ためし読み - 日本文学
45歳事務職がホスクラ通いの20代同僚に出会ったら人生変わった! 2人の女の邂逅に「この本は希望」「中年女性のバイブル」と感想殺到! 金原ひとみ『ナチュラルボーンチキン』冒頭テキスト&朗読無料公開
金原ひとみ
2024.10.04
「これは純粋な興味なんですけど、平木さんは、ホスクラで何を得ているんですか?」
「てか、私から言わせてもらえば、なんで皆ホスクラに行かないんですか? って感じですね。何を得てるって、生きるために必要な全てですよ」
(本文より)
19歳でデビュー、20年以上の間、小説の最前線を牽引してきた金原ひとみの最新作は『ナチュラルボーンチキン』。
〈ルーティンを愛する45歳事務職〉×〈ホスクラ通いの20代パリピ編集者〉のシスターフッド(?)小説が誕生しました。
起伏のない日常を送り、心にも人生にも波風を立てないように生きる45歳の浜野文乃が、スケボーで通勤、ホスクラ通いが趣味の破天荒な入社5年社員の同僚、平木直理に出会ったら……?
予想もつかない展開が待っている本作は、単行本に先行して配信したAmazonオーディオブックAudibleで異例の速さで650件を超える絶賛レビューを集め、事前に読んでいただいた書店担当者からも、数多くのコメントが寄せられています。
金原ひとみさんに一生ついていきます
紀伊國屋書店さいたま新都心店 大森輝美私のための 「君たちはどう生きるか」ではないか。
田村書店吹田さんくす店 村上望美大人だって感情を持ってよかったんだ。
新潟市萬松堂 渡邉典朋ずっとこの物語に浸っていたい。 今年一心に刺さった作品!!
紀伊國屋書店久留米店 池尻真由美これはバイブル。中年女性のバイブルだ!!
文真堂書店ビバモール本庄店 新井さゆり人生ってきっとこんな奇跡が たくさん転がってるんだろうなぁ。
幸福感いっぱいです!
紀伊國屋書店京橋店 坂上麻季今日と一週間前と一ヶ月前の記憶の区別があんまりつかないんだけど別にいいやー、と思っているひと(わたしだ!)全員に、「まずは読んでみて!」とオススメしてまわりたい。
福岡金文堂行橋店 富山未都
発売を前に、テキストでも大量18ページを無料公開いたします。
加えて日笠陽子さんによる、Audibleで配信中の同作もためし聴きを特別にこのページで大量公開!!
目と耳、両方で金原ひとみワールドをお楽しみください。
『ナチュラルボーンチキン』
金原ひとみ
野菜と豚肉を焼肉のたれで炒めたものと、パックご飯を交互に口に運びながら、じっとスマホを見つめる。夕飯時にはVODを見るのが日課になっていて、先週から見始めた結婚詐欺師を追ったドキュメンタリーのエピソード六が流れている。この前は狩猟シリーズで、その前は未解決事件シリーズ、その前はお宅訪問お掃除シリーズ、その前は死刑囚シリーズだった。結婚詐欺のえげつないやり口と、本人自身も何かしらの精神病や特殊な生育歴があるのではないかと思わせる突撃インタビューを経て六話が終了すると、少し辟易とした気分で『NYXXXXX』というニューヨークのキャリアウーマンたちの仕事と恋愛を描いたドラマに切り替える。もうシーズン三まで追ってるのに、未だにこのタイトルを何と読むのか分からない。
鶏、豚、牛のいずれかと、もやし、キャベツ、にんじん、玉ねぎの内の二種か三種の組み合わせを炒めたものに、シャンタンかほりにしか焼肉のたれのいずれかで味付けしたものと、パックご飯一つが私の毎日の夕飯だ。お土産などで佃煮やちりめん山椒などをもらうとありがたいのだけど、いつもとご飯のペース配分が変わって最後におかずだけ残ってしまうことが軽くストレスになるくらい、私はこの夕飯に慣れきっている。
一人きりでご飯も仕事も過不足なく、波風の立たないこの生活を始めて十年が経つ。趣味もなければ特技もなく、仕事への矜持もなく、パートナーや友達、仲のいい家族や親戚もペットもなく、四十五にして見事に何もない。あるのは順当に弛み始めた輪郭と、目立ち始めたほうれい線と目尻の皺と白髪、頰に浮き上がった肝斑、辛うじて老眼は始まっていないものの、やたら早朝に目が覚めるようになった身体。つまり加齢により引き起こされる変化だけが、私には確実に「ある」ということだ。
