ためし読み - 海外文学
【なんと即重版】ボルヘス、澁澤龍彦、乱歩が憧れた男、日本で初文庫化! 重版御礼 本編無料公開
マルセル・シュオッブ著 西崎憲訳
2026.03.13
古今東西の歴史・神話・芸術・哲学への驚異的博識のもと、硬質で緻密な幻想世界を創り上げ、澁澤龍彦、江戸川乱歩、倉橋由美子、ボルヘス、ボラーニョなど、錚々たる作家たちに多大な影響を与えた、「幻想文学最深奥の短篇作家」マルセル・シュオッブ。
3月6日に刊行した、新訳5編を含む文庫初のオリジナル傑作選『黄金仮面の王』は、シュオッブ初の文庫化ということで刊行直後から大きな話題を呼び、発売後5日という驚異的な速さで重版が決定しました。
このたびは重版を記念し、西崎憲さん新訳「地上の大火」の冒頭を公開します。

マルセル・シュオッブ『黄金仮面の王』
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遥か未来の燃え盛る終末世界
信仰が絶え、悪徳が蔓延り、嵐と隕石が降り注ぐ中
少年と少女がふたり、逃避行をはじめる——

地上の大火
ポール・クローデルに
これまで世界を導いてきた信仰が最後の力を振り絞ったが、ついに立て直すことはできなかった。新たな預言者が登場しては無為に消えていった。人の意志の謎は無理矢理解き明かされたが、それも無意味だった。もうそれは重要ではなかったのだ。意志というものが世界からなくなりかけていたのだから。あらゆる生き物の活力がいま尽きようとしていた。未来の宗教を作るための全身全霊の努力も実を結ぶことはなく、人は自己本位の感覚のうちに安穏として埋没した。情動の噴出はいかなるものでも認められた。世界は微温のうちに止まり、凪がつづいた。巨大な毒草の無自覚さで悪徳が蔓延った。背徳が法となって事物を治め、偶然が生を司る神となった。科学は迷信的信仰によって蒙くなり、偽善的な心性や感覚が触腕となってそれに仕えた。嵐とまがう雨の日々のうちにかつては明確だった四季は溶けた。明確なものはなにもなかった。伝統もなかった。ただ遺物の陳腐な混淆があり、曖昧さの王国があった。
激しい雷鳴の一夜があって、それはまるで崩壊の予兆のようだった。地上の腐敗を源とした未知の嵐が天からやってきた。冷気と熱気、太陽光、雪、雨と光、それらすべてが融合し、突如破壊の力に変異した。
無数の隕石が群れて落下するようになった。暗い空に光の傷を残し隕石は落ちてきた。星々は炬火のように燃え、雲は炎の運び手となり、月は赤い火床と変じ、五彩の火花を発した。ことごとくが貫かれ、眩暈を起こし、身を覆っても苦痛からは逃れられなかった。そして開いた夜がふたたび閉じた。すべての火山は天に向かって灰を吐き、渦巻くそれらは柱となり、色は玄武岩の黒で、超地球を支える柱とも見えた。くすんだ粉塵の雨が天に向かって降りそそぎ、土が舞いあがって雲となり、地上を覆いつくした。
夜は過ぎたが夜明けはこなかった。大気は燃えていた。黒い粒が宙を漂い、ところかまわず付着した。人々は地に平伏した。逃げ場はなかった。教会や修道院や僧院の鐘は不規則に鳴り響く。鐘の舌は超自然のなにかの舌だった。城壁の都市に砲声が響いたが、それは空砲で、大気を浄化しようとする試みだった。それから赤い球体は西の縁に近づいた。一日が過ぎ、まったき沈黙が地上に訪れた。祈りや懇願のための力を残しているものはもう誰もいなかった。
やがて熱塊が暗い地平線に没すると西の空に火の手があがった。火は布を広げるように太陽の道を遡行した。天と地の大火を目のあたりにして人々は逃げ惑った。ふたつの小さな姿が低い窓から飛びだし、そのまま全力で駆けた。汚れた斑の大気にもかかわらず、少女の髪は輝くばかりの金色で双眸は澄んでいた。少年の皮膚は黄金を思わせ薄い色の巻き毛は透き通り、ヴェールのようなその髪のうちで不可思議な光が、紫色の煌めきがもれでていた。ふたりはなにも知らなかった。少女も少年もどちらも。ふたりは子供時代を抜けでたばかりで、家が近いこともあってきょうだいのような愛情をいだきあって育った。
