ためし読み - 文藝賞

第61回文藝賞受賞作!松田いりの『ハイパーたいくつ』試し読み

迷惑系給金泥棒として職場で疎まれている「ペンペン」。鬱屈した毎日がついに限界を迎えたとき、壊れた言葉が壊れた風景を呼び起こす。リリカル系日常破壊小説、爆誕!俳優・仲野太賀、ラッパー・TaiTanも激賞の第61回文藝賞受賞作。

松田いりの
ハイパーたいくつ

 

 退屈さだけをつまんで取り去ることはできない。退屈さは服にくっついた埃や毛じゃなくて、オズの国の魔法使いみたいなでっかい顔が嚙み捨てたでっかいガムだ。服にべったりくっついた退屈さを引き剝がしたら、まとめて一緒にその下の服からもたくさんのものが剝がれ取れる。給料まるっとつぎ込んで仕立てた花柄ビーズ刺繡入り&日光を陽気に照り返す強靱きょうじんなウールギャバジンの青い一張羅いっちょうらジャケットだって、巨大なガムを引き剝がしたあとに残されるビーズは糸を引いて垂れ下がっておっさんの髭の剃り残しみたいだし、肩はゆがんだパッドで波打って生地はところどころ破れてれて毛羽立って、全体が白けてカサカサになってしまった感じは真冬の起きぬけ乾燥肌にいきなり粉を叩きつけた自暴自棄な道化の顔面を思わせて、ぼんやりした気持ちだけがひとつ残るのだ。つまりぼーっとしちゃうってこと。剝げ上がった服を着てどこかへ出かけようって気には到底ならないが、一度退屈さと一緒に引き剝がしたものたちはそう簡単に取り戻せないだろう。服屋に着ていく服がもうない。出かけたい気分も特にない。

 そんなわけで私はだるだるのスウェットで家から駅までの道を歩いていく。もちろん必要にかられての歩行だから結構ウォー苦。路傍に転がる一本糞はびっくりロン苦。食べたら苦いという意味でby 蠅。ワオ。虹がきれい。Eyewear over the rainbow♪ 虹の向こうのメガネ。どうりで部屋で見つからないわけ。久々のコンタクトレンズを入れたからだろうか、いつもよりちょっとシャキっとした気分。なんだか今日は調子がいいかも。不意のラッキーデイに思わず落涙。

 と目が濡れたのは退屈と一緒にうっかり自律神経まで引き剝がしてしまったからで、情緒も涙も私の生活とは関係なしに勝手に出てきて勝手に引っ込む。そのうえ私の体を構成する無数のパーツたちは、本来の役目を忘却して伸び伸びと無責任なノリで活動してやまない様子。汗腺は機銃掃射の勢いで年がら年中衣服の裏側に体液を撃ちまくり、胃は熱心な内野手として食べ物をクイックスローで口の中へばんばん投げ返してくるし、血中に数台交じったフォーミュラカーはクラッシュをいとわず血管内を周回走行、目玉は脳みそとのボクシング試合に明け暮れて、なおざりにされた視界は淡く霞んで眼窩底がんかていが揺れる度にうねって泡立ち、医者から大量に処方される薬の作用も相まってか、元々濃かった体毛がいっそう野放図に育ち始め、一年かけてレーザーに加えてニードル経由で電撃まで喰らわせ死滅させたはずの毛根たちですら視覚認識可能な怨霊として蘇ってきたところなのであって、心も体も毛もいっぱいいっぱい、雑音集音専門の錆びたアンテナを一本ぶっ刺された肉の塊気分、単に退屈だった日々が懐かしまれるほどに体が騒がしくって仕方ない。いろんなものをまとめて剝ぎ取って残った空き地に、目に耳に鼻にうるさい毒っぽい色彩の奇怪な生きものたちが他に行き場がないからと集まってきてしまったって塩梅あんばいのこの状況への対策は、繰り返される実践と熟慮の結果やはりその騒々しさを上回る力を込めてぼーっとすることでしょうと結論が出た。魑魅魍魎ちみもうりょう跳梁跋扈ちょうりょうばっこ、なかなかの強敵たちを相手に修練を重ねることで私の「ぼー」にはますます磨きがかけられてじきに摩滅しそうな薄さ小ささ心もとなさnano サイズdeath nano death.

