ためし読み - 新書

欲望と深く付き合う生き方とは? 渡部宏樹『ファンたちの市民社会』より、「はじめに」を全文公開!

いま、私たちは誰もが何かの「ファン」である社会を生きています。そのような資本主義社会が喚起する「欲望」や「快楽」とうまく付き合いながら、よりよい個人の生や社会を築いていくにはどうすればいいのか——?

「ファン研究」を専門とする気鋭の研究者、渡部宏樹さんの初単著『ファンたちの市民社会:あなたの「欲望」を深める10章』(河出新書)は、そのヒントが詰まった一冊。

本書より、「はじめに なぜファンの欲望と快楽を考えるのか?」を全文公開します。

 

はじめに なぜファンの欲望と快楽を考えるのか?

 近年「推し」という用語が一般に使われるようになっています。

 この言葉自体は一九九〇年代から使用されていました。二〇二〇年に宇佐見りんの『推し、燃ゆ』が芥川賞を受賞したことをひとつのきっかけとして、現代の若者がアイドルやキャラクターと独特の強い精神的関わり方をしていることが社会的に注目を集めました。その後、多くの人が、マーケティングや地域振興のための手段として経済的側面から「推し」を議論したり、あるいは逆に、「推し」という概念によって私たちの心が資本主義に利用されてしまうことを批判したりしています。特に二〇二三年末のNHK紅白歌合戦で、日韓のアイドルとともに、YOASOBIがアニメ『【推しの子】』の主題歌「アイドル」を歌ったことで、「推し」という概念は、日本社会の中で広く通用するようになったと言えるでしょう。

 しかし、「推し」という現象は最近になって生まれたものではありません。少し視野を広げてみると、「推し」のようにメディア上のアイドルやキャラクターなどへ強く傾倒した状態を示す語彙は他にもあることがわかります。二一世紀に入ってからでも、例えば、「萌え」や「尊い」や「エモい」といった言葉が、エンターテインメントの文脈で使われています。

 こういったメディア上の対象に対して強い心理的関与をする人々のことは、より一般的な言葉では「ファン」と呼ばれます。「ファナティック(狂信的)」を語源とするこの言葉は、欧米を中心に産業資本主義が発展しさまざまなメディア商品が大衆に普及するようになった一九世紀の終わり頃に生まれました。有り体に言うと、工場で生産された工業製品を賃金労働者である大衆に売り込むために、キャラクターをあしらったイメージ戦略が行われるようになったのがこの時代です。例えばアメリカでは、パンケーキミックスに描かれたジェマイマおばさんのようなキャラクターが生まれました。近所にいそうなおばさんというキャラクターを使って親しみやすさを演出し、自社の商品を継続的に購入してくれるファンを作り出そうとしたわけです。

 こうしたキャラクターがあしらわれた商品は日本のコンビニやスーパーマーケットでも毎日目にします。パンケーキミックスの場合は商品とキャラクターが強く結びついていますが、日本の場合は、アニメや漫画のキャラクターをそれらとは直接関係がない商品に添えたものが多いようです。つまり、商品の特徴をキャラクターによって説明するというのではなく、キャラクターの人気を流用して商品を売ることが目指されています。

 いずれにせよ、「ファン」という言葉は、資本主義社会におけるイメージとしての商品と私たち消費者の関係を示す用語であるという点で、現代日本における「推し」にも連なるものと言えます。

 

なぜ「推し活」が流行っているのか?

 今の日本社会では「推し活」という言葉が人口に膾炙して久しいわけですが、私にはそのことは、半分は理解できるとともに半分は不思議なことに思えます。

 半分理解できるとは、次のような意味です。三〇年間にわたってGDPが伸びず可処分所得が減っている現代の日本社会に、閉塞感を覚えている人は多いでしょう。経済的な停滞に加えて、夫婦別姓婚や同性婚さえ実現しないこと、マイノリティーへの差別の根深さ、ハラスメントが絶えないこと、中抜きや搾取が蔓延していること、中央と地方の格差といった、一言で言えば、より良い未来を想像しにくい環境の中で、現実を自分の力によって変えうるという感覚が失われているように思います。その行き場のないエネルギーが、ある程度は自発的に、ある程度はマーケティングの効果として、「推し活」に向かっているのでしょう。

