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【デビュー即、芥川賞候補!】文藝賞受賞作・坂本湾『BOXBOXBOXBOX』冒頭〈無料公開〉

【デビュー即、芥川賞候補!】文藝賞受賞作・坂本湾『BOXBOXBOXBOX』冒頭〈無料公開〉

第174回芥川賞候補作が発表されました。
河出書房新社から期待の超新人・坂本湾『BOXBOXBOXBOX』が見事ノミネート。
どのくらい超新人かというと、本作で第62回文藝賞を受賞しデビューしたばかり。
デビュー作でのノミネートとなりました。

 

「私」であることを必要とされない労働において、「私」を保ち続けることはいかにして可能か…?
時代の閉塞感をこれでもかと執拗に抉りだす作品です。
このたび、芥川賞候補入を記念し、冒頭から大量23ページを無料公開します。


『BOXBOXBOXBOX』
坂本 湾 
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宅配所に流れる箱を仕分ける安(あん)。ある箱の中身を見た瞬間から次々に箱が消えていって――顔なき作業員たちの倦怠と衝動を描くベルトコンベア・サスペンス。

 

 

 

* * *

薄霧のたちこめるなかに箱がある。いくつもの箱たちが列をなして、り切れ
て、潰れたかどき出しにして、沈黙している。トラックの揺れと運転手たちのいかついてのひらを経由してきた箱は、宅配所に蔓延まんえんする霧のなかで、摩耗した銅の色をしている。これらは、ゴムと金属が擦れてひどく振動するベルトコンベアの震えを全身にたたえながら移動している。あぶの大群のようなモーターの駆動音が、機械の中から溢れ出てくる。ベルトコンベアがカーブにさしかかると、えた親指のような曲線をえがいて箱はゆるやかにUターンする。そうして移動をつづけた箱たちはやがて、これらを待ちかまえている、作業員たちの掌に迎えられる。彼らに持ち上げられ、投げ飛ばされた箱は、ステンレス製のレーンにせかえられ、スムーズにすべっていく。そうして、レーンの先に立っている運転手に持ち上げられ、トラックの荷台に積まれて、目的地へ運び込まれる。
あんは三時間のあいだ、ベルトコンベアの脇に立っていた。箱に貼られた紙片に印刷されている、認識番号NS-185 を確認すると、枯枝かれえだのような細い腕を伸ばして、荷物をすくい上げて、レーンに載せる。安の右手から背後にむかって、箱がまっすぐすべっていく。レーンは乾いた音を立てて回転する。ベルトコンベアに沿うようにレーンがいくつもびていて、それぞれに作業員が立っていた。彼らはみな目を伏せて、箱を待ちかまえている。
作業員の後ろにいる運転手が、掌をざぶざぶと叩きつけながら、荷物のバーコードを手元の端末で読みとって、トラックに積みこんでいる。荷物を取り上げる作業員よりも運転手たちのほうが少ないので、レーンには荷物が溜まっていき、大小さまざまな立方体の列島が現れる。こぶしほどの大きさから、冷蔵庫ほどの大きさまで、焦茶色や乳白色の、中身不明の六面体のつらなりが、安の背後に延びている。
運転手がこのつらなりを先端から解体しはじめる。レーンからトラックの中へ運び込まれるそれらは限りなく効率的に積みあげられ、六面体を組み合わせて、新たな立体を再構築していく。トラックのコンテナの、鉄の壁に囲まれた空間に段ボールが密着している。擦れあう立体たちはそれぞれの肉体を押しつけ合い、伸縮をくりかえし、吸いつきあって詰め込まれていく。やがて満杯になり、コンテナの中に緊張した建築が出来上がると、運転手によって扉の蓋はぴったりと閉じられる。箱たちはふたたび、動力エンジンによる直線運動を再開し、新たな目的地へ運ばれていく。
この箱たちがどこに運ばれていくのか、作業員たちは誰も知らない。段ボールの中身はいっさい確認されないまま、箱は激しい運動を繰り返している。
安はベルトコンベアのそばで、5桁の英数字を読みとろうと目を凝らしている。宅配所は薄霧に満ちていて、安は海中の貝を拾うような手つきで、流れてくる箱を転がし、で回す。NS-185 の番号を見つけると、彼の右脇から延びるレーンに、受け流すように箱を押しこんでいく。
安は朦朧もうろうとした労働の時間をしのぐために、取り上げた荷物の中身を想像していた。ほとんどの箱は通販サイトのロゴが入っていて、奇妙なほど小さく、軽く、とるに足らないものばかりだった。一方でロゴが入っていなかったり、素人しろうと仕事の雑な梱包のもの、多少の重さや大きさがあるものは、何が入っているのか想像する余地があった。
いま取り上げた、両手で抱える必要のある大きな箱は、そのわりに軽く、力をいれるとややたわむので、中身は衣類だろうな。最近のファストファッションブランドはロゴのない箱で送るらしい。薄いシャツやジーンズがきれいにたたまれて、透明なビニールに包まれている。少し前に海外の企業の労働搾取さくしゅの記事を読んだ。不当に低い賃金で労働者を長時間こきつかっていることを、ジャーナリストがあばいていた。一着2円で作られるTシャツからはさわやかな甘い匂いがする。
この小さな箱は、ビニールテープが何重にも厳重に巻きつけられている。印象どおり箱はずっしりと重たい。頑丈さをアピールしているようにも見える過剰でアマチュアな包装と、小型でありながらしっかりと感じられる重量。中身は個人輸入の機械部品だろうか。エンジンや発電機のような、堅牢けんろうで重厚な、エネルギーを供給する心臓のパーツ。もしくはオルゴールのような、精密さと頑強さを兼ね備えた芸術的金属。厳重に梱包されたそれを安は両手で鷲摑わしづかみにして、レーンに投げ込んだ。
安は中身を妄想することで、この単純な労働によって引き延ばされた時間を凌いでいた。十一月の冷たい空気がワークジャケットに阻まれて、作業着の中は熱っぽく湿っていた。その一方で、固く引き締まった安全靴の中は汗で冷えて硬直していた。暖かい上半身と冷たい下半身のギャップが苦しい。
突然、視界に赤い閃光せんこうが飛び散った。天井に設置されたパトランプが光って、放送が流れた。
 