見終えた瞬間、スパークリングの気泡のように記憶が消えて跡形もなくなるドキュメンタリーやドラマを見る日課がいつから始まったのか、もうよく覚えていない。延々動画を見続け、頭に入ったのかどうかも定かではない内容を忘却し、あるいはやり過ごし、頭がクラクラしてきたら寝る。そんなことを繰り返して一日一日は終わり、そうして私は一日一日着実に老いていく。あまりの起伏のなさに呆れるけれど、逆に私にとってこれ以外のどんな生活があり得るのか、想像もつかない。
例えば友達と朝まで飲み歩いたり、子育てに奮闘したり、結婚相手と些細な価値観の違いで喧嘩したり、推しのコンサートやファンミに奔走したり、唐突に転職して新しい職場で突然能力を発揮してバリキャリになったり、大学や大学院に入って勉強を再開したり、交際ゼロ日で結婚したり、そういうことは私の人生には起こり得ないのだ。この人生は、毎日同じ時間に出勤退勤し毎日同じようなご飯と動画を詰め込み十二時から一時までの間に眠りにつき朝五時から六時までの間に目覚める、という一日一日を繰り返す以外に、あり様がないのだ。
ここまで何もない生活を送っていると、たまに体調を崩した時などが軽いエンターテインメントになる。深刻ではない体調不良、例えばものもらいとか、花粉症で頭がクラクラするとか鼻水が止まらないとか、軽い頭痛、下痢なんかは、ちょうどいいエンタメだ。薬を飲んだり病院や調剤薬局に行ったりすることは、ちょっとした非日常だからだ。それくらい私の生活にはVOD以外のエンターテインメントがない。特にこの日常に執着があるわけではないけれど、非日常に支配されるのも好きではない。例えば旅行の日程を決めて有休を取り、目的地を決めホテルと交通機関を予約しガイドブック的なもので訪れるスポットを決め、スムーズに全てを回れる道順を組み立てる。なんてことを、到底一人でやる気にはなれない。私には、皮膚科や眼科がちょうど良いエンターテインメントなのだ。
仕事と動画とご飯というルーティン。それが私で、私の生活だ。自分には何もない。突出した才能も情熱も、誰かに愛される才能も誰かを愛する才能も、何かに嵌る素養も嵌られる素養も、なりふり構わず何かを手に入れたいと思うほどの欲望も、哲学に向かうほどの切実さも、アカデミックな方面で活躍する才能も、誰かを虜にさせるほどの魅力も技術も、頭の中にあるものを形にするクリエイティブな力も、頭の中に形にしたいと思えるほど価値あるものが浮かぶような発想力もない。
誰にも話していないし、誰に話すつもりもないし、そもそも話す相手もいないのだけれど、私は時々不安の発作のようなものに襲われる。最初に起こるようになったのは、五年ほど前のことだ。恐らく、これはホルモン量の変化による不安発作、あるいは自律神経の失調からくる発作に違いない。いくつかのサイトを見てそう思ったけれど、恐らくそこには、私のこの「何もなさ」も関係しているのではないかとも思う。私は自分の何もなさに、震えているのかもしれない。
頻繁ではない。発作だって救急車を呼ぶようなレベルでもない。でもひとたび発作に襲われれば私は足のつかない海の中を、どこにも岸が見えない状態でどこに向かって泳げばいいのか分からないままそれでもここにはいられないと焦燥に駆られ足搔き続ける罰ゲームのようなものに放り込まれる。最近は月に一回程度、ちょっと前までは二、三ヶ月に一回くらいだったような気もする。でも頻度が増していると認めるのが怖くて、起こった日をチェックするようなことはしていない。今こうしてその発作について考えていても全く平気で、心に波風は立たない。ただそれは前触れもなくやってきて、突然竜巻のように私がこれまで構築してきたルーティンや安寧を破壊するかのように蹴散らすのだ。その突拍子もなさに私はいつも怯えていて、ここ二、三年、それがなければどれだけ気が楽だろうと考えることが増えた。
何もなさ、発作、という二大最悪キーワードを考える不健康さにハッとして立ち上がると、肉野菜炒めの皿から残った汁を捨て、洗い物を始めた。この定番ご飯を続ける以上、洗い物は大皿とフライパン、菜箸とお箸で、その簡潔さが私がこの食生活を送る理由の一つでもある。簡潔であることは素晴らしいことだ。簡潔、それは一種の洗練であり、合理化であり、倹約でもあり、人生に波風の立たない静けさをもたらす魔法のようなものだ。いつも私に安定した美味しさと単純さを提供してくれるこのご飯に、私は信仰に近いものを抱いていると言っていいだろう。
