ためし読み - 芸術
祈りも虚しく、最愛の二人を失った数日間「いつもパパは言っていたそう。自分が逝くときには、セルジュを連れていくって。」60年間を自ら克明に記した奇跡の日記『ジェーン・バーキン日記』
2025.12.01

2023年7月、76歳で世を去った女優、歌手ジェーン・バーキン。
彼女は寄宿学校へ通う11歳の頃から、2013年、長女ケイトの思いがけない死まで、約60年にわたり何冊もの日記を書き残していました。
このほど刊行される『ジェーン・バーキン日記』は、ジェーン自身がこの日記を読み返し、当時を振り返りながら追記を加えた、彼女の「自伝」的作品。ありのままのジェーンの姿、これまで語られることのなかった思いが、この本のそこかしこに記されています。
第6回は、パートナー関係を解消した後も共作を続け、公私にわたり良好な関係を築いていたセルジュ・ゲンズブールを失った日の混乱と恐怖、その数日後、ジェーンと同じくセルジュを愛し、終生友情を育んだ、最愛の父デヴィッド・バーキンの死が綴られた、1991年3月2日の日記と後年の追記部分より一部抜粋、再編集してご紹介します。
* * *
3月2日
ママが真夜中に電話をしてきた。セルジュが亡くなったと。
「誰と何を食べるの、セルジオ?」
「水を飲むよ」
「お酒を飲んだでしょ、セルジオ。ウソつき」
「まあ聞いて。もう行かなくちゃいけないんだよ。仕事があるから」
「ああ、そうね」
「じゃあ、また明日」
「ダイヤモンド、ありがとう。優しいのね」
でもいまだにそう言ったかどうかわからない。一番素敵な贈り物がもしあるとすれば、それはセルジュにまた会うこと。本当にきちんとありがとうと言ったかしら?
翌日ジャック[パートナーの映画監督ジャック・ドワイヨン]が私に言った。「セルジュに電話したら。おしゃべりしたがっていたから」。私はリンダ[妹リンダ・バーキン]のところにいて、翌日にしか電話をしなかった。ありがとうセルジュ。すべてにありがとう。
ママが言う。彼が亡くなったと。彼の死とともに、私の世界はカオスになり、音もなくなり、闇になった。セルジュが死んでしまった。あり得ない。ものすごく恐ろしい。拳で殴られたみたい。すべてがはっきりしない。でも悪夢のように生々しい。頭のなかでは相変わらずそんなことあり得ない、彼じゃないという考えが巡っている。チェイニー・ロウを、私たちの家を通り過ぎた。彼と私、亡霊たち。
* * *
私たちはバカンスでチェイニー・ロウ[ロンドン・チェルシー地区]をちょっと入ったところの借家にいた。ジャック、ルー[三女ルー・ドワイヨン]、ロマン[孫ロマン・ドゥ・ケルマデック]が一緒だった。シャルロット[次女シャルロット・ゲンズブール]は来ていなかった。パリで『メルシー・ラ・ヴィ』のアフレコがあったから。音楽はセルジュだった。
シャルロットはセルジュの家で寝ていたのに、突然、セルジュからロンドンに電話がかかる。「誰と一緒に住むことになったか当ててみろよ」。私は答えた。「ケイト[長女ケイト・バリー]?」。するとセルジュ。「シャルロットだよ! シャルロットが一緒に住むことになったんだよ。パパっ子だからな」
電話が鳴ったとき、上の階にいたと思う。それともジャックが電話を取ってくれと呼んだのだった? そしてママが言った。セルジュが亡くなったと。
ジャックと私は、朝一番の飛行機を待ちながら、黙ってお皿をすべて洗った。歩いてオールド・チャーチ・ストリートへ行った。両親の家に。ママと何時間も話して、パパがセルジュのことを話すために起きて待っているからパパに挨拶しに行きなさいと言われた。
私は上の階へ上がった。彼は私を待ちながら眠っていた。私はパパの頭をサッカーボールのように私の腕に乗せた。起こさず、さよならも言わなかった。私は小さなロマンを連れて最初の便で旅立った。

〈セルジュ、喧嘩はやめない? 私はもう10年も、あなたの調子を確かめるためだけにしか電話をしていないわ。〉と始まる1989年7月17日の日記。入退院を繰り返していたセルジュ・ゲンズブールはこの年4月、6時間12分におよぶ手術を受け、肝臓の3分の2を摘出した。『ジェーン・バーキン日記』下巻「Post-Scriptum」 P174より
パリに到着するとき、一瞬、実はすべて本当ではないのだと思った。人々が何事もなかったかのように自分のスーツケースを取り上げているから。でもフィリップ・ルリショム[セルジュとジェーンのプロデューサー]が待っているのを見て、それで本当のことなのだとわかった。
