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全米図書賞&ピュリツァー賞ほか世界的文学賞驚異の5冠! パーシヴァル・エヴェレット『ジェイムズ』遂に上陸。「訳者あとがき」無料公開

 

ジェイムズ
パーシヴァル・エヴェレット 著
木原善彦 訳

単行本/416ページ/ISBN:978-4-309-20928-9 
発売日:2025.06.27(予定)

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訳者あとがき

「今日のアメリカ文学はすべて『ハックルベリー・フィンの冒険』(以下、『ハック・フィン』と略記)という一冊の本から生まれている」という有名な言葉を残したのはアーネスト・ヘミングウェイだった。それはアメリカ文学史の枠組みにおける『ハック・フィン』の重要性を語る印象的な言葉だが、実際に『ハック・フィン』から派生した物語(いわゆるスピンオフやパロディー作品)もアメリカには数多くある。マーク・トウェイン自身が『インディアン居住地のハック・フィンとトム・ソーヤー』や『トム・ソーヤーの外国旅行』などの続編的作品を発表している他にも、ジョン・シーライ『ハックルベリー・フィンの真の冒険』やロバート・クーヴァー『ハック西へ行く』など、時代を隔てた作家たちによる語り直しや続編がいくつも書かれている(より詳しくは柴田元幸編著『「ハックルベリー・フィンの冒けん」をめぐる冒けん』〔研究社〕第Ⅲ部を参照)。

それらは多くの場合、ハックのその後に焦点を当てているのだが、いくつかその例外もある。冒険から四十年後のジムを主人公とするジョン・キーンの短編「リヴァーズ」(二〇一五)がその一つだ。幸いにもその日本語訳は上記『「ハックルベリー・フィンの冒けん」をめぐる冒けん』に収められているので、読者の皆さんにはお勧めしておきたい。なお、『ハック・フィン』では、ジムに妻がいることはさらっと言及されるものの名前は出てこない。「リヴァーズ」でも『ジェイムズ』でもジムの妻の名前がセイディー、娘の名前がエリザベスとなっているのは、ジムの妻を主人公とする先行作、ナンシー・ロールズ『マイ・ジム』を踏まえてのことだ。