 昔であれば、こうしたエネルギーは宗教が吸収していたのだと思います。イエス・キリストや聖母マリア、あるいはブッダや観音菩薩といった人間の形をしたイメージに人々は救済を求めていました。こうした宗教的イメージを通して、信者のコミュニティーの中で知識を学び、情報を共有し、助け合う交流が生まれるというプロセスがかつてはありました。日本が経済的に発展していたときでも、当然経済成長から取り残される人たちはおり、そうした人たちには新興宗教のコミュニティーが救済の手を伸ばしていました。

 しかし、現代の日本では、スポーツ選手、アイドル、芸能人、アニメや漫画のキャラクターといった「偶像(アイドル)」を「推す」文化が、宗教に取って代わって、資本主義の枠組みの中で人々に仮初の救済を与えています。半分は理解できると言ったのはこうした意味でです。もう半分で納得できない部分があるのは、それでもなお、人々が「推し活」に投入しているエネルギーによって、具体的に自分たちの周りの環境や社会全体を良くする回路は存在しないのかという疑問があるからです。

 

「私」を守るためにファンになる

 本書に興味を持つ人は、現在何かのファンだという人が多いでしょう。今では熱は冷めてしまったけれども、子供のときや若いときに何かに熱狂していて、当時の気持ちを懐かしく思い出すという人も多いかもしれません。大人になると仕事、家事、育児、介護などに時間を取られて趣味に打ち込む時間が少なくなってしまい、何かに興奮したり趣味にのめり込んだりする自分というものを、責任ある大人の社会人として振る舞っていると肯定しにくいということもあるでしょう。

 大人の仮面を被るというやり方で成熟することは悪いことではありません。誰しもそうやって社会生活を営んでいます。ですが、その仮面には必ず裏側があるはずで、そこにまだ残っている情熱をなかったことにしていては、自分の人生を生きることができなくなってしまいます。

 社会のさまざまな期待を受けて生きざるを得ないからこそ、私たちは何かのファンであるという形で、あるいは何かを「推す」という形で、情熱に満ちた自分を社会から隔離し守るのかもしれません。子供のときは「中学生/高校生らしくしなさい」と言われ勉強やスポーツが奨励される。成人すれば社会人として労働や恋愛、結婚、出産をすることが期待されます。三〇代になれば「家を買ったほうがいいのだろうか」と考え、四〇代・五〇代と年を重ねるにつれて、病気や介護や子供の受験や進学を考えるようになります。こうした社会からの期待が自分が頑張るモチベーションになるのであれば、それはそれで幸せになることもあるでしょう。ですが、常に社会からの期待というプレッシャーに応え続けるのは、多くの場合辛いものです。

 ここでは社会の期待と一言で済ませてしまいましたが、親類や同僚といった具体的な知人があなたに対して向ける期待だけを指すものではありません。例えば資本主義があなたに対して「より良い人生を送るためにこの商品を買いなさい」と迫ることもあれば、家父長制が「男は大黒柱として家族を養うものだ」とか「子供を産むのが女の幸せだ」と脅迫してくることもあります。私たちの生は常にこうした制度からのさまざまな期待に晒されています。

 趣味あるいは「推し活」に没頭することは社会の規範から自分を守る防波堤として機能している面があります。例えば、野球やサッカーといったスポーツ・チームのファンになると、現実の社会生活で自分が置かれている状況を忘れて、個々のプレイヤーの技量を鑑賞したりチームの勝敗に没頭したりできます。現実世界ではさまざまな困難に直面していても、贔屓のチームが勝利したらその充実感を自分も分かち合うことができるし、負けたとしても監督の采配にケチをつけてストレスを発散できます。平々凡々とした日常生活に飽き飽きしている人は、テレビドラマや映画を見ることでスリリングなアクションでも甘美な恋愛でも望みの刺激を得ることができます。スポーツ・チームに想いを託したり、恋愛ドラマに夢をみたりするときに、そこには確実にあなたの欲望があります。

 こういった趣味にファンとして没頭しながら、同時に自分の趣味をおくびにも出さないでまともな大人としての社会生活を営んでいる人はたくさんいると思います。そういった人たちにとって、趣味というものはあなたが本来持っている欲望を吸収し、そうすることでまともな大人という体面を維持する機能を果たしていることになります。別の言い方をすると、あなたの本当の欲望を趣味という形で枠をはめ有耶無耶にしてしまうことで、この抑圧的な現実は維持されているのです。

