ためし読み - 芸術

「世界で一番読まれている美術の名著」が在りし日のミケランジェロに迫る!──『美術の物語 ポケット版』本文特別公開!

世界で一番読まれている美術の名著にして、全世界800万部超の大ベストセラー『美術の物語』のコンパクトサイズ版である『美術の物語 ポケット版』の発売(2024年10月18日)を記念して、本文15章より「ミケランジェロ」に関する記述と、図版ページで紹介されるミケランジェロの作品を特別公開します。

『美術の物語 ポケット版』では、テキストページと図版ページが本の前半と後半に分割されていますが、黄色いしおり紐が2本あることにより、双方を簡単に行き来することが可能です。

20世紀最大の美術史家と呼ばれる著者エルンスト・H・ゴンブリッチによる本文のテキストこそが、本書の価値を最も高めていると同時に、70年以上もの間、多くの読者の心を摑んできたと言っても過言ではありません。

著者の圧倒的な知識量による充実した解説、平易な文体でまるで“物語”を読むような感覚で繰り広げられる美術の歴史を、是非この機会にお楽しみください。

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■本文「15章 勝ちとられた勝利 トスカーナとローマ 16世紀初頭」中ほどの、ミケランジェロに関する記述より(P.233~238、図197〜201)

 
図198 ミケランジェロ システィーナ礼拝堂 天井画 1508-12年

 

 ローマ教皇庁の礼拝堂の足場の上で、4年間も孤独な作業をつづけてミケランジェロが成し遂げたこと(図198)、こんなことがどうしてひとりの人間に可能だったのか。並の人間にはとても想像がつかない。まず下準備をし、細かいところまで下絵に描き、それを壁面に転写する。礼拝堂の天井に巨大なフレスコ画を描くという肉体的な労苦だけを考えても、気の遠くなるような作業だ。ミケランジェロは仰向けになったまま描かなければならなかった。実際、彼はこの不自然な姿勢に慣れきっていたので、この時期には、手紙を受け取ると頭上にそれをかかげ、うしろに体を反(そ)らして読まなければならなかった。しかし、ひとりの人間がだれの助けもかりずにこの広大な空間を埋めていくという肉体的作業も、その知的な芸術的達成の偉大さと比べると、何ほどのものでもない。いつ見ても新鮮で豊かな着想、あらゆる細部を確実に仕上げる熟練の技、そしてとりわけ、その後の芸術家たちに啓示を与えたヴィジョンの壮大さは、天才の力というものを初めて人類に知らしめたと言ってもいい。

 

 この巨大な作品のいろんな部分を図版でよく見かける。どれを見ても、見飽きるということがない。しかし、礼拝堂に足を踏み入れたときに受ける全体の印象は、それまでに見た写真を全部合わせたものとは、やっぱり全然ちがう。礼拝堂はとても高くて大きい集会ホールのようで、天井は浅いヴォールトになっている。両側の壁の上部には、ミケランジェロの先輩たちが伝統的な手法で描いた、モーセとキリストの物語が並んでいる。しかし、天井を見上げると、別世界に引きこまれるようだ。そこには人間の次元を超えた世界が広がっている。礼拝堂の両側には、それぞれ五つの窓があって、窓と窓とのあいだのヴォールトの付け根に、ミケランジェロは、旧約聖書の預言者と巫女(みこ)の姿を描いた。ユダヤ人に救世主の到来が近いことを告げる預言者たちは、巨大な姿で描かれ、それとたがいちがいに異教徒にキリストの到来を予言したと伝えられる巫女たちが、描かれる。彼らは力強い男女の姿で描かれ、座って思索に耽(ふけ)ったり、本を読んだり、物を書いたり、議論をしたりしている。内面の声に耳をかたむけている者もいる。等身大を超えるこういう人物たちが、天井の両脇に並び、真ん中の、天井そのものには天地創造の物語とノアの箱舟の物語が描かれる。こんな壮大な仕事をしながらも、ミケランジェロはまだまだ満足できなかったのか、絵と絵のあいだをたいへんな数の人物像で埋めつくした。いつまでも古びることのない像(イメージ)を創造したい、という衝動を抑えきれなかったのだろう。そうして描きこまれた人物像のなかには、彫像のような人物もあれば、生きた若者のような人物もいる。人間とは思えないほど美しい若者たちは、花綱(はなづな)や大きなメダルをもち、そのメダルにまた物語が描かれている。これだけ語っても、まだ中央部分の説明にしかなっていない。天井の両側に湾曲していく部分や、すぐその下の壁につながる部分にも、いろんな男や女の姿が延々とつづく──聖書に出てくるキリストの先祖たちだ。

