【期間限定】これは、明日のこの国の物語。大前粟生『いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか』大量無料公開
2026.09.03
これは、明日のこの国の物語。
「徴兵」された作家は、それでも日記を書き続けるが――令和の作家によるあまりにリアルな〈戦争日記〉。
今冬刊行予定の大前粟生『いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか』。
作家仲間たちと公園で落ち合う語り手。仲間のひとりが最近は戦争のことばかり考えてしまう、と言う。そして語り手にもついに「その日」が訪れ──令和の日常がシームレスに「戦争」につながっていくさまを「日記」として描いた傑作小説です。
平和が同時にさまざまな場所で危機に瀕しているいま、読んでほしい「戦争文学」として、刊行を前に、冒頭21,658文字を大量無料公開します。
現在起こっている武力による争いの一日も早い終息と、この国が戦前でないことを心より祈ります。
amazon、Rakutenブックスほか全国書店で予約受付中
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三月某日
作家仲間たちと公園で落ち合う。Iさんが最近は戦争のことばかり考えてしまうと言う。誰もなにも返事をしなかったが、その数秒の沈黙がなによりもの同意になっていた。本当にありがたいことにTさんが、うちは実家が農家だからと芋とネギをみんなに分けてくれる。僕の他にも日記を書きはじめたひとが何人か。単に生活してるだけで歴史に立ち会ってる感じがしますよね、としみじみ言う。別れ際、Iさんが握手を求めてきた。「深山くん、生きていてね」と僕の名前を呼んで。縁起でもないと思ったが、僕も同じく、生きていてくださいね、と彼に言った。僕らはみんな戦争という熱に浮かされているようだった。
三月某日
定食屋で隣のテーブルの中年夫婦が店のテレビを見ながらひとつの麻婆丼を分け合っていた。今現在危機にある国の副大統領に対して「このひとほうれい線をさあ、描いてるみたいで人形みたいじゃん」と笑いながら言っていた。世界情勢の話なのにこういう感想が出てくるのが、吞気というより、もともとそういうふうにしか世界を見てこなかったことの証みたいで、僕にはうらやましかった。
三月某日
商店街のコーヒー店にひさしぶりにいってみると、思わず二度見してしまうくらい豆の値段が上がっている。中東情勢の影響だろう。もう何か月もおいしいコーヒーを飲んでいない。そういえばチョコレートもだ。基本的な衣食住以外のことにろくにお金を使えないほど物価が上がってしまった。こんなふうに、手に入れられなくなってしまったものを、昔の習慣だったな、と僕らはあきらめてしまって、いずれはなにもかも「贅沢」になってしまうのだろうか。豆を買いあぐねていると、僕が常連客だったことを覚えてくれていたのか「これだけでも飲んでいってくださいね」とお店のひとが小さな紙コップで試飲用のコーヒーを渡してくれる。必ずまたくるんで、と僕はお礼なのかお詫びなのかわからないまま言って逃げるように店を出た。こんな情勢になってから、誰かの小さな親切が心に深く沈むようになった。親切さごと噛みしめるようにコーヒーをちびちびと口に運んで、谷中霊園で猫を探した。ここ一年ほど何度も顔を合わせている、額にMの模様の入った茶褐色の少し鈍臭くてたぬきみたいな猫は今日も墓石の上で丸まっていた。小さな親切とか、そういうひとや動物の存在とか、本当に素朴なことでこの頃は胸がいっぱいになる。
三月某日
ここ一週間で国がふたつ併合された。つまりなくなったということだ。大変な事態なのに、「国」という言葉を通すと僕にはうまく実感が持てなくなる。ひとが何人死んだかよりも「国がなくなった」の方がゲームっぽく感じられて、ヤバいことだとはわかりつつも、そういうものなのか、と思ってしまう。このあたり自分の認識の限界というか、言葉でものを考えることの壁みたいな気がする。いや、ひとが死んでいることを直視したくなくて、話を国の問題にすり替えて理解してしまうのかもしれない。
三月某日
「人間ががんばって積み上げてきたものなんてすぐになくなる」と同居人のFが言った。積み上げてきたものがなんなのかなんて聞きはしなかったが、言おうとすることは僕にもわかった。それは、人間性とか理性とかそういうものだ。戦争ばかり。こんなにも人間に人間性がない時代を僕らははじめて経験している。Fは本をダンボールに詰めていて、最初は絶版の人文書など残しておくものを分けていたけど、あとで見てみるとぜんぶ「売るもの」になっていた。
三月某日
喫茶店で依頼原稿を進める。こんな情勢下で小説なんて書いて発表できるということが心底不思議だ。冗談みたいな場所に迷い込んでしまったような居心地。他の客は新聞だったりノートだったり、なにかしらの紙に向かっていた。出版社の寮が近くにあるから、たぶんそこの社員なのだと思う。
昼過ぎくらいに大きな声が聞こえてきて、顔を上げて窓の外を見ると、車道を占拠して一〇〇人くらい?のデモ行進が行われていた。ガラス越しで声はぼやけていたが、ちゃんとマナーを守ろう、わがままを言わず国のために尽くそう、命を懸けて国を守ってくれている軍人たちに感謝し贅沢をやめよう、我慢ほど美しいものはない、対立をやめてひとつになろう、ということが言われていた。通行人の多くは彼らに無関心だった。僕も、他の客もすぐに各々の仕事に戻った。こうやって交わらない層によって国ができているなら、なんだって言ったもの勝ちなはずだ。だったら僕は彼らになにか言い返すべきだったが、言葉が口から出てくるより先に脱力するばかりだった。そうしてしまう自分にもどうかと思うけど、実際、誰にも目をつけられないように地味な色味のものばかり身につけるようになった。
四月某日
Fと散歩。家から三〇分ほど歩いたところにある川沿いの大きな公園まで。途中、税務署のそばを通ると太い桜の木が花びらを満開にしていて、「税を吸って大きくなった桜だ」とふたりで言い合う。公園にはたくさんの犬がいた。犬は戦争のことなんか知らなくて、そういう生き方もあるのだと犬たちといると実感するのか飼い主たちの表情はなごやか。そのことで犬たちはより一層うれしくなっているみたいに身体を弾ませていて、Fだって犬を見てひたすら笑顔でいる。僕も少し気分が軽い。しあわせってこういうものだよな、と心の端からこぼれてくるよう。
四月某日
Iさんから電話。ついに今朝届いたとのこと。実は僕も届いてましたよ、と言うとIさんは驚いたようなホッとしたような声を出した。僕は、せっかくだから時間も合わせましょうかと提案してみたが、Iさんは「それはピクニックみたいで嫌だ。ちゃんと悔しがりたい」とのことだ。
五月某日
