ためし読み - 日本文学
【全文無料公開】大滝瓶太初SF短編集『花ざかりの方程式』連作第1作「未来までまだ遠い」
大滝瓶太
2026.03.11
『その謎を解いてはいけない』『理系の読み方』など、ミステリ・SF・純文学の三界から大きな注目を集める新鋭・大滝瓶太。
『S-Fマガジン』『早稲田文学』などの雑誌掲載時から、読者の方からきわめて高い評判を呼んでいた、待望のSF作品集『花ざかりの方程式』が、ついに刊行。
論理と切なさがまじわる味わいの、ある同一世界を舞台にした9つの物語をおさめた短編連作。
著者も「これが本当のデビュー作です」と語る、面目躍如のデビューSFです。
このたびは刊行を記念して、冒頭の第1作「未来までまだ遠い」を全文無料公開します。
書名:花ざかりの方程式
著者:大滝瓶太
仕様:46判/並製/264頁
発売⽇:2026年3⽉12日
税込定価:2,090円(本体価格1,900円)
ISBN:978-4-309-03257-3
URL:https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309032573/
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“この世でもっとも厳密な、目に見える星占いはこの瞬間がチャンスです”
天文台から過去を打ち上げ、空から降ってくる未来を撃ち落とす世界。
ふたりのおさななじみアキマサとアキナが語る、夢と希望と将来の物語。
大滝瓶太「未来までまだ遠い」
今夜未来が夜空に流れると教えてくれたアキマサの名前は「明るい将来」と書くけれど、これがなかなか幸薄い顔をしている。といってもそれは見かけのことであって、生まれてから干支がひとまわりしたこれまでのあいだで不幸らしい不幸の経験はないらしい。もしほんとうに不幸なことが起こっていたなら、アキマサがこんなとこにいるなんてありえない。
かれが未来のことを知ったのは今朝のニュースで、もれなく星占いの結果も話のしっぽについてきた。
「アキナのいて座は三位だったよ」
ラッキーカラーは夜よりも深い群青色で、夜更かしをすればステキな出会いがあるらしい。一方アキマサのしし座は十位。だけどその時点でかれは星占いに興味をなくしてしまっていて、ラッキーカラーも起こるかもしれないきょうのできごとも知らないでいる。
「未来が?」
会話的に三歩後戻ったアキナが夕方にはまだはやい秋空をあおぐ。未来なんて過去や現在よりもありふれていてちょっと退屈だと彼女はおもっている。毎月最初の登校日に教室の後ろ側にあるちいさな黒板の横に張り出されるプリントには一ヶ月分の献立が載っていて、次の給食はカレーライスとフルーツポンチ。アキナが好きなメニューだけれど、それにありつくには週末を挟まなくちゃならなくて、そこには三回の夜が含まれている。
目に見える未来なんてなかなかないよね、とアキマサはいうだろう。彼女はカウンターのチャンスを虎視眈々と窺っている。しかしアキマサはなかなかそういってはくれない。そこらへんに落ちている枯葉をむしゃむしゃ食べている。
アキマサはまずいものをうまいとおもいたい。だから家族でお高いレストランにいってもなにも食べないし、下校中は田んぼに入って動物的に食事をする。オオイヌノフグリやセミの抜け殻、オスを食べたばかりのメスのカマキリを特に好んでいて、それは給食とおなじくらいおいしいそうだ。
すなわち、ちょっとメシャメシャしてて、すこしまずい。
「目に見える未来なんて……」なかなかないよね、とアキマサがいいおわるまえに、アキナは用意していた返答を口にする気をなくしてしまう。
