ためし読み - 日本文学

ひとり暮らしの大学生のもとにマリリン・モンローから電話がかかってきて…!? 山内マリコの最新長編『マリリン・トールド・ミー』本文ためし読み、無料公開中!

地方から上京したのにコロナ禍で家から出られない、ひとりぼっちの大学生・杏奈のもとに、なんと伝説のハリウッドスター、マリリン・モンローから電話がかかってきて ―― !?

70年前のスターの孤独と、現代の大学生の孤独がマジカルに交錯して、杏奈はそれをきっかけに人生の舵を大きく切っていく、“運命突破系”青春小説です。

山内マリコさんの新たな代表作となる一作。ぜひお楽しみください。

===ためし読みはこちら↓===

 

マリリン・トールド・ミー
山内マリコ

 

 

 

二〇二〇年・春

 

 三月十二日、登録したばかりの学生用アドレスに大学からメールが届く。「新型コロナウイルス感染症の拡大により、本年度の入学式は中止いたします」。コロナ、なんか思ってるよりだいぶ深刻なんだって、はじめて焦った。

「ママ、このスーツどうしよ」
 和室に掛けてある、AOKIで買ったリクルートスーツを見上げる。中に着るブラウスと靴とバッグ、あわせて四万円もした。
「ちょっと待ってね」
 ママはこたつに入ってスマホに目を落としたまま言う。Twitter 検索でみんなの状況を調べてるんだ。ママはこのところツイ廃気味だ。コロナでライブとか次々延期になってるから、入学式もやらないかもねって予言してたけど、本当にその通りになっちゃった。
 先週ドラッグストアに行ったとき、マスクとか消毒用アルコール買っとく? って訊いたら、えーこんなん二週間くらいで収まるでしょって言って買わなかったのを、ママは死ぬほど後悔してた。マスクなんてもうどこを探してもない。
 あたしはこたつの天板にほてった頰をのっけて冷やす。不安だ。けど、こたつは気持ちいいな。ずっとこうしてたい。とける~。高校の卒業式も中止だった。でもあたし、高校はもういいやってなってたからな。あんまショックじゃなかった。クラスの子とノリもなんか合わなくて、青春ぽいこともほとんど起こらなかった。中学のほうがよっぽど楽しかった。それが、高三の春に担任から推薦の話を持ちかけられて、未来がいきなりパァッと拓けた。おい瀬戸、このまま成績落とさなかったら、東京の私立大に推薦できるぞ、って。
 東京の大学……⁉
 ママはその話に目をきらきらさせた。東京へ行くことも、大学に入ることも、ママが若い時にしたかったけどできなかったことだから。女は親元に残るもんだ、短大で充分だと言われて地元から出してもらえなかった恨み話を何度も聞かされた。だから、「杏奈は好きに生きなね」って、ママは口癖みたいに言った。
 叶えられなかったママの夢・第二弾は、母娘二人だけで暮らすこと。昼職と夜のスナックを掛け持ちしながら、いつかおばあちゃんの家を出て二人で暮らそうねって、よく小学校の頃は言ってたな。そしてこの一年は、杏奈を大学まで出すことが私の夢、と言うようになった。
「うーん、あんまりわかんないな」
 ママはスマホを置いて言った。「"新入生 引っ越し"とかで検索したけど、みんなどう動こうか迷ってるみたい。ねえ杏奈みかんとって」
 あたしは手を伸ばしてダンボール箱に入ってる有田みかんを二つ、ママにパスした。ついでに自分にも二個。剝いて、半分にしたのを口に放り込む。スイーツくらい甘くてほんと美味しい。
「東京行っちゃっていいのかなぁ」