Fと散歩しながらIさんの話になる。僕と作家デビューした時期が近く、確か三つ上で三六歳。Iさんは一貫して「動物の死」をテーマに扱ってきた。Iさんの小説の、生き物や環境の音に敏感というか、そうしたものに影響されて細かく振動しているような文体は、ときどきなにか動物の鳴き声そのものみたいな独特なリズムを刻む。東京で生まれて東京で暮らしながら、どうしてこんなのが書けるのだろうと僕はいつも不思議だった。Iさんの小説では、動物へのあたたかさを発揮しているときでさえ人間は常にどこか不気味さをまとっている。それは僕らが動物にとって徹底的に他者であることの証なのだと思う。他者同士としてひとと動物の命の交流を描くIさんの作品は、まだ知る人ぞ知るという感じではあるけれど、これからの世界に必要なものだ。こんな作家さんが戦争に取られてしまう。悔しい、悔しい、と僕とFは言い合った。公園のベンチに座って風景を眺める。桜の花びらはすっかり緑の葉に入れ替わっている。スズメが乗った細い枝がしなだれていた。今日も犬たちは元気だ。僕にとってもFにとっても、犬や猫は、その字や響きさえ含めて無条件に愛でてしまう存在なのだけれど、動物を見て癒されるなんてこともIさんのストイックな視点から見れば安直だったりするのだろうか。いつの間にか夜になっていた。
五月某日
なんとなく昔書いた小説を読み返していた。ある時期から僕は、私小説というのともまた違うと思うが、できるだけそのときの実際の体験を小説に落とし込んで、リアルの配分を多めにフィクションに入れ込むようにしている。読み返した小説は五年前のもので、当時は僕が住んでいる東京の谷中のあたりにも外国人の観光客がたくさんいた。よく言われていることだと思うが、旅行は戦争の反対側にある行為だ。その頃だって海外からの旅行客への不満は世論としてあったけど、そのことさえ今となってはなつかしい。
五月某日
散歩中、立ち止まって日記のためのメモをつけていると、ひとりのおじさんに話しかけられる。すぐ目の前のお寺の仏像を指さして「でっかいねー」と、どうも僕に向かって言っていたから、そうですねえ、と返事をしてしばらく世間話をした。安くていい居酒屋。生活の工夫・節約。おじさんの息子はどうも僕と同い年らしくて、海外で駐在員をしている。「こんなご時世なんだから早く帰ってきて結婚すりゃあいいのにね」と彼は言った。それから、お寺の御朱印を集めていること。株をやめたら血圧が下がって、神社仏閣巡りを趣味にするようになったそう。おじさんが住んでいる町では消防団に入るひとが増えたみたいだ。「戦争なんだから、やっぱり隣近所は助け合わないと。神さまも仏さまも見てくれてるんだからねえ」素朴で、ただ誰かと会話がしたいだけで、別になんの他意もないだろうことがよくわかる感じ。
「戦争なんだから」っていう言い分は本当に便利だなとつくづく思う。その口実によっていろいろなものが共同体の役に立つよう盛り上がっている。みんな国のためにがんばってるんだから自分ひとりわがままを言ったり贅沢したりするのはよそうなんてことをどこでも耳にする。
もし、「戦争なんだから」にいい点があるとすれば、プライバシーの垣根のようなものが少し低くなってきたことだろうか。知らないひと同士が立ち話をしている光景をこの頃よく見るし、僕も本当になんの気なしに話しかけられるようになった。世間話なんかしていると、他人とのこうした壁のなさこそ僕はずっと求めていたのかもしれないな、なんて思ったりする。他人だというだけでひとのことを怖がったりしたくなかったんだ、と気づいたりもする。でもそれだって結局は、外に「敵」や「敵国」っていうより大きな壁を作ることでもたらされた一体感だ。この一体感に、日本で暮らす外国人は含まれていないし、おじさんが話しかけてきたのも僕が日本人だからだろう。訂正。「いい点」では全然ない。厳しい気持ちになる。
五月某日
大学病院へ。いつだったかのワクチン接種を思い出す混雑具合。エントランスから見上げると、男のひとばかりが吹き抜けに面した手すりに沿って列を作っている。物静かに連なっている様子は巨大な一匹のイモムシかなにかにでも喩えられるかもしれない。僕もそのひとりだった。中肉中背の三〇代前半の作家という個人事業主として列に埋もれていた。徴兵の対象になるのは一八歳から四五歳まで。遠目から見ると列の先の方のひとたちはなんだか姿勢がしゃんとしていた。先頭のあたりに軍人がいて、その雰囲気に誰もかれもがあてられていたのだ。
徴兵検査自体は拍子抜けするくらい簡単に終わった。身長体重。関節の可動域をチェック。視力・聴力テスト。色彩認識が一般的かどうかの確認。
どういうわけか、これが徴兵検査であることへの恐ろしさなどは実際きてみると感じなかった。やりとりのほとんどがあまりにお役所的だからだろうか。僕は、それこそやっぱり、コロナのワクチン接種のときのような気持ちだった。面倒臭さはあるが、みんながしていることなのだから仕方ない、とでもいうような。しぶしぶ税金を払うのとも似た感覚だ。国が決めたことだからどうにもならないのだ、と。
気になったのは軍人の存在。彼らは、なんだかおかしかった。
列の前の方にいた誰かが、通知書類を係のひとに渡すときにぼそっと「よろしくお願いします」と言ったのだ。するとそばにいた軍人が、「声が小さい!もう一度!」と言った。すると、少し大きな声で「よろしくお願いします」「もう一度!」「よろしくお願いします!」「まだまだ!」「よろしくお願いします!」「それで国を守れるのか!?」「よろしくお願いします!」「ためらったら即死だぞ!」「よろしくお願いします!」「はい次!」すると次のひとは、さっきのひとよりは最初から大きな声で「よろしくお願いします!」と言い、三回目で通された。そこからあとのひとは怒られたくなくて要領を摑みはじめたのだ。僕もそう。声が小さくてられるよりは、たとえ応じることこそが屈辱的だとしても、そんなのはただ自分の気持ちの問題だから、大声を出して認められる方がマシだと思って。
よろしくお願いします!と叫びながら、僕の頭には亡くなったおじいさんのことが浮かんでいた。昭和三年生まれの僕のおじいさんは、日中・アジア太平洋戦争に従軍した軍人だったらしい。らしいと言うのは、僕が高校を出るまで実家にいた間も、たまに帰省したときも、彼の口からは一度も戦争の話を聞いたことがないからだ。その代わりみたいにおばあさんが、「えらかったんやでえ。海軍に志願しはってな」と言うのを聞いた記憶が僕にはある。その記憶のなかで、特攻隊員だった、ということも言われていたはずだ。おじいさんは未搭乗で帰還したのだと思う。それでも叫んでいた。僕が子どもの頃だからあの戦争が終わってから五〇年以上は経っていたのに、おじいさんは悪夢を見てうなされていて、戦地か、日本軍の訓練所かどこかにいるのか、死体でも見たのか、誰か殺されたのか、殺したのか、まだ戦争のなかにいるみたいに叫んで、ときどきそれは暴力として彼の体の外に現れた。
そのことを僕は文芸誌の夏の戦争特集にエッセイとして書いたことがある。
おじいさんは戦争トラウマによるPTSDだったんじゃないかと、兵士たちの従軍記や回想録を僕という作家が読みながら、彼らの苦しみにこの体ごと近づいていこうとするものだ。
