
ためし読み - 日本文学
第八回細谷賞受賞! 朝日、日経、産経、「本の雑誌」他で話題沸騰! 石川智健『エレガンス』から「序章」試し読みを公開
石川智健
2025.10.02

『エレガンス』は、実在した警視庁の写真室所属巡査と〝吉川線〟(他殺で絞殺・扼殺された被害者の首に現れる、抵抗によって生じたひっかき傷のこと)を考案した鑑識第一人者にが活躍する傑作ミステリーです。第八回細谷賞受賞を記念して、緊迫感みなぎる「序章」の試し読みを公開します。
==↓ためし読みはこちらから↓==
序 章
今、死を撮っている。
肌を刺す冷気。時さえ鳴りを潜めるような寒さだった。人を孤独にさせる冷たさが音もなく、絶え間なく流れ込んでくる。それにもかかわらず、背中だけに粘度のある汗が滲んでいて不快だった。体温を奪い去る鋭い寒威によって、末端からだんだんと皮膚の触覚が麻痺していくように感じる。半面、神経過敏になっていく。身体に矛盾を孕んでいる。
一九四四年十二月。頭の芯の痺れに顔を歪めた石川光陽は、呼吸が浅くなっていると意識する。喉が強張り、息苦しさを覚える。口を大きく開けて空気を集めようとするものの、上手く取り込めない。異物がつかえているのかと訝しみ唾を飲み込む。苦味が口の中に広がっただけで、息詰まりは解消されないままだった。
カメラから顔を離し、乾燥した眼を休めるために瞬きを繰り返す。ものは少ないが、整頓された部屋だった。血の臭いはない。腐臭もない。しかし、眼前には遺体がある。矛盾した光景だ。再びファインダーを覗く。こみ上げる感情に蓋をする。ただ事実のみを撮影するのだと念じる。
軍手をはめた手が思いどおりに動かない。それでも、寒気と緊張で震える指を意識しつつ、シャッターを切った。フィルムに記録するごとに、カメラの重みが増していくような錯覚に陥る。
カメラが取り込むのは静止した空間だ。人間は、不動の世界に身を置くことはできない。常に動き続ける世界の中で、目に見えるものを余すところなく認識もできない。カメラは違う。カメラによって切り取られた部分は静態となり、人が認識しなかった細部も記録する。
裂かれたシーツで首を吊っている女性。シャッターボタンを押し、フィルムに写し取る。美しい遺体だった。正座の状態から両脛を開き、臀部を床につけた姿勢で事切れている。
長いスカートが放射状に広がり、まるで花冠のようだった。死んでいるのに華やかだ。相容れない感覚を抱く理由は、身に着けている洋服にあるのだろう。死んでいるはずの女性が、まだ生きているように見えてしまう。そんな力のある服だ。光よりも闇が支配している空間に、一輪の花が咲いている。
〝釣鐘草の衝動〟と風聞される死が続いている。
======
続きは『エレガンス』でお楽しみください。
◼︎『エレガンス』
内容紹介:東京大空襲の中で起こった洋装女性連続不審死。実在する警視庁の写真家と〝吉川線〟を考案した鑑識第一人者が自殺と思われた事件に挑む。次世代へつなげたい渾身の記念碑的傑作ミステリー!
◼︎著者紹介:
石川 智健(いしかわ・ともたけ)
1985年神奈川県生まれ。2011年に『グレイメン』で「ゴールデン・エレファント賞」第2回大賞を受賞。他の著書に『エウレカの確率 経済学捜査員 伏見真守』『ため息に溺れる』『ゾンビ3.0』など。