ためし読み - 芸術

3.11東日本大震災とジェーン・バーキン流の復興支援「セルジュにとっても私にとっても、幸せな思い出をつくったのは日本だったから。」60年間を自ら克明に記した奇跡の日記『ジェーン・バーキン日記』

3.11東日本大震災とジェーン・バーキン流の復興支援「セルジュにとっても私にとっても、幸せな思い出をつくったのは日本だったから。」60年間を自ら克明に記した奇跡の日記『ジェーン・バーキン日記』

 

 

 

 

 

 

 

2023年7月、76歳で世を去った女優、歌手ジェーン・バーキン。

彼女は寄宿学校へ通う11歳の頃から、2013年、長女ケイトの思いがけない死まで、約60年にわたり何冊もの日記を書き残していました。

このほど刊行された『ジェーン・バーキン日記』は、ジェーン自身がこの日記を読み返し、当時を振り返りながら追記を加えた、彼女の「自伝」的作品。ありのままのジェーンの姿、これまで語られることのなかった思いが、この本のそこかしこに記されています。

1971年の初訪日以来、たびたび日本を訪れ、大の親日家として知られるジェーンは、2011年3月11日に起こった東日本大震災の甚大な被害、犠牲者たちに心を痛め、誰よりも早く日本へ足を運びました。

最終回の第8回は、体調が悪化し、3か月にわたる化学療法を終えたばかりのジェーンが、元夫で長女ケイトの父ジョン・バリーの訃報を知らされた2011年2月の日記、また、震災直後に急遽来日した際の様子と、復興支援のために世界27カ国74都市を巡ったワールドツアー「VIA JAPAN」へとつながる出会いを綴った追記部分より、一部抜粋、再編集してご紹介します。

 

* * *

 

2011年
2月
ローリー[元夫ジョン・バリーの妻]からのメッセージ、「ジョンが死んだ」。フィリピンにいるケイト[長女ケイト・バリー]は完全にパニックで、電話にも出ない。どうしたら彼女を助けられる? なんてこと、気の毒なジョン。ジョンは何もかもうまくいかないとわかってた。
 
ケイトはニューヨーク行きの飛行機で48時間過ごすことになる。私はアルテ[独仏共同出資のテレビ局]と、それからドラッカー[テレビ司会者ミシェル・ドラッカー]のインタビューをホテル・ラファエル[パリ16区クレベール通りの5つ星ホテル]で受ける。セルジュだけじゃなくて、ジョンの常宿でもあったところで。
 
ロマン[孫ロマン・ドゥ・ケルマデック]におじいちゃんが亡くなったってどう伝えよう? ケイトはロマンにロングアイランドに来てほしいと言っていたけれど、翌朝になって気が変わった。エマ[親友ガブリエルの娘でケイトの友人]はケイトに会うため飛行機に乗った。私は来ないでと言われたけど、金曜日の病院の後のフライトに乗ろうとしていた。行くべきだと思った、でも結局行かなかった。代わりにロマンをお願いと言ったケイトを助けたいから。木曜日の空港でジャン[ケイトのパートナー、作家ジャン・ロラン]と一緒にケイトを待った。
 
かわいいケイト、すべて自分の手でやり抜いた。腕の中にケイトがいる。グザヴィエ〈原注1〉が午前中の休みをくれたのがありがたかった。ケイトが生きていてくれて本当に嬉しい。夜はシルク・ディヴェール[パリ11区アムロー通りの催事場]でシャルロット[次女シャルロット・ゲンズブール]に会った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

〈恐怖のCVポート(皮下埋め込み型の中心静脈カテーテルの一種)〉『ジェーン・バーキン日記』下巻「Post-Scriptum」 P494/2012年8月の日記より

 

あまり賢明だったとは言えないかもしれない。でも他の場所には行きたくなかった。ケイトが命をかけて闘っているんだもの。シャルロットへのアドバイスは「私たちは生きてて本当にラッキーよ」だった。あの子に神のご加護を、、、、、、、、、、。ケイトは疲れていて今夜は来られないけど、今朝は私の化学療法がうまくいかなかったから来てくれた。なにか血小板の数がどうとか、少なすぎるとかで。
 
ケイトは昨日の朝8時に私と一緒にここへ来て、午後は金曜日の写真撮影のため家具を探した。のみの市でオウムを5羽も連れている人がいた。みんなケイトが大好き、とても賞賛してるのよ。髪をばっさり切って、すごく似合ってる。ケイトがくれたジョンの葬儀のブックレット。表紙にジョンの顔があった。
 
日曜日にサンジェルマン教会に行った、ロウソクを灯したくて。ジョンのために泣いて、精神科医を2軒回って頭の中を整理しようとした。

 

* * *

 

日本で津波が起きたとき、夜中にニュースを見ていたらケイトから電話があって、「東京に行こう」と言われた。ケイトの言う通りだと思った。それで翌日には日本行きの航空券を調べた。だって20年もツアーをして、セルジュにとっても私にとっても、幸せな思い出をつくったのは日本だったから。
 
デュマというフランス人がいて、何度も招待してくれた。それに「無造作紳士」[TBSドラマ「美しい人」主題歌]は海外セールスで1位を獲得したし、『アラベスク』[2002年発表のライブアルバム]のコンサートは東京だけじゃなくて日本全国で行った。だからこんなに大きな震災に見舞われた時、日本へ行って支援のためのコンサートで歌うのは当然のことじゃない? 
 