がああああ、うううう、っぞおおお。おおおお。
おじいさんの叫びが、感染するように僕にも伝わっていった。一三〇〇〇字ほどのそのエッセイを書くなかで随分体調も悪くなった。率直に言って、トラウマの代理受傷の過程にいたのだと思う。
参考資料として戦争関連の本をたくさん読んだ。だから、他のひとよりは戦争に対して冷静だという自負だってある。でもこの冷静さが、自分自身を足踏みさせて一歩を踏み出させないための足枷になってしまうんじゃないかと僕は恐れている。ときには、冷静になって考えるよりも行動の方が大事なタイミングがあるはずだ。いや、本当はずっとそうだったのだ。僕らは、僕は、考えているばかりで、大事なときに行動することができなかった。その積み重ねで今こんなことになっている。
五月某日
霊園まで散歩。栗の花のにおいがきつい。どうしてかこのにおいを嗅ぐと頭痛がしてくる。墓石の上に「M」の猫が座っていた。なんとなく僕もその前に座ってみた。暑いね、とか、風が気持ちいいね、とか、そういうことを話してみる。撫でさせてもらえるかなと手を伸ばしてみたが、逃げてしまった。
五月某日
いつから戦前で、いつからが戦中だったのだろう。一〇〇年後の教科書を開いたとき、それらはどちらも今現在に生きる僕が思うよりずっと前のことなのだろうな、という気はする。特に戦前はそうだろう。身近なところに戦争の芽はずっとあったのかもしれない。対立。分断。おまえはどっちだと迫るのは戦争っぽい態度だ。それを知りながら僕らは、「おまえはどっちだ」から抜け出せないままここまでやってきてしまった。
五月某日
検査から一週間と経たずに結果通知が届いた。Fが家にいない間に開いてみる。合格らしい。名前の横に「(D+)」と書いてある。昔の戦争で言うと、乙種合格といったところだろうか。
通知によると二週間後に某所の訓練所へいけとのこと。そこで八週間の訓練期間を終えたら「ふさわしい所属先」へ配属されるらしい。一応、戦地へ向かう以外の選択肢もあるということだろう。あらゆることへのあきらめと、訓練したところでこんな素人が戦力になるとでも思っているのかという、嘲りにも似た気持ち。
検査の通知といっしょに、保険についての書類と、でかでか「祝・ご入隊」と書かれた封筒も届いていた。中身を見てみると一本のボールペンと薄いタオル。怒りを超えて脱力する。本人には黙って保険金の受取先としてFの名を記す。
夜になって、これさあ、合格だって、と言ってFに結果通知を見せた。どうやって伝えようか何時間も考えてしまった。どうしたって痛々しくなる。いっしょに開封すればよかったのだ。Fは泣いてくれた。僕は泣けなくて、破れかぶれみたいに笑ってしまう。
五月某日
籍を入れた。僕が軍人になって戦地で死んだ場合に、婚姻関係でいないと遺族年金がFに入らないからだ。こんな理由で結婚することをFは嫌がっていたが、僕が徴兵検査場でFの好きなミュージシャンを見かけたと言うと、死が彼女なりに迫ってきたのか、しばらく考えてから折れてくれた。区役所には婚姻届を提出するひとたちが列を作っていた。僕らと似たような理由のひとたちは多かっただろう。今年は結婚率が上がる年になるかもしれない。未来から見たとき、このことはどう受け止められるのだろうか。ロマンチックな出来事だとでも思われたりして。実際、理由がどうであれ戦争にいく前に結婚しておくなんて、ロマンチックでしかないのかもしれない。
そのあと、奮発してなにかいいものでも買おうかとFと街に出たけど、セキュリティが常駐しているような高級店しか営業していなくて、代わりにコーヒー屋で豆を買い、なにか大事なものを惜しむように家でゆっくりミルを回して、ベランダにテーブルと椅子を出してコーヒーを飲んだ。
五月某日
もうすぐFの休職が明けるけど、そのときには僕はもう訓練所に入営している。僕が大変なのだからとFは無理に元気を出してくれていて、「私がこの家を守るからね」なんて言っている。
入隊してもなんとかして日記を書き続けるつもりでいるが、なにがあるかはわからない。一日一日を大事にしたい。
五月某日
朝、何気なくテレビをつけたらニュース番組のあとの数分のアニメのコーナーが流れていた。エンディングがいかにも牧歌的な絵描き歌だったのだけれど、主人公のハチマキを巻いた犬のほっぺの赤い丸が描かれるときに「日の丸」がどうのこうのと歌われていて、その様子もまた牧歌的だった。戦争がなければ歌の中身は違っていたはずだ。国を愛することは牧歌的で素朴なことで、それを否定するつもりは今さらない。ただ、本当に尊重されるべき愛国心って、戦争や戦時のムードなんかとは無関係に出てくるようなものなんじゃないかと、どうしても思ってしまう。
五月某日
Fと散歩。霊園にいったが猫は見つけられなかった。Fが、「深山がいっちゃったら私があの猫の様子チェックするから安心してよ」と言ってくれる。
六月某日
ここ何日か自分のことをうまく考えられなくて、だいぶふわふわしている。昔から自分のことを語るのは苦手だったけど、従軍というかたちで死が近づいてくると、正直あきらめの気持ちばかりがあり、この大きなあきらめの前では命の惜しさだったり反戦の気持ちだったりはとても小さくなってしまって、僕の心のなかにあるものと言えばFへの心配ばかりだ。僕がいなくなっても元気でやっていてほしい。この気持ちが、戦争によって作られたもので、同じようなことを考えながら出兵するひとが大量にいるということには、ほんの少し悔しさがある。その悔しさは、ほんの少しでしかないのだ。今から思うと、僕は徴兵検査の日程通知がきたときから、戦争という官僚性のなかに組み込まれてしまっていた(いや、この時代に「男」として生まれたときからかもしれない?)。システムのなかの駒としてあきらめながら、あきらめていることにどこか安心している。そんなのは嫌だけど、しっかり反戦を訴えられるくらいの元気がない。
六月某日
軍隊初日。なにもできないほど疲れているが、無理をしてでも書かないといけない。戦争に心を折られるわけにはいかない。ほとんど使命のようにそう思う。
午前中に家を出発。梅雨の気配のする曇りの日。駅の改札前で僕はFに向かって、帰ってきたら新婚旅行にいこうねと言った。やっぱり、ロマンチックすぎると思いながら。
車両は入隊者専用になっていた。もう死んでいるみたいに誰も言葉を交わさない。モニターには僕らを咤激励する映像が表示されている。「国のリーダー」の演説、白いタスキをかけてばんざぁーい、ばんざぁーい、と僕らを応援する様々な世代の芸能人。子どもたちが誇張されたあどけなさで「兵隊さんありがとう」と言っている。
別の訓練所に入営するIさんから、「とにかく死なないように」とメッセージがきていた。スマホなどの電子機器類はすべて入営時に預けることになっているから、Iさんと次にやりとりができるのは除隊になってからか、もしかしたら戦争が終わってからかもしれない。お互い無事でいましょう、と送った。
