。
「八木警視を信じていいんでしょうか? 世田谷グループを追っていたのは二課のチームで、指揮官は八木警視でした。何らかの形で接触があったのかもしれません。二課からセトクに加わっている捜査員の誰か、ということもあり得ます」
 今は言うな、と石田が囁いた。
『気づかれたとわかれば、君が危険だ。何もわからない顔をしていろ。会澤や平河にもだ。君は私が守る』
 気を付けてください、と麻衣子はドアを見上げた。
「危険なのはわたしだけではありません。石田さんが狙われる可能性もあるんです」
 心配するなとだけ言って、石田が通話を切った。扉が開き、高梨が顔を覗かせた。
「今、救急に通報した。八木警視が一課に状況を説明している。現場保存の必要があるから、部屋には戻るな。ここで一課の強行犯係を待つ」
 わかりました、と麻衣子は階段を上がった。遠くでパトカーのサイレンが鳴っていた。

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著者

五十嵐貴久

1961年、東京都生まれ。2001年「リカ」で第2回ホラーサスペンス大賞を受賞し、翌年デビュー。警察小説「交渉人」シリーズをはじめ、ミステリーやスポーツ、恋愛小説など幅広いジャンルで作品を発表。著書に『命の砦』『バイター』『能面鬼』など著書多数。

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