ためし読み - 芸術

「世界一読まれている美術本」に課せられた特別なルール──『美術の物語 ポケット版』刊行記念。「はじめに」ほぼ全文公開!

『美術の物語』と『美術の物語 ポケット版』

なぜ『美術の物語』は、世界で最も読まれている美術書となったのでしょうか?

著者エルンスト・H・ゴンブリッチがこだわり抜いた本書執筆の気概が、この巻頭の「はじめに」に込められています。

読者を美術の世界に導いて美術史の流れをわかってもらうこと。そして美術を深く味わってもらうこと。そのためにはどのようにすれば良いのか。この著者の純粋な思いを実現するために、可能な限りの努力が積み重ねられている本書は、著者自ら科した執筆にあたっての3つの規則や、専門用語等をなるべく使用していない易しい文体や構成によって、そして“物語”形式で描いていくことで、芸術家の思いや長大な美術史を、誰にでもわかりやすく伝えることに成功しています。

この成功の背景には、著者の美術への限りない愛情と、著者の卓越した表現力があり、これこそがまさに本書の原動力であり、成功に至った理由でした。

この度発売する『美術の物語 ポケット版』の総ページ数は1000ページ以上。この大著の巻頭に収録される「はじめに」は5ページ程度ですが、本書が世界で最も読まれている美術書である理由がわかると同時に、本書への期待と魅力を増大させる内容です。

是非、この機会にエルンスト・H・ゴンブリッチによる「はじめに」をご高覧ください。

 

E・H・ゴンブリッチ(Bert Verhoeff for Anefo, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 

==↓ためし読みはこちらから↓==

■「はじめに」より (エルンスト・H・ゴンブリッチ/一部略)

 

 美術という心惹(ひ)かれる不思議な世界を前にして、道案内のようなものが欲しいと思っている人は少なくない。私はそんな読者に向けてこの本を書いた。初めてこの世界に足を踏み入れた人でも、この見取図があれば、細かいことは気にせずに全体を見渡すことができるだろう。この本を読めば、もっと本格的な美術書に出てくる、いろんな名前や時代や様式を、わかりやすく整理できるようになり、専門書に当たってみるだけの力も身につくと思う。この本を書きながら私がとくに念頭に置いていたのは、美術の世界を自分で発見したばかりの十代の読者だった。しかし、若者向けの本だからといって、大人向けのものと書き方を変える必要などまったくない。若者こそもっとも厳しい批評家であって、えらそうな言い回しをしたり、わざとらしく感心してみせたりすれば、たちまちソッポを向かれてしまう。私自身の経験から言っても、そういう書き方をされると、読者はこれから一生、美術書を信用しなくなるだろう。だから、私は、気軽な素人(しろうと)くさい本と思われるのも覚悟の上で、平易な言葉を使うように心がけ、なんとしても大げさな表現に走らないように気をつけた。しかし、内容的にむずかしい問題を避けたわけではない。美術史の専門用語をなるべく使わないようにしたからといって、私が読者を「見下している」などと思わないでほしい。読者を美術の世界に導くことを忘れ、「学問的」な言葉を連発して読者を威圧するような人こそ、「見下して話す」雲の上の人ではないだろうか。

 

 専門用語をできるだけ少なくするという原則のほかに、この本を書く上で私が自分に課した特別な規則がいくつかある。おかげで、著者としては苦労することになったけれど、読者としては多少とも読みやすくなったと思う。第一の規則は、図版に載せない作品については本文でも論じない、というものだ。作品の名前をずらずらと書き並べただけではどうしようもない。作品を知らない人にはほとんど無意味だし、知っている人は余計なことだと思うだろう。私はそんな作品名の羅列は避けたかった。とはいっても、この本に載せられる図版の数には限りがあるので、この規則に従うと、図版にない作者や作品については論じられないことになる。どれを取り上げ、どれを除外するか、私は二重に厳しい選択を迫られた。ここに、第二の規則が登場する——本物の芸術作品だけを取り上げ、趣味や流行の見本として興味を引くだけの作品は除外する、という規則だ。この規則に従ったために、文章をおもしろくするという点でかなり犠牲を強いられることになった。賛辞は批判の言葉よりもずっと退屈だから、楽しい奇抜な作品もいくつか取り上げた方が気晴らしにはなったかもしれない。しかし、著者が認めていないような作品が、ほかでもない美術のための本に出てくれば、読者としては疑問に思うのが当然だ。そのために真の傑作が追い出されたとなれば、なおさらである。そこが第二の規則の重要な点だ。私は、作品自体に固有の価値があるとは思えないものは取り上げないよう、細心の注意を払った。もちろん、図版に出てくる作品がすべて最高水準の完成品だと言うつもりはないが。

 

 第三の規則も多少の自己否定を要求するものだった。作品を選ぶときに自分らしい独創性を出したい気持ちはあったけれど、私はその誘惑には負けまいと心に誓った。よく知られた傑作を、個人的な好みで閉めだしてはならない、と思ったのだ。名作を閉めださないとはいっても、この本はたんなる名作集を目指しているわけではなく、新しい世界の案内図を提供しようとしている。となれば、なじみのある一見「陳腐な」作品が、読者にはかえって便利な目印になってくれるかもしれないのだ。それに、もっとも有名な作品は、実際、いろんな基準に照らして、もっともすぐれた作品であることが多い。この本を読んで、読者が有名な作品を新鮮な目で見直してくれるとすれば、あまり知られていない傑作を取り上げるよりも、その方が有益なのだ。

 

