ためし読み - 日本文学

【速報】驚異! デビュー小説から2作連続芥川賞ノミネート! 向坂くじらの最新小説『踊れ、愛より痛いほうへ』特別ためし読みを公開!

デビュー小説『いなくなくならなくならないで』がいきなり芥川賞候補になり、注目を集めた向坂くじら。
小説2作目となる『踊れ、愛より痛いほうへ』も、第173回芥川賞にノミネートを果たしました。

今回、『踊れ、愛より痛いほうへ』の刊行を記念し、試し読みとして冒頭14ページを特別公開します!

本作の主人公は、幼少期にバレエに打ち込んでいた少女・アンノ。
彼女は幼い頃から、納得できないことがあるとそれをスルー出来ず「割れ」てしまう性格。
ある日母親が、自分のために二人目の子どもを諦めたことを知り、衝撃を受けます。
成長したアンノは母の「あなたのため思って」から逃れるため、庭に赤いテントを張って暮らし始めますが──。
アンノが駆け出して行く先は、予想もつかない景色です!
自由へと疾走するドライブ感と、生き延びるためのアンノ流の哲学をぜひお楽しみください!  

 

 

==ためし読みはこちら↓==

踊れ、愛より痛いほうへ

向坂くじら

 アンノが踊っている。
 右足が空へ向かって高く上がると、頭はかぎりなく地面へと近づく。頭はかぎりなく地面へと近づく。つぎの瞬間には振り子のようにふりおろされ、天地は逆転する。橋の上だ。遠景に鳥たちが点々とある。頭蓋はある一点をとらえて静止する。肩が運動を受けとる。まるくしなる。両腕がしたがう。黄色い車がそばを通っていく。橋がゆれる。石たちがゆれる。つま先からゆれがあがってくる。はっきりとかかとを下ろす。ふくらはぎがのびる。背中がちぢむ。胸が羽ばたこうとする。女の声がきこえてくる。どこも見ていないのではない。舌がふくらむ。焦点は、空中のある一点にあいつづけている。

      *

 アケミバレエスクールに通っているのは、たくさんの女の子たちと、わずかな男の子たちだった。どの子にも細長い足が生え、ぴったりした白い服を着て、小鳥の群れみたいだった。アンノもそのなかの一羽だった。レッスンは週に五回もあった。小学校が終わると壁一面の鏡がある部屋に連れていかれ、そこにはアケミ先生がいた。アケミ先生はお母さんよりも年上で、髪が長く、はきはきした声でしゃべった。アンノたちは規則正しく並び、アケミ先生の声にあわせて体を伸ばしたり、ちぢめたりした。すると鏡のなかのアンノたちも、そろって同じ動きをするのだった。
 アンノがはじめて割れたのも、アケミバレエスクールでのことだった。
 レッスンが終わり、アンノが水を飲んでいると、男の子ふたりがアンノのほうを見てこそこそ笑った。アンノは口が大きい。顔の大きさは子どもたちと同じなのに、口の大きさだけは大人たちと変わらないくらいだ。だからニーッと笑うと顔の横幅いっぱいが口になったみたいに見えるし、水を飲むとほっぺたが風船みたいに大きくふくらむ。アンノは、べつに気にしていなかった。みんなのくちびるはもっとちょこんと小さいことも、だから発表会のときにはアンノのくちびるだけが薄い色で塗られたこともわかっていたけれど、どうってことないと思っていた。けれどその日は、口のわきに大きなほくろのあるモリちゃんもいた。子どもたちはアンノの大きな口を笑うのと同じように、モリちゃんのほくろつきの口のこともよく笑った。モリちゃんはアンノほどいろいろなことを気にせずにいられるたちではなく、ほくろのことをからかわれると、いつもめそめそした。