 

 あふれんばかりの人物で埋めつくされた天井画を写真版で見ると、全体が、収拾がつかないように見えるかもしれない。ところが驚くべきことに、システィーナ礼拝堂に入って、この内部空間をひとつの壮麗な装飾体として見ると、この天井画はすっきりとして調和がとれ、構図も明快そのものなのだ。1980年代に、長年のあいだに積もったローソクの煤(すす)と埃(ほこり)がきれいに取り除かれて、色の強さと輝きがはっきりわかるようになった。小さい窓がいくつかあるだけの礼拝堂なのだから、天井画に強く輝きのある色を使ったのは当然なのだ(明るい電光のなかでこの天井画を称賛している人たちは、そこまでは考えに入れていないようだ)。

図197 ミケランジェロ システィーナ礼拝堂 天井画(部分)

 

 図197は、天井を横切る湾曲部の一部分を切り取ったもので、天地創造の場面の両脇にミケランジェロがどう人物を配置したかがよくわかる。左下にいるのが預言者ダニエルで、男の子が支える大型の本を膝(ひざ)の上に置き、脇を向いて読んだ内容を書きとめている。右横では、クマエの巫女(みこ)が本をのぞきこんでいる。反対側には、オリエント風の衣装を身に着け、本を目に近づけて持つ通称ペルシャの老いた巫女が、聖典の研究に没頭している。またその横には、旧約聖書の預言者エゼキエルが激しく体を捻(ひね)って議論でもしているようだ。4人の座る大理石の椅子は、それぞれが遊ぶ子どもの彫像で飾られていて、その上方には、裸体の男が左右に分かれて組になり、楽しげにメダルを天井に取りつけようとしている。スパンドレル(三角小間)は、聖書に出てくるキリストの先祖たちで埋められていて、その上にはよじれた人体が描きこまれている。こういう驚くべき裸体像には、人体をどんな姿勢でも、どんな角度からでも描くことのできるミケランジェロの手腕が、余すところなく発揮されている。彼らは筋骨たくましい若いアスリートだ。ありとあらゆる方向に体を捻ったり曲げたりしていながら、だれひとりとして優雅さを失っていない。天井の若者たちはその数20人を下らず、いずれ劣らぬみごとな出来映えだ。カッラーラの大理石から彫像として生まれ出るはずだった構想の多くが、システィーナの天井を描くミケランジェロの脳裡(のうり)に次々と立ちあらわれたにちがいない。彼は驚嘆すべき手腕を喜々として披露しているかのようだ。自分の好きな彫刻の仕事が、邪魔が入ってつづけられなくなり、その失望や怒りがバネとなって、(真の、または想像上の)敵に対して、これでもか、これでもか、という気持ちに駆かり立てられているのがわかる。彼らがどうしても絵を描かせようとするのなら、よろしい、描いてみせようではないか!

図199 ミケランジェロ リビアの巫女のための習作 1510年頃

 

 ミケランジェロがあらゆる細部を綿密に研究し、ひとりひとりの人物を丁寧(ていねい)にスケッチして準備したことはよく知られている。図199は、巫女を描くために、モデルの体をあれこれ研究したスケッチブックの1ページだ。ギリシャの巨匠たち以来、だれも観察も描写もしたことがないような筋肉の相互作用が描かれている。しかし、こういう有名な「ヌード」で、彼が並ぶものなき名人ぶりを示したというなら、天井画の中心にくる聖書の物語の絵は、さらにすばらしく、もう人間技とは思えない。力強い姿をした神が、植物や天体、動物や人間を、この世に呼び出している。ミケランジェロが天地創造の場面を目に見える形にしたことの意味は、本当に大きい。父なる神のイメージ──芸術家だけでなく、ミケランジェロの名前すら知らないような庶民のあいだでも、世代から世代へと心のうちに受けつがれてきた神のイメージ──は、このすばらしい天井画が直接、間接に伝わって形づくられたものなのだ。なかでも、もっとも有名で、もっとも感動的なのは、大きな枠のひとつに描かれた《アダムの創造》だろう(図200)。アダムが地面に横たわり、それに神が手をふれただけで命が吹きこまれる場面だ。そういう場面を描いた画家は、ミケランジェロの前にもいなかったわけではない。しかし、偉大な創造の神秘を描くミケランジェロの簡潔さと力強さには、だれも遠く及ばなかった。絵の中に本題から注意をそらすものは何もない。アダムは、最初の人類にふさわしい活力と美しさを備えて地面に横たわっている。反対側から父なる神が天使たちに運ばれて近づいてくる。彼らを包む大きく立派なマントは、風を受けて帆のようにふくらみ、神がらくらくと宙を飛んでいることがわかる。神が手を伸ばす。すると、その手がふれるかふれないかのうちに、最初の人類は深い眠りから目覚めたように身を起こし、父親らしい創造主の顔をじっと見つめる。ミケランジェロは、神の手のふれんとする場面を画面全体の中心に置き、創造に向かう自在で力強い神の姿のなかに、全能の神という観念をありありと表現してみせた。これは美術史上のもっとも偉大な奇跡のひとつだ。