 そうはいっても、除かざるをえなかった有名な作品や作者の数を思うと、心穏やかでない。白状しておくけれど、ヒンズー美術やエトルリア美術は取り上げられなかったし、クェルチア、シニョレッリ、カルパッチョなどの巨匠たち、あるいはペーター・フィッシャー、ブラウエル、テルボルフ、カナレット、コローその他数十人の巨匠たちも、私には大いに興味があるのだが、取り上げる余地がなかった。それらを取り込めば本の厚さが2倍か3倍にふくれあがって、それでは入門書としての価値は下がったにちがいない。胸の張り裂けそうな思いで多くの作品を切り捨てなければならなかったのだが、その際、私が守った規則がもうひとつある。どちらを取るか迷ったときは、写真でしか見たことのない作品よりも、実物をこの目で見た作品を取り上げるようにしたのだ。私はこれを絶対的な規則にしたいと思ったほどだが、たまたま旅行の制限で私が傑作を見そこなったという、美術愛好家の人生によくある災難ゆえに、読者までが割をくわされることはないと考えた。それに、絶対的な規則などはもたず、ときには自分の規則をも破る、というのが私の最終的な規則だった。読者にすれば、私が規則違反を犯している箇所を見つけて、そこに私の思いを読みとる楽しみが残されているというわけだ。

 

 ここまでは、私が採用した後ろ向きの規則である。一方、私が前向きに目指したことは、この本を読み進むうちに明らかになるだろう。この本は、あらためて美術史という物語をやさしい言葉で語るものだが、それによって、読者に美術史の流れをわかってもらい、美術を深く味わってもらいたいと思っている。それには、のぼせ上がった物言いを避け、むしろ美術の作り手たちの意図を知る手がかりを与えるようにしなければならない。そうすれば少なくとも、よくある誤解の原因を取り除き、美術作品に対する見当はずれの批評を未然に防ぐことになるはずだ。しかし、それだけでなく、この本にはもう少し野心的な目標がある。 取り上げた作品の歴史的な背景を考えること、そしてそれによって、作り手の芸術的なねらいを理解することがそれだ。だれでも、親たちの世代の常識に対しては、どこかで反発を感じるものだ。また、同時代の美術作品も、なにかを成し遂げたことによって共感を呼ぶだけではない。なにかがまだ成し遂げられていないということも、同時に人の心を刺激するのだ。青年モーツァルトがパリにやって来たとき、彼は——父親宛ての手紙によると——いま流行(はや)りの交響曲がすべて速いテンポの最終楽章で終わることに気がつき、自分の最終楽章はゆったりした導入部にして聴衆をびっくりさせてやろうと考えた。些細(ささい)な例だけれど、美術を歴史的な目で見るときのヒントになる。人とちがったことをやりたいという衝動は、芸術家に求められる、もっとも高度な要素でも、もっとも根源的な要素でもない。しかし、それがまったく欠けていることはめったにない。だから、芸術家たちがどこに差を出そうとしているのかがわかると、過去の芸術を理解する道が、意外と簡単に開けるものだ。芸術家の目標が絶えず変化していること、そのことを軸にして私は話を組み立てるように心がけた。ひとつひとつの作品が、以前の作品とどこが似ていて、どこがちがっているかを示そうとしたのである。話がくどくなるのもかまわず、比較のために過去の作品へともどっていった。そうすることによって、芸術家たちがどれほど先行者たちとのちがいを出そうとしていたかがわかるからだ。しかし、そういう書き方には落し穴がある。私は落ちないですんだと思うけれど、この落し穴について、ひとこと言っておかなければならない。芸術の絶えざる変化を絶えざる進歩と考えるのは、無邪気な誤解だ。たしかに、どの芸術家も自分の方が親の世代よりもすぐれていると思っているし、彼の立場から見れば、彼はすでに知られているどんなものよりも先を行っている。だから、ある芸術作品を理解したいと思えば、作者が自分の作品を見ながら感じていた解放感や勝利感を、私たちも共有しなければならない。しかし、ある方向で進歩や収穫があれば、別の方向でかならず損失が生まれることを忘れてはならない。主観的な進歩も重要ではあるけれど、それは芸術的な価値が増大することとはちがう。抽象的にこんなことを言っても、読者は釈然としないのかもしれない。本文を読んでわかってもらえるとうれしい。

 

 この本で美術の各分野に割り当てられたスペースについて、ひとこと言っておきたい。人によっては、彫刻や建築に比べて絵画がひどく優遇されていると思うかもしれない。しかし、彫刻の立体感は印刷では出しにくいし、まして巨大な建造物は図版で見てもスケールの大きさが感じられない。それで、どうしても絵画の図版が多くなってしまった。別の理由として、建築様式の歴史についてはすぐれた本がたくさんあって、それと張り合う気がなかったこともある。そうはいっても、私が考えている美術の物語は、建築という背景がなければ語りえないものだった。各時代について、わずか一つか二つの建物の様式しか論じることができなかったけれど、建築の実例を各章の最初にもってくることによって、私は建築の重要性を強調したつもりだ。それを手がかりに、読者は各時代についての知識を整理し、その時代を全体として見ることができるだろう。

(以下略)

書籍としては異例の2本のしおり紐をセット。

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著者

エルンスト・H・ゴンブリッチ

1909年ウィーン生まれ、2001年没。20世紀最大の美術史家。ロンドンのウォーバーグ研究所所長兼ロンドン大学教授を務める。ナイト爵位、メリット勲章、ゲーテ賞、ヘーゲル賞等世界各地で多くの賞を授与された。

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