『NS-198、NS-198、6個漏れ。寝てるのかおい、ちゃんと仕事しろ!』
 
宅配所に罵声が響く。天井に等間隔で設置されたスピーカーから、電線をちぎったような雑音が鳴った。作業員に見逃されて誰にも取り上げられなかった荷物は、コンベアの下流の先にある壁の穴をくぐり抜け、放送室とよばれる部屋を通過する。そこでは社員がベルトコンベアの脇で待ち構えていて、取り上げられなかった荷物の番号をメモしている。そうして適当な量のメモが溜まると、放送でりつけるのだ。荷物はその後、壁の穴を通り、ふたたび作業員の手元に運ばれていく。
作業員は初日に仕事を教わるときたいてい、「この放送を気にしないように」と言われる。作業員たちはみな、押し黙って手を動かしている。ベルトコンベアの速度はいつも一定で、速すぎる。箱は番号を読みとれるぎりぎりの速度で流れていく。わざと箱を見逃す者は誰もいない。安は二年間で、この放送の声の主を一度も見たことがなかった。コンベアの上流に目をやると、霧の先に斉藤さいとうがみえる。NS-198 を担当する斉藤が、流れてくる荷物を撫でている。
 
『聞いてたか、おまえら、サボってるんじゃないぞ。NS-198、8個も漏れてる、集中しろ!』
 
三時間のあいだ、とめどなく現れては荷物をぶちまけていく、象のようなトラックの群れは、昼過ぎになると落ち着きをみせて、箱の数は徐々にまばらになった。やがてコンベアの上からほとんどの荷物が取り去られると、ブザーの音が響いた。作業員たちはそれを合図に、スピードの緩んでいくコンベアを乗り越えて休憩室へ向かう。新たな荷物が届くまでのあいだ、作業は停止する。
数十人の作業員の足音がびたびたと響く。霧が冷えて水滴となり、アスファルトを濡らしている。安の眉毛に、ねばっこい水滴がいくつも浮かんでいる。首に巻いたタオルが生暖かくて、鼻をうずめると熱帯林の匂いがする。
 
