ためし読み - 文庫
「ここ数年のあいだに読んだ本でもっとも衝撃的だった」(岸本佐知子)。大作家・有吉佐和子の抱腹絶倒ニューギニア滞在記、大ヒット御礼無料公開!
有吉佐和子
2026.02.18
50年前に書かれたエッセイが大ヒットしています。
有吉佐和子著『女二人のニューギニア』(河出文庫)。
作家 有吉佐和子が、友人の文化人類学者 畑中幸子の誘いにより、数年前に発見されたシシミン族の住むニューギニアの奥地を訪ねた滞在記です。1969年に書かれた作品ながら、その抱腹絶倒の内容に、今も版を重ね続けています。
翻訳家、エッセイストの岸本佐知子さんも「ここ数年のあいだに読んだ本でもっとも衝撃的だったのが、有吉佐和子『女二人のニューギニア』(河出文庫)だ。」(日経新聞 2025/12/13)と語るほど。まったく文化の違う土地で、想像を絶する出来事が次々と起こりぼやき続ける有吉さんと、たくましく現地を調査する畑中さんとの丁々発止のやりとりが、時代を経ても古びない面白さ。

有吉佐和子『女二人のニューギニア』(河出文庫)
このたび、大ヒットを記念し、有吉さんがしきりと、「どうして誰も行くのを止めてくれなかったのか」と煩悶する冒頭を無料公開いたします。
女二人のニューギニア
私がニューギニアへ行くと言いだしたとき、そんな無謀なことはよせ、お前には無理だと言って止めてくれるひとが一人もいなかったのは何故だったのだろう。私は身長一六四センチもあって図体が大きく、一見丈夫そうに見えるけれども、その実はウドの大木で、体力は人並以下、わけても脚力のなさといったら、世の人が血道をあげるゴルフでさえ歩くのが辛いのでやめてしまったくらいなのだ。動作が鈍いので悠揚せまらない女だという誤解をしている人々がいるが、本当は虫一匹這い出してきても悲鳴をあげて逃げるような弱虫なのだ。そういうことを身近にいる友人たちは、みんな知っていた筈なのに、どうしてあの人たちは誰も、私のニューギニア行きをやめろと言ってくれなかったのか。
ヨリアピに着いてから数日、私は痛む躰を畑中さんの家のでこぼこした床に伸ばして、ずっと未練がましく、こんなことばかり考えていた。
家の中に寝転んでいても、オム川の激流の音は聞こえてくるし、窓から(その家は要するにほんの小さな囲いがあるだけで、その囲いもスノコのように隙間だらけだから、どこもかも窓だったといえるのだが)見えるのは、緑濃い山脈である。ヨリアピというところは、密林で掩われた山々で十重二十重に取り囲まれたところなのだった。ああ、あの山々を私は私のこの足で歩いて越えてきたのかと、しばらく私は自分でも信じられなかった。
しかしいつまでものんびりと寝てはいられなかった。足の爪が、親指の爪が色を変えてバクバクにはがれかかっていたし、得体の知れない虫が襲いかかってきて、そのあとの痒さといったらない。ボリボリと掻き、ああ痒いと心の中で悲鳴をあげ、夢中で掻いていると、すぐ耳許で、
「フィナーニ・ロイヤーネ」
と優雅な声が聞こえる。
「シシミンが、あんたに挨拶に来たわよ、起きなさい」
畑中さんが活を入れるように大声で言うので、私はよいしょよいしょと節々の痛む躰を起こして立上り、足をひきながら戸口へ出て行った。
鼻の先に三つ穴をあけ、そこから鸚鵡の黒い爪を一本ずつ突き出している背の高い男が私の方に長い手を差し出している。
「シシミンの酋長よ。フィアウという名ァよ。あんたもフィナーニと言いなさい」
畑中さんの言うとおり、フィナーニと言うと、フィアウは馬のように大きな口をひろげてまたフィナーニ・ロイヤーネと繰返した。彼の背後には、豚の牙を鼻にさした男や、片方の耳に竜の落し子に似た虫のくるりと巻いたのを吊下げているのや、鸚鵡のトサカを小鼻の穴に通し、眼と眼の間で十文字にぶっ違えているなど、さまざまなシシミンがいた。みんな片手に弓矢を掴んでいる。ああ私は、つまりこういうところへ来てしまったのかと私は改めて溜息が出た。
フィアウが、ぐいと私の手を握りしめた。親愛の情を私も示すために握り返そうとして彼を見上げた私は、もう少しで後へ飛び退くところだった。彼だけが頭にオーストラリア陸軍の制帽を冠っていた。それはつば広で片端をピンと折り上げたなかなか伊達な帽子だったのだが、ひどく古いものらしく縁はぼろぼろになっていた。きたないのである。しかし私が驚いたのは、そんなことではない。彼の首の下から、胸、肩、二の腕の逞しく盛上った筋肉を掩っている黒い肌が、指の先まで細かく亀裂がはいり、それぞれ小さく渦巻いている。
