
ためし読み - 日本文学
【日本エッセイスト・クラブ賞受賞記念】 笠間直穂子『山影の町から』試し読み(第3回)
笠間直穂子
2025.06.28
山影の町から
笠間直穂子
2024年12月に小社より刊行しました笠間直穂子『山影の町から』が第73回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞しました。庭と植物、自然と文学が絡み合う土地で、真摯に生きるための「ことば」を探す仏文学者による清冽なエッセイ集です。この度の受賞を記念して、本書より3篇を無料公開します。(全3回のうち3回目)
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消される声
笠間直穂子
家の庭のバラを、少し奥まった地域にある山寺の花祭りに使いたいと春に声をかけてくれた Aさんと、先日、別の用件で話したところ、その花祭りのことを書いたわたしの文章を、バラ好きの伯母が読んで喜んでいた、と教えてくれた。わたしが育てているバタースコッチという品種の色や姿をよく知る彼女は、あの微妙な色味のバラが灌仏会の花祭りに使われたということに、特別の感慨を抱いたらしい。バラ好きのひとの視点を新鮮に感じた。
自分の書いたものや、訳したものについて、ひとを介して伝えられた感想が、心に残ることがある。十五年前、マリー・ンディアイの児童書『ねがいごと』の翻訳を出版したとき、二人の研究者仲間から、それぞれ個別に、妻が読んでとても気に入っていた、と言われた。ぼくよりも、むしろ妻のほうが……といった口調だった。直接の友人である男性を飛びこえて、その後ろにいる女性に届くとは、想像していなかった。嬉しかった。
フランス文学という、比較的女性に近しい分野であっても、やはり研究者はいまもって、男性が多い。だから、専業主婦だったり、他業種で働いていたりする彼らの妻は、わたしのいる場所から見ると、陰に隠れていて、親しい友人なら「家族ぐるみ」の付き合いになることもあるけれど、大抵は、知り合わずに終わる。Iくんの配偶者とは、その後、一度お宅にお邪魔して、長く話したから、いまはもう「Iくんの奥さん」ではなく、名前で呼ぶことができる。
「Yくんの奥さん」とは、まだ会ったことがない。
ンディアイがはじめて来日した際のトークイベントに、研究者仲間の「彼女」が不意に来て、声をかけてくれたこともあった。何度か一緒に飲んだけれど、いつも酒席の与太話で、一対一 で話したことはほぼなかったはずだ。でも、その日は一人で来てくれた。翻訳小説は読みにくくて、ふだんはあまり読まない、でもンディアイの『心ふさがれて』は全然「翻訳くさくな い」し、とても感動したと、真剣な目で語った。その後、わたしは彼女に会っていない。
ンディアイの作品は、薄暗い場所に置かれる女性や、子供や、出自その他の属性が周囲と異なる者の身体を、そのような場所に置かれたことのないかぎり書けないような筆致で書く。 『ねがいごと』は、児童書らしく大団円で終わるとはいえ、貧しい国の子を裕福な国の夫婦が育てる国際養子縁組のはらむ問題や、親子の愛情が課す束縛など、複雑な主題を扱う。それをンディアイは、両親が剝き出しの「こころ=心臓」に変身するという、ファンタジーのような、しかし考えようによってはホラーのような設定に託すことで、故郷から切り離され、見当違いの「豊かさ」をあたえられる子供の孤独を、五感にじかに訴える物語として描いていく。
子供向けでない作品では、作中人物たちのこうむる暴力はより激しく、容赦なく書かれ、権力関係は錯綜する。短篇集『みんな友だち』、長篇小説『心ふさがれて』の翻訳刊行の際、いろいろな書評や、読者の反応を聞いた感じでは、ンディアイの作品については、ひたすら暗くて気味が悪くて救いがない、と言うひとと、暗いようでいて不思議と希望を感じる、と言うひとに分かれ、雑駁な印象にすぎないけれど、前者は男性、後者は女性が目立って多かった。わたし自身は、つねに後者の読み方をしていたから、むしろ、ひたすら暗い、という感想に驚いた。描かれる痛みを、どのくらい身近な、切実なものとして体感するかにかかっているのかもしれない。
