
ためし読み - 海外文学
ピュリツァー賞&全米図書賞受賞! 世界の名だたる文学賞総なめの話題作『ジェイムズ』、冒頭試し読み公開。
パーシヴァル・エヴェレット 木原善彦訳
2025.06.19

ジェイムズ
パーシヴァル・エヴェレット 著
木原善彦 訳
ピュリツァー賞&全米図書賞をW受賞したほか、名だたる文学賞を総なめにした2024年最大の話題作『ジェイムズ』の邦訳が、6月27日に発売となります。
本書は、「ハックルベリー・フィン」を黒人奴隷ジムの視点から語り直し、地獄の逃亡劇を過激な笑いで描き出し世界に大きな衝撃を与えました。
本作の日本での発売に先駆け、冒頭の試し読みを公開します。
強烈な皮肉とブラックユーモアで歴史の暗部を描いてきた作家、パーシヴァル・エヴェレットの苛烈さを、ぜひご堪能ください。
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第一部
第一章
悪ガキたちは丈の高い草むらに隠れていた。月は満月ではなかったが明るく、子供たちの背後にあったので、夜のかなり遅い時刻でも二人の姿は昼間と同様にはっきり見えた。黒いキャンバスを背景に蛍が光った。私はミス・ワトソンの屋敷の、台所の扉のところに立ち、緩んだ踏み板を足で押しては、明日修理をするようにと言われるだろうと考えていた。ミス・ワトソンがセイディーのレシピに従ってトウモロコシパンを作ったというので、私はそれを渡されるのを待っていた。〝待つ〟というのは奴隷生活の大きな一部を占めている。待つ、そしてさらに待つために待機する。指示を待つ。食べ物を待つ。一日の終わりを待つ。そしてあらゆるものが終わるときに、キリスト教徒として功罪に応じた正当な報いが訪れるのを待つ。
白人の少年、ハックとトムが私を見ていた。二人はいつも何かのごっこ遊びをしている。そこでは私は悪者か犠牲者の役だったが、いずれにせよ彼らのおもちゃだ。二人はツツガムシや蚊みたいな虫に咬まれてもぞもぞしていたが、私の方には近づいてこなかった。いつだって白人には調子を合わせておくのが得策だから、私は庭に出て闇に向かって呼びかけた。
「暗がりにおるのは誰だか?」
二人はクスクス笑いながらぎこちなく体を動かした。あの様子ではたとえすぐ横で楽団が音楽を演奏していても、たとえ相手の目と耳が不自由であっても、気づかれずに忍び寄ることなんてできそうもない。こんな子供たちの相手をするくらいなら蛍の数でも数えていた方がましだろう。
「いいことを考えただ。この玄関ポーチに腰を下ろして、もう一度音がするのを待つことにするだよ。悪魔とか魔女とかが潜んどるのかもしらん。でもここなら安全だ」。私はいちばん上の段に腰を下ろし、柱にもたれた。そして疲れていたので目を閉じた。
少年たちは興奮したように、ささやき声で言葉を交わした。私の耳にはそれが教会の鐘と同じくらいはっきり聞こえた。
「もう寝たかな?」とハックが訊いた。
「そうみたいだな。黒ん坊はあっという間に寝るって話を聞いたことがある」とトムは言ってパチンと指を鳴らした。
「シーッ」とハックは言った。
「さあ、やつを縛り上げようぜ」とトムは言った。「今もたれかかってるあのポーチの柱に縛り付けよう」
「駄目だ」とハックは言った。「もしも目を覚まして騒ぎだしたらどうする? そしたら、おとなしくベッドで寝てるはずのおいらが外を出歩いてることがばれるだろ」
「オーケー。けど、そうだな。ろうそくが何本か欲しい。ミス・ワトソンの台所に忍び込んで取ってこよう」
「ジムが目を覚ましたらどうする?」
「大丈夫。眠ってる黒ん坊は雷が鳴っても目を覚まさない。おまえは何も知らないんだな。雷が鳴っても、稲妻が光っても、ライオンが吠えても大丈夫。地震の最中もずっと寝てたって話も聞いたことがある」
「地震ってどんなもんなんだ?」とハックが訊いた。
「真夜中におまえが親父さんに叩き起こされるときと同じ感じなんじゃないか」
少年たちは四つん這いになって不器用に忍び寄り、ポーチの床板を派手にきしませながら二段扉をくぐってミス・ワトソンの台所に入っていった。二人があちこちをあさり、戸棚や引き出しを開け閉めする音が聞こえた。私は目を閉じたまま、腕に止まった蚊を無視した。
「あった」とトムが言った。「三本いただくぞ」
「おばあさんのろうそくを黙って三本持っていくなんてよくない」とハックは言った。「それって泥棒じゃないか。ジムが犯人にされたらどうするんだよ?」