かくして『ハック・フィン』はすでに豊饒な宇宙を生みだしている。そしてそこに新たに加わったのがこの『ジェイムズ』である。「逃亡奴隷ジムの目から物語を語り直した」とされるこの作品は刊行と同時に大評判となった。元の物語で脇役だったジム(〝ジム〟は愛称にすぎないので、正式な名前としてはジェイムズ)が主人公となっているだけではなく、彼の目から見た出来事や彼の複雑な内面を描くことで、『ハック・フィン』では充分に語られなかった奴隷制の非道性と人種や自由の問題がさらに深く掘り下げられている。
本書を書いたパーシヴァル・エヴェレットは日本ではまだあまり知られていないかもしれないが、アメリカ合衆国では定評のある実力派の作家だ。一九五六年にジョージア州フォートゴードン(現フォートアイゼンハワー)で生まれ、マイアミ大学、ブラウン大学大学院で学び、現在はカリフォルニア州ロサンゼルス在住で南カリフォルニア大学英語科の卓越教授。非常に多作で、長編だけ数えても二十を超える作品をこれまでに発表している。最近の作品では『テレフォン』(二〇二〇)がピュリツァー賞最終候補、『ザ・ツリーズ』(二〇二一)がブッカー賞とPEN/ジーン・スタイン図書賞の最終候補、『ドクター・ノー』(二〇二二)が全米批評家協会賞小説部門の最終候補となり、PEN/ジーン・スタイン図書賞を受賞した他、作家自身もこれまでに全米批評家協会イヴァン・サンドロフ功労賞、ハーストン/ライト特別賞、PENセンターUSA小説賞を受賞している。二〇〇一年に発表した『消去』は二〇二三年に『アメリカン・フィクション』として映画化され、大きな評判を呼んだ。この映画は日本では劇場公開されなかったが、アマゾンプライムビデオで二〇二四年に配信されたので、ご覧になった方も多いと思う。小説も映画もともに、アメリカにおける黒人表象がいかに偏見に満ち、画一的かをコミカルかつ劇的に描く傑作だ。そして本書『ジェイムズ』はついに二〇二四年の全米図書賞と二〇二五年のピュリツァー賞を受賞した。
そんな彼の名前が本邦であまり知られていないのは、一つには彼の実験的な作風が原因かもしれない。たとえば先の、映画化もされた『消去』について言うと、映画では作中主人公が書いている小説の中身は詳しく紹介されないが、原作となった小説ではその小説内小説が一つの作品として成り立っていて、一種の入れ子構造(メタフィクション)となっている。あるいは二〇〇九年に刊行された『アイ・アム・ノット・シドニー・ポワチエ(I Am Not Sidney Poitier)』について言えば、この小説は有名な黒人俳優シドニー・ポワチエ(「白人が理想とする黒人の姿」などと時に悪口を言われる人物でもある)が出演する映画を踏まえた物語になっているのだが、このタイトルが意味するところは実は「私はシドニー・ポワチエではない」ということではなく、「私はノット・シドニー・ポワチエだ」ということである。つまり、〝ノット・シドニー〟という名前の黒人少年の成長物語。もちろんタイトルの受けを狙った一発ギャグみたいなことではなく、物語は風刺とユーモアを織り交ぜつつ人種問題や社会の偽善を批評する作品に見事に仕上がっている。あるいは二〇二〇年に発表された『テレフォン』にはなんと三つのバージョンが存在して、話が(結末も)微妙に異なる。いかがだろう? 遊び心たっぷりのこうした作風に惹きつけられる(私のような)読者もいるだろうが、やや近づきにくい作家という印象を受ける人の方が多いかもしれない。少なくとも、そのユーモアや遊び心を生かした翻訳が容易ではないことは想像が付くだろう。
『ハック・フィン』のリメイクあるいは再想像・再創造としての『ジェイムズ』もそうした実験性の延長線上にあることは間違いないが、エヴェレットが決して難解な作家ではないということは強調しておかなければならない。この作品は次々に起こる出来事に導かれて思わずページをめくってしまう〝ページターナー〟であって、勢いに乗って一日か二日で読み終える人もおそらくたくさんいるはずだ。

さて、トウェインの『ハック・フィン』をお読みになってから長い時間が経っている読者もいらっしゃるだろうから、導入のために少しだけあちらの物語を思い出してもらおう(覚えていらっしゃる方は次の一段落を無視してください)。

トム・ソーヤーと仲良しの少年ハックルベリー・フィンはミズーリ州セントピーターズバーグ(『ジェイムズ』ではハンニバルと呼ばれているが同じ町)に暮らす自然児。母親とは幼い頃に死別していて、留守がちな父親は酒を飲んでしばしばハックに暴力を振るう。『トム・ソーヤーの冒険』の中でハックはトムと一緒に宝を発見し、大金を手に入れる。そしてダグラス未亡人の家に引き取られるが、規則正しい生活に耐えられずそこを出る。自分の家に戻ったハックは酒に酔った父親と出会い、今度は父親から逃れるために自分が殺害されたように見せかけて家を出る。そうしてハックがひとまずミシシッピ川の中州のようなジャクソン島に潜んでいると、そこにミス・ワトソン(ダグラス未亡人の妹)が所有する奴隷ジムが現れる。ジムは自分が売り飛ばされるという話を耳にして逃げてきたのだ。こうして二人の旅が始まり、難破船で盗賊を目撃したり、〝王〟や〝公爵〟を名乗るペテン師たちと出会ったりする。おおよそこのあたりまでの展開は『ジェイムズ』とも重なる。

なお、『ハック・フィン』でのジムおよび黒人たちの描写については「紋切り型で差別的」
としてしばらく前からアメリカで議論が続いている。今日では到底許容されない差別語が用いられているという点もしばしば問題になる。そのせいでこの作品を学校の授業で扱うことや図書館に所蔵することの是非が議論されたりするが、その語をこの訳書でどう処理したかは別に「訳者からのおことわり」に記したし、この訳者あとがきは「『ハック・フィン』における黒人表象」を論じるのにふさわしい場所だとは思わない。むしろこの『ジェイムズ』という作品そのものが、現代アメリカに生きる黒人作家パーシヴァル・エヴェレットから『ハック・フィン』(およびトウェイン)に向けられた応答であるとお考えいただきたいと思う。