 出発直前まで横になっているため顔に何も塗らなくなって久しいけれど、日光や乾燥の攻撃で皮膚がひりつくのにはもう慣れた。順調にボロついていく自分を受け入れた。駅までの道を行き交う人たちに変な目で見られてもお構いなし。構いやしないけど、一言だけ。へい! 今さ、私の毛深な頭を見ながらしばし並んで歩いたあと、軽蔑の意を送る調子でニヤつきながら歩き去ったそこの人! スーツのサイズ合ってないしシワだらけですよ。がさつな繊維の太さ。その光り方はポリエステル? 過去幾度もカミソリに剃り負けた口周りのドドメ色とネクタイのイエローカラーが焼き芋を彷彿とさせて少しお腹が減りました。頰の剃り残しは芋の毛を意識して? だとしたらレベルの高いコスチュームプレイかも。グレーのヨレたスーツも焼き芋包む古新聞に見えてきました。こっちは魔法みたいに顔が輝き出してあんたの目を潰せるメイク道具を持ってんだよね。気分を一気に空まで舞い上がらせて天使と握手させてくれる衣服を持ってんだよね。雲の上で天使と肩組みながら天使の頭から拝借した天使の刃付き輪っか投げっからそのダサい身なりごと真っ二つになるまで3、2、1、

 ってうそうそ。もちろん噓。急に言葉で襲いかかったりしてごめんなさい笑。こういう言葉って天使の輪っか改めブーメラン。みたいに飛んで返ってきて言葉の出どころ自分の喉元かっ切りますから。私、煌めくメイクも衣服もご無沙汰ですから。棚に入れたままのメイク道具用ポーチは自分をジッパー付きの石か何かだと思い始めているでしょうし、ウォークインクローゼットを開けば幾本も垂れ下がる色とりどりの花弁みたいなパンツたちの裾に床の埃が絡まって、パンツよ灰色の涙流して泣いているね御免ねって結局ヨレたスウェット手に取っちゃう日々だったりして、とても他人様の身なりに口出せる状態じゃありませんからグッモーニン!

 と聞こえて見ればインターナショナルスクール。全面ガラス張りの壁の向こうに、シワ無しの制服をきっちり着込んだ子供たちが電子ピアノ前に着座した先生の方をキラキラした目で見つめている。高く高く上昇したお日様SUN☼HIGH☆って先生の掛け声を合図に、   

  He’s a real nowhere man
  Sitting in his nowhere land,
  Making all his nowhere plans for nobody.
  Doesn’t have a point of view,
  Knows not where he’s going to,

 とか。どっかで聞いたことある感じの英語詞ソング。忌憚のない感想を述べれば、朝から陽気な子供たちの重なる歌声ってちょっとやかましいかもしれないね。でも気にしないで。こちらが傾聴しなければいいだけのこと。子供は元気いっぱいなものだから。温かい環境ときちんと機能する自律神経、その上で人はこんなにも大きな声で楽しそうに歌うことができるのね。光が輝いているね。と微笑ましく合唱を見守っていると、目の前にボサボサ頭の女が目を見開いて両手を両耳にぎゅーっと押し当てている立ち姿が一瞬。不気味な奴! と口が動いて叫ぶ前に、両腕が足元に転がる人頭大の石を拾い上げオーバースロー即インターナショナルスクールの大ガラスに激突。ガラスに映ったボサボサ頭の女、ていうか私の顔を中心に花が咲いた、ならぬ穴が咲いたって感じの広い亀裂が走って、歌声がピタッと止んで、先生と子供たちが窓の外に顔を向けたが、そこに私はもういない。私は駅に向かって駆けて行く最中だった。また歩けない道がひとつ増えた。不気味な奴だねPlease kick me. 不気味な奴だねPlease kick me. などと走りながら呼吸音っぽくつぶやき続けていると誰もこちらを見ようとしなくなるので便利だった。自分が走っている姿ってかなり自信ない。顔が汗や鼻水やヨダレで汚れていく。45分間の電車乗車時間で指先舌先駆使して拭き取らないと。これから出社しなくてはならないのだから。社会人には最低限の身だしなみってもんがある。