 このところ、ずっとそれで悩んでる。東京までは深夜バスで六時間。Google Mapsで調べると、大学近くの下宿先は東京駅からさらに電車で一時間以上かかるみたいで気が遠くなる。このままずっと家にいたいな。けど、入学金二十四万円、もう振り込んじゃったしな。
「入学式はどこも中止だね。けどさすがに授業はあるでしょって」
「うー……」
「どうしたらいいんだろうね」
「どーしよ」
 あたしは寝落ちしかけの、気持ちよさの中をたゆたった。
 秋に推薦入試、年末には合格通知が届いた。そのタイミングでママが母子家庭の大学無償化の話を Twitter で知って大慌てで調べたけど、前の年に申請しとかなくちゃいけないことがわかって詰んで、貸与型奨学金を借りようってことになった。自宅外通学の私立で貸りれる、最高月額六万円一択。
 進路も決まったし、二〇二〇年がはじまってからはずっと暇だった。いまさらだけどSNSにでも力を入れるか。若い世代への影響力が絶大なことで知られるあのインフルエンサーの正体、実はあたしでした! みたいな展開を夢見たけれど、結局フォロワー数二桁の死ぬほどしょぼいアカウントを放置してる。三学期は一瞬で終わった。途中からコロナで休校になって、卒業式もなくなって、ぐだぐだで解散。
 テレビではずっとダイヤモンド・プリンセス号が横浜港に停泊しているニュースをやってた。首都圏はもうコロナ蔓延って感じ。ついにうちの県にも感染者が出て、村八分かよってくらい責められてた。愛知ではコロナにかかった五十代の男が「ウイルスをばらまいてやる」と飲食店にやってきて騒ぎを起こしていた。ニュースで流れた映像、飲食店っていうのは、どう見てもスナックだった。
 ママが同じ目に遭ったらと思うと死ぬほど怖い。昔から、ママが不幸な目に遭うことを極端に恐れてる。交通事故とか、変な男に刺されるとか。ダークな想像力がやばい。あわてて頭をふってかき消すのが癖。
 けどママの前ではそういうナイーブなところは出さないようにしてた。メンタルがタフな娘を演じるのはお手のものだ。子供の頃からずっとそうだった。ママが夜中、酔っ払った勢いであたしに抱きついて、さみしい思いをさせてごめんねって言ってきても、ちょ、待って待って、さみしいとか別に思ってないから、なんてわざと小生意気な言い方でつっぱねた。ママはお酒が入るとしんみりするタイプ。しくしく鼻をすすりながら、「ごはん作ってあげられなくてごめんね……」とか言い出すから、あたしはフットボールアワー後藤くらいの速度で「ハァ?」って言う。「いやおばあちゃんが作ってくれてるし! ていうかさぁママ、そんないかにもシングルマザーが言いそうなフレーズ、どこで覚えてきたの?」。弱い部分のあるママをサポートする、しっかり者の娘。っていうアイデンティティ。
 そういう生活を、このままずっと続けてもよかったんだけどな。一生。死ぬまで。なんとなく流れで、東京の大学に行くことを決めてしまった。けど、どうなるんだろ。住むところも決めて、引っ越しも手配済みだけど。ニトリで家具を買って、ヤマダ電機の新生活応援セールで冷蔵庫と洗濯機と電子レンジを買って、AOKIで入学式に着て行くスーツを買った。準備万端。
 三月末。やっぱり予定通り、東京へ行くことになった。
「とにかく、コロナに罹らないように気をつけてね。しばらくは食べるものだけ買いに出て、あとは部屋に引きこもってるのよ」
 ママはそう言ってあたしを送り出した。
 夜中、駅のロータリーで、夜行バスの窓に向かって手をふるママは、マスクをしてなかった。家にほんの少し残ってた買い置きの不織布マスクを全部あたしに持たせて、ママは大丈夫だから行きなさいって、笑って手をふってた。

