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中村圭志「宗教を知るための、図鑑の効用について」──『世界の宗教大図鑑』刊行記念コラム①

「宗教的であるとはどういう意味だろうか。この世に宗教的でないものは何ひとつないともいえる。宗教は人間の生と死の全般に関わるからだ。」
(『世界の宗教大図鑑』「まえがき」より)

 世界の宗教について、五大宗教はもちろん、古代宗教から民間信仰まで豊富なビジュアルで解説した決定版図鑑、『世界の宗教大図鑑』(ジョン・ボウカー著/黒輪篤嗣訳/中村圭志日本語版監修)が好評発売中です。
 この図鑑に寄せて、いま私たちが世界各地にある宗教について俯瞰して眺め、その教えと生き方について知ることにはどのような意味があるのか、その重要性と楽しみ方について本書の日本語版監修を務めていただいた宗教学者・中村圭志さんに寄稿していただきました。

 

 

 

宗教を知るための、図鑑の効用について

 

 

 

●信仰者は宗教を知らない?

 

 日本人の多くは「無宗教」と称しており、実際、宗教の教理や実態に疎い。宗教について知るなら、信者さんの話を伺い、その儀式に参加し、教典なども読んでみるのがいいと思われるかもしれない。もちろん実体験が役にたつというのは一般論としていつも言えることである。
 しかし気をつけなければならないことがある。宗教にマインドコントロールされるのを用心しろと言いたいのではない(用心すべきカルトがあることは確かだが)。私が言いたいのは、一般に、宗教の信者さんは自分の宗教のことしか知らないということである。要するにクリスチャンはキリスト教のことしか知らないし、仏教徒は仏教のことしか知らない。世の中の宗教は実に多様で、言っていることもやっていることもバラバラだというのに……。
 宗教の信者さんはふつう「宗教」のことを知らない。つまり宗教全般についてのまんべんない知識をもっていない。その上で、時に自分の宗教に対する自信を隠さない。話を伺うほうは感服するかもしれないが、客観的な視点はどこかに行ってしまう。
 日本人は宗教に疎いから国際社会で取り残されるみたいなことを言う評論家は多いが、しかし、宗教に詳しい人が多いはずの欧米や中東で宗教がらみの紛争が多いのはどうしてであろうか? いかに自分のところの宗教を知っていたとしても、宗教問題に関して日本人以上に賢く振る舞っているわけではないのだ。「何にも知らない」と自覚しているほうがマシなのかもしれない。
 問題はそればかりではない。宗教の信者さんの多くは、今日通説となっている教えしか知らない。二一世紀のクリスチャンの多くは自分が死後に地獄に行くことをあまり心配していないようだが、一八世紀頃までは、信仰といえば何よりもまず地獄行きの心配であった。徳川幕府がキリシタンを弾圧したのは残酷であったが、しかし当時の思考法では、信者さんには、幕府の拷問に耐えるか、死後に永遠に物理的に続く地獄の責め苦に耐えるかのどちらかしか選択肢はなかった。拷問は肉体的虐待だが、宗教の教えのほうは今日では「精神的虐待」に相当する。
 神の教えは時代とともに変わってきた。それはもちろんめでたいことだ。神は進化していく。しかしこれは宗教にとっての不都合な真実でもある。神の教えは不変であるはずだからだ。
 あらゆる人間の営みと同様、宗教は時代とともに変遷した。「宗教について知りたい」と思う外部の人は、この当たり前のシラフな感覚を保持したまま、宗教に接することが大事である。
 というわけで、私としては、「宗教について何も知らないので教えてくれ」という方には、まずは歴史学、人類学、社会学などにおける宗教の記述を読まれることをおススメしたいと思う。それはなかなか面倒だから、各種の宗教ガイドブックがおススメとなるのだが、奇跡的な出来事をまるで史実のように書いているものや、信仰の有難みを説教しているものについては、皆さんの良識のほうを優先して読んでいただくのがいいと思う。
 手っ取り早いのが、諸宗教ごとに記事をまとめた宗教図鑑を眺めることである。浅く広くでいい。仏教、キリスト教、イスラム教といった大宗教から、ローカルでマイナーな宗教、古代に滅んだ宗教、いわゆる未開社会のマイナーな宗教まで、ざざっと全体像をつかむことが肝要なのだ。
 お坊さんや牧師さんは、そんな表層的なやり方では、宗教のことは分かりませんよと言うかもしれない。それもまた真実ではあるだろう。しかし色々なやり方があっていいし、どうせ中途半端に終わるのなら、浅く広くのほうがいいに決まっている。宗教の実態は多様で複雑なのだ。「色々あるからかえって分からなくなった」という感想はむしろ貴重である。一方向からの探りで分かった気になるくらいなら、分からないほうが正解である。

 

 

●グラフィックの効用

 