 だからアンノは立ち上がり、口のなかに溜めてあった水をひとくちで飲み込むと、男の子ふたりのほうへ近寄っていって、いきなりひとりの右頰をはたいた。そして言った。
「あのさあ、あたしたちのこと笑ってるんでしょ。あたしの口おおきくて、モリちゃんの口、おっきいほくろあるから、笑うんでしょ。でもねえ、あたしの口だって、モリちゃんの口だって、ぜんぜんおもしろいことないんだから!」
 すると、その言葉が終わるか終わらないか、といううちに、泣き声が部屋中にひびいた。モリちゃんだった。アンノはどうしてモリちゃんが泣きだしたのかわからずにおろおろし、すると叩かれたほうの男の子も一緒になって泣きだした。騒ぎを聞きつけてアケミ先生が走ってきたときには、男の子ふたりとモリちゃんがアンノを囲み、三対一で怒っていた。三人はくちぐちに、アンノが男の子をはたいた、それからモリちゃんの口をばかにしたと言った。そのあいだずっと、アンノは困ったような顔でうつむいて、言い分をたずねられてもなにも言わなかった。アケミ先生はため息をつき、細い指でアンノの頭をなでた。
「ねえ、それじゃ美しくないわ。あなた、七歳からはもうレディなのよ。赤ちゃんじゃないの。いくらじょうずに踊れても、踊っていないときに美しくないのなら、なんの意味もないのよ」
 するとアンノはやっと、「たたいたのはいけなかった」と答えた。
 迎えに来たお母さんはアケミ先生から事情を聞かされると、うつむいているアンノを見つめた。そして、りんと胸をはって、アケミ先生をにらんだ。
 「きっと、なにか事情があるんです。そりゃあ、暴力はいけませんが、まっすぐな子ですから。なにか先生のご覧になっていないときに、そうしなきゃいけないと思わせるだけの理由があったんだと思うんです。理由もなく人に手をあげるような子じゃありません。わたしには、わかります」
 そのとき、足もとからふたりを見上げていたアンノの頭は、もともとそうなることが準備されていたみたいに、てっぺんからパカっと割れた。ひび割れからは脳がもりもりあふれだし、アンノは思った。ぜんぶ出ちゃう。そうしたらたいへんなことになる。だから、力のこもったお母さんの手を、それでも力いっぱいふりほどいて、あふれるままにしゃべった。
「あたしの味方しないで。ほんとのことがなんでわかるの。お母さんだからって、ほんとのことがなんでわかるの。あたしが悪かったらどうするの。お母さんだか らって、あたしの味方しないでよ。あたしがひどいいじめっ子だったら?   あたしもそれがわかってなかったら?」
 お母さんと先生は口をあけたままアンノを見下ろし、アンノは自分が一気にしゃべりすぎたことに気がついた。もうこういうことはしないでおこう、と七歳の頭で考えた。それは覚えたばかりの、「怒る」とも「泣く」とも違ったから、自分でそれに「割れる」と名前をつけた。そして、割れるの、禁止、と思った。アイス禁止、夜更かし禁止、そして割れるのも禁止だ。
 帰り道、アンノが後部座席のジュニアシートから窓の外をながめていると、運転席のお母さんが言った。「ごめんね。お母さんが急に怒ったから、心配になっちゃったんだよね。あなたがやさしい女の子だってことは、わたしがよく知ってる。だから心配しなくていいの」
 バックミラーにお母さんの目だけが映って、鏡ごしにこちらを見ていた。それはアンノの思っていたこととはまるきり違った。ただ単に、お母さんがまちがっている、それはもうものすごくまちがっているんだと思ったら、割れてしまっただけだった。けれど何も言わなかった。
 それが、アンノが自分のお母さんに失望した、はじめての経験になった。