 

 駅の手前に交差点があって、インターナショナルスクールから追手が来る可能性を考慮すれば信号無視での横断一択ではあったのだが、私はじっと信号を待っている。横に大きな警察署があるのだ。マズいことをやらかした人間というものは大抵パニックに陥って更なるマズいことを重ねがちであるがそこはさすがに私、社会人歴10年。どんな時でも周りをよく見て、最善の選択に努める訓練は十分に受けてきた。横の方から強烈な視線を感じても、はいはい。そりゃこの割と寒い日に汗だくで息を切らした人間がいれば誰でも気になりますよ、と冷静かつ客観的な判断を下すことができる。判断を行動に反映させることもできる。とはいえひとかどの審美的感覚を持ち合わせてもいるものだから、ヘソの辺りに虫が入っちゃって気になる人、という設定でスウェットの首周りを大胆に引っ張ったまま、上着と肌着の間の虚空を覗き込むようにして顔を隠してはいたのだが、どうも視線がしつこくてうるさい。タッタッタッと靴音が重なって信号が青に変わったことを聞き取って、私はスウェットから顔を出して前を向いた。ところが横からの視線の主は動かずこちらを見続けているよう。参った参った。本来歩くべきところを立ち止まって赤の他人をじっと観察って相当の変わり者じゃん? こちら出社中の身なんです。相手している暇はないんです。と車道横断がてら刀代わりに鋭い視線を横に向け返したところ、誰もいない。あれっ。と思って視線の出どころを探ると、遠く向こうの警察署の入口に立った警官がこちらを睨みつけながら口元をモゴモゴ動かしている。小型機械性愛者みたいに3秒毎に無線機に接吻する感じですぼませているあの口の形は「ス」ではないか。人生初の読唇術が正しければ「スウェットの女」と繰り返しているのではないか。

 行動がチグハグな人間、というのは他人に不安を与えるもの。それまで取っていた行動から、次に取る行動を予測できない時、人はそこに危険な匂いを嗅ぎ取る。ゴキブリが一定の速度で一方向にしか進まない生き物であったならば、ゴキブリを恐れる人は今よりずっと少ないのではないか。私は自らの無害性を証明すべく先の設定を発展させる形で、ヘソをどこかに落としたことに気付いた人、になりすまし極めて自然な心情の流れの上に乗っかって、もと来た道を引き返し始めた。視界の隅で警官が動いたのを確認した。追ってくるだろうか。歩行の速度を上げた方が良いかもしれない。難しい顔して路面をキョロキョロするのも忘れるな。私は今ヘソを探してもいる。ひとまず家に戻ったらスウェットを脱ごう。久々にちゃんとした服を着よう。しかし会社を休むわけにはいかない。今は3月だが1月に付与された有給休暇は既に残り1日。この程度のトラブルで使ってしまってはダメ。振り返ると警官はいない。が、まだ安心はできない。早く家に戻りたいところだが、本来駅から15分で到着するはずの自宅は今では少なくとも30分はかかる。豪邸庭先花摘み事故、児童公園ブランコ終日振回し事故、地蔵連続雪だるま化事故、中華料理店内ネズミ花火乱入事故等々、インターナショナルスクールへの投石に類する突発的事故によって、いくつかの主要な通勤道が使えなくなってしまったのだ。「交通機関の不調により、出社時間が少々遅れます」というメッセージを上司に送りながら、私は回り道を急いだ。道とは交通機関の一種に他ならない。噓はつかない方がいい。

 