図200 ミケランジェロ アダムの創造(図198の細部)

 

 ミケランジェロは1512年にシスティーナの天井の大作を描き終えるや、すぐに大理石の仕事にもどって教皇ユリウス2世の墓碑の建造を進めたいと思った。彼は、古代ローマの遺跡にならって、多くの囚人の彫刻で墓を飾るつもりでいた──もっとも彼としては、囚人像に象徴的な意味をこめたかったらしいのだが。その像のひとつが《瀕死の奴隷》(図201)だ。

図201 ミケランジェロ 瀕死の奴隷 1513年頃

 

 システィーナ礼拝堂のとてつもない労作を仕上げたあと、ミケランジェロの想像力はもう枯渇したのだろう、などと考えるのは当たらない。そのことは、この奴隷像ですぐに証明された。大理石という愛する素材へともどってきたとき、彼の力はさらに増大したように思われた。《アダムの創造》では、精悍(せいかん)な若者の美しい体に命が吹きこまれる瞬間を描いた。一方《瀕死の奴隷》では、命が消えようとする瞬間を選び、生きた肉体がまさに死体に変わろうとするさまを表現している。生きるための苦闘から解放された瞬間の、この終末の安らぎには、いうにいわれぬ美しさがある。何という疲れとあきらめの表情だろう。ルーヴル美術館でこの像の前に立つと、これが冷たく命のない石の像だとは、とうてい思えない。いまにも動きだしそうに見えながら、それでいて眠りつづけているようにも見える。たぶん、こういう効果をミケランジェロはねらっていたのだ。長く称賛されつづけてきた、ミケランジェロ芸術の秘密のひとつは、激しく動く人物がどんなに体をねじ曲げていようと、その輪郭はつねに確固とし、すっきりと安定していることだ。なぜそんな芸術が生まれたのか。そもそもミケランジェロは彫刻の仕事に手を染めた当初から、自分が刻もうとする大理石の塊(かたまり)の中に、人物が隠れひそんでいる姿を思い浮かべるようにしてきた。それが理由だろう。彫刻家として彼に課せられた仕事は、像を覆(おお)い隠している石の部分を取り除いてやるという、ただそれだけのことだった。こうして一塊(いっかい)の石のもつ単純な形が、いつも像の輪郭に反映されることになり、人物の動きがどんなに激しくても、明快なひとつの形に向かって全体が統一されていくのだ。

 

 

■書誌情報
書名:美術の物語 ポケット版
著者:エルンスト・H・ゴンブリッチ
翻訳:天野衛、大西広、奥野皐、桐山宣雄、長谷川摂子、長谷川宏、林道郎、宮腰直人
協力:田中正之
仕様:四六変型判/上製・クロス装/1048ページ
初版発売日:2024年10月18日
刊行記念特価:定価4389円(本体3990円)
*「刊行記念特価」は、2025年1月末まで、かつ、初回生産分限定です。
 以降は通常価格である定価5489円(本体4990円)で販売します。
ISBN:978-4-309-25746-4
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309257464/

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著者

エルンスト・H・ゴンブリッチ

1909年ウィーン生まれ、2001年没。20世紀最大の美術史家。ロンドンのウォーバーグ研究所所長兼ロンドン大学教授を務める。ナイト爵位、メリット勲章、ゲーテ賞、ヘーゲル賞等世界各地で多くの賞を授与された。

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