「川本直はいつ、どのような経験を積んで、これだけの作品を生み出すことができたのか」(書評より)―― 川本直デビュー小説『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』書評

 あなたは鮨屋で「大間の鮪ですよ」と言われて出された鮨であればいくらか味が薄く鮮度が落ちると感じても、美味しいと自分に言い聞かせ、あまつさえ「やはり鮪は大間に限る」と呟く種類の方だろうか。それとも、旨い鮪(ないし穴子でも鯖でも鰺でも)であれば、産地に拘らず口にしてじっくりその滋味を味わうほうだろうか。

 もしあなたが最初のタイプの方であれば、この本はお薦めしない。著者も「訳者」も登場人物も時代背景も「真実」かどうか意図的に曖昧にされているからである。

 されど、どこの産の鮪であれ何の魚介であれそれらの旨さを感じ取れる舌をお持ちで、しかも確かな言葉で綴られた堅牢な構築物(=文学作品)が何より好きな方であれば、この本、川本直『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』は他に替えがたい美味しい料理のごとく感じられるはずである。

 そう、すべからく読者たる者は、実際の言葉を丹念に吟味して作品を味わうべきであり、奇想天外な仕掛けや描かれた突飛な出来事にいちいち惑わされるべきではない。

 それにしても、と評者である私は書き出さずにはいられない。それにしても、著者(訳者でもよい)の川本直はいつ、どのような経験を積んで、これだけの作品を生み出すことができたのか。

 完成に辿り着くまで十年という歳月が流れたと聞く。その十年間は充電期間というにはいささか長すぎる時間だったかもしれない。だが、粗製濫造の傾向なしとしない近年の文藝作品(翻訳も含む)とは隔絶した傑作を生みだすためには、長い充電期間を経たからこそ放たれるひときわ激しい火花が必要だった。

 川本氏は文藝批評家として着実に仕事を積み重ねる一方で、このような破天荒(というとき、私はこの言葉を「今までなんぴともなし得なかった」という本来の意味で使っている)と形容するしかない作品を書き繋いでいたということになる。おそらくは「翻訳」とか「小説」といった区別はせずに虚心坦懐に作品に向かってほしいというのが川本氏の意図だろうから、これ以後は「本」か「作品」と呼ぶことにするが、この本には具体的に語ることを押しとどめる要素が多々ある。だが、何も語らないというのでは書評の用をなさない以上、まずは構成だけでも書いておくほうがいいだろうか。目次がないので、各章題の右の数字はページ番号に相当する。

 

総題「ジュリアン・バトラーの真実の生涯(The Real Life of Julian Butler)」

「知られざる作家——日本語版序文」(川本直)2

「編集部注(時代による差別的表現の可能性の断り書き)」4

扉「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」5

ジョージ・ジョンの前書き 7

第一部第一章 10

(略)

第一部第八章 50

第二部第一章 56                        

(略)

第二部第二十八章 147

第三部第一章 152

(略)                               

第三部第二十五章 244

第四部第一章 248

(略)                               

第四部第八章 290

「ジュリアン・バトラーを求めて——あとがきに代えて」(川本直) 299 

「主要参考文献」 383〜396

「断り書き」 397                        

「著者紹介」398

 

種明かしのつもりはないが、巻末の著者紹介には以下のように書かれている。

 

 1980年、東京都生まれ。 2011年、「ゴア・ヴィダル会見記」(「新潮」)でデビュー。 文芸評論とノンフィクションを手掛ける。 著書に『「男の娘」たち』(河出書房新社)、 共編著に『吉田健一ふたたび』(冨山房インターナショナル)がある。 本書が初の小説となる。

 

 「初の小説」という語は忘れたほうがいいかもしれない。芥川の「きりしとほろ上人伝」と同じく、作者はあくまで「翻訳」という虚構の現実の土台のうえに幻の舞台を作り上げ、虚実ないまぜの登場人物たちが自由奔放に動くさまを写し取っているからである。突飛な例かもしれないが、山田風太郎の明治小説を読むときのように、あるいはいっそプルースト『失われた時を求めて』を読むときのごとく、読者はただ虚実のあわいを往還しつつ、作者の語りに身を委ねればいい。こんなすてきな騙され方があるだろうか。まさに文学の醍醐味がそこにある。

 すぐれた文藝批評家でもある作者だけに、そこかしこで言及される固有名詞や事象は欧米の文明全般、すなわち、アメリカ現代史、文化史、現代藝術史、音楽、絵画、文学、哲学、出版、演劇、性風俗、男女の同性愛、料理、酒、調度、ファッション、アメリカやフランスやイタリアの都市での生活、古代文学(たとえば「サテュリコン」のパロディー)にまで及ぶ。ジュリアン・バトラーとは誰なのか。その「真実の生涯」を書いているのは誰か。「真実」は本当に、、、「真実」なのか。作中にときに登場する「川本直」とはどういう人物なのか。しばしば言及されるだけでなく、登場もするゴア・ヴィダルと「川本直」とは如何なる関係にあるのか。奥付に書かれた「川本直」という名前で示される人物は作中の「川本直」と同一人物なのか。序文と九十ページ近い「あとがき」(力作である)を書いている「訳者」の「川本直」とは本当は誰なのか。

 これは私の勝手な推測に過ぎないのだが、ゴア・ヴィダルとの邂逅と永訣がなければ、川本氏はこういうかたちでこの本を書かなかったのではなかろうか。表向きはあくまで一登場人物として描かれるゴア・ヴィダルへの敬愛が本作に譬えようのない生の讃歌と死への挽歌の色合いを付加しているように私には思われる。

 作者の語りに導かれて読了した読者の心を占めるのは、自身の生でも感じたことがあるはずの讃歌と挽歌がこもごも聞こえてくる神秘的な時間の記憶の蘇りにほかならない。そのとき、この作品が架空の作品の翻訳であり、すべてが作者の創作であるといった事実などどうでもよくなる。ここにあるのは石川淳の言う「精神の運動」そのものだからである。

 文学の力を信じ、かつ愛する私たちが求めているのは卓越した作者の「精神の運動」であり、その果実たる作品である。十年に及ぶ作者の研鑽と努力によって、いま私たちに齎されたのは「ジュリアン・バトラーの真実の生涯」という名のゆたかな実であった。

 となれば、すぐにでも入手して作者の緻密そのものの語りの技術を味わうことを心からお勧めする。この本を手にする読者はみな、そこに展開する幾重にも重なり合う壮大な物語と固有名詞の溢れんばかりの連続とそれを導く精確でリズムの良い、融通無碍なる語りに圧倒されて、安直に読める本だけが文学ではないことを改めて納得するに違いない。そしてジュリアン・バトラーやジョージ・ジョンをはじめとする人物たちがすでに記憶に深く刻まれていることを実感するだろう。それを根柢で支えているのが川本直の力強い文体である。

 『ジュリアン・バトラーの真実の生涯』。傑作である。

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