部屋と装備をあてがわれた三〇分後には運動場で入隊式。同時期にここに入営したのは八〇〇人ほど。誰もまだ軍服を着慣れていない。ここでの基本的な行動は班ごとで、ひとつの班は一〇人。その上に班長がひとり。徒歩教練、銃の扱い方、分解の仕方、手榴弾の投てき、銃剣を使っての対人格闘、そういったことの基礎と兵士としての精神をこの期間で叩き込むのだという。そういった説明を聞きながら、僕は妙に冷静に、だいぶ泥臭いんだなと考えていた。ひとに向かって銃を撃つ場面なんて本当にあるのだろうか。今時の戦闘というのはドローンや無人機を使ってモニター越しに殺し合うものだと思っていたのだけど、それはそれである種の「戦争のイメージ」として作られたステレオタイプなのだろうか。
式の終わりに所長だという初老の男性がスピーチをした。「きみたちは軍の動向や是非について考える立場にはない、ましてや此度の戦争の是非などはもっての他だ」とほとんど怒鳴るように言った。
ここ何年かで戦争はすっかり日常になってしまったけれど、軍隊はバッシングを受け続けている。僕の本当にざっくりとした把握では、世のなかの意見は、日本は巻き込まれただけだという層と、そこがどうであれ国を挙げて重大な加害行為に加担していることには変わりなく今すぐ武器を捨てるべきだという層と、そんなこと言ったって戦争なんだから勝つしかない、いい悪いとかそんな問題ではもはやないのだ、という層と、命を張ってくれている軍人を応援しよう、と半ばアイドル視している層があるように思う。ただそれは、わざわざ表立って意見を言うひとたちだ。一般的な実感として多いのは、なんでもいいから早く終わってくれ、そして景気が上向いてくれ、というひとたちなんじゃないかと思う。
僕は軍隊が存在するようになったこと自体に気持ち悪さを抱えてきた。でも、そのなかに今は自分がいてしまっている。このことをどう考えたらいいのか。「きみたちの使命は考えることではない。国への忠義を尽くすことだ」と所長は言った。
式のあと、まずは体操だと言われて八〇〇人一斉に異常な回数の腕立て伏せをやらされた。それからまいったのは「殺す」だ。ふたりひと組になって、みっちり二時間ほど相手が持っているミットに向かって殴ったり蹴ったりさせられたのだけれど、そのときに「殺す」と叫び続けなければいけない。他の国の軍隊も同じようにしているのを以前NHKのドキュメンタリーで見たことがあった。そのときは絶句しながらその不条理さに呆れていたが、現実問題それは不条理でもなんでもなく、合理性の果ての「殺す」なのだろう。「殺す」を中心に常識を回さなければいけないのが軍隊なのだ、と僕は、混乱する気持ちをこの状況にチューニングするみたいに考えた。まず、叫ぶなんてことが日常的ではない行為だったから、みんなも僕もすぐに声が嗄れたり、裏声になったりした。泣いているひともいる。恥ずかしさばかりが最初はあった。頭のなかで、どうしてかおじいさんの声がした。がああああ、うううう、っぞおおお。おおおお。なにもかもがみじめだった。それでも僕は、たった何百回か叫んだだけで、「殺す」と口から出すことも「殺す」と書くことにも抵抗感がなくなってきているのを感じる。求められているのは、この慣れを行動として標的に向けることだ。
きまりとして班長に提出するよう義務づけられている日記には、今日やったことと、「疲れた」ということばかりを書いて提出。筋肉という筋肉がちぎれて、体全体が糸くずを入れた袋みたいにぐにゃぐにゃしている。今にも意識を失ってしまいそう。ダミーではない、この本物の方の分厚い日記帳はナイフで切り裂いたマットレスのなかに隠すことにした。囚人の気分。毎日はつけられないかもしれないが、隙を見てできるだけ記したい。すでに日記を書くことだけがここでの唯一の楽しみになっているが、見つかったらただでは済まないだろう。「殺す」の時間、あまりの疲労に動けなくなった何人かがバケツで水をかけられたり、クリケットバットのようなもので叩かれたりしていた。
六月某日
六時起床、点呼、体操、食事、清掃、八時に整列して国旗掲揚。
「国のリーダー」から入隊した軍人へのビデオメッセージがあり、僕らが直立不動でそれを見る姿をマスコミ向けに撮影されるという虚無の時間。
今日は四〇人単位での小隊に分かれての行動だったが、しばらくはまた腕立て伏せと「殺す」をやらされる。しごきもひどい。通過儀礼なのだという気がする。きのうは、多くの同僚が泣きながら「殺す」と叫んだり、おかしくなってしまったのか笑いながら「殺す」と叫んだりしていたが、今日は最初から多くのひとが無表情でその言葉を発していた。僕もそうだったのだろうか。気温は二〇度ほどだったが、熱中症になるひとが多数。
宿舎について。僕に割り当てられたのは一〇人部屋(みんな同じ班で階級は二等兵)の二段ベッドの下段。パーソナルスペースとしては、ベッドと、入口側に人数分並んだ細長い鉄製のロッカー、 ベッド脇の床三〇~四〇センチ四方、それだけだ。ベッド下には、雨具、防寒具、携帯天幕、食糧、携帯浄水器、水筒、飯ごうなどが詰め込まれた背嚢。ガスマスク用のと、救急セットのポーチ。
ロッカーのなかはみんな一様に同じで、上段には正面を向いたヘルメット。顎紐は決まった長さで垂らすこと、だそうで、ヘルメット脇の小さく畳んだ手袋とネックウォーマーは気が滅入ることに誰かのお下がりで毛玉がぽつぽつついている。中段の予備の迷彩服は畳み方が細かく決まっている。下着や靴下は色の順番を揃えないといけない。下段にはプレートを入れたままの防弾ベスト。これも、立て掛ける角度を指示されている。歯ぎしりしたくなるほどあらゆるものに秩序がつきまとっていて、これが「兵士としての精神」だというなら、本当に僕には向いていない。でも、これを好むひともいるのだろう。
「個」ではないかたちとして生きたいひとや、そのかたちでなければ生きられないひとがいるというのは想像に難くない。軍隊にいるおかげで実存の苦しみのようなものや、将来への不安を回避できているひとはたくさんいるはずだ。僕はこの環境を憎んでいるが、どういうひとだっているという当たり前のことを忘れないでいたい。
六月某日
午前中に銃の受領式があった。小銃の番号を中隊長が声高に読み上げ、それを賞状のように受け取って胸に抱く。なんとなくつめたい手触りだと思っていたが、日光に焼かれて体温みたいに生ぬるい。捧げ銃の構えで式が終わるのを待っている間、僕はそわそわとしていた。心底嫌だと思ったのは、水鉄砲を持つような無邪気さで、これをひとに向けてみたらどうなるのかな、と考えている自分が心のどこかにいたことだ。
式が終わると小銃はすぐに倉庫に仕舞うことになった。安堵と、やっぱり少しの、もったいないような気持ち。それが自分の持ち物であるならば、そのモノの役割を行使してみたいとでもいうような衝動。そういう感覚に襲われたのは僕だけではないのか、小隊の面々は今日一日、躁っぽいというか、熱に浮かされたみたいにテンションが高かった。