 

 部屋ちっさ。家賃四万八千円、1K、十八平米、オートロック付き。その情報だけ見て決めたアパート。ベランダの窓を開けると、あたしの地元なのってくらい田舎じみた景色が広がってる。本当にここ東京? 東京って名乗っていいの?
 靴三足でいっぱいの玄関、IHコンロが一口だけの小さなキッチン、黄ばんだユニットバス、レールの滑りが悪いクローゼット、カビ臭いエアコン。フローリングの床が冷たすぎて、足の指を丸めて歩く。
 あたしはさっそくママにLINEのビデオ通話でルームツアーした。
「見てこれ、クローゼットかわいくない⁉ ほら、床もフローリングだしめっちゃいい感じだ。キッチンはね、こんな。まあそんな料理しないし、ちょうどいいかな」
 画面の中のママは心配げ。もう、そんな顔しないでよ。
「フローリング冷たいんじゃない? ホットカーペットとか買って送ろうか? あぁーカーテン寸足らずじゃない。それじゃ冬寒いよ。防犯的にも心配だし。ねえすぐ測り直して。こっちで買って送るから」
「いいってば。全然これで大丈夫だから。無駄なお金つかわないで」
 ただでさえ、このところの出費にあたしは胸を痛めてるんだから。家具も家電もスーツも、とにかくいちばん安いやつにした。カーテン買うときもけっこうもめた。あたしが柄が入ったかわいい系のやつを欲しがると、こういうカーテンだといかにも若い女の子が住んでるって、外から見えてバレバレだからダメって。結局、無難なクリーム色の遮光カーテンを買ったけど、足元が十センチくらい浮いてる。
「なんか殺風景だね……やっぱりテレビあった方が気が紛れるんじゃない?」
「いらないいらない。邪魔だもん。スマホあればいい」
「そう? あ、ホイップ連れて行ったんだ」
 ビデオ通話の画面にちらっと映った、マルチーズのぬいぐるみを見てママが言った。ホイップクリームみたいに真っ白い犬だからホイップ。あたしの心の友。
「やだホイップ、画面越しに見るとほんと汚れてるわ」
「ひどい!」
「手垢まみれだ」
「あたしの愛情ね!」
「クリーム感がない。板こんにゃくの色してる」
「最低なんですけど~」
 笑ってじゃあねって言って、通話を切った。
 小さい頃からホイップに向かって誰にも言えない打ち明け話をしてた。ホイップを顔に近づけて、あのね、それでね、って。ホイップは見た目ただの白い子犬だけど実は賢者キャラ。中身はダンブルドア校長みたいな真っ白い髭のおじいさん。知能が高くて信頼できる。キャパがバカでかい。あたしのたいていの悩みはホイップが解決してきた。さすがに高校に入るとそういうことはもうやめてたけど、荷造りしてるとき、久々に目が合ったんだ。
「……ホイップも来るかい? 一緒に来てくれる?」
 そうして、ダンボール箱の隙間に入れて東京に連れてきた。
 あたしは一人っ子だし、家に一人でいるのも慣れっこだから、一人暮らしも平気って思ってるけど、やっぱりちょっと、不安は不安。だから、あると安心できそうなものはなんでも持ってきた。プリンセス・テレフォンっていう、ピンクの古い電話機もそう。これはママが若い頃、本当に電話として使っていたもので、あたしが大昔、押入れで発見した。
「うっわ! 懐かし~」
 ママはあたしが好きなアニメとかも好きだけど、結局いちばんテンションが上がるのは、懐かしいものに対してだ。ウェスタン・エレクトリック社製のプリンセス・テレフォン。大好きだったアメリカン・ヴィンテージの雑貨屋さんで買ったものらしい。
「これで友達と長電話したなぁー」
 ママは電話機を抱きしめるいきおいで言った。
 あたしはその言葉から、若い頃のママを想像する。自分の部屋で一人、ベッドに寝転がって脚をバタバタさせながら、友達と長電話してるところを。なんだかママが主人公のドラマを見てる気持ちになる。
「杏奈もその電話でお喋りしてたの憶えてない?」
 ママがくすくす笑って言う。
 記憶にはないけど、ママはいまだにあたしの子供時代の可愛かったエピソードとして、電話で架空の友達とお喋りしてた話をした。いやだから憶えてないって。それでもママは何度もくり返し、あたしにその話をした。プリンセス・テレフォンの受話器を耳に当てた五歳か六歳くらいのあたしが、「ええ、そうそう、そうなのよ。いやになっちゃうわ、まったく」なんて大人の女の口ぶりで、誰かと話しているのを。ママは可笑しそうに、愛おしそうに、しょっちゅう思い出して語った。

 