 だとしたら、あなたの欲望を吸収する趣味をより深く見つめ直すことで、そこからあなた自身の欲望を取り戻すこともできるのではないでしょうか? なぜなら、そこにはあなたの本当の欲望、人生で本当に実現したいことの片鱗が隠れているかもしれないからです。あなたが何かのファンであるときに、その趣味が社会的には望ましくないものだとしても、そこにはあなたという人間のもっとも美しい部分ももっとも醜い部分も含めて、何かが投影されています。

 

ファン研究の出現

 ファンという文化現象への学術的な関心は一九九〇年代の英語圏で高まり、ファン研究と呼ばれる分野が確立しました。ファン研究を形作るもっとも重要な研究領域として、一九六〇年代にイギリスで生まれたカルチュラル・スタディーズがあります。カルチュラル・スタディーズの重要な特徴として、芸術や文学といった高級文化だけではなく、それまで学術的な研究の対象とされてこなかった下位文化(サブカルチャー)を真面目な研究対象として取り上げることが挙げられます。

 これは芸術や文学の研究がダメだという意味ではありません。しかし、そうした社会的に良いとされるものだけを研究しているのでは、例えば、イギリスでパブに集まってサッカーのテレビ中継を見る労働者階級の男性たちや、テレビで放映される昼ドラを共通の知識として交流する女性たち、アニメや漫画のキャラクターを楽しむ子供たちの生活について理解することはできません。「社会的に認められている芸術や高級文化だけが素晴らしいのだ」とする立場からは、こうした下位文化(サブカルチャー)は文化的な価値のないものであり、人々がその場限りの快楽のために消費するだけの資本主義が生み出す商品に過ぎないと考えられてきました。大衆文化・消費文化を楽しむ人たちは、受動的に消費させられるだけで自分の頭で考える主体性を欠いているとみなされてきたのです。カルチュラル・スタディーズはこうした立場に疑問を呈し、下位文化(サブカルチャー)の実践の現場でも、人々がその場その場で自分たちの行動や規範を解釈し直し、自分たち自身の生の意味づけを行っていることを明らかにしてきました。

 一九九〇年代に生まれたファン研究はカルチュラル・スタディーズの影響下に成立しており、個人が主体的に文化的な活動に働きかけることを肯定的に評価しようとする傾向があります。高度な芸術や文化として一般的には考えられていない、スポーツ・チーム、テレビ番組、アイドル、芸能人、アニメや漫画のキャラクターといったもののファンであることを、資本主義に抵抗できない愚かな消費者だと考えるのではなく、自分の生を切り開いていくための基盤だと捉え直したのです。

 例えば、何かのファンであることをきっかけに、それに関連することを勉強し始める人は少なくないでしょう。そうした人の中には、その勉強した内容を他のファンたちと共有しコミュニティーを形成したり、そのコミュニティーのために人とのつながりを維持したり、さらにはそうやって学んだことを活かして自分自身の創作活動を行ったりする人々も生まれます。こうした活動に熟達した人の中には、アートや学問などの伝統的に権威のある集団に活動の場を移す人もいれば、同人誌を作ったりYouTubeで配信を行ったりといった場に活動の中心を移すこともあるでしょう。そういった技術的に要求水準が高い活動でないとしても、好きなキャラクターのアクリル・スタンドと一緒に写真を撮ってインスタグラムにあげるだけでも、イメージを利用して自分のために何かを作り出そうとしているのであり、そこには自分の生をより良くしようという主体的な働きかけがあります。

 高級文化だけを真面目な研究の対象とみなす観点からこぼれ落ちてきた、こうしたファンたちの作り出す創造的な活動を発見し評価しようというのがファン研究の基本的な考え方です。

 

ファンから市民社会を立ち上げる

 私がファン研究に関心を持っている理由の一つは、このように社会の規範や資本主義と対峙して人々が良い生を生きようとする姿に強い興味を持っているからです。それはひいては、資本主義社会の条件下でどうやって民主的な方法で平和で公正な市民社会を維持するかという関心にもつながるものです。このような言い方をすると、「個人の幸福の問題はわかるし、資本主義の話をするところまではわかるけれど、民主主義とか市民社会とか言われてもピンとこない」という人もいるかと思います。しかし、資本主義が私たちの生のあらゆる領域に手を伸ばす現代において、産業資本主義とともに生まれた「ファン」という現象は、もはや政治や市民社会と切り離して考えることができないものとなっています。

