稀代のアーティスト、イ・ランがコロナ禍の日本の読者へ贈ることば

 

『アヒル命名会議』
日本語版作家のことば

「名づけること」が生涯の夢

イ・ラン

 

 コロナ時代が始まった3月から、手の先がしびれて冷えたり、夜中に目が覚めて、ばっと起き出して泣いたりする日がときどきあります。同じニュースをくり返し見て、メッセンジャーに毎日飛んでくる数字を読み、声に出して言いながら不安感を受け入れ、ほかの人にも伝えています。こんな日々が続けば続くほど、信じていた「価値」を考え直さざるをえなくなります。信じていた日常や計画が崩れだして以来、去年ガンの診断を受け、一瞬で日常が変わった友だちのことをよく考えていました。その友だちは最近、文章力が認定された人だけが加入できるサイト(認定の基準は私も知りません)で、ガンと疼痛とともに生きる自分の人生を少しずつ記録しはじめました。彼がガンの診断を受けてまっ先にやった「しごと」は、予定していたことができなくなったと大勢の人に話すことだったそうです。明日の予定、来月の予定、来年の予定、10年後の予定を信じ、追いかけてきた人生が突然崩れるという経験だったのですね。

 そんな経験が、新型コロナウイルスによってみんなにもたらされています。今回のように世界的な変化をみんなが一緒に経験するのは、私にとっても初めてのことです。COVID-19といった新しい名前がこの世に投げ入れられると、みんな、まだ正体がつかめないその名前にあわてふためき、怖がり、それについて何度も話し、忘れようとすることもあります。そんな時期が過ぎると、この名前を冗談にしてみんなで笑おうとする人たちも出てきます。さまざまな状況を振り返ってみると、私はそういうときに冗談を言う人らしいのです。

 友だちは「ガン闘病作家志望者」という新しい自己紹介とともに物書きを始め、もしも本を出すことになったら、そのタイトルは「生涯の夢がおこげ湯」〔おこげ湯はご飯を炊いた後の釜に湯を注いで煮立てたもので、食後に飲む 〕にしたいと言っています。「生涯の夢がおこげ湯」というのは韓国のことわざで、精一杯の要求がものすごくつまんないことであるのをたとえて言う言葉なのです。
 友だちがガン患者になる前に私たちはよく、お互いの計画と予定を我先に話していました。
「私、こんどはほんとにすっごいことになると思う。そうだよ、一回は目にもの見せてやろう。ついに光が当たるんだよ。もうちょっとがまんして、頑張ろう」
 そう言っていた私たちは今、今夜ちゃんとおこげ湯を飲めたかどうか話しています。
「夕ごはん食べた? 飲み込める? ごはんがきついなら、おこげ湯でも飲んでね。私もおこげ湯飲んだよ」
 おこげ湯は、彼が楽に食べられる料理の名前でもありますが、計画と予定を信じ、重い病気になるまで走ってばかりいた以前に比べてずっと素朴な日常を送っている彼自身を意味する名前になりました。今、友だちに会うとおこげのことを思い出し、おこげを見ると友だちを思い出します。

 私は1986年1月に韓国のソウルで生まれました。予定日よりすごく早く生まれたため、たいへん危険な状態だったそうです。そのため私は名前がないまま病院で1か月以上過ごしました。やがて無事に生き延び、「キム・ギョンヒョン」という名前のお母さんと「イ・ソク」という名前のお父さん、「イ・スル」という名前のお姉さんが住む家で暮らすことになりました。
 国語の先生だったお父さんが『玉篇』〔韓国の代表的な漢字辞典〕を一生けんめい見て、「波」という意味を持つ「瀧」という漢字で私の名前をつけました。ここに、お父さんの姓である「李」をつけて「イ・ラン」というフルネームを持つことになりました。1文字の姓に2文字の名前をつけた3文字のフルネームの人がほとんどの韓国で34年間暮らす間に、フルネームが2文字であることについていっぱい質問され、判断され、からかわれました。3文字が基準の名前たちの中で、1文字少ない私の名前は目立ちすぎたらしいのです。
 この、2文字の名前が始まりだったのでしょうか? 私はすべての「基準となるもの」に疑問を抱くようになりました。名前は3文字というのは誰が決めたのか。どうしてみんなそれに従っているのか。一方、それに従わない人はどういう人だろう。学校にはなぜみんなが8時までに到着しなくてはならないのか。発表するときはなぜ手を上げなくてはならないのか。歌を聴いた後にはなぜみんな手をたたき、声を上げるのか。生まれて初めて会った人たちと、なぜ「家族」という名前で一まとめにして呼ばれるのか。どうして仕事をすると仮想空間の数字を何個かもらうことになるのか。時間と曜日。日付と年数。人間と動物。たくさんの職業、性別と国籍と言語。しまいにはドアを開け閉めするドアノブの高さや階段の高さまで。この世は誰が決めたのかわからない基準でいっぱいで、それらには全部名前がついていました。
 そんな名前だらけの世の中を生きてきてたくさんの名前を覚えれば覚えるほど、それよりももっと大勢の多様な人たちと会話する経験はいつも不思議でした。だから私は今日も名前を覚え、名前をつけ、名前で遊びます。新しい名前で遊んでみても怖いものはやはり怖く、痛いものはずっと痛いままですが、この遊びはやめられないのです。

 この短編集では「名前のついたもの」と「新しい名前をつけること」について多くを語っています。ハングルで書いた『アヒル命名会議』という名前の本に、「河出書房新社」という名前の出版社で働く「竹花進」という名前の編集者の方がありがたい提案をしてくれて、翻訳出版されることになりました。本の中の話全部と、このあとがきまで「斎藤真理子」という名前の翻訳者の方が翻訳してくださる予定です。「日本語」という名前の言語を読める方たちに、私の遊びと考え、そしておこげの話までできてとても嬉しいです。いつかウイルスの時代が落ち着いたら、「飛行機」という名前の移動手段を使って「日本」という名前の国に行き、私を「イ・ランちゃん」または「イ・ランさん」と呼ぶ人たちに会って、できるだけいっぱい話をしたいです。

 

 

  2020年6月                                                                            イ・ラン

(斎藤真理子=訳)

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イ・ラン

1986年ソウル生まれ。シンガーソングライター、エッセイスト、作家、イラストレーター、映像作家。著書『悲しくてかっこいい人』(エッセイ集)、『私が30代になった』(コミック)など。

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