休憩室は、作業員用の勝手口と更衣室を兼ねている。4つの大きなデスクがあって、なめらかな天板が蛍光灯に白く照らされて光の沼をつくっている。パイプ椅子は三十あまり散らかって置いてあって、どれも銀色のフレームが黒くびている。数十人の作業員たちは休憩のあいだ、言葉を交わすことなく、うつむいてスマホをもてあそんでいるのが普通だった。安はウェブ漫画を読んでいた。
この休憩室には、作業員らを二方から挟んで見下ろす、100あまりの扉を持つ乳白色のロッカーがある。ダイヤル式の鍵が故障しているものや、作業員によってロックされたまま放置されているものも多い。荷物の入れやすい高さにある扉はほとんどすでに使われているので、彼らはいちいち屈かがんだり背伸びしたりして利用している。つまみをOPENに回して靴とバッグと財布、着替えなどを入れて扉を閉めたら、数字ダイヤルを好きな4桁にあわせてつまみをCLOSEに回す。最後にダイヤルを変更しておけば、他の者は扉を開けられなくなる。
勝手口側の6番目のロッカーの扉の中には、斉藤の財布と靴とリュックがしまってある。リュックの中には彼が持ち込んだウイスキー350mlびんが入っていて、斉藤がこの職場で飲んだ分だけ減っている。端の席に座る斉藤は机の上に赤い両掌りょうしょうをきつく組み合わせて、俯いていた。彼の背後、ロッカーの扉の隙間かられた光が、ほとんど暗黒の中で屹立きつりつしている荷物の輪郭りんかくをなぞる。けさ飲んだ瓶の中身は、斉藤の胃の中でぶくぶく泡立っている。悪寒おかんを押さえつけるように、脂ぎったまぶたを固く閉じて座っている。
勝手口と反対側の通路から、新人の稲森いなもりが現れ、休憩室の一方にある女性専用の更衣室の扉を開け、入っていった。
 
