現代パレスチナ文学の旗手、アダニーヤ・シブリーの小説刊行記念 エッセー「かつて怪物はとても親切だった」(田浪亜央江 訳)特別公開

アダニーヤ・シブリーの傑作中篇小説『とるに足りない細部』単行本の発売を記念し、季刊文芸誌「文藝」2024年夏季号の特集「ガザへの言葉 #CeasefireNOW」に掲載したアダニーヤのエッセーを、特別に公開いたします。

 

■訳者・田浪亜央江による解説
アダニーヤ・シブリー(Adania Shibli)は、1974年にパレスチナで生まれ、ロンドンで博士号を取得後、現在は主にベルリンで創作活動を続ける作家である。アラビア語で発表した最新作『タフスィール・サーナウィー(些末な詳細)』[英訳タイトル:Minor Detail]は、イスラエル建国によるパレスチナのナクバ[大災厄]のなかで起きた1949年8月のレイプ殺人事件を淡々と描く前半部と、その痕跡を辿ろうとする現代のパレスチナ人が一人称で語る後半部からなる中編小説だ。2020年に英訳が刊行され話題になると他言語への翻訳も進み、グローバルサウスの女性作家を対象とする独リベラトゥール賞を2023年に受賞した。しかし昨年10月初旬にガザの状況が急展開するなか、同賞の主催団体であるリトプロム[ドイツ出版協会]は、フランクフルト・ブックフェアで行なわれる予定だった授賞式の無期限延期を発表した。続いて同展が「イスラエル側に完全に連帯するものである」との声明が、同展CEO兼リトプロム代表のユルゲン・ボースによって出されたことで、アラブ諸国やイスラーム圏の出版団体が参加を見送る事態となった。
授賞式取りやめの一件により、本作はかえって話題となり、文学関係者がシブリーへの支援を表明するネット署名は1500筆を超えた。本エッセーは、この出来事のなかで沈黙を保っていたシブリーが、関係者からの要請を受けて応じたインタビューを原型としている。取材者側とのディスコミュニケーションのためにシブリーはインタビューを不掲載とし、その内容を基に、独立した作品としてまとめたものである。
国家の論理を背負いつつ自身に向けられた批判に対し、シブリーはあくまで文学を倫理的拠りどころとしながら、自身と文学との親密性をより深化させるプロセスを示す。その姿勢は、言葉が徹底的に裏切られ悪用されるパレスチナ/イスラエルの文脈のなかで書かれた彼女の最新作が、歴史的事実と具体的な地理上のローカリティに依拠しながらも現実との関連付けを拒絶し、沈黙と不在のなかにこそ言葉を探し求めたことを想起させる。

 