だから、ンディアイの書いたものが、社会の表側に立つ男性たちの壁を乗りこえて、女性の手に着地するのは、いわば必然なのだ。その女性が、わたしと直接の関わりが薄い、だれかの「奥さん」だったり「彼女」だったりするのは、まさに男性社会によって女性が分断されていることの証左だろう。ンディアイのような作家が、ごく細い糸で、わたしたちをつなぐ。
『心ふさがれて』の翻訳をめぐる、知り合いづての反響として、もっとも忘れがたいのは、だれかの「お母さん」からのものだった。Tくんのお母さんが長い感想を送ってくれた、と母がメールを転送してきたのだ。Tくんは中学校の同級生だが、お母さんは非常に教育熱心なひとで、息子の学歴をあらかじめ決めてしまっているようなところがあった。ほとんど話したこともないわたしは、朗らかではあるけれども主にわが子の勉強に興味があるお母さん、と、いささか類型的に捉えていたと思う。
母が『心ふさがれて』のことを、たまたま会った彼女に伝えたのは、単に彼女の息子と同級だった娘が訳したから、という程度のことで、そもそも相手がそういった本を読むひとなのかどうかも知らなかったようだ。ところが、彼女が母宛に送ってきた感想文は、感銘を受けた、という気持ちがあふれている上に、深みのある批評にもなっていて、唸らされる指摘がいくつもあるので、わたしは驚愕した。「Tくんのお母さん」は、文学が好きなひとだったのだ。
筆致からして、相当の作品を読んできたはずだ。これほどの読解ができるなら、もし研究者になっていれば、よい仕事をしたのではないか、と思った。なりたい、と考えたことはなかったのだろうか。ひょっとすると、彼女があれほど息子のキャリアにこだわったのは、彼女自身の憧れの投影もあってのことだったのか。
自身がどのような能力や志向をもっていようと、それらを封じて、嫁・妻・母の役割に専念せざるをえないのが「普通」だった年代だ。それは同時に、社会的な属性の違いを超えて、「文学」が少なからぬひとにとって生きる支えになっていた時代でもある。だれかの「お母さん」ではない、自分の名前と筆跡をもつひとの横顔が、ンディアイの小説に感電したようにして綴られた文面の向こうに、はじめて垣間見えた気がした。胸が熱くなった。そして、やるせない気持ちにもなった。
いったい、性差別的な社会構造によって、どれほどのすぐれた文章が、生まれることなく葬られてきたのだろう、と思う。書かれてもよかったはずの言葉が、この世界を満たしている。
*
朝日新聞の「ひととき」もまた、わたしにとって、見知らぬ女性からの言葉が届く場所だった。女性の一般読者による投稿欄だが、「声」欄と違い、明確な主張というよりは、随筆にあたるもので、日常のちょっとした出来事の報告もあれば、切羽詰まった訴えもあった。
忘れられない投稿がひとつある。書き手は主婦だった。彼女は、なんでも完璧に仕上げないと気が済まない性格で、作業量の非常に多い家事を毎日つづけていたところ、追いこまれて、精神が壊れかけた。しかし、土壇場で、四十八時間で一日だと思うことにすればいい、と考えついた。そこで、掃除や洗濯から、自分の洗顔、風呂まで、それまで一日のうちにこなしていたあらゆる作業を、二日かけてやることで、乗りきった。
壮絶な状況がひしひしと伝わる文章だった。風呂も二日に一度、というラディカルな決断に衝撃を受けたが、彼女はそうやって、自分を犠牲にした無償労働に食いつくされる寸前に、自分の完璧主義と折り合いのつくようなひとつの発想に行きつき、自らを救い出したのだ。
わたしは、どうしても時間が足りなくなって、焦りかけたときに、彼女の文章を思い出す。 実際に同じことをするのは難しいとしても、あんなふうに切りぬけたひともいた、と思っておくと、少し気持ちが落ち着く。読んだのは、たぶん、二十年近く前で、記事が手許にないので、記憶違いがあるかもしれない。けれども、記憶のなかで変容した部分もふくめて、彼女の書いた言葉は、わたしを助けうるものとして、いつもどこかにしまってある。