 四月七日、緊急事態宣言が出た。
 首相の会見動画を見ながら、えっと、これはいったいどうしたらいいんだろうって、意味がわからなくてずっとドキドキしてる。急に自分がちっぽけに思えてくる。戦争ってこんな感じだった? これから世界はどうなっちゃうの? あたしは? あたしの大学生活は?
 高校のクラスメイトのLINEグループは地元組の子たちだけでなんか盛り上がってて、メンタルによくないからミュートした。この状況で親元にいられるなんて羨ましくて死ぬ。でも、ママから心配そうなLINEが来たら、「え、寝てた」とか「よゆー」とか打って鈍感な子を演出しとく。
 大学から届くお知らせは、とにかく行動を自粛せよの一点張りだ。世間では大学生がクラスターを起こしたとすごく叩かれていたから。あたしは Twitter で、大学に一度も行けてない大学一年生を探し、手当たり次第にフォローした。みんなが不安で不安で仕方ないのを見て、よかった同じだって、ほっと胸を撫で下ろした。
〈みゆち〉は、深刻なさみしがりやさん。「もうやださみしい一人無理」とつぶやいてるのを見つけてフォローした。不安定そうな子だから面倒な絡み方されたらやだなと思ってリプは送ってないけど、いいねをつけて、心の中で「あたしもだよ」と、いつもささやいてる。あたしもさみしいよ、あたしもキャンパスライフに普通に期待してたよ、あたしも奨学金借りちゃってるよ、どうなるんだろうね、あたしたち。今のところリアルな知り合いはこの町にゼロだけど、フォローしてる人たちのツイートを見てれば、それはもう話してるのと同じようなものだった。
 ママがダンボールに入れておいてくれた食料でとりあえずは凌ぐ。パスタソースとレトルトカレーと袋ラーメン。フローリングの床は石みたいに冷たくて、あたしはいつもベッドに避難してる。一日中お布団とマイクロファイバーの毛布をこっぽり被って、起きてる間はずーっとスマホを見てた。YouTube 、TikTok 、Twitter 、Instagram 、ときどき無課金のゲーム、アニメ、ドラマの無限ループ。Wi-Fi があれば暇なんていくらでも潰せる。けどなんか、胃にポテトチップスだけ詰め込んだみたいな、栄養ゼロのもので体を満たしてる虚無感がすごい。ちょっと控えよう、まじめに本とか読もうと思うけど、どうしてもスマホから自分を引き剝がせない。中毒性ヤバい。トイレに行くときもお風呂に浸かりながらも、夜、寝落ちするその瞬間までブルーライトに煌々と照らされてる。そして眠りから覚めるとまず Twitter を開いた。三時間、四時間があっという間に溶ける。
 TikTok は欲望丸出しって感じで治安悪いけど、インスタは可愛くて平和だ。アルゴリズムが愚直だから、猫ばっかり見てたら猫ばっかり流れてくるようになって、知らなくていいことは知らないままでいられる。Twitter みたいにやなこと言う人はいない。メイク動画、瘦せる筋トレ動画、英会話、節約の方法、簡単おいしいレシピ紹介。自分を高めようとする女子たちのサークルみたい。ここでもあたしは大学生らしきアカウントをフォローして、勝手に知り合いの気分になった。とにかくみんなの状況が知りたかった。どうしてるのか、どんな気持ちか。そうじゃないと自分だけがこんな、時間が停止した世界に置いてきぼりにされてるみたいだから。

 

 自粛警察が怖すぎて、ちょっと牛乳を買いにコンビニまで行くにも緊張してしまう。駅から少し離れた、特徴のない住宅街。二階建ての庭付き一軒家と、コーポラスみたいな集合住宅があるばかりで、店らしいものはない。車も通ってない。道で誰ともすれ違わない。コンビニに入ると、客が一人二人いるのでほっとした。
 この街に来てあたしはまだ、このコンビニより先の世界には行ったことがない。いつの間にかレジに透明カーテンの仕切りができていて、なんだこれって驚く。
「いらっしゃいませ」
 店員さんは外国人の女の子だ。コロナ怖い、早く故郷に帰りたいって、怯えた目をしてる。この子、アジアのどこの国から来たのかな、近所に住んでるのかな、大丈夫かな、話しかけたいなって思うけど、そんなコミュ力があれば苦労しない。レジの金額があれよあれよと二千円を超えていくのを、グサグサ刺されたような気持ちで見ていた。節約しないとな。ちょっと遠いけどスーパーに行こうスーパーに。
「にせんごひゃくはちじゅうななえんになります」
「あ……さん、ぜんえんで……おねがいしま……」  
 あたしの声かっすかす。感じのいいやりとりしたかったのに。もう何日も自分が言葉を発していないことに気がついた。声帯ってこんな弱るんだな。声帯以外もきっと弱ってる。
 レジ袋を提げ、うつむき加減に早足で、来た道を戻る。マンションはオートロック完備というわりに、エントランスなんか蹴破れそうにちゃちだ。住みはじめて一週間になるけど、人の気配がまるでしない。ほかに住人はいるのかな、いないのかな。同じ大学の子も住んでたりする? みんなコロナだから閉じこもってるだけ? あたしの住む三階のフロアには、ドアがずらっと六つ並ぶ。あたしの部屋はいちばん奥だ。レジ袋のガサガサいう音を立てないように、廊下を忍び足で通り抜けた。誰かとばったり鉢合わせて、ここに自分以外にも人が住んでることを知って安心したい気もするし、誰にも会いたくない気もする。部屋に戻ると、ベランダの窓からぽかぽかと日が差し込んでいて、ああ、春なんだなって思った。

 

