第20回 泡の時間
「母」ではなくて「親」として、妊娠・出産・育児をしてみると、世界は変わって見えてくる! 周りを照らす灯りのような赤ん坊との日々を描く、全く新しい出産・子育てエッセイ。

母ではなくて、親になる

第20回 泡の時間

 
 オムツを替えたり、母乳をあげたりしている時間が、どこへ行くのかと考える。
 どこへも行かない。今、ここで、自分が消費するだけだ。泡のようにパチンと儚く消える。
「母親は子どもにばかり時間を使っているが、自分の時間も作るべきだ」
「自分の時間を子どもにあげるので、母親は大変だ」
 といった科白を聞くことがある。
 でも、実際には、赤ん坊に自分の時間を分けてあげることはできない。時間にはあげたりもらったりすることのできない性質があり、自分の持ち時間は自分で消費するしかない。
 赤ん坊に関わる行動のみで一日を過ごしても、私自身が時間の流れを感じ、私の目で赤ん坊の姿を楽しみ、私が頭の中で考え事をしている。だから、この時間は、赤ん坊の時間ではないと思う。
 出産前には、「私も出産したら『自分の時間が欲しい』と思うようになるのかもしれない」と予想していた。
 でも、現在、私はそう思っていない。ここにあるのは、自分の時間ばかりだ。「赤ん坊と一緒にいても、私のやりたい世話しかしていないな」と思う。
 いや、べつに殊勝な心もちでそう思っているわけではなくて、「最近、美術館に行けていないし、本も読めていない。やりたいことがもっとあるのに、時間が足りないなあ、いらいらする」だとか、「仕事が終わらない。一日が二十五時間とか、一ヵ月が三十二日とか、私にだけもっと時間があったらいいのに。むかむかする」だとか、嫌な感情は結構抱いている。
 でも、赤ん坊の世話も私のやりたいことだし、赤ん坊と一緒のときも私自身として生きているので(この本のタイトルみたいに、母親という役割を気にしておらず、いつでも私自身のままで、特に頑張っていないし)、赤ん坊に時間を使ってあげている感覚は湧かない。

 時間といえば、料理や洗濯や掃除といった「家事」に使う時間がある。私たちの場合、夫も家事を行なっているが、在宅仕事の私も結構やっている。もちろん、家事の時間も自分の時間だ。料理をしながら思考を進めたり、洗濯物を干しながら詩的な時間を過ごしたりもする。ただ、家事に時間を使うと、仕事の時間が物理的に減ってしまうため、できるだけ作業の時短はしたい。それで、「食器洗浄機」「洗濯乾燥機」「ロボット掃除機」といった家電に家事を任せる。手を抜けるところは抜く。ときには、布団を敷きっぱなしにする。赤ん坊のいない部屋には埃を溜める。締め切り前は栄養のない食事に甘んずる。
 しかし、ここできちんと書いておきたいことがある。私は、掃除は嫌いだが、料理と洗濯は結構好きだし、もしも、仕事をする時間が保てるのならば、もっとやりたいのだ。こういう気持ちは多くの人が持っているのではないだろうか。
 育児者が、「もっと仕事をする時間が欲しい」「もっと映画を観る時間が欲しい」といった希望を持って、他の家族と育児や家事をシェアしようとすると、「子どもの面倒を見たくないのだろう」「料理をしたくないのだろう」と誤解されてしまう。子どもがいて幸せなはずで、子どもと過ごす時間が楽しそうだったのに、他のことをやりたいと言い出したということは、実は、子どもといても幸せではなくて、子どもといる時間が苦痛だったのか、と思われてしまう。あるいは、本当は料理が嫌いなのに、これまでは仕方なくキッチンに立っていたのか、料理をする時間を無駄だと感じていて、他の人に押しつけたかったのか、と勘違いされる。
 いや、違う。やりたいことが多すぎる、というシンプルな状態なのだ。
 一日が三十時間あって、仕事もできる状態だったら、育児にもっと力を入れたいし、凝った料理も作りたい。でも、時間が有限だから、工夫するしかない。それだけのことだ。
 家事は、自身のことだけでなく、赤ん坊や夫の生活のことも行なっているが、赤ん坊や夫に自分の時間をあげている感覚は持っていない(夫も、赤ん坊や私に関する家事を行なっているが、私は夫から時間をもらっている気はさらさらない。夫も夫自身で家事の時間の楽しみを見つけるしかないだろう。夫は、私の服にアイロンをかけながら、夫なりの考え事をすれば良い《夫は、私に外出の仕事があると、私の服にアイロンをかけることになっている》。どんなことをしていたって、発見や成長ができるはずだ)。結局、家事をしながらも、自分の目で世界を見て、自分の考え事をしているので、家事の時間も自分の時間だ。家事を通して、他の家族の生活を垣間見ることができるのも面白い。嫌だから時短したいのではなく、仕事の時間を作るための工夫をしたいだけだ。