午後に座学。支給された八九式小銃は、いわゆる「アサルトライフル」らしい。引き金一回で一発か引きっぱなしで連射かを切り替えられ、反動の強すぎない中間威力弾で、素人でも連続射撃ができ、弾倉を叩き込むだけですぐに次の射撃に移れるのが特徴とのこと。教官は、「ゲームで名前を知っているひともいるんじゃないかな」と言っていた。僕はまさにそうだった。詳細なんて知りたくなかった。ゲームで聞いたことのある名前というので充分だった。
六月某日
まだ迷彩服は糊が強く、肌に擦れて痛くなる。いつか、これが似合うような日がきてしまうんだろうか。迷彩服の下に、ドッグタグを首から下げている。二枚一組で、もう一枚はベストの内ポケット。僕の番号は、GJA-29-31782。点呼の際には番号で呼ばれる。
一〇キロの行軍。小雨が降るなか、小隊の四〇人で運動場の外周をひたすらぐるぐると回った。訓練所の上階にある一面ガラス窓の部屋から、どうもえらいひとたちが僕らのことを眺めていた。見世物になった気分だ。背嚢を背負って、しかもブーツを履いていることで僕は行軍が終わる頃には疲労困憊だったが、なんだこんなものか、といった感じであっけらかんとしている連中もいた。その体力をうらやましく思うと同時に、順応すればするほど過酷な戦地に送られるのだろうと思うと、なにが最善でなにが悪手なのかわからない。徴兵検査を受ける前に腕でも折っておくんだった、と今さらながらに思う。なんなら今からでも遅くない。でも、本当に自分がそれを実行しているところは想像できない。これは勇気の問題だろうか。腕を折ってでも徴兵を拒否するくらいの主体性をみんなが持てていたら、軍隊は立ち行かなくなって終戦が早まったりするんじゃないか。いや、しかし、この考えは敗戦を肯定するようなものなのか?誰かに話せば、僕はたちまち非国民として吊るし上げられるのだろうか。わからない。軍隊のなかにいて思想を持つということに混乱を感じはじめている。「きみたちの使命は考えることではない」という所長の言葉。規律、訓練、装備。僕らから考えることを奪うのにもってこいの環境。
六月某日
班の連中は僕を含めここ数日終始吐きそうな様子。部屋に帰っても装備を整理したあとはみんな気絶するように眠るか、眠れずにバレないように泣いているかだ。最年少の井桁くんは一八歳。三〇過ぎの僕や年長の連中は、そんな若さで、と彼に同情しているが、本人はケロッとしている。受けてきた教育が僕ら世代と違ってより軍国主義的だというのももちろんあるだろうが、井桁くんが言うには、寝る場所と三食保証されているのだから、「軍隊の方が普段の生活よりマシ」とのことだった。彼のひとつ上の橋本くんもうなずいていて、僕は深くうなだれてしまった。その貧困は戦争のせいなんじゃないか、そんなことを言ったところで、本人たちは渦中にいるのだから意味なんてない。戦争が彼らから生活を奪って、戦争が彼らに生活を与えている。
六月某日
はじめての休日。午前中、班にひとつバリカンを渡されて髪を刈り合った。橋本くんの頭のかたちが本当にゆでたまごみたいにきれいで、みんなでわしゃわしゃと撫でまわす。僕の頭はでこぼこしているらしい。丸坊主にするのは中学生のとき以来だ。中学のときのバレーボール部の顧問は、たとえばトス回しなどをひとりが何度もミスするとボールを思いきり体にぶつけてきたりした。はっきりとあれは体罰だったが、当時はまだギリギリ「躾け」の範疇の行為だと周囲からもみなされていた気がする。部活も、学校生活も、今から思うととても軍隊的なものだった。実際、日本の集団生活というものはある程度軍隊に根差すところがあるだろうけど、その根はどこまで辿ることができるものなのだろう。僕らはもしかすると、自分自身として自由でいることよりも、上から締めつけられることの方を好んでいるのかもしれない。
午後は予防接種を受けるようにとのこと。戦地で病気にならないためだ。注射の痛みで、訓練所にきてからの憂鬱が少し紛れる。
六月某日
二週目。一日サーキットだった。装備着用でダッシュし、有刺鉄線の下を腹ばいでくぐり、ダミーの弾薬箱を運搬。垂直の壁を縄一本で登って、下りて、三〇メートル匍匐前進すると、目の前には藁でできた人型の的がある。これを銃剣で突く。その工程の頃には僕はもう倒れそうだったが、「やり直し!」と上官に何度も言われ、何度も銃剣を構えて突進した。「やり直し!」「やり直し!」なにが正解かわからない。気合いっぽいのが望まれているのだろうか、などと考え、「うわああ」と叫びながら突進してみたりした。こんなふうにその場その場の審査に「合格」したり、気に入られたりするために、大事なものをどんどん捨てていく。
小隊の連中は上官から、「それでも男か!」とやたらとなじられた。こうした前時代的なかけ声の効果は絶大だ。「男」の役割以外おまえには求められていないのだと疲労困憊の肉体に突きつけられる。つまりそれは、兵士であれ、与えられた役割に徹しろ、他の可能性をすべて捨てろ、おまえの存在意義は男らしい兵士になることだけなのだ、ということだ。役割に徹するのが、ここではつらさを緩和するいちばんの手段だ。
六月某日
ひたすら行軍で気が狂いそう。靴擦れや背嚢の肩ベルト部分との擦れで肌が赤く爛れたようになっている。この世から摩擦を失くすにはどうすればいいかと真剣に考える日だった。
六月某日
午前に座学と手順の確認ののち、ダミーのものを使って手榴弾の投げ方を練習。距離感の把握。投てき線の前に立ち、前方の土嚢で囲まれた区画に放り投げたら即座に伏せる。起き上がるのが一秒早いという理由で、見せしめとして教官からあの棒で叩かれた。午後は「殺す」と、雨が降るなか行軍。
就寝前に宿舎の廊下で他の班の岩下とすれ違ったが様子がおかしい。側頭部を手のひらで何度も叩きながら、ぶつぶつとひとり言を言っていた。大丈夫かと声をかけたが、こちらを認識できていない様子だった。
六月某日
これまでの装備に、「本番」を想定して三日分の携帯食糧、折りたたみ式の携帯スコップ、弾薬を加えての行軍。三〇発分の弾が入った弾倉をベルトに五つ装着している。それと軽機関銃の弾をひとり二〇〇発分。普段の行軍より優に一〇キロは重い。疲労で脚が上がらなかった。自分は本当は木なのに無理に歩かされているのだという気分。
六月某日
射撃場での基礎射撃。小銃に触れたのは受領式ぶり。人型の静止目標に向かって、伏せ撃ちで、一発ずつ、ゆっくり、合計で三〇発ほど。発砲すると、銃口からヒュッと微かに顔を突きさすような熱風が吹いた。それから火薬の空気を焦がすにおい。まだ鼻のなかに残っている。鼻うがいがしたい。反動による肩の痛みが激しく、すでに軽くあざができている。
ようやく撃てた、という気持ちが全くなかったと言うとウソになる。それと同時に、撃ち終わってしまうとなんだか拍子抜けの感覚もあった。目標にあてられるか、あてられないか、それだけの原始的なことだった。僕は自問する。目標を狙う際、原始的な楽しさを感じていたんじゃないかと。命中率も命中位置も中の下というところだった。三〇発のうち何度、それが本当は生身の人間なのだと想像することができていたか?