 この点について考えるために、ヘンリー・ジェンキンズという研究者の議論を紹介しましょう。ジェンキンズは、人々が自発的に活動に参加し楽しみや知識を生み出す文化のあり方を「参加型文化」と名付け、この参加型文化が政治を担う市民的主体を生み出すと考えました。

 ジェンキンズがよく挙げる具体例として、ウォルマート・ウォッチというNPOとハリー・ポッター連盟が二〇〇六年に作った『ハリー・ポッター』の二次創作ビデオがあります。ウォルマートとはアメリカの大型スーパーのチェーンで、日本で言うとイオンのようなものです。ウォルマート・ウォッチは同社の中で発生している労働問題を監視する市民団体で、彼らの活動を宣伝するために、『ハリー・ポッター』を題材にした二次創作のビデオを作りました。その中では、アマチュアの役者が演じるハリーたちが、「ウォルデマート」というキャラクターによって地元の商店街が危機に瀕していることに気づきます。「ウォルデマート」は、原作のヴォルデモートという悪役とウォルマートという会社名を重ね合わせたものです。このように『ハリー・ポッター』の設定を流用することで、現実社会に存在する労働問題をわかりやすく説明し、労働運動への参加を促そうというものです。

 若者が政治参加したがらないということは米国でも議論されていますが、ジェンキンズは、若者に問題があるのではなく、特殊で閉鎖的な政治的語彙を駆使しなければ政治という領域に入れないことのほうが問題であると論じます。『ハリー・ポッター』という若者の共通了解となっている語彙を用いることが、現実に存在している社会問題の理解や共有につながるのであれば、そこには可能性があるというのがジェンキンズの議論です。

 これは「社会運動のためにポピュラー文化を利用しよう」という発想とは一線を画すものです。あくまでも、ポピュラー文化を楽しむファンたちの「参加型文化」が市民的な能力を育む力になるということで、ポピュラー文化を人々を自分の思い通りに動かすために使おうという考えではありません。前述の事例に即して言うと、ジェンキンズは政治的な目的のために『ハリー・ポッター』というコンテンツを使って二次創作ビデオを作ったことを評価しているのではありません。もう少し抽象的なレベルで、『ハリー・ポッター』を楽しみ、同作をテーマにした音楽活動である「魔術師のロック」を楽しむ若者が、趣味の活動の中で培っていた技術や人的ネットワークが、結果的に若者たち自身の政治参加につながったことを肯定的に見ているのです。ジェンキンズの基本的な発想は、ポピュラー文化のファンであることによって生じる熱量ややる気というものが、市民社会の維持に必要な対話能力や学ぶ能力、コミュニティーを維持し、相互教育を行う能力の育成のために重要であるということなのです。

 

オードリー・タンのデジタル民主主義

 人々の主体的・積極的な政治参加を促すという発想は、台湾の元デジタル担当大臣オードリー・タンが試みていることでもあります。新型コロナウイルス感染症に対応する中で、タンは政府の持っているマスクの在庫情報を公開し、プログラミングができる市民たちが、そのデータに基づいてどの薬局にマスクがどれだけあるかを可視化するアプリを作り出しました。タンの政策の核には、情報公開によって人々が協力できるようにデジタル技術を使うという相互扶助の理念があります。彼女が中国に対して自由と民主主義の国としての台湾をアピールする役割を演じている面もあるでしょうが、だとしてもタンが実際に行っていることは自由民主主義社会の理念に沿ったものです。

 タンはジェンキンズの著書『コンヴァージェンス・カルチャー:ファンとメディアがつくる参加型文化』(渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人訳、晶文社、二〇二一年)の日本語版の帯のために、ジェンキンズと彼女自身の理想を重ね合わせて、次のような文章を送ってくれました。

参加型テクノロジーによって、私たちはメディアのリテラシーだけでなくコンピテンシー(実行力)を手にした。本書はこのことを全世代に知らしめたのだ。私たち自身のメディアと物語(ナラティブ)を社会的に作り出すことが集団的な覚醒へと繫つながるのだ。本書で描かれる現象は、「ひまわり運動」など台湾で目下進行中の民主化プロジェクトを支えているものである。「達成可能なユートピア」というヴィジョンを通じて、私たちはロックダウンなしでパンデミックに、テイクダウンなしでインフォデミックに反撃できたのだ。〈Demos over Demics〉という宣言である。