「朝日新聞デジタル」の記事(二〇二〇年十二月三〇日)によると、「ひととき」の誕生は一九五一年。家庭面に、日々の生活のなかで女性の考えたことを送ってもらう投稿欄を設けようという、東京本社・影山三郎デスクの企画は、当初、作家に依頼した随筆を作文例として掲載した上で、同様の投稿を歓迎する旨を書き添えるつもりだったが、一般女性が新聞掲載に足る文章を書けるわけがない、と社内で反対に遭い、投稿募集の文言を削らざるをえなかったという。しかし、趣旨を理解した女性たちが、自ら投書を送ってきたことから、この欄はあらためて投稿欄として出発した。まさに、このときの社内の反応に象徴される性差別的な抑圧によって、公に響くことのなかった声が、紙上を通じてひとの耳に届けられるようになったのだ。
居住地域も職業も家庭環境も経済状況も、実に多種多様な女性たちに、自分で書く、という可能性を示した「ひととき」は、一九五〇年代から今日にいたる女性の生の現場を、本人たちの言葉で伝える草の根の記録として、ジャーナリズム史にとっても貴重な資料となっている。いま、一九八五年に三巻組で刊行された朝日新聞学芸部編『「ひととき」30年』(『家族の風景』『おんなの暦』『おんなの心』)をめくっていると、次々と重ねられる女性たちの声を通して、この間に変わったことと、しかしそれにも増して、創設から七十年を経た今日もなお変わらないこととが、眩暈のするような密度で交錯する。
幅広い女性の就労が強く肯定された戦後間もない一時期のあと、夫が稼ぎ妻が家事と子育てのいっさいを担う家族モデルが国の意向として喧伝され、二十五歳、三十歳をすぎれば、職場を見つけることは困難になっていく。今後の生活への不安を綴る一人親や単身女性、手に職をつける希望をつぶされた主婦の声は、高度経済成長の物語の陰で、止むことがない。
もちろん、『「ひととき」30年』の三冊が出た一九八五年は、男女雇用機会均等法制定の年でもあるから、女性の就職にまつわる制度は、このあと、大きく変わるのだが、とはいえ、制度の背後で、抑圧はつづく。二日を一日と見なして窮地を脱した女性が投稿したのは、二十一世紀に入ってからのはずだが、彼女がこのような状態に陥ったのは、なによりも、ケア労働が無価値化・不可視化されているためだろう。負担が負担と見なされないがゆえに、限度も見えなくなる。この点に関しては、一九五〇年代の女性の訴えが、ときに、まるで今日の発言であるかのように響くほど、問題は相変わらずそこにある。
それにしても、わたしは、彼女たちそれぞれの、筆跡の個性に目が行く。
大阪本社で一九五三年から八年近く「ひととき」欄を担当した平井徳志は、当時の採用方針について、テーマを重視した、と述べる。そして、将来、研究資料となる場合に「その時代の女性の物の見方、考え方、表現力」が歪んで伝わることのないよう、訂正は「誤字とテニヲハ」に留め、それ以上は原稿に手を入れなかった(『おんなの暦』)。ほかの地域もおおむね同じ方針が採られていたものと推測され、そのため各投稿の個性がはっきりと見える。
です・ます調で、きちんと男女同権への道を説くひと。だ・である調で、わが子との関係を軽妙に語るひと。敬体と常体の混在が、書きつけられた迷いに、かえって真実味をあたえているひと。女性の話し言葉を模した饒舌な文体で、夫を操る妻の特権を露悪的にひけらかしてみせるひとがいるかと思えば、会社の接待で買春ツアーに出かける夫を黙って送り出す苦痛を、消え入るような声で訥々とつぶやくひともいる。
そして、ときに、出色の文章が紛れこむ。
*
『おんなの暦』に、「ポールにつながれた子」と題する、一九七二年十月二十日の「ひととき」欄に掲載された投稿が収められている。ある小さな洋裁店の前に、いつも幼児が街灯のポールに帯でつながれて、一人で遊んでいるのを見かける。母親の姿は見えず、ほったらかしと思しい、という内容だ。母親としていかがなものか、という主旨の文章だが、直接そうは書かず、犬だってこの子に出会えばやさしくなめてやるかもしれない、などと遠回しに皮肉る修辞の使い方といい、末尾に置いた親の心得を説くバーナード・ショウの引用といい、投稿者はそれなりに学のあるひとのようだ。しかし、それ以上のことはない。