ふたりのやりとりはいつもこうだ。子ども特有の飽きっぽさに会話の舵が奪われて、気づいたころには無意味の海に投げ出される。そして訪れるのは沈黙。とおくで草刈機か黄色と水色のコンテナをたくさん積んだ軽トラがゆっくり走る音と、枯葉に飽きたアキマサがズボンの泥を払う音がふたりを気遣うような申し訳なさで空気をゆらす。
天気予報によれば今夜は晴れ。雲ひとつない夜空は夜よりも深い群青色に染まるといった天気予報士の左手の薬指には白銀のリングが雪みたいに光っていた。朝のニュース番組でアキナはそこだけ見たことをぼんやりとおもいだし、そしてすぐに予報以外を忘れる。とにかく今夜はよく晴れるのだ。
ふたりはおさななじみだ。おなじ病院でおなじ日に生まれたみたいなロマンティックなエピソードはないけれど、たがいの人生の大部分をとなりで見てきた。しかしそれなりの運命めいたものをかんじるにはアキマサがまだおさない。恋は知らないし、うんこちんこでよく笑うし、すぐになんでも口に入れたがる。
対してアキナは恋に恋している。高校二年生の姉に彼氏ができたのは一年と三ヶ月前で、世間の狭い田舎ではそんなうわさがすぐに広まる。じっさいアキナよりもクラスメイトのほうが姉の恋愛事情に詳しく、情報源はどうやら兄弟姉妹のうわさ話や手が離れつつある子育てに懐かしささえおぼえはじめた主婦のネットワークとのことらしい。つまり一家団欒の場で情報の集約化が行われ、困惑の笑みを浮かべる父親をさしおいてそれが夕食の特別な一品となって食卓に彩りを添えているわけなのだが、アキナの家ではそれがない。
アキナの父はホラー作家で毎日こわいことを考えていて、締切が近づくとこわいことしか考えなくなって部屋から出てこなくなるし、安定しない収入のためにあくせく地道に働く母の帰りは深夜になる。アキナは母がなんの仕事をしているかわからないけれど、なんとなく立ち入ってはいけない気がしていて、それは姉の影響だ。
その姉はといえば秘密主義者で人間の美徳は秘密にあると信じているが、いつからそんな信仰を持ち始めたのかは彼女自身も知らない。アキナよりも早く目覚めて分厚い化粧をし、アキナの知らない街の高校に通ってアキナが眠ってから帰ってくる。月に一度くらいは家でばったり会うことがあるけれど、特に会話をすることもない。干渉しない、ともいえるだろうか。しかしよくよく考えてみればどうして妹であるじぶんより世間のほうが姉に詳しいのだろうかとおもうことがある。考えられる可能性はふたつ。ひとつは姉の彼氏が街を数個またぐくらいのおしゃべりだという説。しかしそれならば秘密主義者の姉の耳にもすぐ入るだろうし、そうなれば激怒した姉がすぐに関係を終わらせてしまうだろう。
ならばもうひとつのほうが現実的で、みんながみんな想像で話しているだけだという説。これならばたとえ姉の耳に入っても彼女の主義は侵されないし、だれだって姉のことを自由に話すことができる。アキナだってやっていることだ。とにかくアキナは姉の顔も声もおぼえている自信がない。ひょっとしたら存在しないかもしれない姉の彼氏がアキナに姉が姉たる輪郭を与えているならば、恋は感謝に値する。アキナはむかしから生粋のお姉ちゃんっ子なのだから。
「宇宙的にみたら子どもはみんな未来のことが好きなんだ」
テレビのなかでそういった物理学者は年がら年中ハーフパンツを穿いていたおじさんだ。たぶんアキナやアキマサの父親よりもずっと歳上で、夏の夜の花火みたいに眼のなかをきらめかせて未来を語り、かれが語る過去は未来になる。
NHKの科学番組「ニュートンがやってくる」は毎週木曜日の午後八時から一時間放送されて、昨夜の放送は「未来の目視観測」。その時間、アキナはちょうどうとうとしていたけれどもアキマサはしっかり見ていた。アキマサの父親は物理学者で、どうやら血は争えないらしい。アキマサの父親は宇宙のことをそんなに研究しない。固体を宇宙よりもキンキンに冷やすことばかり考えている。
