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秀吉は「武士の常識」が分かっていなかった人? 本日初回放送 大河ドラマ「豊臣兄弟!」前に、秀吉の「特異性」に迫る

秀吉は「武士の常識」が分かっていなかった人? 本日初回放送 大河ドラマ「豊臣兄弟!」前に、秀吉の「特異性」に迫る

2026年放送のNHK大河ドラマは「豊臣兄弟!」!
天下人・秀吉の弟にして、「秀長が長生きしていれば豊臣家の天下は安泰だった」とまで言わしめた天下一の補佐役・秀長。
 その秀長の目線で戦国時代をダイナミックに描く同作の放送に先がけて、日本史ファン・大河ファンにお馴染みの東京大学史料編纂所教授・本郷和人先生が、兄・秀吉の「特異性」を解説します。
(本記事は、河出新書『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』より一部を抜粋したものです。)

『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』
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不明の人、秀吉

 秀吉の逸話で一番有名なものは「信長の草履を懐の中に入れて温めていた」という話かもしれませんね。それで信長が「お前は草履の上に尻を乗せていたな」と怒ったら、秀吉は「殿が温かい草履を履けるように懐で温めておきました」と応え、実際、腹から草履の砂がこぼれ落ちたというエピソードです。
 これは『武功夜話』ではなく『絵本太閤記』に出てくるものですが、こうした話もどこまで本当かわかりません。
 いずれにしろ秀吉の出自や経歴については、よくわかっていないことが多い。むしろ本当のところはぜんぶわからない。不明の人です。しかしひとつ確実にいえるのは、彼は由緒ある武士の生まれではなかった。これだけはどうも確実らしい。そのためかこの人には、武士として変わっている部分がかなりありました。
 以前から私は違和感を覚えて落ち着かなかったのですが、たとえば秀吉は「家」というものに対する態度が妙に不安定なのです。
 彼は「羽柴」という姓を名乗るでしょう? 織田家の重臣である丹羽長秀(1535~1585)と柴田勝家(1522〜1583)の「羽」と「柴」をくっつけて「羽柴」にしたわけですが、しかしなぜそんな変な姓を名乗ったのでしょうか。私が田中さんと鈴木さんを尊敬しているとして、ある日そのふたりの姓をくっつけて「これからは鈴田です。どうぞよろしく」といい出したら変でしょう。

 丹羽長秀と柴田勝家のふたりも「おふたりと仲良くしたいので、僕は今日から『羽柴』を名乗ることにしました」と言われて、うれしかったでしょうか。尊敬しているというより、むしろずいぶんと雑な話のような気がします。
 いわゆる極道の人たちは兄貴分や親分の名前を入れ墨としていれることがあるそうですから、そうした気分だったのかもしれませんね。しかし秀吉にとっては「姓なんかどうでもいい」ということだった。どうも、そうした気もします。
 要するに彼は「家」というものがわからなかったのではないか。武士にとってなによりも大事な「家」が一生、わからなかった。織田信長も徳川家康(1543~1616)も小なりといえども大名の息子でした。しかし秀吉は出自として、織田家だとか、徳川家だとか、そうした「家」がなかった。その結果、秀吉は、武士にとって一番大切な「家」というものが、本質的には理解できなかった。

 

