ためし読み - 日本文学
芥川賞候補作家・大人気作詞家 児玉雨子が贈る、ノンストップ・転売・ストーリー!!『目立った傷や汚れなし』特別無料公開
児玉雨子
2025.12.04
★あなたの価値は星いくつ?★
芥川賞候補作『##NAME##』に続く超快作!
人気作詞家・児玉雨子が描き出すノンストップ転売ストーリー『目立った傷や汚れなし』より、冒頭試し読みを特別無料公開します。
★刊行記念イベント開催決定!★
刊行を記念し、2025年12月9日(火)19時より、児玉雨子さんと、ソロアイドル・寺嶋由芙さんによるトークイベントが開催されます。詳細・お申し込みは、青山ブックセンターまで。
==↓ためし読みはこちらから↓==
それってこのあと捨てるの? そう訊きながら、私は玄関の端に放っておかれた丸いごみ袋を一瞥した。半透明の袋は迷彩柄のドラえもんのプリントが透けていて、その中で成人男性一人が背を丸めて体育座りしているくらいの大きさがある。袋は今にも立ち上がって、私の知らないどこかへ歩き出しそう。それと並ぶようにしゃがんでスニーカーの紐を結びながら、あっごめん帰ったら出す、と拓実が思い出したように言った。
「いや、このドラえもんの服、まだ三回くらいしか着てなくない?」
「通販でサイズ失敗しちゃって、ちょっと小さかったんだよ……ごめんってほんとに」
「言い方悪かった。サイズのことは責めてない。まだきれいなら、フリマアプリとか何かに出していい?」
「ユニクロだよ?」
「ユニクロって今時全然安くないんだから、売れると思うけど」
「ふうん」
拓実の言いたいことは、きっとこうだ。このシャツにそこまでする価値がある? 見栄えがいいようにこれらの服を撮影して、サイズやブランドなんかを入力して、家にある適当な袋で梱包してコンビニに出して、さらに手数料までとられて、得られる金額なんてたかが知れているじゃないか。きっとそんなことをむくむくと催しては飲み込んだ拓実は「よくわかんないから、翠ちゃんに任せる。っていうか、もう全部あげる」と言って、ほんのすこし皮膚がたるんできた首筋を伸ばしすっくと立ち上がり、リュックを背負い直して日曜の朝の中へ颯爽と出ていった。よくもまぁ、そんな颯爽と。玄関の扉が閉まったあと、くちびるからそんな小言が落ちて足元で割れて散らばった。
ごみ袋の中には、ユニクロのシャツが二枚(一枚は無地の定番商品、もう一枚は現代美術家とドラえもんのコラボ商品。それぞれメンズのLサイズ)、ロゴのプリントが少し汚れている黒いマウンテンパーカー、洗濯を繰り返し襟の部分が少しよれてしまったコバルトブルーのシャツが丸めて押し込まれていた。去年の拓実が毎日のように——たとえ真夏であっても滝のような汗をかきながら着ていたものだったから、かつて拓実だったものがごみ袋に詰められて捨てられているみたいだった。「みたい」というより、脱ぎ捨てられた服はほとんどそのひとの抜け殻だから、実際にそうなのだろう。
シャツのタグの品番を検索窓に打ち込むと、定価は税込三三〇〇〇円。ちなみに同ブランドの最新モデルは四万もした。こんな、ただの布だろ、とおもわず手元のスマホに唾を飛ばして叫んでしまった。思い返せば拓実はこれらを購入するとき、訊いてもないのにここはどこどこに所属していた日本人デザイナーが若くして立ち上げて今海外からも注文殺到しているウェアブランドだからとか、その生地は生産過程で余ったコットンを撚り直しているとか、フェアな労働環境で生産しているとか、壮大な文脈をいきいきと説明していたような気もする。あれは彼のファッション蘊蓄だと思っていたけれど、結局のところ高額な買い物を罪悪感なく楽しむためのただの言い訳だったのだ。
フリマアプリ「メチャカイ」で同品番を検索すると、だいたい二万円台で売られており、ブランド特注品なら定価の一・五倍の価格帯で取引されているようだった。拓実が買ったものは定番色で、すでに新品同様のものが複数出品されていて、定価以上の価格で売ってみても買い手がつかなそうだった。
コバルトブルーのシャツを床に広げ、全体像とタグ、そして、極小だが目を凝らせば確認できる汚れがある箇所をアップで撮影し、サイズ詳細などは同じ商品を出しているひとのページからコピー&ペーストして、保存したブランドの公式画像をトップに据えて出品ページを作成する。