つまり私は過剰が苦手だ。慎ましく謙虚で、目立たない人生を求めているし、驕り高ぶった人や慢心している人、高慢だったり尊大だったりする人を見るとざわざわする。まさにこういう人間こそが苦手のお手本だ。別に怒りは湧かないものの、胸に多大なるざわつきを残すメールを読み返しながら思う。
「まだ足が痛いので、今週も在宅にしようと思います!」
スケボーで転んで捻挫をして、診断書もあるのでと二週間の在宅勤務を申請してきた文芸編集部の平木さんから、在宅勤務延長を乞うメールが編集長経由で転送されてきたのだった。予後が悪いのであればもう一度病院に行きもう一度診断書を書いてもらうべきだし、そもそも捻挫で三週間在宅なんて聞いたことがない。うちの会社はコロナで即時全面在宅を認めたが、二〇二二年六月より、コロナ感染者数の減少に伴い在宅は週二日までと決まったのだ。労働組合が全面在宅を認めるべきだと要求してきたため、近いうちに会議にかけられる予定だけれど、そもそも編集部なんて出勤しても昼過ぎから夕方までみたいな人が多く、常時勤怠状況に濃いモヤがかかっているにも拘らず、それ以上を許容するよう迫る人がいるなんてと、ざわつきの中には驚きも混じっている。管理系の部署は在宅をする人がいないため週一でも取りにくい雰囲気があるというのに、全くやりたい放題だ。
出版社、特に編集部には変わった人が多い。どんなに注意されてもまあまあ大きな声で演歌を歌い続けてしまう人、推しグッズでデスクに祭壇を作ってしまう人、細々と書いてきた社会学の新書が二十万部売れてしまったけれど管理部以外には正体がバレていない覆面批評家、食べ歩き系情報で五万フォロワーを持つ飲食系インフルエンサー、そしてスケボーで通勤する人、平木直理だ。え、平木直理? 平木、なおり? え開き直り? と驚いたが、中学の時両親が離婚して苗字が変わったせいで気が強そうな名前になっちゃったけど、元々は父親の苗字で中直理、仲直りだったんですよ! というのが鉄板の自己紹介で、いつもこれで初対面の相手から笑いを取っているらしいと、総務の松島さんから聞いたことがある。
スケボー通勤をしている編集者がいると噂には聞いていたけれど、数ヶ月前、私も昼にコンビニに行く途中、「絶対にこの人だ」と確信できる人を発見した。短パンにパーカー、しかもパーカーの紐を蝶々結びにしてガラガラと音を立てるスケボーに悠然と乗りながら、ちょうど掛かってきたのかスマホを耳に当て、「No way !」みたいな吹き出しをつけたくなるようなカラッとした笑顔で話しながら横断歩道を滑る平木さんの姿は、このくすんだオフィス街で一人だけロスの海辺のジョギングロードにでもいるかのようなファンキーさだった。うなじから両サイドまで刈り上げた青髪のセンター分け、もう少し背が高ければ男性K-popアイドルかと見紛うような見た目で、物心ついてから一度も肩より短くしたことのない私は羨み混じりに、交通の頻繁な道路をスケボーで走ることは禁止されています、と頭の中で呟いた。
「あのさ浜野さん、平木さんの様子見に行ってきてくれない?」
沖部長はコーヒー淹れてくれない? くらいのノリで言って、私は怯む。
「それは、平木さんのご自宅にということですか?」
「平木さん電話出ないし、編集部に様子を見に行ってくれませんかって頼んだら今日は皆打ち合わせで出払ってるって言うし、別に俺が行ってもいいんだけど女性の家に男性上司が行くのはちょっとよろしくないでしょう。もしかしたら、ストーカーに監禁されて無理やりメール書かされてるって可能性もなくはないよね。一度お見舞いってことで様子を窺ってみてくれないかなあ。もし本当に足が悪くて外に出られないとかなら、病院の付き添いも必要かもしれないよね」
「それは労務の管轄でしょうか。私は平木さんと面識がありませんし」