「家」が理解できない秀吉

 たとえば丹羽長秀の処遇です。長秀は羽柴の「羽」の字を使わせてもらった、秀吉にとっては先輩にあたる人物です。長秀が本当のところどう考えていたのかわかりませんが、この先輩はとにかく秀吉のことを後押ししてくれました。
 秀吉が織田家で頭角を現してきた時期だけではなく、「本能寺の変」を経て天下人になっていく過程でも一貫して支持しています。信長亡きあと、織田家の今後について話し合った「清洲会議」でも長秀は重臣のひとりとして参加し、秀吉の方針に賛成した。つまり秀吉にとって長秀は恩人なのですね。その恩人に秀吉はのちに、百万石という広大な領地を与えることでもって報いています。
 その領地は越前、今の福井県が中心です。本拠地は北庄になりますが、しかしどの範囲まで領地にしていたかはよくわかっていません。もらった土地を厳密に足していくと百万石にはなかなか届かないのですが、とにかく「広大な領地を与えることで恩に報いた」という認識であれば間違いないと思います。
 しかしその長秀が病気で亡くなります。そうすると秀吉は「先輩の長秀には恩義がある。だがその後継者である息子、長重(1571~1637)には特に恩がない」。恩がない奴に100万石はもったいないということで、領地を収公してしまうのです。丹羽長重は一気に4万石の身代にまで落とされてしまいました。
 4万石まで領地が減ってしまうと、100万石規模の時期に抱えていた家来たちの雇用は維持できません。有能な家来ほど、継続して雇用することが難しくなります。そうした家来たちは、秀吉が取ってしまいました。ある者は秀吉のもとで大名になり、ある者は秀吉の旗本になっています。丹羽家は領地を取られた上に、有能な家臣までも奪われることになりました。

 

容赦なく領地を没収

 同じことを秀吉は、蒲生氏郷(1556~1595)に対してもやっています。蒲生氏郷は豊臣政権下の大名、いわゆる「豊臣大名」を代表する人物ですが、彼は秀吉から会津に92万石の大領地をもらっています。こちらは計算しても、間違いなく92万石です。
 氏郷の役目は東北地方の抑え。もともと東北地方では、伊達政宗(1567~1636)が台頭していました。しかしはすでに時は遅く、秀吉による日本統一が大詰めを迎えていました。
 秀吉は小田原北条氏を攻めて関東地方を平定しようとします。東北の大名たちは、その小田原の陣にいち早く現れて、秀吉に頭を下げることを求められた。そうして従った大名は本領を安堵してもらえる。しかし少しでも臣従が遅れると、取り潰されてしまう。頭を下げるか。それとも「秀吉は気に食わない」ということで対立していく立場をとるか。どちらの道を取るにしても、そこはそれぞれの大名の胸三寸です。
 伊達政宗の場合は、秀吉の陣を訪問するのが遅れてしまった。そのため領地のうち、会津地方を没収されてしまう。会津は東北地方で一番開かれた土地で、ここを抑えることで東北の統一が視野に入るという、極めて重要な地域でした。秀吉はその会津を蒲生氏郷に与えました。当初の領地は42万石です。
 伊達政宗は自分の判断が遅れたために会津を失ったわけですが、秀吉が大坂に帰ったあともいろいろと妙な行動を見せて、会津を取り戻そうと策謀をめぐらす。その動きを、蒲生氏郷が封じた。彼は非常に有能で、伊達政宗が陰でたくらむ妙な動きを完全に阻止していきます。ようやく政宗も策謀をやめるのですが、秀吉はそうした蒲生氏郷に対して「よく東北地方を治めてくれた。お前がいれば安心だ」ということで92万石まで領地を増やしました。
 それはただのボーナスではなく、彼に「この大きな領地をしっかり保って、東北地方の抑えになってくれ」という使命を託したわけです。ところがその後、おそらく胃がんだろうと言われていますが、氏郷は40歳の若さで亡くなってしまいました。
 息子の秀行(1583~1612)があとを継ぎますが、秀行は年齢でいうとまだ12、3歳と若かった。そうすると秀吉は「こんな子供に東北地方の抑えが務まるはずがない」ということで、蒲生家の領地を没収し、92万石を1万石まで減らそうとするのです。
 このときは、おそらく石田三成(1560~1600)が「そんなことをやられたら大名たちは安心して殿下にお仕えすることができなくなります。だから考え直してください」と進言したのでしょう。秀行は、一度はとりあえず父の領地を受け継ぐことができたのですが、しかし結局なんのかのと文句をつけられて領地を減らされ、宇都宮18万石に移されてしまっています。