 細かいことをぐちぐち説明していると思われるかもしれないが、微妙な違いでも、「赤ん坊に奉仕している」「いやいや家事をやっている」と周りから認識されたくない。
 全部の時間を自分の時間だと思っていて、赤ん坊の世話も家事も好きでやっている。もっと仕事の時間があればいいな、とは思うが、仕事以外の時間も楽しんでいる、そこのところを、夫や周囲の人にわかってもらいたい。
 特に、赤ん坊の世話に関しては、ものすごく面白いので、赤ん坊が大きくなってからも、私がいやいややっていたとは思われたくない。
 そうして、今が楽しいので、この瞬間ですでに赤ん坊に使っている労力の元は取れているな、と感じている。そこのところも、赤ん坊が大きくなったら理解して欲しい。小さいときに世話したからといって、赤ん坊がどんな大人になろうが私は構わない。

 この感じは、仕事に使っている時間に対しても抱いている。
 私の仕事は小説を書くことなのだが、小説を書いている最中に、この先にもう何も残らなくてもいい、書いているときの楽しさで元が取れた、と思うことがある。
 数年前に、小説家を目指している若い人から相談を受けた。「このまま小説を書き続けていいのだろうか、と不安になる。デビューできるかどうかわからないのに。先に繋がらないことに、無駄に時間を使ってしまっているのではないかと心細い。小説に使っている時間をバイト代に換算したらいくらになるんだろう、と考えてしまう」と言っていた。
 バイト代に換算するのは駄目だ、と私は思った。デビューできないとしても、金にならなくても、この小説はどうしても書きたい。小説を書いているうちに、そういう感じになってくると思う。
 私はデビューする一年ほど前に、残業の多い会社を辞めて、定時で帰れる仕事に転職することにしたのだが、退社の希望を上司へ伝える際に、「小説を書きたいので辞めたいです」と言った。嘘をつくのも面倒だったので、正直に言った。そのときの私は、ときどき投稿をしているだけの完全なるアマチュアだったが、ちょうど失恋して頭がぶっ飛んでいたこともあり、「小説を書きたいので辞めたいです」と言うことを恥ずかしいとは感じなかった。そして、デビューできなかったとしても、やれる努力はやっておきたかったし、会社を辞めたことも、小説に使った時間も、後悔しないと思った。
 そのあと、運良くデビューできて、事務仕事をしながら、兼業で文筆業を行った。でも、根が不真面目なので、その会社もすぐに辞めた。今は専業で小説を書いていて、金が稼げているが、小説を書いている時間がシンプルに金になっているわけではない。長い時間を使って書いた原稿をボツにすることは今でもある。ボツにするのが全然つらくないわけではないが、良くない原稿を社会に晒すよりは、捨てた方がずっとましだし、そもそも、原稿をボツにしても、書いている最中にいろいろ考え事ができたし、自分の時間を失ったわけではないので、無駄だったとはあまり思わない。
 あと、生活費を小説で稼ごうという気はない。金は欲しいし、一発当てて家を建てたいという野望はある。でも、こつこつ書いて、この努力を金に変えよう、という気持ちはない。こつこつ書くが、それは好きでやっているだけだ。もし、一発当たらなかったとしても、こつこつ書くのは楽しかったので、もういいのだ。
 私の仕事のメインは、文芸誌に小説を載せることや、その小説を書籍化することなのだが、それで生活しているわけではない。何で生活しているのかと考えると、単発で書くエッセイや、広告仕事などでだ。そういうのも上手くいかなくなったら、また他の仕事を兼業すればいいと考えている。ブランクはあるが、私はアルバイトや会社員として働いた経験もあるので、なんとかなるだろう。私は、金になる原稿仕事もやっているが、金にならない原稿も書いている。
 今でも、小説は書きたいから書いているだけだ。特に文芸誌に小説を発表することは、労力と原稿料の釣り合いを考えたら金に繋がらない行為だと気がついてしまうので(私が文学賞に縁のない最低ランクの作家だからという理由もあるのかもしれない)、これで稼ごうという気持ちではやっていられない。とにかく、ぞくぞくして面白いからやっている。編集者さんとぴりぴりし合ったり、文芸批評家から辛辣な批判をされたりすると、背筋がぞおっとして面白くてたまらなく、発表を止められない。「ぼろぼろにけなされた」と憤りつつ、にやにやしてしまう。
 昔は、「憧れの『源氏物語』や谷崎潤一郎の作品みたいに、後世の人々に読み継がれたい」と願っていたが、今はそういうのもどうでもよくなった。書いている間に書いている労力の元はすでに取れているので、先のことはもうどうでもいい。小説というのは読者が頭の中で完成させるものなのだが、どうせ私はそこまで見届けられないし、私の埒外のことだと思う。読者を信頼して、私の知らないところで自由にやってもらうしかない。だから、私はそこまで考えない。今、一所懸命に自分のために書く。それだけでいいじゃないか、という気持ちになってきた。