はまのぉ……と沖部長は顔をくしゃくしゃにする。お前は融通が利かないなあいつまで経っても堅物だなあもっと言えばつまらない奴だなあ、と苦虫を嚙潰したような表情でこの案件をさっさと処理したいというめんどくささと本心からくる私への憐れみを表現し、私に行かないという選択をさせないよう全力で仕向けている。沖部長は出たがりで、何かイベントやお祭り的なことがあると俺が俺がと関係のないところにも必ず顔を出すし、有名人が参加する系のイベントだと何をおいても必ず参加しサインをもらうような厚かましさで編集者たちから警戒されているし、関係ない打ち合わせや会議なんかにもしれっと出席して大きな声で発言するため嫌われている。あの人暇なのかなと陰口を叩かれているけれど、部署の人々は常に沖部長の承認がなかなか返ってこず困っているため、優先させるべき仕事をほったらかして面白そうなところに顔を出さずにはいられないただのお祭り野郎ということだ。
「じゃ浜野は午後平木さんの家寄って、チラッと様子見てきてもらったらもう直帰でいいよ」
まるで私にこなすべきデスクワークがないかのような言い草ではあるが、土日出社や有休取得もなしにほぼ半休がもらえるということだ。私は平木さんの家が自分の家までの道筋からそこまで大きくずれないことを確認して、今日こなす予定だったデスクワークは明日やろうと腹を決めた。普段はルーティンを愛しルーティンを志し続ける私なのに、概念的には拒絶していても今すぐ食べられる半休というにんじんを差し出されると走り出してしまう馬のようで少し恥ずかしいけれど、その恥ずかしさに一ミリも心を乱されない程度に、私は歳を重ねながら面の皮を生成してきた。
平木さんのマンションはオートロックではなく、管理人の常駐するエントランスから入ると七階までエレベーターで上がり、部屋番号を確認してインターホンを鳴らした。マンションの廊下は塗装を補修だか塗り直しだかしているようで、養生シートが貼り付けられていたり、塗り途中の箇所があったりでなんだか荒んだ印象を与える。実際に、味があるとも言えるけれど、まあまあ築古な印象の建物ではあった。
誰ですかー? と中から声がして、一瞬悩んだ後に「労務の浜野と申します」と事実を伝えた。しばらく沈黙があって、もう一度インターホンを鳴らそうかどうか悩み始めた瞬間、「……ローンの取り立て、ですか? 私、ローンは組んでないんですけど……」と訝しげな声がくぐもって聞こえる。
「違います。兼松書房、労務の浜野です」
「ローンのママの……? ローンのママの何ですか?」
ローンのママの何っていうか、ローンのママって何ですか? と思いながら、平木さん一度チェーンをかけたままでいいので開けてもらえませんか? と相手を威嚇しないよう優しい声で諭す。あちょっと待って。と声がして待たされること数分、ようやくドアガードがかけられたままドアが開いたものの、勢いよく開けたせいでドアガードがゴンと大きな音をたて、うわっと驚く声がした後、ようやく平木さんの目が覗いた。
「初めまして。兼松書房、労務課の浜野といいます」
「あ、労務の浜野、ですか。すみませんでしたよく聞こえなくて」
「お怪我の経過が良くないとのことで、部長から平木さんの様子を見てくるよう言われ、お伺いしました。こちら、つまらないものですがお受け取りください」
フルーツとか手土産買ってってよ五千円くらいで。と妙に細かく指定され、フルーツを探したもののお見舞いなどに持っていくフルーツバスケットはさすがに道中では見つけられず、仕方なく駅前で見つけたフルーツゼリーの詰め合わせにした。平木さんはああどうもと言いながら手を伸ばし紙袋を受け取ろうとしたけれど、ドアガードをかけたままだとどんな角度でも紙袋は隙間を通らず、試行錯誤した後に「無念」とでも言いたげに一度ドアを閉めるとドアガードを外してとうとうドアを開けた。こっちだって言われたから仕方なく訪問しているというのに、なぜそこまで警戒されなければならないのか、と僅かに嫌な気持ちになり、それと同時にまあ適当に「平木さんお辛そうでした」と報告しようと思っていた自分に、彼女の噓を暴いてやろうという労務としての意地が芽生えたのが分かった。
「足はまだ痛みますか?」
紙袋を渡しながら一歩ドア内に足を踏み入れる。
「ですね。まだ結構痛むんですよ」
「そうなんですね、メールには診断書が添付されていなかったようですが、通院に支障があるんでしょうか?」