ハーフパンツのおじさんは「未来とは物質なのだ」と説明する。時間に関する研究はこれまでの人類の歴史で幾度となく行われ、そのたびに時間の定義は反復と更新を繰り返し、いまなおそのさなかにある。時間とは平面である、座標である、運動を相対化した際の目盛りである、果ては「神」であるだとか……かれの解説によれば自然科学と形而上学がたがいに侵食しあうこの状況は、「時間=情報」の図式によって作り出されている。
「情報にはかたちがないですからね。だからどこにでもあるのに、ニュートリノよりも捕まえるのがむずかしいんです」
だから時間が情報じゃなければそうはいかなくなる、とテレビのなかでハーフパンツのおじさんはしゃべっている。テレビカメラはアキマサの家の手のひらにおさまるデジカメなんかよりずっと高精度だ。口から飛び出す唾の飛沫もはっきり見える。話は続く。ここからが長い。ビッグバン、超ひも理論、一般相対性理論、そんな華やかでえげつないことばがぽんぽん飛び出してきて、光の速さで視聴者を過去へと置き去りにしてかれはしゃべる。要点はこう解釈できるだろう、すなわち、宇宙は広い。だからあらゆる時間が粒子として宇宙空間を飛び回っている可能性はゼロじゃない。
人間が想像できるすべての事象がこの宇宙にはすっぽり入るのだ。
「過去を夜空に放つと、降り注ぐ未来と衝突します。衝突によって発生したエネルギーが光となってわたしたちの目のまえに、それはそれはきれいに現れるでしょう。流れ星ですね。願いごとを用意しておきましょう」
そのことばでハーフパンツのおじさんはテレビから姿を消した。
「過去を? 夜空に? 放つ?」クッションを抱きながらソファに深々と腰掛けていたアキマサは、クッションをより強く抱きしめてくるりとうしろを振り向き、労働のあとの晩酌と洒落込んでいる父親にたずねる。「どういうこと?」
「かんたんなことが一番むずかしいのさ」と物理学者の体裁をとりつくろって父親はいう。「重力があるからあたりまえのようにリンゴは木から落ちる。だけど重力がなんなのかっていうあたりまえのことを正しく説明できるひとはまだこの地球にいない。そういうもんだって信じるからこそ、世界はすがたかたちをひとつに決めてくれる」
「ひとつ? 世界が?」
「ああ、」父親は軽くなった缶ビールを耳元で揺する。「とりあえずはね」
アキナは完全に眠りに落ちて、日付が変わるまえに目を覚ます。
アキナの父親はホラー作家だけれども、世間的にはSF作家かもしれない。唯一のベストセラーは夕食をひとりで食べる少女が何人も誘拐される物語なのだが、これがSF作品として大きな賞を受賞したのだ。物語の規模が世界全体じゃなく、アキナたちが住むちいさな田舎町で起こった事件だとしたら、きっとこんなに評価されることはなかっただろう。
このことについて、作者本人はこう述べている。
「よくわからない場所でよくわからないことが起こるからこわいんだろ?」
家庭崩壊とまではいってなくても(すくなくともアキナは団欒が損なわれた家庭に特別な不幸を抱いたことはない)、夕食をひとりで過ごす恐怖から逃れるために(もちろん父親の唯一のベストセラー小説であるあの物語の影響だ)、午後六時にアキマサの家にいく。徒歩五分もかからない距離だ。つまり「ニュートンがやってくる」が放送されていたとき、彼女はアキマサの家にいた。目を覚ました頃にはアキマサもおじさんももう布団のなかだから、こっそりと、できるだけ音を立てないようにして家を出ていく。お風呂はじぶんの家で入る。十本に一本の割合で白髪がまじった母親の髪の毛が、排水溝で鳥の巣を作っている。