また、『ハック・フィン』の時代設定は一八三〇年代から四〇年代頃とされていて、一八六一年から六五年にかけて起きた南北戦争よりかなり前である。しかしエヴェレットは時代設定を数十年後ろにずらし、『ジェイムズ』では二人の旅の途中で南北戦争が起こることになっている。これは本書の後半の展開にも大きく関わる重要な改変だ。

ところで、マーク・トウェインは『ハック・フィン』を書くのに約八年を費やしたと言われている。一八七六年に書き始めてから、二度の大きなブランク(三年ほどの中断)が挟まったらしい。最初は第十八章の途中でストップし、次は第二十一章(公爵と王様が下手な芝居を上演する挿話がある)で中断している。本書『ジェイムズ』が『ハック・フィン』のストーリーラインから大きく逸脱し始めるのはちょうどその中断があったあたりからだ。これは偶然ではないだろう。『ハック・フィン』ではそこから(あまり評判のよくない)ハッピーエンドへとつながっていくのだが、『ジェイムズ』ではそこから次々に思いがけないことが起き、驚くべき事実が明かされ、恐ろしい対決へと導かれる……。

訳者としてはこれ以上、余計なことを付け加えたくないのだが、最後にもう一つ、あまり日本では耳にすることがない単語および概念である〝パス(pass)〟〝パッシング(passing)〟について説明しておきたい。パスは通常、「通る、すり抜ける、(……として)通用する」ことを意味するが、人種的な文脈におけるパスは(片方の親が白人であったりして)色の白い黒人が〝白人〟として通る(生きていく、すり抜ける)ことを意味する。ニュアンスとしては主体的・能動的・積極的な「なりすまし」というより、客体的・受動的な「通用・すり抜け」の側面が強いのだが、本書では分かりやすさを優先して「なりすまし」と訳した。パッシングという言葉そのものをタイトルにしたネラ・ラーセンの小説『パッシング』(原著一九二九年、日本語訳二〇二二年)およびそれを映画化した『PASSING―白い黒人―』(二〇二一)もあるので、この問題に関心を持たれた方にはそちらをおすすめしておきたい。

 何はともあれ、こうして現代アメリカの重要作家の話題作を紹介できたことは私にとって大きな喜びであり、幸運でもあった。本訳書の企画・編集にあたっては河出書房新社の町田真穂さんに大変お世話になりました。どうもありがとうございました。そしていつものように、訳者の日常を支えてくれるFさん、Iさん、S君にも感謝しています。ありがとう。

 

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パーシヴァル・エヴェレット

パーシヴァル・エヴェレット Percival Everett

1956年生まれ。アフリカ系アメリカ人作家。南カリフォルニア大学卓越教授。著書に『Dr.No』(全米批評家協会賞最終候補、PEN/ジーン・スタイン図書賞受賞)、『The Trees』(ブッカー賞最終候補)、『Telephone』(ピュリツァー賞最終候補)、『So Much Blue』、『Erasure』、『I Am Not SidneyPoitier』などがある。小説『Erasure』を原作とした映画『アメリカン・フィクション』が2023年に公開され、アカデミー賞脚色賞を受賞。本書は、全米図書賞、ピュリツァー賞、英国図書賞など数々の文学賞を受賞した。妻で作家のダンジー・セナや子どもたちとともにロサンゼルス在住。

木原善彦(きはら・よしひこ)

1967年生まれ。京都大学文学部卒業、同大学院文学研究科修士課程・博士後期課程修了。博士(文学)。大阪大学大学院人文学研究科教授。英米文学研究者。翻訳家。著書に『実験する小説たち―物語るとは別の仕方で』(彩流社)、『アイロニーはなぜ伝わるのか?』(光文社新書)など。訳書にウィリアム・ギャディス『JR』(国書刊行会)、リチャード・パワーズ『オーバーストーリー』、アリ・スミス『両方になる』(以上、ともに新潮社)、ジャネット・ウィンターソン『フランキスシュタイン』(河出書房新社)、エヴァン・ダーラ『失われたスクラップブック』(幻戯書房)などがある。

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