 きちんとした身だしなみがきちんとした生活を支える。朝起きて洗顔してパックして潤して丁寧にメイクをするのは自分を大切にする時間。きたる春の色合いをリップとチークに取り入れて、新緑を意識したヴィヴィッドなグリーンカラーを睫毛に差してみる。体の輪郭にピッタリ沿うよう計算された青色のジャケットは私の背筋を伸ばして、呼吸を深いものにする。マグカップで軽く白湯を飲んで体を温めてから、オーガニックな粉末ヴェジタブルと濃厚なヴィタミンCを水に溶かして飲めば、寝ぼけ眼をこすっていた心が早く外に出ようと私をせかす。よし完璧。こうした朝の儀式が、夜までの自分を忙しなく荒れ狂う外界から守ってくれるのだ。

 と、うまいこと事が運ばなかったのは、さっきインターナショナルスクールから全力疾走して以降、顔の火照ほてりが止まる気配を見せず、心臓は早鐘を打ち続け、次第にざらざらした熱が脳を鷲摑みにして鈍速で揉み歪めてくる感じがしてきて、それを無視することに一日分のエネルギーを使い果たしてしまってもなお火照りは止まらず、電車に乗ったはいいものの、念のため警察の存在を意識して施した厚化粧が、暖房の効いた車内において続々と噴出してくる汗で浮いて垂れて拭かれて、今や顔中を雨天試合後の野球グラウンドみたいな模様で飾っていることを、私は意識せざるを得ないからであった。シルクブラウスの襟と脇も汗でじっとり濡れて最悪。ジャケットに浸透しないよう体を真っ直ぐにするが、ジャケットが体に貼り付いてくるデザインで逃げられない。脱ごうにも電車内が満員で身動きが取れない。脚にも汗が伝うって見ると、ジャケットと同色の膝上丈スカートとソックスとの間に剝き出た脚からぽつりぽつりと毛が生えている。うっかりだ。見逃していた。汗と毛。困りごとが2つ同時に存在する時、それは2つの困りごとではなく無限の困りごととなる。わずかに残る力たちが表に出ることを諦めた。私は大人しく背中を丸めて汗が衣服を濡らすに任せ、吊り革を両手で摑んだまま重力と電車の運動の中へと身を沈めていった。

 駅に着いて停車して、誰も降りずに沢山の人が乗ってきた。出勤ラッシュアワーはとうに過ぎているのにこの混み具合、引っ越そう。とは何度も考えたがまとまった金がない。快適に通勤するためにもしゃかりきに働かねばならない。いったん休職すれば? って意見もあって、既に2回やっている。ますます金はなくなって、買い物している時だけ調子が良くなるこの体はいずれ訪れる復職の時を予感して、西日が染み込んだフローリングの上に空腹状態のまま正座で放心。やっぱりちゃんと働こうって思って救命胴衣代わりの有給休暇を使い尽くす寸前の今日であるから荒海風味の混雑電車にゃへこたれない。平行移動から垂れ落ちない。

 車両の扉から人が次々流れ入る。両脇に立っていた2人の体がぎゅっとこちらへ寄ってくる。右側のフーディー姿の男がわざとらしく鼻をならして私を一瞥、顔をしかめて反対側へ向けた。汗まみれなのは認めるが、そんなに汗臭いだろうか? こっちはパテントレザーのチャンキーヒールなローファーがさっきあなたにがっちり踏まれた過去を吞み込みました。損傷具合を早く確認したくて気が気じゃないんです。一応チェックと思って自分の首元あたりに鼻先を近づけてみるとツンと小便っぽい匂い。長らく使っていなかった化粧品が汗と混じって妙な反応を起こしたのだろうか。先ほど家に戻ってり行ったホーリーな儀式がどんどん呪いの儀式に変わっていくようだった。私は体をできるだけ小さく縮めて硬くした。この動作が匂いを体内に封じ込める効果を持ちますようにと祈りつつ、まだ開いたままの扉から乗り込んでくる人々を見るともなく眺める。