ケイトと自分のチケットを直前で手に入れた。ケイトは都合がつかなくなり、まずは私ひとりで飛んだ。数週間後に合流する予定で。プロデューサーのサシコママ〔中西幸子。海外招聘公演の企画・制作〕に、セルジュの曲をいくつか歌ってくれるミュージシャンを探して欲しいと頼んだ。それで中島ノブユキと彼の仲間たちに出会って、小さなグループを結成した。ノブはピアニストだと思ってたけど、あとで映画音楽の作曲家だとわかった。
 
グリュズマン[ジェーンのマネージャー兼プロデューサー]は、シャトレ座で津波のための大きなコンサートを企画した。ベルナール・シェレーズ〔国営ラジオの音楽ディレクター〕のおかげね、フランスの俳優や歌手が集まって2時間にわたってフランス・アンテル[国営の国際ラジオ]に生中継された。
 
それから、ほとんど忘れていたアメリカでのコンサートのために、ノブにオーケストレーションを依頼した。私たちはそのコンサートを「Via Japan(ヴィア・ジャパン)」と呼んだ。
 
コンサートの後に、福島の女性たちのために小さなブレスレット[被災地でつくられたama Bracelet]を販売した。このコンサートは大成功を収めて、日本とヨーロッパのバンドで欧州横断までした。アジアでは『Via Japan(ヴィア・ジャパン)』のアルバムを作った時のオリジナル・グループでコンサートを続けた〔メンバーは中島ノブユキ、金子飛鳥、坂口修一郎、栗原務〕。
 
フィリップ・ルリショム[長年にわたるセルジュとジェーンのプロデューサー]が全曲を選曲して、ステファン[ステファン・クレティ]は毎回サウンド・エンジニア、クリストフ[クリストフ・アルミー]は私のアシスタントで、グリュズマンはプロデューサーだった。ケイトは4月に日本へ行って福島で写真を撮った。それからしばらくして京都で写真展を開催した。

 

 

 

 

 

 

 

 

『ジェーン・バーキン日記』下巻「Post-Scriptum」 P509/2013年の日記より

 

プティ・ジョー[シャルロットとイヴァンの子ども]はシャルロットが40歳になる1週間前に生まれてきた。本当によくやったと思う、私たちみんなのやりたかったこと。シャルロットは素晴らしかった。息子のベンのバル・ミツワー〔ユダヤ教における宗教的な成熟、またそのお祝いの日を指す〕では、イゼベル〔旧約聖書の『列王記』に登場する古代イスラエルの王妃〕のように美しかった。カラフルなパッチワークのローカット・ドレスを着て、あの時は妊娠9か月。
 
ジョーはアリス[シャルロットとイヴァンの子ども]と同じ、シャルロットとは切り離せない存在になった。シャルロットにしがみついて、引き離すことなんてできない。もうシャルロットの身体と旅の一部ね。ラース・フォン・トリアーの映画では、ジョーが一緒に寝てたもの。
 
シャルロットは撮影の合間に食事を与えてた。私は思った、それが母性の究極の姿じゃないかしらって。シャルロットとイヴァン[シャルロットのパートナー、映画監督イヴァン・アタル]の最初の子供たちが巣立つ時に、ジョーは夫婦の大きな喜びとなった。
 
 
〈原注1〉グザヴィエ・デュランジェ、私が撮っていたテレビ映画の監督。

 

* * *

 

 

 

 

 

 

 

『ジェーン・バーキン日記』上・下巻/封入特典/特製函

 

著者
ジェーン・バーキン JANE BIRKIN
1946年12月14日ロンドン生まれ。1965年、映画『ナック』でスクリーンデビュー。作曲家ジョン・バリーと結婚し、長女ケイトを出産。離婚後、永住の地となるパリへ。フランスの国民的アーティスト、セルジュ・ゲンズブールと出会い、公私にわたるパートナーに。1969年に発表された楽曲「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」は各国で放送禁止処分を受けながらも世界的大ヒット。1971年に次女シャルロットを出産。歌手として、セルジュの楽曲を収めたソロアルバムのリリースを重ねる。1980年代に入り、映画監督ジャック・ドワイヨンと事実婚、三女ルーが誕生。ドワイヨン監督作のほか、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・リヴェット、アニエス・ヴァルダら名匠による作品に出演。2000年代以降も、音楽、映画、舞台の各分野で表現者としての幅を大きく広げ、2007年、半自伝的映画『Boxes』では監督・脚本を務めた。エルメスのバッグ「バーキン」の生みの親で、メンズライクなシャツにジーンズ、コンバースといったシンプルで洗練された着こなしは「フレンチシック」の代名詞となった。2023年7月16日、自宅で死去。享年76。
 
監訳
小柳帝 MIKADO KOYANAGI
ライター・編集者・翻訳者・フランス語教室ROVA主宰。訳書にジャン=クロード・カリエール『ぼくの伯父さん』『ぼくの伯父さんの休暇』、著書に『ROVAのフレンチカルチャーAtoZ』などがある。
 
書誌情報
書名:ジェーン・バーキン日記(上巻『Munkey Diaries』、下巻『Post-Scriptum』)  
著者:ジェーン・バーキン
監訳:小柳帝
訳者:椛澤有優/手束紀子/金敬淑/髙橋真理子/徳永恭子
装幀:大倉真一郎
表紙写真:〈上巻〉 Andrew Birkin/〈下巻〉Gabrielle Crawford
ISBN 978-4-309-29519-0
発売日:2025年12月2日
税込定価:19,800円(本体18,000円)
特製函封入特典:
①クオバディス × ジェーン・バーキン「オリジナルノートブック」(フランス製)
②封筒入り「オリジナルポストカード」10枚
 
本書特設サイト
https://www.kawade.co.jp/janebirkin_munkeydiaries/
書誌URL:
https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309295190/

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