
ためし読み - 日本文学
【日本エッセイスト・クラブ賞受賞記念】笠間直穂子『山影の町から』試し読み(第1回)
笠間直穂子
2025.06.26
山影の町から
笠間直穂子
2024年12月に小社より刊行しました笠間直穂子『山影の町から』が第73回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。庭と植物、自然と文学が絡み合う土地で、真摯に生きるための「ことば」を探す仏文学者による清冽なエッセイ集です。この度の受賞を記念して、本書より3篇を無料公開します。(全3回のうち1回目)
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常山木
笠間直穂子
秩父へ越してきて一年近く経った八月のある日、開けた窓から風に乗って流れこんだ爽やかで甘い濃厚な匂いには覚えがあった。ジャスミンをより野性的にしたような香りが暑く湿った空気に充満して、嗅いでいるとちょっと朦朧としてくる。家の裏の藪か、その藪を下ったところにある公園から来ていると目星をつけて、たしかめに行くと、藪と公園の境目に並んで生えた低木に、淡い紫がかったピンクの花房がついていて、これが正体だった。
その数年前、高知に用があったついでに宿毛を訪れた。九月初めで、台風が何日も付近に停滞していた。宿毛に足を延ばしたのは、大原富枝の『婉という女』の主人公である野中婉が幽閉されていた、かつての陸の孤島にして流刑地だから、という以上の理由はなかったので、予定があるわけでもなく、ただやみくもに歩いた。宿毛湾にある小さな島を意味もなく一周しているとき、なにかの花の強い匂いが、台風の気圧とともに押し寄せてきた。なんの花だかわからないまま、空気の重さに酔ったようになって歩いていた。
波止場に出て、地元の小学生に、釣りあげたばかりの小さな透き通ったイカを見せてもらったのは、その前だったか、後だったか。ともかく、あのときの匂いはクサギだったことが、秩父へ来てわかった。
クサギは臭木とも常山木とも書く。全国に見られる落葉小高木で、葉を触ると臭気があるというが、悪臭というほどではなく、ビール酵母のような匂い。秋になる青い実は染料になるというし、暗い葉の色も好きなので、家の庭にも生えるといいな、生け垣にならないかなと思っていたら、なぜか翌年あたりから敷地の端に本当に並んで生えてきて、なにもしていないが生け垣になった。そして夏になると、すぐ近くから、匂いが漂ってくるようになった。
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なぜ東京から秩父に引っ越したのかと、よく聞かれる。答え方はいろいろあるが、いい匂いを嗅いでいたかったという理由は大きい。下水と排気ガスとセメントとアスファルトと樹脂と化学薬品と吐瀉物の臭いが逃げ場をなくして巨大な擂り鉢の底に溜まっているのは、そのなかに潜ってしまう快楽があるのも真実だが、呼吸は浅くなる。
夜、帰ってくると、電車を降りた瞬間に山の匂いがする。周りが真っ暗でも、戻ってきたなと匂いでわかる。自転車を漕ぎ出せば、冷たい風とぬるい風が交互に吹き、人間活動の残り香は草に吞みこまれていく。
山影の町から ―目次―
常山木
巣箱の内外
ふきのとう
虫と本能
葛を探す
山の向こう
モノクローム
野ばら、川岸、青空
金木犀
霧と海
ダムを見に
荒川遡行
斜めの藪
草の名
バタースコッチ
サルビア・ガラニチカ
車輪の下
雲百態
田園へ
土の循環
よそに住む
本棚のある家
庭の水
山にたたずむ
理想郷
花々と子供たち
株分けと民話
十代の読書
消される声
風の音
参考文献一覧
笠間直穂子(かさま・なおこ)
1972年、宮崎県串間市生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科単位取得退学。国学院大学文学部教授。フランス語近現代文学研究、仏日文芸翻訳。
2010年M・ンディアイ『心ふさがれて』(インスクリプト)の翻訳で第15回日仏翻訳文学賞、2025年『山影の町から』で第73回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
著書に『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)、『鳥たちのフランス文学』(幻戯書房、共著)ほか。訳書にM・ンディアイ『みんな友だち』(インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、C・F・ラミュ『パストラル ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、J・F・ビレテール『北京での出会い もうひとりのオーレリア』(みすず書房)、G・クレマン『第三風景宣言』(共和国)ほか。
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続きは単行本『山影の町から』にてお楽しみください