「なら、ここに五セント玉を置いていこう。これで充分だ。誰も奴隷の仕業とは思わない。コインを持ってる奴隷なんていないからな。さあ、見つからないうちにここから逃げよう」
少年たちは玄関ポーチから外に出た。二人とも自分たちがどれだけ物音を立てているか分かっていないようだった。
「手紙も置いてきた方がよかったな」とハックは言った。
「そこまでする必要はない」とトムは言った。「五セント玉で充分さ」。私は二人の視線がこちらに向くのを感じた。だからじっとしたまま動かなかった。
「何するつもりだ?」とハックが訊いた。
「ジムに一ついたずらしてやろう」
「余計なことしたら目を覚ますって」
「静かにしてろ」
トムは私の背後に忍び寄り、左右から帽子のつばをつかんだ。
「トム」とハックは不満げに呼びかけた。
「シーッ」。トムは私の帽子を脱がせた。「この帽子をこっちの釘に引っ掛けておいてやるのさ」
「そんなことして何になるんだよ」とハックは訊いた。
「目が覚めたときにきっと魔女の仕業だと思うぜ。慌てる姿をこの目で見れたらいいんだけどな」
「オーケー。さっさと帽子をそこに引っ掛けてここから離れよう」とハックは言った。
家の中で人の気配がしたので少年たちは走って逃げだし、土埃を舞い上げながら大慌てで角を曲がった。私には二人の足音が遠ざかるのが聞こえた。
台所に人が入ってきて、扉から姿を見せた。「ジム?」。それはミス・ワトソンだった。
「へえ」
「寝てたのかい?」
「いんえ、おかみさん。たっぷり疲れてただけども、寝てはいねえだ」
「台所にいたのはおまえかい?」
「いんえ」
「誰か台所に入ったかい?」
「わしは誰も見てねえだ」。実際それは嘘ではなかった。私はずっと目を閉じていたのだから。「台所に人が入るのは見てねえだ」
「さあ、例のトウモロコシパンができたよ。このレシピが気に入ったってセイディーに伝えて
おいておくれ。少しだけ手を加えたけどね。味に磨きをかけるために」
「へえ、ちゃんと伝えておくだ」
「ハックの姿は見たかい?」と彼女は訊いた。
「ちょっと前に見ただ」
「どれだけ前?」
「少し前だよ」と私は言った。
「ジム、おまえに一つ尋ねたいことがあるんだけどね。サッチャー判事の図書室に入ったことはあるかい?」
「どこだってか?」
「図書室」
「本がいっぱいある部屋のことだか?」
「ええ」
「いんえ、おかみさん。本は見たことあるだが、部屋に入ったことはねえだ。どうしてそんなこと訊くだか?」
「その、棚にあった本が何冊か動かされていたらしいの」
私は笑った。「本なんてわしが触ってどうするだ?」
彼女も笑った。
トウモロコシパンをくるんでいるタオルはずいぶん薄かったので、熱くて何度も左右の手で持ち替えなければならなかった。腹が空いていたから味見をしたい気持ちもあったが、最初の一口はセイディーとエリザベスに食べさせたかった。私が扉をくぐった途端、リジーが猟犬のようににおいを嗅ぎつけて駆け寄ってきた。
「なんのにおい?」と娘が訊いた。
「たぶんこのトウモロコシパンだな」と私は言った。「ママの特別レシピを使ってミス・ワトソンが作った。たしかにいいにおいだ。けど、少しだけレシピに変更を加えたとも言ってたな」
セイディーは私のところに来て口にキスをした。そして顔を撫でた。彼女の体は柔らかく、唇も柔らかかった。手つきは優しかったが、畑仕事のせいで私と同じように手の皮は厚くなっていた。
「明日は忘れずにこのタオルを返さないとね。白人はこういうことを絶対に忘れないから。あの人たちはきっと、毎日決まった時間にタオルやスプーンやカップなんかの数をチェックしてるんじゃないかしら」
「まったくだ。私が熊手を小屋に戻し忘れたときのことを覚えてるか?」
セイディーはテーブル代わりにしているブロック―というか、切り株―の上にトウモロコシパンを置いた。彼女はそれをスライスしてリジーと私に渡した。私は一口食べ、リジーもそうした。そして二人で顔を見合わせた。
「においはおいしそうなのに」とリジーは言った。
セイディーは自分でも一切れ取って口に入れた。「あの人、料理を台無しにする才能があるみたい」
「これ食べなきゃ駄目?」とリジーは訊いた。
「いいえ、食べなくていい」とセイディーは言った。
「しかし、味はどうだったって訊かれたらどうする?」と私は訊いた。