タグ表記メンズL。複数回着用しました。目立った傷や汚れなし。ただし、胸元に小さな汚れがございます。画像をご参照ください。自宅マンションで保管しておりました。素人の保管、そして中古品であることをご理解いただいた上でご検討ください。梱包時についてしまう畳みジワはご容赦ください。値引き交渉は対応しておりません。
価格設定はすこし迷ったけれど、まずは二三〇〇〇円に設定し、その数日後に期間限定セール価格として一九八〇〇円に値下げして出品することにした。それでも売れなければ一五〇〇〇円でもいいだろう。三三〇〇〇円のものを半額以下で売ると考えるとくやしくなるけれど、ごみにしてしまうくらいなら、ダメ元で出品してみたほうが損が少なくなるかもしれない。
このシャツのブランド名をメチャカイで検索すると、中古品はいくつか出品されているものの、そのほとんどに買い手がついていない。この価格帯なら多少奮発してでも新品を買う人が多いのかもしれない。関連商品でいくつか出てきた中価格帯のドメスティックブランドのものを見てみても、いずれもあまり売れていない。どんなに高価で悪趣味で使用感があっても、ハイブランドの品物のほうがSOLDの印が多くついていた。
ごみの中でいちばん出品準備が楽だったのは、ユニクロのドラえもんコラボTシャツだった。定価一五〇〇円のものを、このような説明を付記して一二〇〇円で出品した。
タグ表記メンズL。二〜三回着用しましたが、汚れ、ほつれはございません。未使用に近い。自宅マンションで保管しておりました。素人の保管、そして中古品であることをご理解いただいた上でご検討ください。梱包時についてしまう畳みジワはご容赦ください。値引き交渉は対応しておりません。
ひと通り打ち込み終えて、トイレで用を足し、水出しした麦茶を飲みながら、そういえばそろそろ洗濯機の槽洗浄をする時期だと思い出す。この数分のうちにドラえもんのTシャツが売れた。ハイブランドと同等に、キャラクターものの需要は高い。スマホに取引に関する細かい通知が溜まってゆく。
アプリに取引DMが届いていた。
〈挨拶なしにすみません! 購入させていただきました。短い間ですがお取引どうぞよろしくお願いいたします!〉
購入者のページに飛ぶと、三年ほど前に金融ジャンルの新書を数冊出品したきり、ここ最近はほとんど買い専アカウントとしてアプリを動かしているようだった。評価欄もあまり荒れていないので、特に問題のない客だろう。
〈ご購入ありがとうございます。こちらこそ、短い間ですがどうぞよろしくお願いいたします。品物が届きましたらご確認とご評価をお願いいたします〉
私が考えるより先に、スマホの予測変換が返事の文章を次々と編んでゆく。食事をする前には胸の前で一瞬でも手を合わせるとか、元日の朝は自然と「おはよう」ではなく「あけましておめでとう」という挨拶が口をついて出てくるとか、そういった習性に近い速度で、文章が私を飛び越えてゆく。きっと相手もそんなふうに習性で挨拶をしている。でもそれでいい。私たちは円滑に、そして対等に取引できさえすれば、互いが何者であってもなくてもいい。
それにしても、いつかは売れるとは思っていたものの、さすがにこんなに早いとは思わず適当に発送を一〜二日中と設定してしまったので、妙な汗をかきながらクローゼットの奥にしまっていた梱包材の残りを確認する。何かの折に百均で買ったA4サイズのビニール梱包材がまだ二枚残っていた。売れたドラえもんのTシャツを折りたたんでそれに詰め、空気を抜いて封をする。
もし他の服が売れたら、この梱包材では足りないし、このサイズでは収まらないかもしれない。拓実のいらない服は文字通り捨てるほどある一方で、捨てずに売るための資材が足りなかった。
コンビニで発送手続きをしたらどっかで梱包材を買ったほうがいいだろうか? 家にある紙袋でしばらくいけないだろうか? 紙袋だと雨で濡れたときに購入者から評価を下げられないか? ガムテープを切らしていなかったか? ものが一個売れると、まだ売れてないもののぶんまで頭の中で回路が連結してゆく。
髪を後ろにくくって、顔にうすく日焼け止めを塗った。梱包したTシャツをトートバッグに入れ、玄関でサンダルを足にひっかける。外では夏をゆうに超えた地獄と呼ぶべき季節が終わろうとしていた。私の胸にしがみついて離れない心臓が、たしかに高鳴っている。血液が全身を駆け巡り、体温が上がり、脇の下を汗の粒が滑り落ちていった。誰かが欲しがっていれば、それはもうごみじゃない。
