書評 - 文藝

自らの”傷”を利用する二人の男の同居生活を描く、大前粟生の新刊『物語じゃないただの傷』書評

 

物語じゃないただの傷

大前粟生 著

 

評:星野概念(精神科医)

 

 

 

 

『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の著者・大前粟生による最新作『物語じゃないただの傷』が刊行。
本作の魅力を精神科医の星野概念さんが語る。

 

***

 

 自分は、どうやって今の自分になったのでしょう。人は社会の中で生きるので、自分が身を置く社会の中で様々なことを感じ、学び、変化していきます。

 生まれて最初の社会は養育者や家族。環境はあまりにそれぞれですが、そこで愛着や安全の感覚を知ります。徐々に言葉や、人に接する態度も伝達されます。仮に複数の人が全く同じ体験をしたとしても、同じ人にはなりません。感受性とか、コミュニケーションの得意さとか、生来備わった様々な要素が違うからです。実際は、育つ環境も違うので、幼児期頃にはそれぞれの違いがかなり大きくなるはずです。

 児童期に入ると、社会は学校へと拡がり、関係する人の数も増えます。同調圧力なんて言葉を知らないまま、それに晒され、ほとんど無意識的に、自分が少数者にならないように工夫する段階もあるでしょう。

 性別とか、生まれ年とか、明確な違いで区切られることで、男女差や、先輩後輩などの年代による違いが強く意識化される気がしますが、もっと小さな毎日の実感の違いも重なっていきます。同じ場所に通い、同じカリキュラムを過ごしても、生来の差異、育つ環境や養育者の差異は就学前からあるし、体格や容姿など肉体的な差異や他の様々な要素によって、集団の中での存在のしかたも異なります。大人になっても思い出すような印象的な出来事や瞬間もそれぞれに持つでしょう。

 それらの中で、大小の嬉しさや傷つきを体験します。嬉しさや傷の多くは、自覚的には忘れられながら心のどこかにしまわれ、知らないうちに自分に影響を及ぼします。

 嬉しさは、自分の強みを実感させ、傷は自分を防衛的にするかもしれません。僕の感覚としては、傷は特にその人への影響が強い気がします。恐怖、不安、寂しさ、後悔、身体的な傷に伴うものなど、無数の傷があると思いますが、何しろ簡単に消えません。頻繁に疼き、人生に影響するのです。

 別の多くの人からみれば理解不能な言動にも、その人の内部には何かしらの理由があるに違いありません。傷の疼きを一時鎮めるためとか、傷つきに向かっていきたくなる衝動が生じたとか、傷の数ほどそれはある気がします。

 本書にも、傷から逃れようとするように、主たる人格とは別のアイデンティティを築く人、傷が強すぎて持ちきれず、社会に復讐を試みる人、権威を保持することで自分を守ろうとする人など、複数の極端とも言える人たちが登場します。

 その中でも最初、対立し合う二人はやがてみせたくない傷をみせ合わざるをえなくなり、傷に関する語りをし合い、気持ちを少しだけ向け合います。最後には、こうなれば人は、世界は、平和になるのではないか、と思わせる印象的なセリフで作品は閉じられます。

 世の中の人全員に背景があり傷があります。いつからでも、それを想像し、尊重することは、相手や自分を少しずつ変容させるでしょう。そんなことを改めて思わせてくれる作品でした。

 

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