 それと同じで、赤ん坊と過ごしている時間が、この先に何にもならなくてもいい。
 私が今、赤ん坊と一緒にいて楽しい、それだけでいい。
 赤ん坊が今の生活をのちのちまで記憶していることはないだろう。〇歳の日々の思い出を語る大人には会ったことがない。赤ん坊は、昨日のこともすべて忘れているのではないだろうか。そう、それでいいのだ。
 今、私は赤ん坊の未来について、毎日考える。しかし、赤ん坊の未来のために今を過ごしているのではない。赤ん坊の未来について考える理由は、未来のことを考えると今が明るくなって、今が素敵な時間になるからだ。結局のところ、今は、今のための時間だと思う。
 そして、私は「家族サービス」「休日を家族のために使う」といったフレーズが嫌いだ。自分も楽しんでいるのに、なぜ、「家族のために」なんて恩着せがましく言うのだろう。
 本当は嫌なのに家族と一緒にいるのか? それなら、別々に過ごした方がましだ。
 私は、育児にしても、家事にしても、自分が無理しないとできないことは、やらなくていいや、と諦めている。私は仕事が大事だから、仕事を削ってまで育児や家事を頑張らない。他の人たちが育児や家事をどの程度頑張っているのか知らないが(私は夫と家事を折半しているので、平均値に比べると、育児や家事をやっていないと思うが)、自分が周りに恩着せがましくならずにやれる範囲のことしか、やる気がない。
 赤ん坊を夫や保育士さんに任せるときに、後ろめたさを感じて、子どもに謝る人もいるそうだが、私は仕事のことで赤ん坊に謝ったことはない。
 夫に赤ん坊を任せてカフェへ行くときは、
「じゃあね。仕事してくるね。親が仕事した方が、△△(赤ん坊の名前)も幸せになるよ」
 と言い置いて出かけている。男性が堂々をやっていることは、私だって堂々とやる。胸を張って仕事をして何が悪い。親の仕事が子どもに不利益なんて聞いたことないぞ。
 ときどき、自分の判断で育児や家事を頑張り過ぎたのに、「男が時間をくれないから」と男性を批判する女性がいるが、真のフェミニストは、むやみに男性を批判したり、不満を訴えるのではなく、冷静に社会構造を変えていくのではないか、と私は思う。
 時間の使い方に関しては、ずっと私も悩んでいるが、全部自分の時間なのだ、という自覚だけは持ち続けたい。

 

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著者

山崎ナオコーラ(やまざき・なおこーら)

1978年、福岡県生まれ。2004年、会社員をしながら書いた『人のセックスを笑うな』で文藝賞を受賞し、デビュー。他の小説に『浮世でランチ』『カツラ美容室別室』『ニキの屈辱』『昼田とハッコウ』『ネンレイズム/開かれた食器棚』など。エッセイに『指先からソーダ』『かわいい夫』などがある。

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