ロマンを預けて、ヴェルヌイユ通り[セルジュが1969年から過ごした、パリ7区ヴェルヌイユ通り5番地ビス]まで行く。家の前にはすでに人だかりができていた。みんなが「ラ・ジャヴァネーズ」[1963年発表、セルジュの代表曲の一つ]を歌い始めていた。セルジュの執事のフルベールが、私とフィリップを中に入れてくれた。フルベールは私に、セルジュが2日前に私に買ってくれた、カルティエの小さな箱に入ったダイヤモンドを差し出した。
バンブー[セルジュのパートナー]、シャルロット、ケイトに会いに上に上がると、3人ともピエタのようにセルジュに触れていた。シャルロットは彼を埋葬したがらず、あとになってから納得した。バンブーとジャクリーヌ[セルジュの姉]、フィリップ・ルリショムと一緒にモンパルナスでセルジュのお墓を見つけた。彼の母親を埋葬した場所だった。
ヴェルヌイユ通りの家の階段からセルジュが運び出されるとき、子どもたちの目に触れないように隠した。台所のドアのガラスに布を当てて。遺体は箱に納められ、私はラ・トゥール通りへおサルのマンキー[少女期からともに過ごしたぬいぐるみ]を取りに戻り、セルジュの脇に置いた。セルジュは、葬儀の会場となるモン・ヴァレリアンに運ばれた。私たち、バンブー、シャルロット、ケイトと私はラ・トゥール通りに向かった。私のベッドにみんなで寝た。
兄のアンドリューが直接ウェールズから到着、シャルロットのためにセルジュの思い出の品を探そうとした。シャルロットは、自分にはセルジュの悲しい想い出しかないと言っていたからだ。アンドリューは地下で寝た。
早朝、電話が鳴り、出ると英語で「ジェーン、ジェーン」という声。ビーだった。アンドリューの妻だ。パパが亡くなったという。私はアンドリューを起こして伝え、一緒にロンドンに向かった。アンドリューはママと一緒に残り、私はパパにさよならを言い、またパリに戻って、セルジュの埋葬に立ち会った。
翌日パパのセレモニーの準備でロンドンへ。リンダいわく、いつもパパは言っていたそう。自分が逝くときには、セルジュを連れていくって。
* * *
『ジェーン・バーキン日記』上・下巻/封入特典/特製函
著者
ジェーン・バーキン JANE BIRKIN
1946年12月14日ロンドン生まれ。1965年、映画『ナック』でスクリーンデビュー。作曲家ジョン・バリーと結婚し、長女ケイトを出産。離婚後、永住の地となるパリへ。フランスの国民的アーティスト、セルジュ・ゲンズブールと出会い、公私にわたるパートナーに。1969年に発表された楽曲「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は各国で放送禁止処分を受けながらも世界的大ヒット。1971年に次女シャルロットを出産。歌手として、セルジュの楽曲を収めたソロアルバムのリリースを重ねる。1980年代に入り、映画監督ジャック・ドワイヨンと事実婚、三女ルーが誕生。ドワイヨン監督作のほか、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、アニエス・ヴァルダら名匠による作品に出演。2000年代以降も、音楽、映画、舞台の各分野で表現者としての幅を大きく広げ、2007年、半自伝的映画『Boxes』では監督・脚本を務めた。エルメスのバッグ「バーキン」の生みの親で、メンズライクなシャツにジーンズ、コンバースといったシンプルで洗練された着こなしは「フレンチシック」の代名詞となった。2023年7月16日、自宅で死去。享年76。
監訳
小柳帝 MIKADO KOYANAGI
ライター・編集者・翻訳者・フランス語教室ROVA主宰。訳書にジャン=クロード・カリエール『ぼくの伯父さん』『ぼくの伯父さんの休暇』、著書に『ROVAのフレンチカルチャーAtoZ』などがある。
書誌情報
書名:ジェーン・バーキン日記(上巻『Munkey Diaries』、下巻『Post-Scriptum』)
著者:ジェーン・バーキン
監訳:小柳帝
訳者:椛澤有優/手束紀子/金敬淑/髙橋真理子/徳永恭子
装幀:大倉真一郎
表紙写真:〈上巻〉 Andrew Birkin/〈下巻〉Gabrielle Crawford
ISBN 978-4-309-29519-0
発売日:2025年12月2日
税込定価:19,800円(本体18,000円)
特製函封入特典:
①クオバディス × ジェーン・バーキン「オリジナルノートブック」(フランス製)
②封筒入り「オリジナルポストカード」10枚
本書特設サイト
https://www.kawade.co.jp/janebirkin_munkeydiaries/
書誌URL:
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309295190/