二ヶ月ほど前、メチャカイ出品作業をしていたときに拓実からはっきりと「それ、やめてくれない?」と言われた。ちょうど今日みたいに、拓実や私が着なくなった服や、読み終えたり、読まないまま積み上げてしまったりした古本、さしてガジェット好きなわけでもないのに拓実が新作が出るたびに買い替えて、なんとなくそのまま捨てずにクローゼットの隅に積み重ねたiPhone やiPad の空箱をスマホで撮影しているときだった。
「うまく言えないんだけど、貧乏くさいというか」
拓実は寝癖をつけたまま、どこかのドメスティックブランドが出している肉厚でハリのある生地のTシャツを着て、私の首筋から肩のあたりに視線を落とした。
「何その言い方……」
「だから、うまく言えないんだって」
「あの、深い意味はないけど、事実として今、私たちそこまで余裕ないよ」
「それは、翠ちゃんにそう思わせて、本当に申し訳なく思ってる」
拓実はとても苦いものを嚥下したように肩を竦めて、絞り出した。
「なんていうかな……翠ちゃんが、道端で、お金なくて、ごみを漁っているひとみたいに、見えちゃったというか」
このときの拓実は適応障害の診断が出されたばかりだった。医者からは毎食後に漢方薬を飲で、とにかく仕事から離れ徹底して休んで、趣味でもなんでも好きなことをするようにと指示があった。外に出るのも困難な拓実をタクシーに押し込んでクリニックに連れて行き、他人事のように医者の言葉を聞き流している拓実の隣で、私はおおげさにうんうんと頷きながらメモを取っていた。何か、医者や治療に対するやる気というか、とにかくこの現状をどうにかしようとしていることを、拓実が見せられないのならせめて私くらいはそういった姿勢を見せなくてはならないと駆り立てられていた。何度も何度も、どうして私のほうが熱心に聞いているんだろう、と苛立ちがこみあげたけれど、覇気のない拓実の横顔をまともに視界に入れてしまうと見捨てることができず、とにかく細かく、多少わざとらしくてもいいから相槌を打つことに集中した。
夏が始まる前に受診したクリニックの帰り道、ドトールに入って私はソフトフロートのアイスコーヒー、拓実はアイスカフェラテを注文した。行きは立ち上がれなそうなほどだったけれど帰りはやけに元気で、一口いる? と差し出してみたソフトクリームを、えっ何これめっちゃうま、と三口続けて食べた。それ以上取られないよう自分のほうにグラスを引き寄せながら、休職期間中も給料の六割が支払われるようになるから、診断書を会社に提出しないかと、同じように休職経験のあるひとのブログ記事をスマホで見せながら拓実に打診してみた。だけど拓実は「何もしてないのに金をせびるようなことはできない」と、なにか、私が提案したことがとてもうす汚いことだと言わんばかりの真っ当さをまとって宣言してきたから、私はもうそれ以上何も言わないようにしている。拓実を小学校から私立に通わせられたほどの経済力のある向こうの実家に事情を打ち明けて、すこしだけ助けてもらおうかとも考えていたけれど、この調子ではそれもむずかしそうだった。
そうなると、家計は私の収入頼みだった。拓実も会社員ではあるけれど、私はよりしがなさ溢れる会社員だった。首都圏とネット通販を中心に主にアクセサリーパーツを取り扱う卸業者で、月給は三三万。残業もないけれど賞与もなく、拓実がその分稼いでいたので、ふたりの収入を合わせれば今の都内のマンションに住めたけれど、私ひとりではさすがに心許なかった。明日の生活を心配するほど切羽詰まっているわけではないけれど、このままずっと私の貯金を取り崩して生活を続けるのは困る。さらに拓実は「運気を上げたい」と言って、これまで着ていた服を処分し、新しい服に買い替え始めた。ものの処分は医者の言う「仕事」に当てはまらないかという懸念があったけれど、休職直後は横になることしかできなかった拓実が、何かを思い立って動けるようになったのなら、と止めないでいた。
しかしそれにしても、ものが激しく家を通り過ぎていった。食費が飛び、水道光熱費が溶け、通信費が蒸発し、トイレットペーパーとかシャンプーとかこまごましたものが消え、生活費という名目で金が揮発してゆき、さらに気づくと拓実が服を買い足している。まだ結婚したばかりで住宅ローンがなかったのは不幸中の幸いだったけれど、それでもこの循環を回し続けられるほどの余裕は、あんまりない。