「ひ、皮膚病なのかしら、このひと」
私は手を放してから、おそるおそる畑中さんに訊いた。
「これがシック・プクプクというて鰐皮みたいになる皮膚病なのよ。プクプクというのは鰐のことや」
「ああ」
「このおっさんは、その他に象皮病も持ってるで」
「どこに」
「そこんとこや。その草の下あたり」
フィアウは、緑色の草の束を前にぶら下げていた。帽子とその草を除けば、彼は全裸だったのである。そしてひきしまった腿の付け根には象の皮のようなものが、大きくかたまって、ぶくぶくと腫れ上っていた。ぞっとしながらも、そこは私だって作家だから他の男たちはどうなっているのだろうかと、さりげなく見まわしたところが、男たちは誰もパンツをはいていない。草を下げているのはフィアウだけで、他の連中は股のところに小さな筒のような木の実のような黄茶色のものを一本ぶらさげている。畑中さんの説明によれば瓢箪の一種だということであった。
これはまあ本当に、大変なところに来てしまったものだ、と私はまた溜息が出てきた。
「このフィアウは二年ほど前の戦闘で二十八人のドラムミンを射殺した男よ。あまり賢くはないけど、ものすごく強いらしい。躰つき見てごらん。いい線やろ」
しかし私は彼の男性美を鑑賞する余裕はなく、彼がごく最近、二十八人もの人間を殺したという一言に釘づけにされていた。
「こ、このひと、人殺し?」
「うん。数の中には女子供は入れてへん。女子供の方は、ナタで叩き殺したらしいわ」
「そんな殺しあいが始終あるの?」
「うん、種族間のトラブルはようあるらしい。まだ私は詳しく調べあげてないけども」
「私たちは大丈夫なのかしら」
「そら分らへんで。ずっと前にシシミンから野豚一匹物々交換したんやけど私一人では食べられへんので足一本残してみんなにやってしもうたら、それから二カ月して一人死んだんやて。それが私のスピリットのせいやということになってあるんや。二カ月前に食べた豚でやで。むちゃくちゃやろ。そやからね、いつ石矢が飛んでくるか分りませんよ」
私が蒼くなってきたのを見て、畑中さんは豪快な笑い声をあげた。畑中さんは私と較べるまでもなく小柄な女性なのだが、声だけは大層大きいのである。
「大丈夫やて。ポリスが二人、ライフル持って付いているやないの。安心してなさい」
ニューギニア人のポリスは、制服制帽を着用してピジン英語を話すけれども、彼らの顔もよく見ると、眼の縁に入れ墨がしてあったり、鼻の先に穴があって、この間まで骨をさしていたという痕が歴然としている。しかも彼らは弓矢でなくライフルを持っているのだ。畑中さんがいくら大丈夫だと言っても、私は大丈夫だと思えなかったし、安心しろと言われても私は安心できなかった。
しかしヨリアピというところは飛行機は決して着陸できない谷隙にあり、ニューギニアでは万金を積んでもヘリコプターは呼ぶことができない。外界との連絡は、私が三日間死にもの狂いで歩いたあの五つの山を越えて、オクサプミンというパトロール事務所へ出る以外には方法がない。私はほんの一週間ほどでオクサプミンに戻るつもりで出かけてきたのだが、足の爪ははがれているし、今の状態では、またあの山を越えることなど気力体力ともにとても出来ることではなかった。
このシシミン族と共に、これから私は暮すというのか。
私が最初持っていた好奇心などはけしとんでしまっていた。私は帰りたかった。一日も早く、こんなオッカナイところから逃げ出したかった。しかし帰るには、私の目の前に立ちはだかっているジャングルでおおわれた五つの山々を、よじ登り、すべり落ち、這いまわりながら泥だらけになって、毒キノコに喰いつかれたり、山蛭に吸いつかれたりしながら越えなければならないのである。
もう当分は帰れない……。
このままシシミンの餌食になってしまうのではないかと、私は慄然としていた。子供のことが、しきりと思い出された。ニューギニアというところは子持ちの女の来るところではなかった。畑中さんには悪いけれど、このときの私の正直な気持でいえば、ここは人間の来るべきところではないと思われた。なんという馬鹿だったろう、私は。こんな凄いところへ、私は実に、なにげなく出かけてしまったのだったから。私は東京にいる友だちの誰彼の顔を思い浮かべ、あの人たちはどうして私を引止めなかったのか。中にはジャーナリストも何人かいたのに、あの人たちは、「へえ、ニューギニアへ? そいつはいいなあ」とか、「凄いですね、羨しいなあ」とか、そんな無責任なことしか言わなかった。