リジーは咳払いをした。「ミス・ワトソン、あんなにおいしいトウモロコシパンは今まで食べてねえだ」
「〝食べたことがねえだ〟の方がいい」と私は言った。「不正確な文法としてはそれが正しい」
「あんなにおいしいトウモロコシパンは今まで食べたことがねえだ」と彼女は言い直した。
「よくできました」と私は言った。
アルバートが私たちの小屋の入り口に現れた。「ジェイムズ、ちょっと来てくれないか?」
「すぐ行く。セイディー、少しいいかな?」
「はい、どうぞ」と彼女は言った。
私は外に出て、男たちが集まる大きな焚き火のところまで行った。そしてみんなと挨拶を交わしてから腰を下ろした。それからしばらく、別の農場から逃亡した奴隷に何が起きたかを話した。「そうだ。その男はボコボコにされた」とドリスは言った。〝ドリス〟は女の名前でこのドリスは男だが、白人が奴隷に名前を付けるときにはそんなことは関係ないようだ。
「やつらは全員地獄に落ちる」とルーク爺さんは言った。
「おまえは今日、何があった?」とドリスが私に訊いた。
「何も」
「何もなかったってことはないだろう」とアルバートが言った。
みんなは私が何かの話をするのを待っていた。私はどうやら、お話の名人ということになっているらしい。「何もないよ。強いて言えば、今日はニューオーリンズに行った。それ以外は特に何もなかった」
「ニューオーリンズだって?」
「うん。昼頃にうとうとして、気づいたらにぎやかな町にいた。ラバが引く荷車とかがあたりを行き交っていた」
「どうかしてるぞ」
そのとき、白人が近くにいるという警告の合図をアルバートが出しているのに私は気づいた。
すると藪の中から間の抜けた気配がして、それが例の少年たちだと分かった。
「つまりだな、気がついたら帽子が釘に掛けてあっただよ。〝あそこに帽子を掛けた覚えはねえ〟とわしは思った。〝どうしてあんな場所に帽子があるだ?〟って。それで分かっただよ。魔女の仕業に違いねえ。姿は見てねえけど、間違いねえ。それでその帽子を取った魔女がわしをニオリンズまで連れていっただ。信じれるだか?」。私の口調の変化で、残りのみんなも白人の存在を察した。こうして少年たち向けの演技が私の話の枠となった。少年たちに向けた演技がメインになると、私の話は本筋から脱線していった。
「言っとくがよ」とドリスは言った。「魔女には下手な手出しをしねえに限るだ」
「その通りだ」と別の男が言った。
少年たちがクスクス笑うのが聞こえた。「それでニオリンズで何があったと思うだ?」と私は言った。
「突然、薬草医が後ろから近づいてきて、〝この町で何をしとる〟って訊くだ。わしは自分がどうしてここにおるのかも分からんと言った。すると薬草医はなんと言ったと思う? なんと言ったと思う?」
「なんと言っただ、ジム?」とアルバートが訊いた。
「こう言っただよ。〝ジム、おまえはもう自由だ。もう誰も二度とおまえのことを黒ん坊とは呼ばねえ〟って」
「神様、そりゃえらいことだ」と蹄鉄工のスキニーが大きな声を上げた。
「次に悪魔がこう言った。通りの先に行けば好きなものが買える。その気になりゃウイスキーも買えるって。どうだ、これ?」
「ウイスキーってのは悪魔の飲み物だ」とドリスは言った。
「そんなこたぁ関係ねえ」と私は言った。「まったく関係ねえだよ。その気ならウイスキーが飲めるってやつは言っただ。他にもなんでも手に入るって。けど、そんなこたぁ関係ねえ」
「どうしてだ?」と一人の男が訊いた。
「第一、わしをそこに連れていったのは悪魔だからだよ。本当の世界じゃねえ、ただの夢さ。それに金だって持ってやしねえ。分かりきった話だ。それで結局、悪魔が汚ねえ指を一つパチンと鳴らしたら、わしは家に戻ってたってわけだよ」
「なんのために悪魔はそんなことをするだ?」とアルバートは言った。
「さあな、けど、夢だろうとそうでなかろうと、金がなけりゃニオリンズにゃ行けねえから、向こうで面倒に巻き込まれることもねえ」
男たちは笑った。「そりゃ間違いねえな」と一人の男が言った。
「おい」と私は言った。「今、そこの藪から音がした。悪魔が隠れてるに違いねえ。藪に火を点けるから誰か松明を貸してくれ。魔女と悪魔は火が苦手なんだ。やつらは鉄板に載せたバターみてえに溶けるだよ」
白人の少年たちが慌てて逃げていく足音を聞いて私たちはみんなで笑った。
続きは単行本『ジェイムズ』でお読みください。
ジェイムズ
パーシヴァル・エヴェレット 著
木原善彦 訳