それだから、捨てるならせめて、雀の涙でも生活費の足しにできないかと思って、メチャカイのアプリをインストールして不用品を売ることにした。もちろん中古品は「足し」と呼べるようなお金までにはならないけれど、お金が目的というより私たちの生活が壊れてしまわないための、祈りのような出品だった。そうやってなんとか自分のできる範囲で生活の均衡を保っている中での、このごみ漁り発言だった。
「あのさぁ、いろいろ買い替えたいって言い出したのは拓実のほうだよ?」
「だから今から捨てようとしてるごみじゃん、それ」
「ごみだけど、ただこのまま捨てるんじゃなくて、出品して何か悪いことってある?」
「まぁ、ないけど……?」
「さっきから何なのその言い方」
「だって、どう考えてもさすがにiPhoneの箱なんて、ごみだろ」
「でも実際にこうして誰かが欲しがっていて、売れているけれど」
メチャカイのアプリで、iPhoneの空箱の検索をしてみせる。検索にヒットした出品一覧を表示すると、ざっとその半数は売却済みのマークがついている。これらはすべて、誰かが値段をつけて、誰かが欲しがり、取引をされた箱たちだ。ただのごみじゃない。拓実は眉を顰めて画面から目を背ける。
「いやでも、さぁ……そんなものを買う相手なんて、冷静に考えてよ? まともじゃないじゃん」
「まともじゃない、とは」
「そんな、根源的なことを今さら問い直すわけ? 哲学と哲学の衝突になるけど」
てつがく。唾を飛ばしながら、その硬い音を復唱してみる。そんな話ではなくて、目の前の生活とちょっとした買いものの話とごみ出しの話の流れでしかなかったのに、哲学だなんて堅牢な言葉の剣を差し出され、こちらもなぜだか胸を張ってこう言ってしまう。「拓実、もしかしてお金を得る、というか、壊れそうになるまでがんばったわけじゃないのに見返りを得ることを、すごく下品なことだと思ってる? がめつい、みたいな? それさすがに間違っているよ」
学生時代から、拓実は幹事のような役割はなんでも背負い込んでしまうひとだった。広告代理店に就職したあとも、上司の異常な連絡頻度にも「給料は我慢代って言うから」と言い、こんな上司も社会全体も俺がゆるしてあげたい、みたいな微笑みを滲ませて対応していた。むしろ、どうにもならない嵐のような日々に傷ついてゆく自分自身に愛おしさすら感じているようだった。そんなに愛おしいならもっとちゃんと大切にすればいいのに。
拓実の目が、じっと私の顔のほうを向いている。でもその視線はずるずる滑り落ちていった。これ以上は何も言ってはならない。私もさすがに冷静になって、下唇を嚙んで何かが溢れるのを抑える。沈黙が肌に染みてなんだか寒かった。
ごめん、といつも通り私が謝る。「いや、翠ちゃんの言うとおり。でも、そうじゃない、お金を稼ぐことがいけないとはさすがに思っていなくて、そういうことじゃないんだけど」と、拓実は頭の中を一度ひっくり返して自分が持っている言葉をすべて出してしまう勢いで、首を振った。
「俺が捨てたごみを目の前で拾わせているみたいで、申し訳なくなってくるんだよ。あの、絶対表現が適切じゃないとわかっている、わかっているけど、翠ちゃんには伝わると信じて、誤解を恐れずに言うと……公共トイレで、清掃員が掃除してくれているそばでウンコしてる気分、みたいな」
そこまで言っておいて、拓実は「やっぱり言うべきじゃなかった」とか「翠ちゃんは悪くなくて、俺が言葉選び、というか全部、間違えてるだけ」とか、とにかく私を怒らせないように、怒らせてしまったとしてもちゃんとゆるされるように、とべらべら捲し立てる。私はそのあとなんと言い返したか覚えていなくて、ただただ最悪な空気が私たちの間に充満して窒息しそうで、お腹がまったく空かない夜を過ごした。現にその日のことを思い出しているだけでも胃のあたりがむかついてくる。
==続きは『目立った傷や汚れなし』でお楽しみください。==
★刊行記念イベント開催決定!★
刊行を記念し、2025年12月9日(火)19時より、児玉雨子さんと、ソロアイドル・寺嶋由芙さんによるトークイベントが開催されます。詳細・お申し込みは、青山ブックセンターまで。




