「痛み止めと湿布はまだ残ってるんで、無駄に出歩きたくなくて、通院はしてないんです」
そうですか、ではお部屋も荒れているようなので少し片付けを手伝わせてもらいますねと言いながら靴を脱ぐ。
「あ、全然いいんです私部屋が綺麗だとむしろメンタルに良くないんです、本当にこれくらいがちょうど良くて、部屋が綺麗だと汚くすることに罪悪感が芽生えちゃうんです」
「それなら綺麗にし続ければいいんですよ。あ、平木さん、そのゼリーは要冷蔵なので冷蔵庫で保管してくださいね」
えー、と言いながら平木さんが紙袋の中に手を伸ばしている隙に、ローテーブルに置かれたレシート、領収書類に目をつけ、まとめて手に取るとさっと扇状に広げ、じっと目を凝らす。
「平木さん、これは何ですか?」
え、何ですか? と言いながら平木さんはゼリーの箱の中を見つめて輝かせていた目を私に向け、一気に顔を曇らせる。ちょっとやめてくださいよと平木さんは慌てて紙袋とゼリーを放り出し、私の手元の領収書に手を伸ばしてくる。
「二十二万四千五百円……。このMONOROというのは、MONOが唯一の、ROは一郎二郎など、男性名に使われる郎という字をアルファベット表記にしたものと思われ、この金額とお店の所在地と店名からして、これはホストクラブの領収書ですね?」
「まあそうですね」
「うちの会社では昨今キャバクラやホストクラブなどは落ちづらくなっています。しかもこの金額では、取材あるいは作家が同行していたと確実に証明できない場合、経費として申請するのはかなり難しいと思います」
「や、落としませんよ。これは私一人で行った時の領収書です」
「平木さん、太客なんですか?」
いやー私なんて全然太くないですよ。出版社勤務でそこまでの額は稼げないし、副業とか風俗やってる子と比べたらもう全然。平木さんはカラッと笑いながら言って、男性にプレゼントしたものの最高金額が五万程度で、それもあまりに大きな買い物で未だによくあんなものを人に買ってあげられたなと栄光、同時にちょっとした後悔として記憶に残っている私は金銭感覚の違いに恐ろしくなってくる。自分は出世コースから外れたとはいえ、同じ会社に勤める二十代社員とこれだけ出入金への意識が違うとなると、平均値がどの程度なのかも分からなくて、立ったままボートに乗っているような不安定感にドキドキしてくる。自分を客観的に評価できないことが、恐ろしかった。
「平木さん、副業もせずに一度にこの金額を払うとなると、月にそう何度も通えませんよね? もしかして、借金などに手を出してたりするんですか? あるいは、貯金を切り崩してるんですか?」
「大丈夫ですまだ貯金を切り崩してる状態です」
「そんな、まだ若いとはいえ、少しは将来のことを考えて生活しないと」
「大丈夫なんです。これはこども銀行のお金なんです」
「気は確かですか?」
「ホスクラでお金を払ってる時って、夢の中でお金を払ってる気分で、ぜーんぜん本物のお金を払ってる気分じゃないんです」
「それは夢見心地になってるだけです。一刻も早くホスト通いは止めた方がいいです」
「あ、大丈夫なんです。私特別予算を設けてるので。あ、頭の中でですけど、ちゃんと設定してるんです。ていうか今も担当の店には月二くらいしか通ってません。それ以外の時は初回荒らしして気を紛らわしてます。もう新宿には初回行ってない店がほぼないんで、最近は渋谷とか六本木荒らしてます」
平木直理をまじまじと見つめ、私は再び手に持っている領収書を見つめる。平木直理は美しい人だ。目が大きくまつ毛が長く、唇もafterと銘打ちたくなるほどふっくらとして美しい。ちょっと奇抜なメイクと髪形だから一瞬人々をギョッとさせるものの、男女を問わず人を惹きつける容姿の持ち主だ。私が彼女だったら、まず髪を奇妙な色にはしない。ロングに伸ばして、平凡なメイクをするだろう。それが一番男性にモテるし、女性たちにも羨ましがられるからだ。イケメンは白シャツに黒いスラックスを穿いているのが一番カッコいい。昔読んだ新書に書かれていた、今でも頭に焼き付いている言葉だ。当然女性にも同じことが言えるだろう。シンプルであればあるほど、美しさが際立つのだ。