 〈Demos over Demics〉という修辞にはちょっと解説が必要かもしれません。「デモス」とは「人々」のことを指すギリシャ語です。みなさんがよく知っている「デモクラシー(民主主義)」という言葉は、「デモス(人々)」による「クラシー(支配)」という意味です。このデモクラシーという概念を念頭に、タンは〈Demos over Demics〉、すなわち疫病の流行であるパンデミックや真偽が不確かな情報が拡散するインフォデミックに勝利したのは、人々の力によるものだと宣言しているのです。

 つまり、人々が自身の力で政治を運営するというデモクラシーの理念を通して見たときに、人々の持っている文化的活力を評価し市民社会を立ち上げようというジェンキンズの理想と、タンが取り組んでいるデジタル技術を利用した民主的な政府の運営は、とても深いレベルでつながっているのです。

 ただし、このような理想を実現するためには、大きく分けて二つ真剣に考えるべき問題があります。それはポピュラー文化の楽しみというものが本質的に資本主義に依存していることと、ファンであることが欲望と快楽の問題と関わっていることです。

 

資本主義社会における楽しみ

 まずは資本主義の問題を考えていきましょう。

 現代社会において私たちの生活は資本主義に包み込まれています。資本主義社会とは、資本が自己増殖するために商品を作って人々に買わせる社会です。生産された商品は「この商品を買えば幸福になります」というメッセージを発して、消費者に自身を買わせるわけです。これが例えば、食品や薬や自動車などであれば、価格とそれによって得られる幸福の程度は計測可能です。食品であればそれによって得られるカロリーや味の程度、薬であればどのような疾病を取り除くことができるかといった具合です。

 しかし、文化商品になると「幸せ」の実態が曖昧になります。ブランドものの鞄や宝飾品などは、それらの実際の利便性よりも、そのブランドを所有するということが幸福の源泉となります。アイドルやアニメのキャラクターにも似たような性質があります。これらはブランドと同じように感情に訴えかける商品です。私たちは具体的な品質に違いはないのに、キャラクターのイメージが描かれているという理由でスーパーやコンビニで特定の商品を購入し、そこから何がしかの幸福を得てしまっています。記号的な商品を買うことで幸福になると思い込んでしまっている状態は、資本主義の論理が私たちの感情や思考さえも飲み込んでしまったものです。(こういった現象を専門用語で物神崇拝[フェティシズム]と言います。)

 こうした資本主義のメカニズムはファンダムの構造の中にも深く入り込んでいます。自分が好むコンテンツを購入し、そのコンテンツを共有するファンダムの中でコミュニティーを作り、場合によっては、二次創作的な活動に取り組むこともあるでしょう。このプロセス全体が、資本主義の中で商品を提供する大企業やメディア産業によって商売のチャンスだと認識され、売り上げを支えるために利用されています。すでに述べたコンビニやスーパーの商品とのタイアップもそうですが、他にも色違い・キャラ違いのおまけを多種多様に用意して商品を買わせる戦略などはあらゆる場面で見られます。

 つまり、私たちが何かを楽しいと思うその感情は、資本主義によって刺激されて生み出されている部分が常に存在します。資本主義が与えてくれる快楽の中から足を踏み出すというのは難しいことです。例えば、好きな漫画やアニメが汚職や不正をした企業とコラボをすることになってたくさんのグッズを展開し始めた。その企業の商品は買いたくないが、しかしそのグッズはコンプリートしたいというときにどうしたらいいのか。しかもこうした抵抗を、禁欲主義にひきつけるのではない形で行う。こうした問題意識が、資本主義社会の中から市民社会を立ち上げようとするときに必要とされるものです。

 このような、私たちの生活を包摂する資本主義という構造全体とどう向き合うかを考えるのが、ファン研究の重要な問いの一つとなっています。

 