 

武士の原理に従わない秀吉

 こうした秀吉の判断は、現代の私たちの感覚ではわからないでもない。私たちにとって(例外はあるのかもしれませんが)「報酬とは、能力に従って得るものだ」という考えかたは、ごくふつうに理解できるものです。
「氏郷は、その優れた能力でもって東北地方をしっかり治めていたからこそ、92万石もの大きな領地を与えられた。しかし息子が若くて、その領地に値する働きを見せることができないのであれば、1万石に減らされても仕方ない」。こうした考え方は、私たちであれば理解はできる。
 しかし当時の武士社会の原理は世襲です。つまり「家」を代々引き継いで行くことが当然の社会でした。だとすると、この秀吉のやり様はかなり異質です。「能力が重要であり、能力のない人物には土地を与えない」という処遇はだいぶ変わっています。
 平安時代のおしまいから鎌倉時代にかけて台頭していった武士。そもそも彼らが何者かというと、それは「自分の領地をしっかりと守っていく存在」でした。
 平家の末流の武士たちが自分の所領をもらって、その土地をしっかりと治めていく。そしてその土地の名が、やがて彼らの家名となっていきます。「名字の地」というものですね。たとえば、相模国の三浦半島の三浦氏、千葉県で言えば千葉氏、あるいは上総氏。こういった連中が自分の土地、一所を、命を懸けて守る。まさに「一所懸命」という覚悟でもって、土地を大事にする。そうした存在こそが武士でした。
 その土地は個人ではなく、「家」と密接に結びつきます。武士たちは将軍との間に「御恩と奉公」の関係を結ぶ。この関係では、家来になった武士が主人に対して命がけの奉公を行う。この「奉公」を具体的に述べると、戦場に出ていって自分の命を捨てることを意味します。
 それに対して主人は「どうもありがとう」ということで「御恩」を与える。その御恩の基本は土地です。それにはふたつのかたちがあって、ひとつは「お前が持っている土地の所有権は俺が保証する」というもの。これが、「本領の安堵」。もうひとつは「お前に新しい土地を与える」。こちらが「新恩の給与」となります。
 ここで非常に大事なポイントは、なぜ自分の命を捨てるご奉公ができるかというと、御恩は自分個人に与えられるものではなく、「家」に与えられるものだから、となります。そのため、武士は安心して自分の命を捨てることができる。自分が戦場で散っても、家が報われるならそれでいい。むしろ戦場で散って見せて、「家」が土地を得ることこそが目的とさえ言っていい。
 そうして「家」と土地が一体のものとなり、そしてその土地の所有権を代々に伝えていく。それこそが武士の願いだったわけですね。
 その願いを考えると、秀吉の丹羽に対する仕打ち、あるいは蒲生に対する仕打ちは、武士の大原則を否定することに他なりません。どれほど奉公して御恩を与えられたとしても、子の代に土地を取り上げられるのであれば、命を捨ててご奉公した意味がなくなります。しかしそうしたことがやれてしまうのは、やはり秀吉が農民の子だからではないでしょうか。
 由緒正しい武士の家に生まれた人間であれば、世襲の原理が自然に体に染み込んでいる。なにより重要な大前提となっていますから、それを否定するような考えは浮かんでこないのではないか。秀吉の場合は、おそらく「家」というものがわかっていなかった。農民として生まれたものだから、武士がどれだけ家というものにこだわるか、家と土地の関係というものをどれだけ大事にするかということを、わかっていなかった。どうもそのように思われます。

==全編は『豊臣の兄弟 秀吉にとって秀長とは何か』でお楽しみください。==
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著者

本郷和人

1960年東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。博士(文学)。専攻は日本中世政治史、古文書学。『上皇の日本史』『壬申の乱と関ヶ原の戦い』『日本史のツボ』『新・中世王権論』など。

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