アキマサは父子家庭でほかにきょうだいもいない。母親はかれを産んですぐに死んだ。彼女はもともと身体が弱かったという話を父親から聞いたアキマサからアキナは聞いたことがある。アキマサはそれゆえに母乳の味を知らないことを気にしていたが、アキナはそんなのわたしだっておぼえてないしといって励ました。もちろん、かれの気がまだ晴れていないことに気づいているが、これ以上かれの力になってやることなんていまのアキナにはできない。ひとりでずっとぼんやりしているか、悟られないように落ち込んでいるかしているかれの姿を見るたびに、どうにかしてあげなくちゃいけない責任感が胸のうちに広がっていく。そんなことをもう何年も彼女は続けている。
こういうアキマサの性格はすべて父親ゆずりのものだ。それというのが生まれ持ったものであろうとも生活のなかで後天的に備わったものであろうと、どちらにしてもその源流は父親にたどり着いてしまうのだから。かれの父親には世界を股にかける冒険家の勇敢さと、じぶんの一挙手一投足がこの終末の引き金を引いてしまうかもしれないという尊大な自尊心と、血の繫がった息子とさえ目を合わせてしゃべれない小心さがあり、それはきっちりかれの仕事ぶりに反映されている。どこまでも自信過剰で、年がら年中ひもすがら誇大妄想にとりつかれて、たまにしゃべったかとおもえばなにかの比喩のようなはっきりしないことばかり。年々減っている発表論文の数に反比例して寿命がつきるまでにはとうていやってこないような未来がふくらんでいく。土や草を食べるのをアキマサに教えたのもとうぜんかれだ。
とはいえ、アキマサはなんだかんだでかしこい。テストでは満点しかとったことがなくて、それゆえになにが苦手でなにが得意なのかはアキナもわからないけれど、たぶん算数や理科が得意だろうとクラスメイトたちはおもっている。そしてそれはすくなくともまちがってはいない。
かれにはちょっとした特技がある。舌でペロッと液体を舐めれば、味で酸性かアルカリ性かがわかるのだ。それは小学校低学年のときから実はできていたのだけれど、「リトマス」というあだ名をつけられたのはまわりの学力がおいついた小学五年生のころ。こういうやつはいじめられっ子と相場は決まっているのだが、アキマサは人気者だった。じっさい、アキマサを主人公としたノートに描かれたマンガ「リトマスくんのだいぼうけん」がクラスで回し読みされている。クラスは二十五人。だいたいひと月に一度ノートはまわってきて、月の満ち欠けとおなじ周期で新作が出る。描きあがるのは新月の日。つまり今日だ。
アキナがこの日アキマサの家でつくったのはカレーで、弱酸性の味がしたが悪くはなかった。時刻は八時五分前。まだアキマサの父親は帰って来てなくて、アキナのスマホに「先に食べてて」とLINEがきた。その直後に全身白タイツのうさぎが険しい顔をしてはしゃいでいるスタンプ(アキナ談)がくる。そんなとくに必要のないものをあえて送ってくることにアキナは「姪っ子以上わが子未満」の関係性を読みとる。だから彼女はかれにほんとうにかわいいうさぎのスタンプを送ってやる。このやりとりが彼女とかれの距離を永遠に一定に保っている。そしてカレーを食べ終わったころにまたしてもLINEがくる。「今日はたぶん帰れない」。この「たぶん」に意味はない。
テレビはどのチャンネルも今夜降り注ぐという未来についての特番だ。ふたりはリビングのくたくたになったふたりがけのソファにどっぷり座ってそれを見る。アキマサは真剣だ。まるでアキナがとなりにいないみたいに、世界には視線の先のテレビしか存在していないみたいにじっと見ている。アキナは「リトマスくんのだいぼうけん」が気になっている。今回はだれが描くんだっけ?