「大学生ばっか悪者にしてどうなの?」と、しきりにツイートしてたのでフォローした〈マルミちゃん〉は、だんだん政治に物申すようになっていった。海外に比べて補償金が遅いとか少ないとかっていう話をどんどんリツイートで回してくる。マルミちゃんは英語が得意みたいで海外ネタも多い。夜八時になったら医療従事者に拍手を贈るどこかの国の動画も、マルミちゃんのリツイートで知った。いきなりはじまった非日常に世界中が混乱してるけど、海外では隣近所の人同士が助け合ったりして、けっこう感動的だった。なのに日本は自粛警察が人々を監視してる。「なんでこんなに意地悪なんだろうね。これが国民性ってやつ?」、マルミちゃんがつぶやいてた。
 緊急事態宣言が出てから一週間が経って、さすがにレトルト一辺倒の食生活はないなって、粉もの料理に挑戦しようとスーパーでお好み焼き粉とかキャベツを買って帰る。ボウルがないことに気づいて、マグカップで混ぜた。フライパンで小さなお好み焼きを焼きながら、前にママとおばあちゃんと三人で、ホットプレートでお好み焼きしたことを思い出してちょっと涙ぐむ。なんであたしここにいるの? なにしてるの? 焼き上がったお好み焼き、全然食べたくなかったけど、無理して口に押し込んだ。食べて、排泄して、お風呂入って皮脂を洗い流して寝る、のルーティンもう飽きた。生きてる意味わかんない。今日が何日でいま何時かも考えない。
〈みゆち〉がどうやら亡くなったらしい。〈みゆち〉のアカウントに、親を名乗る人がツイートしてた。「〈みゆち〉こと土井美幸は四月十六日に永眠いたしました。これまで美幸を見守ってくださったみなさま、ありがとうございました」。え? わかんないわかんない。なにこれ。やば。これって多分、自殺したってこと? え、〈みゆち〉の人生は、これでおしまいなの? やば。ショック。大ショック。
 だけどあたしは、たった半日寝て起きたら、もうこのショックをほとんど忘れている。そのこともショックだけど、それさえも一日で忘れてしまった。だって相互フォローじゃなかったし、〈みゆち〉はあたしのこと知らないだろうし。この一週間、〈みゆち〉が大量に投下する言葉を追って、その不安や孤独に、心を慰めてもらってたっていう間柄。え、あたし薄情かなぁ? 残酷かなぁ? 泣いたり喚わめいたりするべき? だけどなんか、悲しみも罪悪感も膜一枚向こうにあって、噓っぽくしか感じられない。〈みゆち〉の訃報にほんの一瞬タイムラインがざわついたけど、それも恐ろしい速度で過去へと流されていった。Twitter を閉じて、現実から逃げるみたいにインスタを開く。
 インスタは相変わらず平和だ。ユニクロのおすすめアイテムを着回したり、洋服の着方のコツを教えてくれたり、猫動画とラッコ動画の可愛さが拮抗してたり。芸能人のゴシップ、海外セレブの昔の写真、そんなフィードに紛れて、見たことのあるハニーブロンドの女優がいきなり降臨する。この人名前なんだっけ、ああそうそう、マリリン・モンロー、それそれ。何枚かスワイプして見てたら、おやあなたマリリン・モンローが気に入りましたねってインスタが調子に乗ってきて、無限にマリリン画像が流れてくるようになった。
 いやもういいからってくらい、マリリンマリリン。胸の谷間と赤リップ。ほくろ。胸の谷間。笑顔。お尻お尻お尻。あたしは、下目遣いのセクシーなキメ顔より、すっぴんにシンプルなニットみたいな、カジュアルなマリリンが好きだった。優しそうで、少しさみしそうな丸い瞳は、ストーブの炎みたいにあたしを温めてくれた。死んだ人ってなんか落ち着くな。余計なこと考えずに見てられる。安らぎがある。黒いタートルネックのマリリン、水色のワンピースのマリリン。TikTok で死ぬほど可愛い動画も見つけた。『紳士は金髪がお好き』という映画のミュージカルシーン。フューシャピンクのドレスで「ダイアモンドは女の親友」という曲を歌い踊るマリリンが素晴らしすぎて、取り憑かれたみたいに何度も再生する。くるくる変わる表情、ピョンと跳ねたりするちょっとした仕草もキュートだ。なにこの可愛い人は。
 ステイホーム中、あたしは自堕落の沼でマリリンと踊った。スクロールすれば無限にショート動画は供給され、あたしは無抵抗でマリリンに蠱惑されつづけた。起きてる間はずっと、何日も。
 枕元に置いたプリンセス・テレフォンが鳴ったのは、そんな夜だった。
「ハロー、ハロー、もしもし?」

 

 

*****

続きは単行本「マリリン・トールド・ミー」でお楽しみください!

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著者

山内 マリコ(やまうち・まりこ)

1980年富山県生まれ。著書に『ここは退屈迎えに来て』『アズミ・ハルコは行方不明』『あのこは貴族』『選んだ孤独はよい孤独』『一心同体だった』『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』など。

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