 お正月になると、毎年おばあちゃんのうちで集まりがある。机の上にはごちそうがならんでいた。重箱いっぱいのおせち、寿司桶、エビフライやハンバーグが詰まった近くの洋食屋のオードブル盛り合わせ、焼きぎょうざ、ざるに入った山盛りのいちご。アンノはいなり寿司ばかり三つも四つも紙皿にのせて、自分の座布団へ戻り、手づかみで食べはじめた。十人ぐらいの大人たちが机を囲み、瓶に入ったお酒を飲みながら、それぞれのうちのことを話しあっていた。おばあちゃんがあわただしく台所と和室とを行ったり来たりして、新しい飲みものや、お漬物や、アイスクリームを運んだ。だれかが「おばあちゃん、もういいよ」といっても、にこにこするばかりで、けして動きを止めることはなかった。
「えび、食べないの?」
 寄ってきたのはいとこの康晴こうせいだった。アンノはいなり寿司を飲み込んで答えた。
「いらない。おいしくない。こにゃこにゃする」
「えびフライは?」
 康晴はアンノより三つ歳上で、紙皿いっぱいに寿司や揚げものを盛っていた。
「揚げものだもん」
「エッ、揚げものだめなの?   からあげは?   トンカツは?   メンチカツは?」
「揚げもの食べたらでぶになる」
「もう小学校でしょ。給食どうすんの?」
「半分食べて、半分残すの」
「ふーん……」
 そのとき、「康晴!」と名前が呼ばれた。おじさんだった。康晴は立ちあがって、おじさんのところへ行き、赤い手まりをもらってきた。お正月には、親戚の子どもたちがひとりずつ、年齢と今年の抱負を言うのがお決まりになっていた。赤い手まりはその順番をしめす合図だった。康晴はだるそうに立ったまま、「十歳になりましたあ。野球がんばります」と言った。それから、手まりをアンノのほうへ放った。アンノは両手で手まりをキャッチして、「七歳になりました。バレエがんばります」と言った。そして、大人たちの拍手をけむたく思いながら、手まりを康晴の妹のさやに渡した。自分の座布団へ戻ってくると、康晴も戻ってきていた。
「おまえ、ほんとバレエばっかだな。バレエのために食べないんでしょ?  お母さん言ってたよ。奈緒子おばさんも食べないんでしょ?」
「食べるよ。ほれ」と言ってアンノはいなり寿司を見せる。
「でも、からあげとか、チョコとか、食わないんでしょ」
「四歳になりました」とさやが言う。
「ほっそいもんね。なんかさー。奈緒子おばさん、赤ちゃん、できたけど、産まなかったんでしょ?」
「おうたがんばります」
 拍手。
「えっ?   聞こえなかった。なに?」
 アンノはいなり寿司を床に置いた。康晴はあたりをきょろきょろ見まわして、アンノの耳もとへ近づいた。
「おまえにバレエ習わしてて、忙しいしお金もないから、もういらないって言って、おなかに赤ちゃん来たけど、帰ってもらったんでしょ?」
「赤ちゃんってなに?   帰ってもらったってなに?」
「だから、おまえに妹が来るはずだったけど、なくなったの。いもうとってわかるでしょ?  おれにはさやがいるでしょ。おまえにはなんもいないでしょ。だけど、ほんとはいたの。奈緒子おばさんのおなかに来たけど、生まれてこなくていいよって、奈緒子おばさんが言ったの」
「なにそれ?   なにそれ?」
 あまりのことに立ち上がったアンノの裸足は、さっき置いたいなり寿司を思いきり踏みつぶした。お揚げがやぶけて酢飯が飛び出し、米が冷たく押しつぶされて、足の裏に貼りつく感触がした。アンノが「わーっ」とさけぶと、康晴はすばやく立ち上がって逃げた。代わりに恵子おばさんが来てくれた。「やだ、なにしてんの!」と言いながら、畳にこびりついた米粒をこそげる。アンノは米のくっついた片足を曲げ、フラミンゴみたいなポーズになったまま、しばらくそれをながめていた。さいわい、片足立ちは得意だった。そして、早口でたずねた。
「妹いたってほんと?」
「なに?」
「お母さんのお腹の中、妹いたってほんと?」
 すると、恵子おばさんはさっと顔色を変え、掃除していた手を止めて、「康晴っ!」と鋭く叫んだ。それから、康晴を連れて部屋を出ていってしまった。アンノの足にも、畳にも、まだ米粒がくっついたままだった。アンノは自分で足の裏をこすって、米粒を畳の上に落とした。米粒はほこりや垢がまじって、黒く汚れていた。そして、このことはお母さんには言わないでおこう、と決めた。けれどもそれからときどき、生まれなかったというのはどういうことなんだろうかと考えた。おなかの中にいたけれど、そこから出てこなかったというのは、どういうことなんだろう。覚えていないけれど、自分もお母さんのおなかの中にいたはずだ。それが、出てこないままいなくなるというのは、どういうことなんだろう。考えているうちに怖くなって、うまく眠れなくなった。身長を伸ばすためだと 言って、お母さんは九時には寝室の電気を消してしまう。そのあとのとても長い時間、アンノは暗闇に向かって燃えるような目をあけていた。そして、お母さんがアンノに向かって、「生まれてこなくていいよ」と言うことも考えた。それは、生まれなかった子どものことを考えるよりも、さらに怖いことだった。
 眠れなくなると、生まれなかった子どもに話しかけた。生まれなかった子どもは、透明で、小さくて、バレリーナの格好をしている。目がきらきらで、髪もふわふわで、口はない。お母さんに、生まれてこなくていいよって言われたら、どうしよう?  アンノがたずねると、生まれなかった子どもは答えた。わたしたちの国に来たらいいよ。
 生まれなかった子どもの国?
 そうだよ。ずっとおなかがすかない国だよ。
 だけど、さびしくないの?
 さびしいもない、さびしくないもないよ。
 生まれなかった子どもが、ほかにもいるの?
 どんどん、どんどん増えるよ。
 どんどん増えて、そうしたら、どうするの?
 どうするもない、しないもないよ。
 ないのに、どうして生まれなかった子どもになったの?
 おまえがいたからだよ。
 生まれなかった子どもは、かならず最後にそう答えた。アンノは考える。お母さんはなんてやさしくないことをしたんだろう。わたしのために、生まれなかった子どもを産まないなんて、なんて怖いことだろう。そうして、自分は、なんとかして生まれなかった子どもにやさしくしてやりたいと思った。けれど、そのやりかたがわからない。

 

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続きは単行本『踊れ、愛より痛いほうへ』にてお楽しみください

 

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向坂くじら

詩人、国語教室ことば舎代表。初小説『いなくなくならなくならないで』で第171回芥川賞候補に。著書に、詩集『とても小さな理解のための』、エッセイ『夫婦間における愛の適温』、エッセイ『ことぱの観察』など。

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