それなのに、平木直理はなぜか髪の毛をネイビーに染め、ショートのセンター分け、私だったら絶対に隠すであろう少しむちっとした腕を丸出しにし、タンクトップにだぶだぶのオーバーオールというやはり少し奇妙なファッションをしている。彼女がやっているからまあ可愛らしく、顔が美しいため圧倒的な説得力はあるのだけれど、私がこの髪形、ファッション、メイクをしたら一瞬で太陽に焼き尽くされて粒子となり風に吹かれて消え去ってしまうかもしれない。彼女を見つめながらなんでこの人がホスクラなんか……という疑問が募るものの、今は人気キャバ嬢もホスクラ通いをする時代であり、日常生活で男性に相手にされない女性がホスクラに行く時代ではないのだろう。そして恐らく、ホスクラに行く人たちが求めているのも、単に美しい男性にちやほやしてもらうことではないのだろうと、雲の上の世界を想像する。
「これは純粋な興味なんですけど、平木さんは、ホスクラで何を得ているんですか?」
「てか、私から言わせてもらえば、なんで皆ホスクラに行かないんですか? って感じですね。何を得てるって、生きるために必要な全てですよ」
お金は生きるために必要な要素の一つではないのだろうか。不思議に思いつつも、自分の本分を思い出し領収書を平木さんに突きつける。
「平木さんのホスクラへの愛と情熱は理解しました。ですがこれは昨日の領収書ですよね? ホスクラには行けるけど、会社には来れない、では道理が通りません。病院に行くのすら辛いって、さっきおっしゃってましたよね?」
「ここまでの話で分かると思いますけど、ホスクラは会社とか病院の千倍楽しいところなんですよ? むしろ、会社に行けなくてホスクラに行けるのは当然じゃないですか?」
確かに当然だ。私だって、会社がとてつもなく楽しい場所だったら毎朝ルンルンで通うだろうし、進んで残業までしてしまうかもしれない。でも楽しい場所ってどういう場所なんだろう。ていうか、楽しいって何だったっけ。楽しい……とは。楽しいがゲシュタルト崩壊して、もうさっぱり分からない。昔はそれなりに楽しいと思うことがあったような気がするけれど、一体何が楽しかったんだっけ? 混乱しながら、私はドヤ顔の平木さんをまっすぐ見つめる。
「おっしゃることはごもっともなんですが、その道理が通ったら社員誰一人として会社には来なくなってしまいます」
「え、社員が会社に来なくなったら何が困るんですか? そもそも会社が私に来て欲しいなら、会社がもっと魅力的かつ快適、楽しい場所にならないといけないんですよ。私、在宅でも仕事ちゃんとやってますよ? しっかり原稿も取ってるし、内容のアドバイスもしてますし現地取材も同行するし、資料集めもします。いい本は販売に掛け合って部数を上げたりもしてるし、SNSを使ったPRも編集部の中年の面々には絶対に思いつかない有益な案を出してるし、いろんな媒体とコネクションがあるのでプロモーション取材も他社よりずっと多く取れます。それなのに私のこの身体を会社に拘束されなきゃいけない筋合いなんてなくないですか? ちなみに副編の沼岡さんはほぼ毎日十二時間以上会社にいますけど、彼の仕事量、私だったら四時間でこなせますよ。在宅定時で人並み以上の仕事量をこなせる私は、会社にとって非常に有益な存在です」
例えばヘッドハンティングされた役員クラスの人がこういう主張をしたら、会社の構造改革とかに結びつくのかもしれない。そう思いながら入社五年目なのに言うことはヘッドハンティングされた役員並みの平木さんをじっとり見つめる。
「つかぬことをお伺いしますが、平木さんにとっての楽しいって何ですか?」
「私は普通に皆が楽しいことが全て楽しいですよ。なんか出版社に入ったら、世間一般で楽しいとされていることが全然楽しくない、楽しめない人が多くてびっくりしたんですけど、私はこういう凡庸な人間であることに感謝してるし、誇りも持ってます」
「ちなみにですが、世間一般で楽しいとされていることって、何でしたっけ? 私ちょっとそのレベルから分からなくなってしまっていて……」
==↓続きは↓==
金原ひとみ『ナチュラルボーンチキン』でお楽しみください。
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本書はAmazonオーディオブックAudibleにて、日笠陽子さんの朗読により配信されています。