六月某日
一日中雨。休日だが、気分はよくない。夢のなかでおじいさんが叫んでいた。がああああ、うううう、っぞおおお。おおおお。ベッドに仰向けになったまま。その夢の視点は、固定カメラみたいに一定。叫び続けるおじいさんをただ見ていただけだ。
寡黙なひとだった。家族以外と話しているところを見たことがないし、友だちに会いに出かけたりといったことも僕の知る限りはなかった。そのくせ、わけのわからないタイミングで激昂する。医者なんか絶対いかんぞお、とおばあさんに怒鳴り散らしていたことだってあった。
特攻隊員だったかもしれないおじいさん。人生のすぐ先に「死」が戦闘機というかたちをとって絶対的に待ち構えていたということ。生きながら「死」という彼岸に特攻兵はいたのだ。そうじゃないひとたちにとって彼らは、それこそ向こうの河原の花みたいに純粋で美しいものに見えたはずだ。そんな見方ほど気持ちの悪いものはない。ひとりの青年を死ぬよう追い詰めておいて、他のひとたちはそれを「美しい」って言うんだから。
でも、そうやって他者として扱われてしまうことは、特攻隊員たちには恐怖よりも安寧をもたらしたのかもしれないとも思う。あとは「死」に向かうだけ、それだけで人生を「美しく」終えられるのだ。そうした極限状態のなかで、これから戦闘機に乗って顔も知らないひとを殺しにいくのだと、まともに考えられていたひとはどれほどいたのだろうか。
六月某日
三週目。午前も午後も徹底して個人戦闘訓練。短距離ダッシュ、伏せる、這う、遮蔽物に身を隠す。銃を構えての姿勢変換(伏せ、膝、立つ)。それらを何度も何度も反復させられる。おかしくなってしまいそうだと思って、僕は頭のなかで「生きる」「生きる」「生きる」とずっと唱えていた。
六月某日
個人戦闘訓練(今週はこればかりとのことだ)。従順さにしがみつかなければ、僕らの振る舞いはたちまち下手な演技になってしまう。武装をして「敵」を気にしながら、ときに戦争のゲームみたいに遮蔽に向かって身を屈めて走ったり伏せたり銃を構えたりするなんていうのは。大事なのは俯瞰して冷めてしまわないことだ。命令に没入することだ。兵士としての僕はそう思う。でも作家としての自分は葛藤し続けたがっている。
七月某日
四週目。今週から、「殺す」が週のはじめに固定になった。この言葉になにも思わないわけではないが、少なくとも特別なものではなくなっている。選択肢のひとつとして他の多くの言葉と同じフィールドにある。筋肉が増えたのか、入隊当初と比べると疲労感が少しはマシ。それだけで少し自己肯定感のようなものさえある。自信がつくことでなにを得てなにを忘れていってしまうのか。
七月某日
応用射撃。この間は伏せ撃ちだけだったが、今日は膝撃ちと立ち撃ちも少し行う。今回の目標は複数。遠近感が出るよう設置されていたり、半分だけ見えるかたちで遮蔽に隠れていたり、突然飛び出てきたりする。どれから優先して撃つかの判断力などを見られていた。こうして文字で書くとすごく単純だが、小銃を持った状態でのマルチタスクは正直言っておっかなかった。慌てて、そのことでひるんでしまうと、そのひるみのなかに兵士という役割が解除されるような瞬間が訪れるのだ。なにでもない、ただの一般の人間というか、ただのもろい身体としての自分に戻ってしまったような。そんな状態なのに銃なんて持っているから、さらに慌ててしまう。命中数も命中位置もひどいものだった。
七月某日
スコップを使ってひとりぶんの塹壕掘りを練習させられる。「深さ優先!広げるな!」「胸まで隠れろ!」とのことだった。ある程度まで掘ると土のにおいは湿気がこもった感じというか、カビっぽいような感じで「地下」という印象。息苦しさがあって、汗と混じるとにおいは自分から発生しているよう。僕のなかに土が入り込んで一体化するみたいでだいぶ不快。掘り起こした土を前方に厚く盛って遮蔽とする。握力が戻らなくて夕食時に何度も箸を落とした(芋ばかりの豚汁)。
七月某日
休日。Fからの手紙を受け取る。すでに開封の痕があり、これはいわゆる検閲なのだろうか。Fによると訓練所の外では「お腹が膨れるからなんでもあんかけにしてたべる」のが流行っているらしい。どうも額に「M」模様があるのはキジトラ猫の特徴とのこと。手紙は現状を報告するような淡々としたものだった(あまりFらしくなく、もしかして検閲されて届かなくなることを避けたのかも、という気がする)が、とにかく無事ではいるようでひと安心。猫の様子も変わらないとのことだった。
僕の返事はあれでよかったんだろうか。「軍隊にも楽しいことは意外とあるよ~」なんてウソを書いてしまった。僕が明るくしていればFも明るい気分になれるかもしれないなんて考えたのだ。しんどさを伝えてもどうしようもないと思ったのは本心。
七月某日
五週目。猛暑のなかで「殺す」の時間。午後から手榴弾の手順訓練。投てきの一連動作を小隊で横並びになって一斉に同じリズムで行う。投てきする際の逆の手の角度だったり、脚を広げる幅などもひどく厳密。振りつけというより、組体操かなにかの授業を受けているような感じ。それから投てき練習。これが、子どもの頃のごっこあそびだったらそこそこ楽しかったのかもしれない。小隊のなかでも、「敵」の姿を「敵」のまま想像できているやつはどの訓練でも成績がいい。つまりは、戦争のプロパガンダを真に受けて憎しみやシリアスさを構築できているということだ。僕には難しかった。武器を向ける相手を「敵」として想像することがうまくできない。ただの人間同士なのに、と思ってしまう。この考え方を持ち続けていたいし、同時に、こんなのではまっさきに死んでしまうだろうとも思う。
七月某日