 という次第で、宗教図鑑による概括的な把握には効用がある。いや、効用はそればかりではない。図鑑はグラフィック中心であるところが非常に大事なポイントである。
 宗教は文字ばかりで構築されていないからだ。
 重要な宗教には、仏典、聖書、コーランなど教典というものがあり、そこに神仏の教えが全部記されていると言われている。しかし、先ほども言ったように、宗教は歴史の産物であり、教典もまた、古代人の意識のタイムカプセルである。たとえば旧約聖書のある記述では、戦争により異教徒を虐殺することが推奨されており、敵に情けをかけることは神の正義にもとるとされている(申命記七章など)。古代人は現代人よりよほど残酷だったのだ。信者は一般に、教典の文言を文字通りには読まない。解釈のオブラートを何枚も重ねて読むことにしている。教典は残酷でも、信者はおっとりしている。宗教はレトリックの世界であり、時代に適応させるためのこじつけの魔法を神学と呼んでいる。
 これはこれで知性を要する技術であり、おかげで宗教は人類の哲学的思考を涵養し、科学の準備までした。だが、それは知的エリートレベルの話だ。
 一般民衆にとっての宗教は、あくまで生活習慣であり、「先祖代々うちではこうだった」「無学な私には何もわかりませんが、お坊様のおっしゃることが正しいのでございましょう」という世界であり続けたのである。そして仏像を拝み、教会堂の壁を飾るキリスト画に見入り、加持祈祷やミサの荘厳さに心洗われ、聖者さまの御足にキスしたら病気が治ると信じていたのだ。そして祟りや悪魔の誘いを恐れ、天使や菩薩のご加護を願ったのだ。これは知性の世界ではなく、感性の世界であり、文字の世界ではなく(一九世紀までのたいていの国の善男善女は文字が読めなかった)、グラフィックとミュージックの世界だったのだ。
 宗教図鑑は――音楽のほうはともかく――視覚方面に関しては古写本の聖画のコピーや儀礼などの写真を通じて、宗教の九〇パーセントを構築してきた芸術的感性について証言してくれる。もちろん、歴史上宗教とはグラフィックとミュージックがものを言う感性的な儀礼の世界だと得心がいった人は、今日行われている現実の宗教のセレモニーを体験するのもいいだろう。信者さんの日常生活に触れるのもいいだろう。図鑑的知識と実体験と――べつに二者択一ではない。

 

 

●宗教のアイロニー

 

 宗教が果たしてきた重要な役割の一つに、人々を促して、狭い自我への固執を乗り越えさせるということがある。仏教式に言えば「煩悩を断とう」とか「一切が空(カラッポ)と観じよう」ということになる。キリスト教などの一神教では、神への帰依が、こうした自我の明け渡しに相当する。だから公式の祈りにおいても、サンタさんへのお願いのようなことは唱えず、むしろ「御名の崇められんことを!」と唱える。自己中心ではなく神中心でやっていきますと言うのだ。イスラム教徒の日に五回の礼拝でも、やはり同様のことを唱える。
 歴史的な大宗教はどれでもこのようなことを説いている。仏教の慈悲、キリスト教の愛、イスラム教の平和はいずれもこの「自我の殻の打破」と関係がある。これが千年以上前に人類が定式化した一つの叡智だったというわけだ。
 自己中心打破の思想をいっそう穏やかな形で説いたものが、黄金律である。「自分が人にしてもらいたいことを人にもしなさい」(福音書)。「自分が人からされたくないことを人にしてはならない」(論語)。一見平凡な教えだが、やるとなると自我や打算が邪魔をしてなかなかできない。けっこうな修行を要する。
 私はこのたび河出書房新社刊『世界の宗教大図鑑』の日本語版監修を引き受けたのだが、原著者は巻末にこの黄金律に関するページを設け、世界宗教めぐりの締めくくりとしていた。
 その意図は、ある意味で皮肉なものであった。
 他ならぬ宗教自身が、歴史的に「自分が人からされたくないこと」を人にしてきた、つまり信仰の押し付けや異教徒の差別をやってきたからこそ、敢えてこんなページが設けられているのである。
 一面では、殻への固執の迷妄性を説く宗教の教えはあくまで正しい。他面では、その迷妄に陥りやすい人間の欠陥をまさに体現しているのが宗教の実態だ。だから宗教自身に宗教に対して説教してもらわなければならない。
 これを宗教の矛盾と呼ぶのも、宗教のダイナミズムと呼ぶのも、好き好きである。宗教に懐疑的な人も、宗教に肯定的な人も、宗教図鑑や宗教ガイドを手にとって、このあたりをめぐって瞑想されることをぜひともおススメする。

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著者

中村圭志(なかむら・けいし)

1958年、北海道生まれ。北海道大学文学部卒業、東京大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学(宗教学・宗教史学)。著書に『人は「死後の世界」をどう考えてきたか』、『宗教図像学入門』など多数。

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