文庫 - 随筆・エッセイ

カタツムリには意識はあるでしょうか?

英エリート校の入試で行われている超絶な思考実験の問題から難問奇問を選りすぐり、ユーモアあふれる解答例をつけたユニークな1冊『オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題』が今売れています。

9784309464558

オックスフォード&ケンブリッジ大学 世界一「考えさせられる」入試問題

本書に収録の難問奇問から一部をご紹介。
さあ、あなたならどう答える?どうしたら合格できる?
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Q.カタツムリには意識はあるでしょうか?

 

一見ごく簡単な問題にも見えるが、ここには哲学者や科学者たちを悩ませ続けている難問難題が含まれている。その一つは、もちろん、意識をどう定義するかという問題である。
ふつうに言うと、意識とは目覚めていて気づいていることだ。たいていの動物と同様にカタツムリも眠ったり目覚めたりする。また、ほかの動物と同様に環境の何か特別な徴候に気づいてそれに反応し、行き先を決めたり行動に出たりする。もっともカタツムリ特有の遅々としたペースでしかないが。しかし、意識にはこれ以上のものがあると私たちは経験からわかっている。

問題は、いかにして動物の頭の中に入り込み、いかにしてそれの思考経路を知るかである。意識は非常に個人的な経験だ。人間同士なら言葉以外にもいくつかコミュニケーションの手段があるが、それでも他人の意識がどうなっているのかを知るのはなかなか難しい。相手が人間以外の動物となったらほとんどお手上げだから、その動物が何をしてどう反応するかを見て推測するしかない。

私たち人間は、自分たちだけはほかの動物とちがって特別であると考えたがる。身体面ではほかの動物と共通する部分が多いことははっきりしているが、それでも私たちの頭脳は特別だと考えがちで、アリストテレスから今日に至るまで多くの思想家たちが、意識があるのは唯一人間だけだと言ってきた。人間の意識は「自己認識」と呼ばれることもある。つまり、自分には意識があって、自分が何ものであるか気づいている、と自覚しているという観念だ。かつては鏡を見て自分を認識できるのは人間だけだと一般に考えられていた。しかしその後、類人猿や象やイルカも自分を認識できることが証明され、さらに最近になって、雀の涙ほどの脳しかない小さなカササギでさえ自分の姿を認識できることが証明された。カタツムリが鏡に映った自分の姿を認識するなどあり得ないと思うかもしれないが、できないことをどうやって証明できるだろう。さらに、根本的に私たち人間とちがう動物が私たちと同じような意識の仕方をすると仮定できる理由もない、となると、鏡に映った自分を認識できなかったからといって、カタツムリの意識については何一つ証明できたことにならない。

デカルトからダニエル・デネットに至るまで、何世紀にもわたって数多の哲学者たちが意識とは何かについて思考をめぐらしてきた。デカルトにとっては考えていると認識していることだけが存在の真実だった。近年になって、心理学者と神経科学者、さらには人工知能の研究者たちまでが意識とは何かについて研究しはじめた。哲学者たちは何をもって意識とするかだけに焦点をしぼってきたが、フランシス・クリックやロジャー・ペンローズたち科学者は、それが脳内のどこでどのように発生するのかを生理学的に説明しようとしてきた。

意識を理解することは知的課題の中でも最難関の一つだ、という点では多くの研究者たちの意見は一致している。イギリスの心理学者スチュアート・サザーランドは一九八九年の『心理学辞典』にこう書いている───「意識とは魅力的だが捕えにくい現象である。それが何であり、何を行い、なぜ進化するのかを特定することは不可能である。意識について書かれたもので一読の価値のある本は今のところない」。みんながみんなここまで悲観的なわけではなく、二〇〇九年の春にはわずかながら進歩の兆候も見られた。フランスの科学者たちが、意識とは脳全体をも含めての統合活動であり、特定のどこかにあるものではない、ということをあきらかにしたのだ。

最近になってイギリスの心理学者ニコラス・ハンフリーは以下のように提案した───動物の意識は環境にどう反応したかを記憶する過程にはじまり、その反応の記憶を私物化し内面化する能力が自己認識に、そして生存の意欲へと発展していき、ひいては生存競争を勝ち抜く力となったのではないか、と。もしこれが本当なら、カタツムリに至るまですべての動物において意識は発達してきたと考えていいことになる。仮にカタツムリにこのような自己認識があるとしても、私たち人間ほど洗練されていないことはあきらかだが、それでもカタツムリを考えもなく歩き回るただのゼラチン質だと思うのは誤りかもしれない。

意識について研究してきた人たちの中には、意識を二種類に分けて考える人もいた。一九九五年にアメリカの言語学者で哲学者のネッド・ブロックが呼び分けた「アクセス意識」と「現象意識」である───もっともこの分け方に誰もが賛成したわけではないのだが。「アクセス意識」とは、脳内の情報を認識してそれにアクセスできる状態をいう。「現象意識」とは、身体的反応なしに物事をただ経験する状態をいう。痛みを感じる、コーヒーを味わう、音楽を聞くなどはすべてこのような経験で、「クオリア」(Qualiaラテン語qualeの複数形。意識的経験の主観的特質、たとえば痛みや味などの経験を表す哲学用語)と呼ぶこともある。このクオリアこそふつうの人間とゾンビのちがいだという研究者もいる。ゾンビにはクオリアがない、したがってゾンビは内面的生活をもたず、操り人形と変わらない存在である。

一九七〇年代になって、トマス・ネーゲルがある有名な論文を発表した───「コウモリでいるとはどういうことか?」この中で彼は、クオリア的経験とは「〜でいるとはどういうことか?」ということであると要約してみせた。その後ネーゲルはさらに考察を進めて、私たちにはコウモリに(あるいはナメクジでも、その他人間も含めて自分以外のどのような動物にでも)なるとはどういうことかを知るすべはないのだと提言した。つまり、意識という主観的な経験を理解する方法が見つからない限り、物理学的に意識を解明することはできない、ということである。これを「意識の難問」と呼ぶこともある(その反対がアクセス意識で、こちらの方が理解しやすい)。ダニエル・デネットをはじめとして、意識を分けて考えたり、クオリアと呼んで区別することに否定的な研究者もいる。彼らは意識とは総括的な一つのものでしかないと信じている。結局現時点では、私たちにはほとんどわからない、としか答えようがない───カタツムリの方がわかっているのかも……。

(つづきは本書で)
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著者

ジョン・ファーンドン

ケンブリッジ大学で地球科学を学ぶ。300冊を超える参考図書や一般読者向けの書籍を執筆。。過去4度にわたり王立協会科学図書賞の最終候補となった。

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