ファンダムの欲望と快楽の「悪さ」

 もう一つの重要な論点は、欲望や快楽の「悪さ」をどう取り扱うかです。

 ジェンキンズにしてもオードリー・タンにしても非常に美しい理想を描き出し、それに向けて努力しています。その点はあくまで理想として重要です。ただ、ジェンキンズが楽天主義的であるという批判はあり、私もそれについては同意します。しかし、そのことはファン研究というものがユートピア的な事例を収集するだけのものに過ぎないということではありません。私は、ファン研究というアプローチが、資本主義社会の中で動員される人間の欲望と快楽というものに向き合って、その上で、その条件のもとでどう市民社会を作るかという問いに貢献するものだと考えています。(その意味で、本書は一般的なファン研究の入門書とは言えません。)

 例えば、米国におけるドナルド・トランプ支持者を例にとってみましょう。二〇一六年の大統領選において、トランプ支持者たちは現実と異なる、善悪二元論的な物語を通して世界を認識していました。当時の民主党や政財界のエリートは人身売買を行う小児性愛者の集団で、トランプはそうした米国を陰で支配する悪者集団であるディープ・ステートと戦う正義のヒーローであるという物語を彼らは共有していました。このような荒唐無稽な物語をコミュニティーの内部で共有していたことは、米国の連邦議会議事堂襲撃事件を率いた中心人物の一人が顔を国旗の色である赤・白・青で塗り、水牛の角や毛皮を身に纏い、全身に刺青を施すという奇妙な姿をしていたことから一般の人々の目に触れました。議事堂襲撃の参加者が共有していた物語は政治的な議論ではなく、ポピュラー・エンターテインメントを背景にした勧善懲悪的な物語でした。その意味で、この政治とエンターテインメントが溶け合って区別できなくなり、妄想的な物語に駆動されて議事堂を襲撃するという事態は、自身の欲望とそれを満たす快楽に耽溺することから生まれています。

 だからこそ、市民社会について考えるときに、政治のシステムや政策論といった「真面目」な領域について考えるだけではなく、「不真面目」なエンターテインメントとそのファンについて考える必要があります。なぜなら、前者を稼働させるのは、後者の領域で養われた想像力や世界観だからです。不真面目な領域について考えることは、ひいては私たち自身の欲望と快楽について考えることにもなります。トランプの支持者たちが、自分たちで作り上げた物語の世界から自身の政治的立場を肯定する快楽を引き出して、それ以外の価値観や考え方から自身を閉ざしているとすると、そこに介入するためには、政治のシステムや政策論といった真面目な領域だけでなく、欲望と快楽の構造をこそ見なければなりません。

 

本書の構成

 こうした問題意識から、本書は英語圏のファン研究の議論を下敷きにして、日本における広義でのファンをめぐる議論も参照しつつ、エンターテインメントと政治が融解した状況の中でどう市民社会の未来を考えるかをさまざまな角度から論じます。その際に、特に資本主義社会において、欲望と快楽がどのように生み出され、流通し、消費されるのかに注目します。そして資本主義社会が作り出す欲望と快楽に従うのではなく、その欲望と快楽の回路の中から、私たちの幸福をどう見つけていくかを考えます。したがって、資本主義が提供する欲望や快楽を避けてただただ真面目に生きるというのでもなく、市民社会に応用可能なものだけに欲望と快楽を切り詰めて道具として利用するわけでもない、欲望と快楽と深く付き合う生き方を——ときに「あなた」に語りかける形で——考えていきたいと思います。

 本書は全部で一〇章から構成されています。前半の五章はあなたが自分の中の欲望や快楽をどう見つけそれらと向き合って幸福な生を送るかを考えます。後半の五章では、その上で、あなたの欲望や快楽を利用しようとする社会の中のさまざまなシステムにどうやって対抗するかという観点で議論をしていきます。後半になるにつれて、本書が「悪さ」と呼ぶ問題に取り組むことになります。ここで、「悪さ」とは大まかに「記号を扱う人間がイメージに縮減された他者を利用してしまうことの原理的な暴力性」を指し、本書はこの「悪さ」がファンや「推し活」を考える際の急所であることを指摘します。

 

 

続きは『ファンたちの市民社会:あなたの「欲望」を深める10章』(河出新書)にてお楽しみください!

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著者

渡部宏樹

筑波大学人文社会系助教。南カリフォルニア大学にて映画メディア研究の博士号取得。専門は表象文化論、ファン研究。共著に『メディア論の冒険者たち』、共訳書にジェンキンズ『コンヴァージェンス・カルチャー』。

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