「リトマスくんのだいぼうけん」には特定の作者がいない。そのため統一的な物語はなく(良くいえば「読み切り作品」だ)主人公のリトマスくんさえちゃんとしたキャラクターデザインがなされていないが、毎回幸薄そうな顔をしているという共通点がかろうじてある。そしてこれは前の学年のときに使い切れなかった科目のノートをちぎった紙にだれかが描きはじめて、だれかが続きを描いて、それがたまたままだ途切れていないだけの不定期連載マンガだ。アキナもアキマサもまだじぶんで次の話を描いたことはなく、毎回たのしみに読みはするけれどじぶんで描くなんて考えたこともない。前回のお話はリトマスくんの初恋の物語で、たぶんこれを描いたのは女子だろう。男子には早すぎる。
前回の筋書きはこうだ。なにかと不在にすることが多い親を持つリトマスくんとハルコは毎晩いっしょにごはんを食べるようにしている。リトマスくんは塩化ナトリウム水溶液があればじゅうぶんだよ!と顔を真っ赤にしていうのだけれど、ひとりじゃ片付けひとつできやしないかれのめんどうをしっかり見なきゃ!という使命感がハルコにはある。もし一日でもかれをひとりにしてしまったら、きっと明日にすらいけずにひとりで今日に閉じこもってしまうかもしれない。ある日、ハルコがつくった弱酸性のカレーを食べ終わったあと、リトマスくんは彼女を家の屋根で天体観測をしようと誘う。その日は新月で、街が眠るのもいつもより三時間はやかったから星がよく見える。かれは望遠鏡を持っている。もちろん厳密にはかれのものじゃなくて父親のものだけれど、どうやって使うかは父親よりも詳しい。組み立てかたもバラしかたも完璧だ。ハルコはかれの提案を快諾する。屋根にのぼると、リトマスくんはスナイパーが屋上で準備するみたいに、このときをまっていたかのようにてきぱきと準備をはじめる。望遠鏡はBSアンテナのとなりに立つ。空はよく晴れている。星がありえないほどまぶしく輝いているけれど、地上は真っ暗だ。だからリトマスくんは懐中電灯をずっとつけている。ときどきじぶんの顔だけをパッと照らしてこわい顔をしてみせたりして、ふたりはだれにも気づかれないように親密に笑う。時刻はもう子どもが起きてちゃいけない時間だ。そこでリトマスくんは懐中電灯を消し、物語に満天の星空を置き去りにしてふたりは退場する。
「世界各地の天文台にはいままさに過去が発射装置に詰め込まれているところで、一時間後から十五分おきに夜空へと射出されます」
テレビのなかのリポーターのトレンチコートが夜風で右に左に揺れている。まだ寒くはないけれど、けっしてあたたかくはない。世界中で世界中の過去を発射する量産型の大砲は想像よりも何倍もちいさくて、テーブルの上に置いてもぜんぜんだいじょうぶそうだ。過去ってそんなものなのだろうか。
「このおおきさでだいじょうぶなんです」
そこでテレビにあの科学者があらわれる。あいかわらずハーフパンツだ。過去にはおおきさなんてありませんから。アキナはたとえ過去におおきさがなくったって、せめて大砲はおおきくあってほしかった。アキマサは弾かれたようにソファから飛びあがり、二階へと走っていく。アキマサの家には望遠鏡なんてない。つけっぱなしのテレビはアキマサの行動に一切の興味を示さない。
「過去は重力や量子効果の影響をわずかにうけながら曲率半径七億キロメートルの丸みを帯びた軌道を描きます。すると時間軸のあちら側からやってくる未来に正面からぶつかってちょっとした流れ星のようなものが肉眼でもはっきり見えるでしょう。この世でもっとも厳密な、目に見える星占いはこの瞬間がチャンスです」
そこでアキマサは階段のうえから叫ぶのだ。
「なにしてるの? はやくきてよ。屋根にのぼってまってるから!」
「ちょっとまって、」アキナはじぶんでも聞いたことのない大声で叫んでいた。「まだ願いごとが決まってないの!」
そんなもの、まともに考えたことなんて一度もない。
アキナの父親はいまあたらしい小説を書こうとしている。例によってホラー小説で、まだタイトルは決まっていないし、最初の一文すら書きはじめられていない。しかしあらかたの構想はできている。ご近所さんの家庭をモデルにした死者に生者が恩返しをする物語で、それはかれがずっとまえから書きたいとおもいつづけていたやつだ。その死者はもちろん死ぬまえは生きていた。しかしある日突然おおきな恩だけを主人公に残してこの世を去ってしまう。かれはこの物語におそろしさを見出そうとする。おそろしいのはそいつが死んでしまったことだろうか、それとも恩を残されてしまったことだろうか。こんなことを迷っているうちにもう十二年の時間が流れていた。かれは部屋の外にでない、窓も、分厚い遮光カーテンも閉めきっていて、とうぜんいま下の娘が近所の男の子の家の屋根のうえに座っていることなんて知る由もない。