■特別掲載 
アダニーヤ・シブリー「かつて怪物はとても親切だった」
田浪亜央江 訳

感情。パレスチナ/イスラエルの人々に対する昨今の残虐行為が苛烈になって以来、私は自分の感情にアクセスできなくなっている。私の魂は絶望で麻痺してしまった。あるいは虚無感のせいで。言葉は消え失せ、私を見捨てた。もう誰とも話すことができない。電話にも出ないし、育児や仕事関係のこと以外には、アパートから外に出ることもない。ニュースやオピニオン記事を最後まで読むことができない。おそらく数秒間は読めても、すぐに目がそれてしまう。他の人はどうして言葉を見つけ、人に伝えることができるのだろうと思いながら、2、3日読まずに過ぎる。私はできない。誰よりも自分が劣っていると感じる。他の人たちはあんなに明瞭かつ正確に話すことができるのに。私はいまだにアラビア語、英語、ヘブライ語のニュースのあいだを行きつ戻りつしながら、何とか読もうとしている。そしてまた、皆の言葉遣いの熟練ぶりと自分のダメさに驚いて、読むのをやめてしまう。
私がどうにか最後まで読み終えた唯一のニュースは、イスラエルのニュースメディア『Ynet』に2023年10月4日に掲載されたものだ。ハリネズミを丸呑みにしようとしたヘビについての記事である。ヘビが生き延びるために必死に餌を探した結果、間違ってハリネズミを食べてしまった、と記事には書かれている。ハリネズミは反撃しようとして針を押し出し、逃げようとするが、かえってヘビの体内に嵌り込んでしまう。ヘビは死に、ハリネズミも死ぬ。
これは動物の予言であり、私たち人間への警告なのかと考えてみる。ヘビとハリネズミは誰の役割を演じていたのだろうか? イスラエル人とパレスチナ人? 特権階級とそうでない人々? 私たちの現実と希望? 生と死? 言葉と私? 私は自分の絶望と空っぽさを、死んだヘビとハリネズミに何度も何度も背負わせてみる。
そんな折突然、私の最新作『タフスィール・サーナウィー(些末な詳細)』がフランクフルト・ブックフェアでの授賞式でリベラトゥール賞を授与されることにターゲスツァイトゥング(taz)紙の記事が落胆の意を示しているのを知った。その記事は、私たち自身が経験することも、そもそもアクセスすることもできない本当の痛み、他者の痛みから、冷笑的に目をそらすもののように私には感じられた。虚しさはいっそう強く、いっそう悪質に、私を圧倒し続けた。数日後、私は授賞式と私に関わるイベントがキャンセルされると決定したことを知らされた。それでも何の感情も湧かない。人はいかに事実に反することに基づいて、迅速かつ容易にものの見方を変えてしまい、それが現実に影響を及ぼしてしまうのかを考え始めるだけだ。今回はドイツの報道機関や文化機関によって作られた、捏造された事実に基づいている。現実を離れて想像の世界をさまようことを生命線としている私にとって、想像力を働かせること、つまり「事実でないこと」に依拠すること自体は否定すべきものではない。ただ、それが真実や事実として伝えられるのではなく、フィクションとして認識されて欲しいだけなのだ。
私の小説がイスラエル人に対する暴力を扇動しているとか、私が「熱心なBDS[イスラエルに対するボイコットなどをよびかける運動]活動家」であるといった、事実とは違うことを報じたのはtaz紙の記者だった。リトプロム[リベラトゥール賞主催団体]がそれに続き、彼らは当初、授賞式の中止は私と共同で決定されたことだと、事実と異なる表明をしたのである。「事実でないこと」、また文学上のフィクションは、現実世界には決してそんな影響を与えない。文学と現実世界との関わりというものは、変化を煽ることではなく、物事との深い結びつきや内省を促すことにある。おそらくそれは、生きることから苦痛に至るまで、自分自身や他者との関わり方を考える場において、より良く生きる方法を想像する方向へと導くことである。あるいは、私の友人である作家のラファエル・カルドーゾがブラジルの画家から受け取った言葉を引用すれば、「未知なるものをより良くするため」である。
しかし、そのtaz紙批評家(と呼んでもいいのだろうか)による中途半端に洗練された手法は、私がさらに考えるための手がかりを与えてくれた。彼の主張は、この小説に登場するイスラエル人レイプ殺人犯たちには、名前も顔もない、というものである。
中途半端に洗練された手法、とはこういうことだ。彼は自分のイデオロギー的見解を押し通すためにこの件を持ち出しているのだが、パレスチナ人全員を含む他の登場人物たちにもやはり顔も名前もないことを無視しているのである。彼はパレスチナ人の登場人物もそうだとは気づいていないのだろう。パレスチナ人に顔も名前もないのは、彼にとって当然のことだから。
