
ためし読み - 海外文学
英語圏で最も注目を集める作家の鮮烈デビュー作『人形のアルファベット』 1作無料公開
カミラ・グルドーヴァ 上田麻由子訳
2025.06.02
イギリスの老舗文芸誌「GRANTA」が10年おきに発表する「若手作家ベスト20」に選出され、英語圏で最も注目を集める作家、カミラ・グルドーヴァ。
シャーリイ・ジャクスン賞受賞作を含む鮮烈のデビュー作『人形のアルファベット』が、5月15日発売で刊行され、ホラー小説ファン、幻想小説ファン、海外文学ファンの間で話題を呼んでいます。粒揃いの短編集のなかの冒頭作「ほどく」を、無料公開いたします。
短いながらも強烈な印象を残す作品を、ぜひお楽しみください。
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『人形のアルファベット』
カミラ・グルドーヴァ
上田麻由子訳
ほどく
ある日の午後、リビングでコーヒーを飲み終えると、グレタは自分のほどき方を発見した。服や皮膚や髪が、 まるで果物の皮をむくようにするすると剥がれ落ち、中から本当の身体が出てきた。グレタはかなりきれい好きだったので、自分がいったいどんな姿かたちになったのか気にも留めずに、古い自分をさっさと掃き集めてごみ箱に捨ててしまった。新しい手足を使いこなすのは大変だったが、それでも家をいつもきれいにしておきたいという意志のほうがまさっていた。
彼女はミシンというより、ミシンが手本にした理想の形そのものだった。自然界でいちばん近いのはアリだった。
鏡に映る自分の姿にしばしほれぼれしたあと、グレタは廊下の向かいの部屋に住んでいるマリアに会いにいった。マリアはグレタを見ても怖がらなかった。そこにたちまち自分自身を認めたからだ。わたしの中身もこれと同じ姿だ、わたしにもこれができるとわかっていたので、マリアはグレタの前で恥じらうことなく、みずからをほどいた。
おたがいの姿をほれぼれと見つめあうと、ふたりはいつもの午後と同じようにアーモンドケーキを食べたが、このとき使ったのは見つけたばかりの本物の口だった。口の周りには鋼のような鋭く真っ黒な大顎があり、もぐもぐと動かしていると歯とも口髭ともつかない心地よさがあった。
家に帰ってきた夫は、グレタを見るなり恐怖で凍りついた。これまで妻のミシンに触ったことはなかったし ―― 怖かったからだ ―― グレタが見つけたばかりのこの身体にも、これから先とても触れる気にはなれそうになかった。
グレタは廊下の向かいのマリアの部屋に引っ越した。マリアは独り身で、怖がらせる夫はもういなかった。グレタはミシンを持っていった。
ふたりのミシンは使われず、飾りとして家に置かれていた。かつて人々が聖人の置物や人形を飾り、身分の高い人々が大理石でできたみずからの胸像を据えたように。
ふたりが買い物のためはじめてアパートから出たときは、ものすごい騒ぎになった。ほかの女性がほどいているのを見たとたん、自分もやらずにはいられなくなり、近所の女性たち全員がみるみる皮膚を脱ぎ捨てた。
いざほどいてみると、ものすごくほっとした。寝る前にブラジャーを外したり、長旅のあと張りつめた膀胱をようやく空にできたりしたときのように。
男は二種類にわかれた。「女はどこか欺瞞のにおいがするとつねづね思っていた」男はやっぱりそうだったと満足し、そのいっぽう「女性らしい姿が失われてしまった」と嘆く男もいた。また少数派ではあるが、剃刀やナイフを使ってみずからをほどこうとしたものの、怪我をしただけでがっかりして終わった男たちもいた。男たちの内面には 「真の」自己や「秘めた」自己など存在せず、ただ誰かに教えられたことと、誰もが知っていることがあるだけだった。
女たちのほどいた身体には、ピアスを開けた耳のように、さまざまな小さい輪があって、その輪に沿って一本の赤い糸が絶えず流れつづけていた。流れは本人の気分によって速くなったり、ゆっくりになったりした。丈夫な太い糸で、蝋のようなもので覆われていた。
輪っかの位置や大きさは人によって微妙に違っていたものの、それを除けば女たちはみなそっくりの姿をしていた。
女たちがほどき終えると、ミシンはもはや使われなくなった。ミシンを使ったり、何かを縫いあわせたりすることは一種の抑圧であり、ほどきたいという欲望を押し殺すのに使われていた、時代遅れの気晴らしだったと思われるようになったからだ。そしてミシンはひたすら形式的、美的役割を担うだけのものになり、そのしんとした静けさが美しいと讃えられた。
縫うことや、ミシンを使うことが「何世代にもわたって」つづけられてきたことを取りあげた展覧会が催され、大勢が訪れた。女たちは心ゆくまで楽しんだ。みずからの意識をほどき、進化してきたことを、いまいちど噛みしめながら。
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続きは単行本『人形のアルファベット』にてお楽しみください