『灰の劇場』特別書評 小島慶子│想像の中では誰もが等しく肉体を持たない生者である

 

2021年2月15日、恩田陸さんの最新小説『灰の劇場』とKAWADEムック『文藝別冊 恩田陸 白の劇場』を同時刊行いたします。並べてみるとまるで双子のようなこの2冊は、合わせて読んでも飾っても楽しめる作品となっております。

誰かの死が、毎日のように「数字」となって報道される今日。昨今のパンデミックによる「日常」の変容と明るみになる女性の貧困を鑑みつつ、なぜいま物語が必要なのかを論じた、小島慶子さんによる『灰の劇場』の書評をぜひお読みください。

 

 恩田氏本人を思わせる作家が主人公である。実際の事件を題材にした作品が舞台化されることになり、役者のオーディションに立ち会う。そこで思いがけず、大きな動揺を覚えることになる。「ほんとうにあったこと」は、形にしようとすればするほど見えなくなっていく。一度きりの人生は、誰もその本当の姿を知ることはできない。本人たちでさえ。それでも物語が必要なのはなぜか。2020 年を経験した今だからこそ、忘れがたい印象を残す作品だ。

 昨年は、命について真剣に考えないではいられない年だった。カレンダーは新年になったが、依然パンデミックの日常は変わらない。毎日増え続ける死者の数。数字には名前も顔もない。看取りもままならない中で絶えた命はすぐさま集計され、最新情報として生きている人たちに提供される。私たちは、自分や自分の家族がそのあっという間に更新される数字のひとつになる可能性を恐れながら生活している。数字の実体は、火葬場から届けられる遺骨だ。その白いかけらが、自分の家族の体だったものだと信じるほかない。戦地から戻った骨と同様、既に個は蒸発し、灰はただ死の証拠品として「受け入れよ」という何者かの言葉を伝えるために届けられる。

 顔がないのは、生者も同じだ。渋谷のスクランブル交差点や、東京駅の周囲を行き交うマスクをつけた人びとの映像は、見る人に「パンデミックの日常」を印象付ける。「今や私たちはマスクなしでは暮らせない。世界はすっかり様変わりしたのだ」という筋書きにリアリティを持たせるための映像素材だ。そこに一人ひとりの生活は映し出されない。

 メディアはこれまでも個別の生を収集しては、潰して絞って欲しい成分だけ抽出し、気の利いた見出しをつけて「世相」という物語を作り出してきた。小説は報道とは違って、事実に基づきながらもフィクションにしかできない形で人間の複雑さを描き出すものだが、実在した人物を使って物語に形を与えることに変わりはない。死者たちは、そうした「顔の剽窃」に抗議する。

 作家は、1994 年に新聞の片隅に小さく載ったある事件が忘れられなかった。「同居生活を送っていた40代の女性二人が、橋から飛び降りて死亡」……二人はもともと大学の同級生だったという。なぜ、彼女たちは一緒に暮らすことにしたのか、なぜ、一緒に死ぬことを決めたのか。作家は思いを巡らせる。

 小説の中でT とM とイニシャル表記された二人の女性は、学生時代は親友だったが、かたや早くに結婚して絵になる幸せを手に入れ、かたや仕事にやりがいを感じ、人生のコースが分かれたかのように見えた。けれど離婚を機に自立した女は元親友に連絡する。一緒に暮らしませんか? と。それぞれに仕事があり、共同生活はいい距離感で順調に営まれる。やがてそれが日常になったとき、ふとその時が訪れる。あっけないほど些細な、けれど後戻りできない瞬間が。まるで小さな羽毛が降り積もって、気づけば全てを覆い尽くしてしまうように、終わりがやってくる。そう作家は想像する。

 「ラクダの背の藁」という喩え話を聞いたことがある。背中にどんどん荷物を積んで、なんとか重みに耐えていたラクダが、ついに最後の麦わら一本が背中に載った瞬間に、力尽きて崩れてしまうのだ。たった一本の麦わらで。私にもそういう経験がある。何しろ麦わらなので、傍目には全く理解されない。見えてすらいない。けれど日常の破壊力は凄まじい。何かが日常になってしまうということは、その終わりが見えなくなるということだ。それに気づいた時の虚無感と絶望を、私の脳は白い砂漠に骨のような枯れ木が立っている光景で描き出した。ずっとその景色が消えなかった。景色を消すよりも、自分が消えた方が楽なのではないかと思った。だから、T とMの物語には微かな既視感がある。もっとも、彼女たちが本当はどんな理由で橋から飛び降りたのかは、誰にもわからない。作家はある日、彼女たちの声を聞く。勝手にでっちあげないで。私たちの顔を見ないで。

 記事が載ったのは90年代前半だから、バブルが弾けたにもかかわらず、まだギリギリその慣性の法則が働いていた頃だ。明日はきっと今日よりも良くなると無邪気に信じていられた時代の最末期。しかし女性たちの置かれた状況は30年前も今も変わりがない。社会は女性が父親か夫の庇護のもとで生きていくことを前提に設計されており、男女の賃金格差は大きく、単身女性は貧困に陥りやすい。誰にも頼れない女たちは、社会から見えない存在になっていく。この国の女性にとって、普通の暮らしと貧困は紙一重だ。40代半ばに差し掛かったT とM には、それが見えていたのだろうか。

 パンデミックは、もともと不安定な雇用で働いていた大勢の女性たちの職を奪った。日本のシングルマザーの貧困率は先進国の中で特異的に高く、1994 年も今も高齢の単身女性のほぼ4人に1人は相対的貧困の状態にあるにもかかわらず、女性の貧困はメディアに大きく取り上げられる機会がほとんどなかった。事態は静かに進行し、未知の感染症の世界的流行によって、さらに深刻化した。日本では昨年の夏以降、著名な俳優の自死が相次いだ。動機は不明だ。傍目には順調そうに見える人生にその瞬間が訪れた理由は、おそらく当人にもわからないだろう。厚生労働大臣指定法人いのち支える自殺対策推進センター(JSCP)の分析によると、これらの報道が引き金となり、8月と10月の女性の自殺者数が跳ね上がった。経済的苦境やDV 被害などでギリギリの状態だった女性たちが、限界を超えてしまった可能性が考えられるという。一方で、感染拡大第3波の最中でも株価はバブル期以来の高値をつけ、ワクチン接種開始に世界の市場は沸き立つ。勇ましい演説の傍に、省みられない数多の死が積み上がっていく。

 私は二人の物語を知ってしまった。一緒に落ちながら、空を背にした女友達の歪んだ顔を見てしまった。ほんのわずか私よりも遅れて飛んだ彼女の手を、キツく掴んだ。なるべく二人同時に水面に落ちるように。こんな勝手な想像をきっと彼女たちは許さないだろう。けれど私は二人を思うことをやめられない。生身の体のあるなしが生者と死者の違いなら、想像の中では誰もが等しく肉体を持たない生者である。なぜ想像しないではいられないのだろう。ほんとうの姿なんて見えないのに。どうせ、すべて忘れてしまうのに。
 明日ただの数字になるかもしれなくても、人は物語を求める。今ここにある尊さを知るために。読後は、明るい余韻が残った。

『文藝別冊 恩田陸 白の劇場』収録

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