そしてまさにこのことが、最新作だけでなく、私の書く文章のほとんどに、なぜこのような名前も顔もない登場人物が現れるのかについて、新たな理解を与えてくれた。私が親しんでいる文学的感性は、こうした無個性さと無名性によって特別にデザインされていることに気づいたのだ。パレスチナ/イスラエルやその他の場所で、パレスチナ人だけでなくアラブ人全般との関係で、現実世界において支配的なイデオロギーによって他のサバルタンとともにどのように表象されているかということに関し、この無個性さと無名性は私がこれまでの人生のなかでずっと遭遇してきたものだ。
執筆活動をしてきたこの何年もの間ずっと、自分がなぜ無個性で無名の登場人物にしか親しみを感じられなかったのかについて、私は突然理解した。「誰でもない者」が文学で見出し、彼らが触発される文学のひとつの形式とは、魅惑的な不在であり、名前のない場所なのである。
別のドイツ人批評家が、私の小説の結末について、誰の視点に立っているのか、これが物語の結末なのか、という疑問を抱いていることを知った。これは重要な問いであり、別のタイプの名前も顔もない登場人物、つまり幽霊に私たちを導くものでもある。名も顔もない登場人物たちは、文学上の幽霊以外の何者かでありうるだろうか?
だがtaz紙の記者にひとつだけ断言できることがある。いつか彼が私の作中人物の一人に息を吹き込んだとしても、それもまた顔のない、名前のない登場人物にしかならないだろう。
そのあいだ、リトプロムは授賞式を開催する会場とタイミングを新たに検討していると言い続けていた。キャンセルの知らせを受けたとき、私は「その案に耐えられるものか、わかりませんが、今後考えましょう」と答えた。リトプロムが今でも私の小説に賞を与えたいのであれば、郵便という選択肢もあるのではないかと思う。投函すればいいのだし、受取人指定配達で送ることもできる。また、郵便配達のおじさんとちょっとしたセレモニーをすることもできる。おじさんは普段、かさばる小包やサインが必要な郵便物を玄関まで持ってきてくれるから、ケーキが一切れ残っていたら差し入れすることもある。書くことへの私の愛情を映し出すのにふさわしいそんなセレモニーがあれば、私はいっそう感動するだろう。
実際、授賞式中止のニュースが広まった時点で本書のための祭典はすでに始まっており、それは執筆プロセスへの私の愛情を称えるものだった。世界中の多くの読者、作家、翻訳者、出版社、さらには出版代理店から絶え間なく寄せられる絶大な支援は、文学が多くの人々にとって生命線であることを、私に気づかせてくれた。
このころ私はすでに、このような公の場でのイベントはもうやめようと考えていた。沈黙を必要とする執筆プロセスについて説明を求められることが多くなり、疲弊しきるような経験をするようになっていた。
授賞式中止の連絡を受けた翌日か翌々日に、編集者の一人から、フランクフルト・ブックフェアが公の声明と並行して発表した内容、つまりイスラエル人とユダヤ人の声のためにスペースを増やしたいという言葉を引用したメールが届いた。もともと、フランクフルト・ブックフェアに限らず、緊急に場所を必要とする人に自分の場所を譲る用意は私には十二分にある。誰かが居場所や避難所を持てるように一歩下がる寛大さは、おそらく他の多くの人たちと同じように、私も文学から学んだことだ。文学は私にとって、子どもの頃から倫理的な拠りどころだった。アラビア語では、文学と倫理はひとつの同じ言葉、「アダブ」である。しかし、フランクフルト・ブックフェアの声明は、何か別のものを映し出している。それは、特定の政治的ビジョンの排他的論理を反映したものであり、「これがあるために、あれはあってはならない」あるいは、「この人間はあの人間よりも価値がある」と示唆しているのだ。私たちはこの論理が国家イデオロギーのなかで、そしてドイツやその他の国における政府の言説のなかで増殖しているのを目撃している。
授賞式だけでなく、フランクフルト・ブックフェアでの私に関わるすべてのイベント中止が知らされた数日後、リトプロムから同じように品位に欠けた方法で、これらのイベントのひとつを復活させることができるという手紙が来た。それはおそらく、世の人々が失望を示してから初めて彼らが考えたことであり、作家である私への配慮のためではないだろう。
誰であれそうあってはならないように、私は誰の操り人形でもなく、彼らの操り人形でもない。私はそのように説明し、自分の受けた屈辱から目をそらすことで対応しようとした。数々の私のイベントをキャンセルした挙句、そのうちひとつのキャンセルは取り消した。まるでこちらが、ヒナギクを摘んで「好き、嫌い」と言いながら花びらをむしる子どもであるかのように。長年の活動にもかかわらず、リトプロムは賞を授与しているグローバルサウス出身の女性作家を正しく理解していなかったのかもしれない、と私は書いた。 彼女たちは確かに、グローバルノースの特権的なヨーロッパ人男性である協会長がもてあそぶような操り人形ではない。ここで私が言っているのは、特定の人物や性別、民族のことではなく、メンタリティのことだ。女性作家、そして一般にグローバルサウスの女性たちは、詩人エメ・セゼールの言葉を借りるなら、その生涯をつうじてとことん大事にしてきたもののこととなれば、咆哮する雌虎のような存在なのだ。そうやって彼女たちは、自分たちの経験したあらゆる試練や困難を乗り越えて現在に至っているのだから、「グローバルノース」のメンタリティや待遇が人種差別的に彼女らの行く手を阻もうとするとき、それを小さな障害と見なし、動じないのだ。