ところが、その次に収録された記事は、同年十月二十七日付の「ポールの子はわが娘」。二十日の投稿を読んだ洋裁師本人が、うちの娘のことが掲載されていたので、と返答を送ってきたのだ。
彼女は書く。子供の面倒を見ながら働く者は必死だ。保育園は制約が厳しいから、自宅勤務の自分は、預けない選択をした。だから、子供は家にいるのだが、とはいえ仕事がある以上、始終相手をするわけにはいかない。
「おんも、おんも」の声が胸に痛い。日がまるで当たらないわが家から見える向かい側の家々や道端に降り注いでいる陽光があざやかだ。外へ行けない日の少時間を主人の柔らかなへこ帯で子どもをゆわえて遊ばせることにした。犬、ネコのさただと思う人は思えばよい。子どもは両手をあげて帯を結ばせ、喜んで遊ぶ。私もその間、仕事がはかどろうというものである。店から見える安全地帯であることはいうまでもない。
子供の声や動作、日光などの感覚的な描写、重ねる文のリズムと語尾のバリエーション。一文ごとに主語が移りゆく流れのなかに、先の投稿であげつらわれた点に対する反駁がぴたりと嵌めこまれている。啞然とする筆力だ。
彼女は、公の場で自分を非難した投稿者に向かって、直接に言葉をかけることはない。代わりに、こう書く。
子どもの幸せを思わない親などいない。四十歳近くになって恵まれた一人きりの子どもである。毛皮でなでるような育児を受けて一般教養を身につけ、類型的な家庭婦人として微温的人生を過ごすのも幸せなことである。しかし、より深い次元に生きることを望む子どもであってほしいとも思う。
相手のいかにも良識派的な物言いに痛烈な反撃を加えつつ、当てつけを当てつけに終わらせず、子供にとっての幸せとはなにか、という本来の問いにつつみこむ。苛烈な文章だと思う。彼女は「ひととき」に、望んで投稿したのではない。言いがかりをつけられて、やむなく書き送ったのであり、そうでなければ、この文章は存在しなかった。
彼女を非難した相手をふくめ、「ひととき」の多くの投稿が実名を掲載するのに対し、彼女の記事の末尾には「東京都中野区・匿名・洋裁業」としか記されない。洋裁師として日々働き、子供を育てながら、彼女はなにを読んでいたのだろうか。このあとも、ものを書く機会があっただろうか。
一九七二年に四十歳前後ということは、存命なら、九十歳をすぎたところか、と考えながら、わたしはいつの間にか、名前のない彼女の、届くはずのない文章を待っている。
山影の町から ―目次―
常山木
巣箱の内外
ふきのとう
虫と本能
葛を探す
山の向こう
モノクローム
野ばら、川岸、青空
金木犀
霧と海
ダムを見に
荒川遡行
斜めの藪
草の名
バタースコッチ
サルビア・ガラニチカ
車輪の下
雲百態
田園へ
土の循環
よそに住む
本棚のある家
庭の水
山にたたずむ
理想郷
花々と子供たち
株分けと民話
十代の読書
消される声
風の音
参考文献一覧
笠間直穂子(かさま・なおこ)
1972年、宮崎県串間市生まれ。
東京大学大学院総合文化研究科単位取得退学。国学院大学文学部教授。フランス語近現代文学研究、仏日文芸翻訳。
2010年M・ンディアイ『心ふさがれて』(インスクリプト)の翻訳で第15回日仏翻訳文学賞、2025年『山影の町から』で第73回日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。
著書に『文芸翻訳入門』(フィルムアート社、共著)、『文学とアダプテーション』(春風社、共著)、『鳥たちのフランス文学』(幻戯書房、共著)ほか。訳書にM・ンディアイ『みんな友だち』(インスクリプト)、『ねがいごと』(駿河台出版社)、モーパッサン『わたしたちの心』(岩波文庫)、C・F・ラミュ『パストラル ラミュ短篇選』(東宣出版)、『詩人の訪れ 他三篇』(幻戯書房)、J・F・ビレテール『北京での出会い もうひとりのオーレリア』(みすず書房)、G・クレマン『第三風景宣言』(共和国)ほか。
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続きは単行本『山影の町から』にてお楽しみください
試し読み『常山木』(第1回)も読む
試し読み『ふきのとう』(第2回)も読む