「バディドリル」という名のふたりひと組での戦闘形式を訓練する。ひとりが撃って(当然空砲だが)その間にひとりがドラム缶や土嚢など遮蔽物のところまで動く。それを交互に繰り返して前進する。はじめはドタドタと雑にしか動けなかったが、他の組がやるのを見続けていると鏡を前にしているようでだんだんわかってくる。指示通りに身体が動くよろこびというのを感じてしまう。それは、なにも考えなくていいということの快楽かもしれない。夕食はもち米のピザ(具はやはり芋ばかり)。班の佐原がタバスコをかけすぎてくちびるを腫らしていた。そのことに、みんなといっしょにお腹が痛くなるくらい大笑いしてしまう。中高生に戻ったみたいだ(くだらないことが大切になっているということ?)。
七月某日
行軍中、訓練所内を女性の兵士たちがおそらく分隊として連れ立って徒歩移動しているのを見かけた。顔つきや姿勢から察するに、彼女たちも新兵なのではないかと思う。あとで飛び交ったうわさによると、彼女たちはドローン操縦部隊ではないかということだった。もちろん殺傷だけが用途ではないだろうが、コントローラーを操作してモニター越しにひとを殺すのには特有のきつさがあるのでは。仮にきつさがあまりなかったとしても、きつさがあまりないのにひとを殺せてしまうということが狂わせていくものはあるはずだ。
七月某日
ダミーではない、本物の手榴弾を扱った。教官つきでひとりずつ、周囲を何重もの土嚢で囲んだ遮蔽越しでの投てき。
手のなかに爆弾があるのだ、ここで死ぬというのも選択肢なのでは、とふと思ったが、別に巻き込みたいほど教官や仲間を憎んでいない。
学んできた動作にぴったり自分自身をはめ込むようにして手榴弾を投げた。「伏せろ!」と教官が叫んで僕は体を地面に叩きつける。前方で空気が破裂して、衝撃が背中を押す。地面は内側からぽこぽこ沸き立ったように震えた。手榴弾の破片が土嚢に刺さる。土の粒が降ってきて首筋につめたく入り込んだ。耳鳴りが続く。音の奥で、破片がまだ飛び回るのがわかった。
七月某日
休日。宿舎一階の資料室の脇に戦争関連の書籍を集めた小さな図書スペースがあり、眺めていると隅の方に田中小実昌の短編小説集『ポロポロ』があったので読む。僕はおじいさんのエッセイを書いていた当時いくつか戦争文学にも目を通したのだが、『ポロポロ』は出色の出来だった。今日開いてみてあらためて感動した短編は「北川はぼくに」。
「死んだ初年兵は、夏衣の胸の物入(ポケット)に箸をさしていたという。「箸か……」ぼくはすこしわらった。北川もわらったような顔になった」という書き出し。
食事をたべおくれないように枝を折ったものを箸として胸ポケットに入れておく、という慣習のようなものが昭和一九、二〇年当時、「湖南省のはしにいた」日本軍の初年兵たちの間であったようだ。その箸や分隊のエピソードが軽妙な調子でひょいひょいと語られていく。
以前に読んだときは、やっぱりこの話の「体験」に忠実であろうとする様に作家として惚れ惚れしたのだけれど、入隊した身で読んでみると、うらやましい気持ちも湧いてくる。冒頭の「死んだ初年兵」というのは北川が誤って撃ってしまった日本の軍人のことを指すのだが、「初年兵で人を撃ったりしたのは、おそらく、北川ぐらいだろう」とのことだった。「終戦まで、ぼくたちが中隊にいたあいだ、中隊ぜんたいでも、だれかを撃って殺したということはなかった」という(なんなら射撃訓練さえも彼らはほとんど受けてはいなかったらしい)。
こうした日々が、僕が戦地に配属になったとしても訪れたりしないものだろうか。苛烈な戦闘や残虐行為が発生する地帯があるのだから、なにも起こらない地帯だってあるのだと、現実が僕に突きつけてくれないものか。僕はほとんど夢想するように『ポロポロ』を開いた。なんなら、こっそり拝借して自分のものにしようかとも考えたが、ここに紛れていることに意味があるのだろうと、日記用に本文をメモ帳に書き写して元の位置に戻しておいた。僕は、戦争に拍子抜けしたい。それでおめおめと生きて帰りたいのだ。
七月某日
六週目。「殺す」の時間。井桁とペア。動きのキレが彼と僕とではまるで違う。ごめんね、こんなおじさんとで、と僕は言ったが、まさにそういう自虐こそすごくおじさんだったな……と反省。
七月某日
塹壕掘り。しかも今回は、装備をつけて時間制限つきだった。ただ単に労働作業としてなら、僕はなんなら土に触れることを楽しめる方だが、そこに焦りが入り込んでくるといつもの比ではないくらい疲れた。そのうち、土のひと粒ひと粒が憎らしく思えてきた。どうしてこんなことを、と何度も頭のなかで唱える。この苛立ちを、「敵」へ向けてしまえばいいんだろうな、と気づく瞬間があった。「敵」じゃなくて、「戦争」だけに向け続けていたいなと思うが、内面など関係なく、僕が日々やっている訓練は「敵」しか見据えていない。それどころか戦争を維持するためのものだ。
七月某日
休日。班で何時間もUNOと大富豪。スマホが使えないし外の情報もほとんど入手できないから、僕らは子どもに戻ったみたいになんでもかんでも楽しんでみるしかない。最下位は腕立て伏せ五〇回。誰が言うでもなくそういう流れになっていた。罰ゲームって、権力を自ずと強化してしまうものだ。それも、その恩恵を受けていない側から自発的に。そう思うんだけど、トランプゲームを相手に考え過ぎか?いや、なんでも考え過ぎてみなければいけないのではないか。そうしなければ正気を保っていられない。
七月某日
七週目。「殺す」の時間。この言葉に意味なんてあるのだろうか、というくらい飽きるほど言っている。これは内面化の証か? 装備をつけて行軍ののち、シームレスに塹壕掘り。しかも時間制限つき。今日がいちばん過酷だったのでは。夕食はご褒美みたいに牛すじカレー(なんと芋よりも肉が多かった!)。
七月某日
運動場から林の方に移動し、四人組での戦闘訓練。「ファイアチーム」と呼ぶらしい。軽機関銃も導入された。基本的なことはふたり組のときと同じ。弾で相手に頭を上げさせない状態を強い、その間に移動して制圧。教官の言葉を借りると、「撃たれてる側からすると顔を出したら死ぬというのが実感だが、撃っている側にとって大事なのはとにかく弾をばら撒くことだ。おまえたちがあてるのは難しい、抑えることを第一に考えろ」とのこと。僕らの班は、はじめてにしては機関銃手と弾薬手の連係がうまいとめずらしく褒められたけど、それは「戦争」の演技をしているつもりだったからだ。少なくとも僕は。