つまり、あの人たちは、ニューギニアについて、まるきり無知で認識不足だったのだ。なんという頼りにならない連中だろう。私は心の中で、彼らに当り散らしていた。
見渡せば、ヨリアピは文字通り大自然の中に埋もれていた。目の前にそそり立つ山々は緑という一つの文字では足りないほど、さまざまの緑におおわれていて、どの木も見覚えのないものばかり。川の流れは急で、水の色は泥色、バケツで汲みあげても泥は沈まない。そして暑い。しかし短い日照時間が過ぎると急激に冷える。夜、石油ランプをつければ、見たこともない無気味な虫の大群が襲いかかってくる。ああ、大変なことになってしまった。私はこれからどういうことになるのだろう。
心細さに、そっと畑中さんの顔を見上げると、彼女はにっこりと笑って言ったものだ。
「あんた、よう来てくれたわ。居たいだけ、ゆっくりしてたらええわ。簡単には帰れんところがニューギニアよ」
そもそもの発端から書いておかなければならない。わが畏友、畑中幸子さんは東京大学大学院文化人類学教室に籍をおく一学究である。著書に「南太平洋の環礁にて」(岩波新書)があり、それは彼女の最初のフィールドワークであったポリネシアについて書かれたものである。私とは十数年前、どちらも学生だった頃からの知りあいで、しいて言えば同郷だが、私は紀北、彼女は紀南の出身で、和歌山県民としての共通点はあまりない。畑中さんはポリネシアの次のフィールドワークとしてニューギニアの未開社会を選び、一年ウエストハイランドで過ごしてから昨年(一九六七年)八月まで帰国していた。学位論文を書くのが目的で、そのあと前記の著書も書き上げてから、再びニューギニアへ出かけて行ったのである。
その直前、何年ぶりかで私が会ったとき、畑中さんは論文を書くのに精力を使い果たしたという姿でふらふらになっていた。
「東京は騒がしゅうてかなわん。私はもう疲れてしもうた。早うニューギニアへ帰りたい。ニューギニアは、ほんまにええとこやで、有吉さん。私は好きやなあ」
「そう。そんなにニューギニアっていいところ?」
「うん、あんたも来てみない? 歓迎するわよ」
私はその翌年、つまり今年の前半にインドネシアへの旅行を計画していたので、インドネシアとニューギニアなら地図で見ればほんの五センチほどの距離だから、いとも簡単に畑中さんの誘いに乗ってしまったのであった。
「じゃあ、行くわ。案内してくれる?」
「よっしゃ。これで私はニューギニアでは顔なんよ。これこそニューギニアやというとこ見せたげるわ。プログラムは任せといて」
ということで、私としてはこういう機会でもなければ未開社会は覗けないしという、大層気楽な気持で約束してしまったのであった。
去年の八月、貨物船でニューギニアについた畑中さんから、オーストラリア政府が家を建ててくれた、畑もつくったから、あなたの着く頃は、あなたは私の汗の結晶を食べられるわよ、などという楽しい手紙が届いた。私の方はその頃、芝居の演出があったり、連載小説の完結があったり、新年早々の旅立ち前で忙殺されたりして、東南アジア旅行の予定がきまるとすぐニューギニア到着の日時を連絡した。畑中さんのところから東京までの手紙は、運のいいときで十二日、長くかかるときは二十日間ぐらいかかってしまうので、どちらの手紙も食い違いが多かった。私が日程を知らせて数日後に、「あなた本当に来るつもり?」などという念押しの手紙が来たり、「予定を変更して途中で日本へ帰るときは、すぐ知らせてね。ウイワックまで出るのにかかる五十四ドルがもったいないから」などと畑中さんから言ってくる。後で考えれば、そこの段階で気がついてもよかったのだが、私はその都度すぐ筆をとって、「行くと言ったら行きます」だとか、「予定は絶対に変更しませんから、ウイワックまでは必ず降りて来ていて下さい」などと書き送った。
==つづきは『女二人のニューギニア』でお楽しみください。==

有吉佐和子『女二人のニューギニア』(河出文庫)



