 最後に乗ってきた2人組は本人らの上半身よりも大きな登山用リュックサックをパンパンに膨らませて背負ったまま、扉のすぐ脇に立った。扉が閉まって電車が動き始める。私から見えるのはひとつのリュックで、フロント部分は白、トップ両サイドは黒、いくつかのコンパートメント部分にぶら下がるチャックの取っ手はオレンジ。ペンギン柄といって盲想もうそうそしりを受けることもあるまい。ツヤっとしたナイロン地が車内に差し込む陽光を照り返して眩しい。さながら満腹中枢を破壊されたペンギンみたいにしてリュックがむしゃむしゃ食い散らかした空間の減りが、車内を伝って私に届いて周囲の隙間が消滅する。かろうじて両手は吊り革を摑んでいるものの、胸を大きく反り出して船首像みたいなポーズを取るしかない。私を船体の先端にくっつけているのはどんな船だろう。朽ちた幽霊船といったところだろうか。ははは。疲れた。目と耳を無理やり閉じて、私はゴトゴト揺れる海の上を漂ってみる。

 相変わらず頭は熱いが、いくらか海水の冷たさを感じられる気がしてきた。ザスっ、ザスっ、と雪を踏みしめるような音が聞こえてくる。そうだ。私は船になってペンギンたちが暮らす南極の海を漂っている。茶色く柔らかな毛で身を包んだ子ペンギンたちは、漁から帰ってきた親ペンギンたちとクチバシを重ね合わせて魚をうまそうに吞んでいる。成長が早い子ペンギンは胴の体毛を短くストイックな黒白黄色に生え変わらせつつあり、大人ペンギンらと共に銀色の陽光をピカピカと照り返している。じきに彼らは初めての海に入って、陸地よりも遥かに素早く大胆に動ける水中での生活を謳歌することだろう。ザスっ、ザスっ、ザスっ、ザスっ。ペンギンたちは大人も子供もみんな揃って岸辺に駆け寄り、過ぎゆく船を珍しそうに眺めている。オンボロだったはずの船はペンギンたちの純真な目に見上げられているからだろうか、どこか格好がついてきたようであり、単に汚らしかっただけのいたみや腐りや絡まった海藻やこびり付く貝類までもが今やお洒落なダメージ。みたいな魅力を醸し出しているのであった。頭に溜まっていた熱が粉雪みたいに体の下の方へと降りていって溶けていく。ふぅ。我が船の乗組員たちよ、自律神経の亡霊たちよ、今しばらくこの海の静けさと冷たさを味わってみようと思うが、いかがだろう?

 後ろからグッと押されて私の上半身は身体可動域の臨界点に触れてしまいそうなほど前のめりになった。船首像は折れて海の中へと落ちた。ひやっと思う間もなく、水中の温度はどんどん上がり始める。目を開けると、ペンギン柄のリュックが座席端の仕切りと手すりの間からモリっと飛び出て、端に座った女の頭部を鋭角に傾けさせている。リュックに押された女は太腿に置いたスマートフォンを見据えたまま上半身に勢いをつけて、ザスっ、ザスっ、と一定のリズムでリュックに頭部をぶつけていた。リュックの主は連れとのトークで盛り上がり、女の頭突きには気付いていない様子。彼女の前に立っていた人は何らかの危険を察したと思われ、彼女から離れるべく私が立っている方向へと無理やり体を寄せてきたらしい。

 頭突きをしている女の前に立っていたのが私じゃなくて良かった、と思ったのは彼女が私の上司であるところのチームリーダーだったからだ。彼女は最近、同居する両親の体調がひどく悪いらしく、まれに遅れて出社してくることがある。私といえば電車に乗る前、久々の身だしなみ整備に時間をかけてしまって、結局4時間遅れの出社になる旨を彼女含む上司らに連絡したのであったが、頭突き中である彼女の膝の上に置かれたスマートフォン画面には今、私の遅刻連絡が表示されているだろうか。この懸念が単なる思い過ごしでない可能性がやや高いと考えるのは、チームリーダーが普段から私のことをペンギンのペンペンと呼んでいるからだ。

 

【続きは本書でお楽しみください!】

松田いりの『ハイパーたいくつ』(河出書房新社) 1500円+税

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著者

松田 いりの(まつだ・いりの)

1991年、静岡県生まれ。2024年、「ハイパーたいくつ」で第61回文藝賞を受賞。

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