しかし、何人かのジャーナリストはこの小説を擁護するために、これが1949年にネゲブ砂漠でイスラエル兵にレイプされ銃殺されたベドウィンの少女の実話を参照していると指摘した。
私自身は、文学と現実とのあいだにそのような言及や関連付けをすることは控えている。小説の中の出来事が現実なのかフィクションなのかを問うことは、小説の中のテーブルや椅子が現実なのかフィクションなのかを問うことと同じようなものだ。小説は虚構の試みであり、関心を向けるものもまた虚構なのだ。私はここで、その核となる物語を含む、『タフスィール・サーナウィー』を形成することになったすべての要素につながるような文学的な疑問をおそらく指摘できるだろう。パレスチナ/イスラエルでは、言葉がコミュニケーションや伝達のための道具であることを超えているのに気づかされる。言葉は攻撃され、壊され、悪用される。問題は、言葉によって苦痛を与えられ、見捨てられ、残酷な仕打ちに絶句したまま一人で立ち向かわなければならないとき、人はどうしたら言葉を信頼できるのだろうか、ということだ。そのため私は、そのような言葉が許容しうる語りの形式、その層のあいだに隠しうる無限の可能性、そして人が言葉に対して抱く愛、そして言葉が人に対してなお抱いている愛から生まれるかもしれないものすべてを探し求めるようになった。
現実には、言葉はしばしば、わかりやすく明確で合理的な語りという、ひとつの一般的な形式に押し込められる。しかし、もしそうする能力がまったくない場合、そのとき、どんな言葉が出現するのだろうか? 傷ついた、あるいは存在しない言葉を使って、どうやって書き始めるのか? 小説を書くようになる前、こうした疑問すべてが私を悩ませた。一方にあるのは、私たちが受け入れ可能な言語の物語形式をたどることであり、他方にあるのは、私たちがほとんどアクセスすることができず、おそらくアクセスしたいとも思わないために軽視する物語形式をたどること。科学捜査の言葉を使うなら、『タフスィール・サーナウィー』は、私たちが部分的に追跡可能な言葉の足跡をたどることで、また決してアクセスできない言葉の足跡をたどろうとすることで、文学的な形式を探求してきたと言える。この小説を書き終えた今、物語の構造や文体を含めて、その文学的形式と内容を導いた関心をよりよく理解できるようになった。これらはすべて、特定の言語的体験によって形成されてきた。要するに、現実の出来事と関連づけることは、一般的に私の文学を支える力ではないし、特に『タフスィール・サーナウィー』ではそうではない。
このところ、言葉は何にアクセスできるのだろう? 私は恐怖の中で考え続けている。恐怖。
私は子どもの頃から恐怖を軽蔑してきた。周りの人たちがそれに沿って行動しているのを目の当たりにしたから。だから、恐怖を克服する訓練を始めた。当時私はまた、「自分の最大の恐怖は何か」と自問した。その結果、住んでいる家の一隅だという結論に至った。幼い想像力によって、暗くなると怪物が棲んでいると思い込んでいたのだ。この訓練のために、私を一人で家に残してくれるよう、ある晩、両親に懇願した。両親がどうかしていたのか、私がしつこくて根負けしたのか、二人は聞き入れてくれた。例の場所の脇には電気のスイッチがあった。私は大きな家の電気をすべて消し、暗闇の中をその場所に向かって歩き始めた。そこに近づけば近づくほど怪物にも近づくが、電気のスイッチにも近づくとわかっていたからだ。最後の瞬間の自分の手の動きを今でも思い出す。電気のスイッチに手が届く前に、怪物が噛みつくだろうと想像していた。しかし怪物はそうしなかった。親切にも私が電気をつけるのを許してくれ、消え去ったのだ。これは、書くことへの恐怖を含め、恐怖を乗り越える方法を思い出させるものとして心に残っている。しかし、二つのことがこの方法とは無縁であり続けた。二つの恐怖、ひとつは世界に関すること、もうひとつは言葉に関すること。
私たちが周りを見回し、今日の方が昨日よりいい、と言えるまでには至らないのではないかということを、私は恐れている。
二つ目の恐怖は言葉を失うことだ。ある日目が覚めたら言葉がなくなっているかもしれないということ。ここ数カ月のあいだ、私はこの二つの恐怖について思い知らされた。
二つの恐怖は、私に生へのアクセスを与えてくれた数多くの作家の死にも関わり、私を捉えて放さない。モハンナド・ユーニス[ガザの若手作家]、ジル・ドゥルーズ、ゲラシム・ルカ、プリーモ・レーヴィ、シルヴィア・プラス。彼らはみな自殺した。
何となく、彼らの行為には、私の二つの恐怖が想像の産物ではないことが裏付けられているような気がする。それらは現実の限界、言語の限界を示しているのだ。