七月某日
バディドリル、ファイアチームと続けて訓練。夕食前に面談があった。教官から班のメンバーについて聞かれた。こんなの好印象しか話せなくないか?と僕はしばらく当たり障りのない回答をしていたが、佐原について、すぐ声が出るのはいいことだがもう少し考えてからの方が「報告」としてわかりやすいのでは、という文句とも取れるようなことを言うと教官は手元のメモになにか書き込みはじめた。こういう言葉が望まれてるのだろうかと、それからは愚痴っぽいことも混ぜて話してみた。
夕食時に、面談を元に配属先を決めるはずだとうわさになった。なんとなく『ハンターハンター』のハンター試験を思い出したから、そのことを言ってみると年長組は異常なほど盛り上がった。
七月某日
八人の分隊を想定して戦闘訓練。軽機関銃手が撃ち、敵を伏せさせている間に機動チームが回り込んで相手に近づき、有利位置から制圧。これを役割を変えて何度も繰り返す。午前にそれをしたあと、映画セットのような疑似的な市街地に移動して模擬戦。「誰かの家」という設定が入っただけで段違いに動けなかった。制圧すべき家のなかで僕は足を止めてしまった。「殺す」「殺す」と唱えて、なんとか体を動かす。
七月某日
きのうと同じスケジュールで分隊訓練。「見る場所決めろ!全部見るな!」「機関銃、なんで止めた!お前が止まったら全員死ぬぞ!」「固まるな!一発で全滅する気か!」「弾切れなら叫べ!」「周りがカバーしろ!」「走りすぎだ!三秒で止まれ!」「止まったら撃て!ただ伏せるな!」これまでの訓練と同じようなことで怒鳴られると、自分が根本的にダメなような気がしてくる。
七月某日
今週は分隊訓練ばかり。何度も同じ問いに戻ってきてしまう。僕は、どうしてがんばって順応しようとしているのだろう。武器なんて捨てたらいい。それなのに、習ったことを発揮しようと身体は動いてしまう。環境に馴染まなければという強迫観念でもあるのだろうか。兵士ではなくひとりの人間としていたいなら、空気を読んでしまう自分を徹底的に否定するしかない。
七月某日
休日。夢のなかで模擬戦をしていた。ある家を制圧するところだった。テーブルの上にはたべかけの料理があり、乾いて虫がたかっていた。夢のなかの僕はとにかく煙草が吸いたくて、クリアリング後は棚という棚をひっくり返していた。壁にコルクボードがかけてあって、どうも家族でボウリングにいったときの写真が留めてある。わざわざボウリングで?と思ったが、中年夫婦とふたりの子どもの前に車椅子の高齢女性がいたから、なにか彼女にとっての記念の日だったのだろうか。孫に車椅子をレーンまで押してもらって、ほとんど落とすみたいにボールを投げたりしたのだろうかと想像する。模擬戦にしてはやけに凝った設定だなと思った瞬間に、頭の皮を一気に剥がされるような勢いで僕は、設定ではなく戦場にいるのだと理解した。
目が覚めると体が硬直していた。念入りにストレッチをし、あとはずっと『ポロポロ』を読んでいた。夕食は芋で生地を作ったピザ。具も芋だけだということを隠すようにケチャップで覆われている、赤い円盤。
七月某日
八週目。「殺す」の時間。そのあと、仮眠を取るように命令される。夜になって、これから二夜三日の行軍を行うと知らされ、装備を整えるとすぐに出発。いつもと違ってヘルメットに小さなカメラをつけている。一八キロ南にある山の周りを半周するかたちで敵地へ向かうという設定。訓練所の外に出るのははじめてなのに、特になにも感慨が湧かず虚しい。ただひさしぶりに花を見れたのはありがたい。街路の花壇にマリーゴールドが咲いていた。
夜中から朝にかけて生ぬるく蒸すなかを休みなく歩き、日が昇ったら一時間に一〇分の休憩。昼から夜にかけて(つまりこれから)眠る。天幕のなかで日記を書いている。こんな分厚いもの持ち運ばず、宿舎に置いてきて、あとで思い出して書けばよかったのだ、と今さら気づく。しかし特別な愛着のようなものが日記帳にある。「書く」という態度を手放さないでおきたい。レトルトの携帯食糧は普通にうまい。飯ごうで炊いた米に親子丼のパックをかけてたべる。コロナに罹ったときに区からこういうものを届けられたなと思い出す。
七月某日
「敵地」に到着。ほとんど山のなかだ。そのあとどうするかは知らされていなかったが、塹壕を掘るよう指示され、掘り終わるとそのまま模擬戦。斜面になっているせいでよく足を滑らせる。頻繁に転びながら、集団催眠にかかったみたいにこちらも「敵」も絶叫していた。ひどいコントだと思う。異常な疲れ。
七月某日
体はもう歩くためだけの入れ物。でも、(設定に過ぎないというのに)もう「敵」がいないのだと思うと気分の重さが違う。夕方に訓練所に着いて運動場に集合。
詳しくは明かされなかったが、行軍合宿中に小隊のなかに規律違反を犯したやつがいたらしく(どうせ逃亡企図などの類だろう)、連帯責任のペナルティとして、腕立て伏せと「殺す」をやらされる。このとき僕の「殺す」はその違反者に向かっていて、ひさしぶりに意味のこもった「殺す」だった。
八月某日
あと数日で訓練期間が終わる。訓練したことが本当に役立ったりするのかという不安。一般人の寄せ集めに過ぎないのだ。僕ら二等兵には、気合いや気骨しか期待されていないだろう。極限状態で「正しい」選択ができるか、つまりいざというときに引き金を引けるかどうか、大事なのはそれだけなのではないか。僕はそのとき、撃てるのか?撃ちたいのか?殺すよりは殺された方がマシだ。そう思っている。これは僕の本心に違いないはずだ。でも、戦場に置かれたとき本心はちゃんと機能してくれるのだろうか。
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