手をつないで暗い通りをつぎからつぎへと駆けぬけた。屋根や煙突を忌まわしい光が舐めていた。人は道に倒れふし馬もまた倒れ痙攣していた。高い城壁を走りぬけ、外にでて、東に向かった。火のないほうを目指した。
川がふたりを押しとどめた。速い水をたたえたそれは不意に現れ、行く手をさえぎった。
しかし岸辺に一艘の小舟が見えた。ふたりは小舟を流れに押しだし、飛び乗り、川に命運をゆだねた。
竜骨を摑んだのは川で、舷側を摑んだのは風だった。小舟は投石器から放たれた石のように奔った。
それは長年漁師の五体で擦られ磨かれた褐色になった舟だった。擦りきれた櫂座、網の往復で艶のでた舷縁——滅びつつある文明の、素朴で誠実な道具そのものだった。
ふたりは舟底に横たわった。手を握りあい行く手に待ち構える未知に体を震わせた。
舟は疾く走る。渦巻く火の嵐のもと、ふたりを謎めいた海まで運んだ。
目をさますと荒涼とした海原だった。小舟の周囲に見えるのは色の抜けた海藻の山であり、泡が乾いてできた粘りつく溜まりであり、海の生き物の腐った残骸だった。薄紅の海星あるいは虹色のなにかといったものの。白い腹を見せて死んでいる小さな魚を小さい波が遊ばせていた。
空の半分は火によって覆われていた。火は着実に領分を増やし、灰色を喰いすすめていた。
ふたりの目に映じるほかのすべてと同様に海は死んでいるように見えた。海の吐く息には腐臭が混じり、半透明の内部に濃い青や深い緑の脈が見てとれた。しかし小舟はただその面を辷っていった。
東の水平線に青い輝きが見えた。
少女は手を海水に浸したがすぐに引きぬいた。海はもう熱かった。一気に沸騰するのかもしれなかった。
南の果てに薄紅の靄に縁取られた白い雲の山脈があることに気づいたが、それが熱を帯びた水蒸気なのかどうかはわからなかった。
周囲の静寂と空を喰いすすむ火はふたりの体を竦ませた。これまで耳を埋めていた悲鳴めいた音のほうがまだましだった。風の音に混じって聞こえたあらゆるものの喘鳴の総和のような声のほうが。
海の縁と灰色の半球の縁が接する場所、まだ薄暗く残る境、そこに切り開いたような隙間があり、かすかな青がのぞいている。円の一部である青、それは新しい世界へつづく入り口と見えた。
——見て、少女はいった。
背後の海面を霞が覆っていた。霞は空の色を薄めた色でいま震えている。燃えていたのは海だったのだ。
なぜすべての場所で崩壊が起きているのか。熱い大気のなかで立ちすくむふたりの頭は脈打っていた。増殖した問いで満たされていた。ふたりにはわからなかった。どんな間違いが犯されてきたのか察することはできなかった。生がふたりに至った。ふたりの時間が足を速めた。世界が燃えあがるいまこのとき成長がふたりを捉えた。
長いあいだ人に尽くしてきた舟のなか、小さな生活を援けてきた原始的な道具のなかのふたりはひどく若いアダムでありひどく小さなイヴであり地獄と化した世界の唯一の生き残りだった。
空はいま火の巨大な円蓋だった。水平線にただひとつ青い輝点が見えたが火の瞼はいましも閉じようとしていた。海が怒号をあげて迫ってくる。
立ちあがって少女は服を脱いだ。ふたりの剝きだしの四肢は細く滑らかで源のわからない光に照らされていた。ふたりは手を取り、キスをした。
——さあ、愛しあいましょう、と少女はいった。
(西崎憲訳)
==続きは本編でお愉しみください。==





