 

Once, the Monster Was so Kind
Written by Adania Shibli
Copyright ©2023 by Adania Shibli
All rights reserved.

日本語訳初出=「文藝」2024年夏季号

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著者

アダニーヤ・シブリー

1974年、パレスチナ生まれ。イースト・ロンドン大学にてメディア・文化研究の博士号を取得し、現在はエルサレムとベルリンを拠点に小説、戯曲、エッセイなどの創作をおこなう。2009年、39歳以下の有望なアラブ作家39名を選出する「ベイルート39」に名を連ねる。本作『とるに足りない細部』は2017年にアラビア語で発表されたのち各国語に翻訳され、全米図書賞翻訳部門最終候補(2020年)、国際ブッカー賞候補(2021年)になるなど高く評価された。2023年には独リベラトゥール賞を受賞するも、イスラエルによるガザへの攻撃が激化するなか、同年10月のフランクフルト・ブックフェアにて開催予定だった授賞式は同賞の主催団体リトプロムによって中止され、リトプロムおよびブックフェアは「イスラエル側に完全に連帯する」との声明を出した。この決定に対しては、作家や出版関係者を中心に、世界中から抗議の声が上がっている。著作に『触れる(Touch)』(2002年)、『私たちはみな等しく愛から遠い(We Are All Equally Far from Love)』(2004年)など。

田浪 亜央江(たなみ あおえ)

1970年生まれ。広島市立大学国際学部准教授。専門は中東地域研究、パレスチナ文化研究。著書に『〈不在者〉たちのイスラエル 占領文化とパレスチナ』(インパクト出版会、2008年)、『パレスチナを知るための60章』(共著、明石書店、2016年)、共訳書にイラン・パペ『パレスチナの民族浄化 イスラエル建国の暴力』(法政大学出版局、2017年)など。

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