アキナとアキマサが座っているのはBSアンテナのとなりだ。アキマサは衛星放送をふだんみない。みるとしたらかれの父親が夏の甲子園をBS放送でみているときだけだ。そっちのほうが甲子園球場の黒土がきれいに映るんだと父親は一年に一回、お盆まえにいう。かれの家はあまり熱心じゃないキリスト教徒で、カトリックかプロテスタントかもふたりともよくわかっていない。だけど仏教は信じない。アキマサがくしゃみをする。アキナもつられてくしゃみをする。夜よりも深い群青色が世界を包み込んでいて、光の粒が空のうえやしたでかろうじて闇をおしのけている。こんな田舎のくせに、地上の光はまだ消えようとしていない。
「まもなく五分前となりました」アキナはさっきリビングでアキマサがみていた特番をスマホでつけてやる。手の届く範囲で自発的に光っているものはそれだけだ。アキマサはそれをのぞきこんでいる。画面はかれの頭で隠されてアキナには見えない。夕飯の弱酸性のカレーのにおいがする。しかしそのにおいの適切な比喩を彼女はおもいつけないでいる。わたしがつくったカレーだと意識的に彼女はおもう。「ところで過去とはいったいなんなのでしょうか?」
「結晶化した世界です」あの物理学者はいう。「わたしたちが視認できるすべては物質で、無限に広い宇宙のなかにはすべての実現可能な世界が含まれています。パラレルワールドなんてありふれたものから、係数の異なった万有引力が支配する世界も、死者が死者として死を生きる世界さえも。しかしまだそういう未来はかたちになるには遠すぎます。時間は連続的な変化を好みますので、過去というのはそういう意味で時間を方向づけるものでもあります。わたしがこうやってひとことずつしゃべる現在は、結晶化した世界が未来とぶつかる特別な一瞬です。微分不可能な、ちょっとした特異点です」
「切っていいよ」
まだハーフパンツのおじさん物理学者は饒舌にしゃべっていたけれど、アキナはアキマサのいうとおりにした。その直後、姉からLINEがくる。いまどこにいるの? これまで一度だってそんな連絡したことないくせに、なにをいまさらいいだすのだろうか。アキナはスマホ本体の電源まで切る。そしておもう。わたしはお姉ちゃんっ子だったはずなのに、いつからお姉ちゃんがきらいになったのだろうか? なにかがたしかに変わっている、そんな気配が物質的な手触りとしてかんじられる。
「アキナはさ、」アキマサがいう。「願いごと決まったの?」
「うーん……」彼女はこたえる。「よくよく考えたら、そういうのってないんだよね。だってなるようになるし、なるようにしかならないんだし」これは彼女の母親の口癖だ。「アキマサは?」
「ぶっちゃけわかんないんだよね」アキマサは苦笑いをする。アキナにかれの表情はみえないけれど、したこともない顔をしているのがわかる。だけどかんたんにどんな顔かは想像できる。だってかれは幸薄い顔をしているのだから。「こうなってほしい、っていうのより、こうだったらよかったな、っていうのばっかりなんだよね」
「きっとあんた、科学者にも作家にも向いてない気がする」
「うーん、そうかな」
「そうだよ。あんまわかんないけど」
「でも過去って一番遠い未来だよ」
「でも?」
腕時計で光る蛍光色の数字を見せながら、アキマサはくちびるのまえで指を一本立てる。アキナはその瞬間、すべてのつぎのことばを忘れ去る。夜空も街もなにも変わろうとはしていない。アキナは星占いをおもいだす。ラッキーカラーは夜よりも深い群青色。夜更かしをすればステキな出会い。アキマサは腕時計を彼女に向けたまま、カウントダウンをはじめる。
5、
4、
3、
2、
1、
雲ひとつない予報通りの快晴の夜空。地球の丸みに隠れてふたりの街からみえない大砲の火花とともに、撃ち落とされた未来のいまこの瞬間が過去のほうへと流れてゆく。
〈了〉
==ほか収録作品はぜひ本編でお楽しみください。==

書名:花ざかりの方程式
著者:大滝瓶太
仕様:46判/並製/264頁
発売⽇:2026年3⽉12日
税込定価:2,090円(本体価格1,900円)
ISBN:978-4-309-03257-3
URL:https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309032573/
※電子書籍は4月以降に発売いたします。詳細は各電子書籍ストアにてご確認ください。


