女性専用更衣室の向かいの壁には時計がかかっていて、その下の掲示板には大量の貼り紙がしてある。安はこの仕事を始めたころ、休憩のあいだは、この貼り紙に書かれた命令や注意書きを暇つぶしに読んでいた。
《○年○月○日 【重要】業務停止処分のお知らせ このたび、S県F市N宅配営業所のドライバー十七名に行った業務前のアルコール検査において、内二名の呼気に、法的な基準値である0・15㎎/Lを超えるアルコールを検出した。安全確保の観点から厳正な措置が必要であると判断し、以下のような処分を行った。違反者——町田尚樹・飯塚裕 処分内容——60日間の停職 今回の事案発生に伴い、管理者に対し、ドライバーへ通知しない抜き打ちでの検査を一定の期間をおいて実施し、その結果を本部へ報告することを義務付ける。また各ドライバーはアルコールの摂取と運転の完全な分離を徹底すること》
《○年○月○日 【重要】追突事故に関する処分および再発防止策のお知らせ B県H市W宅配営業所のドライバーが国道○号線を走行中、居眠りによる追突事故を起こした件に対して、当社はこれを重大な違反行為とみなし、厳正な措置を講じる。違反者——熊野健吾 処分内容——懲戒解雇 このような違反行為は当社の安全性と信頼性を著しく損なうものであり、とうてい容認できるものではない。当社は全てのドライバーに対し、運転中の安全確保を最重要課題として取り組むことを要請する。全てのドライバーは十分な睡眠をとり、配送見込計画の範囲内での適切な休憩時間を確保すること。管理者はドライバーに対し、疲労や睡眠状態などのチェック項目を設定し、業務開始前に確認すること。またドライバーの業務遂行状況を適切に確認し、問題を把握するための管理体制を強化すること》
《【!!!撮影禁止!!!】荷物の内容物の記載、届け先のタグ情報等をスマホ等の電子機器で撮影し、その画像をネット上に掲載することは犯罪です。1、電子機器を宅配所に持ち込まない 2、荷物の情報をSNSで発信しない 3、荷物を撮影しない》
《◎監視カメラ設置中◎ 荷物の紛失が相次いでいます 窃盗は犯罪です 法律で罰せられます》
《(ベトナム語で書かれていて読めない)》
事務室からやってきた神代かみしろが、壁にり下がっているホワイトボードに数字を書きつけた。
《作業再開予定は『16:15』荷物着》
ペンをポケットに放りこんだ神代は、女性専用更衣室の扉をひらいた。
「稲森さん、ちょっといいですか」
「え、はい」
「むこうに書いてるんですけど、15分から作業はじまります、着替えたら私に声かけてください」
「あ、はい」
「作業するところは、屋根があるだけで、ほとんど外なんで」
「はあ」
神代はひるがえって扉を閉めた。すぐさま安に業務連絡をする。
「安さん、新人のひと、上流のNS-199 を担当させるから、取りこぼした荷物が流れてきたら拾ってもらっていいです?」
安が返事をする前に、座っている安の耳元へ顔を近づけ、声をひそめた。
「斉藤さんも調子悪そうだから、余裕あったら荷物お願いします」
安があいまいに返事をすると神代はさっさと事務室に引き返していった。
安は、この女性専用更衣室が使われているところをはじめて目撃した。日が沈んで、夜勤で働きにくるベトナム人技能実習生の集団のうちには女が数人いたが、彼女たちは「女性専用」の漢字の意味するところがわからないのか、あるいはそもそも使ってよいと説明されていないのかもしれない。
二年前、バイト初日に神代と初めて会ったときのことを思い出した。社員とアルバイトで宅配所内へ入る勝手口が違うこと、タイムカードは定時内に切ること、作業中は支給される軍手とかたい安全靴を装着すること、霧がいつも蔓延している宅配所、大量の箱たち、これらは「軽作業」がはじめての安には新鮮だった。
安が口をきく相手は、ここでは契約社員の神代だけだ。
ベルトコンベアが音をたてて駆動しはじめた。ブザーの音が響く。作業員たちはいっせいに立ち上がって宅配所へ向かった。ワックスが厚く塗られた休憩室の床が蛍光灯の光を反射して、作業員たちの雑踏でぶるぶる震えた。作業員が去り、休憩室は静まりかえった。霧で濡れたロッカーが、巨大な机と乱雑に並ぶ椅子を見下ろしていた。
出ていった男たちの中に稲森の姿を見つけられなかった神代が、女性専用更衣室に呼びに来た。ノックをすると扉がゆっくり開いて、出てきた稲森は神代とともにベルトコンベアに向かった。そうして、休憩室は誰もいなくなった。
 
廊下を通り抜けて、稲森と神代は宅配所の扉を開いた。建物の周りには畑が広がっていて、冷たい空気の中に葉や茎の香りが漂っている。稲森はその青臭さに興奮して、機嫌を持ち直した。霧の先にいる神代が「大丈夫ですか」と声をかけてこちらを振り返っている。れた前髪の奥の、眼鏡めがねのレンズのさらに奥にある目が、稲森の歩みを促している。
カーブするベルトコンベアを乗り越えて、しばらく神代のあとをついていく。ベルトから昆虫の脚のように延びるレーンと、レーンの脇に立つ同じ靴をいた作業員の姿がつぎつぎに現れる。
「この配送センターには毎日、たくさんの荷物が運ばれてきます。荷物はベルトコンベアに載せられて宅配所のなかをぐるぐる回っています。荷物には番号が印字されたシールが貼ってあって、それは荷物の行き先を示しています。ベルトコンベアのそばに立っているあなたたちが、割り振られた番号の荷物をとりあげてレーンに載せかえます。レーンの先にはまたトラックがあって、次の行き先に向かうわけです」
稲森がここではじめに見た作業員は、顔にしわが深くきざまれた七十代ほどの老爺ろうやだった。荷物の流れをひとときもき止めることなく持ち上げていて、その手付きから叔父おじのことを思い出した。叔父は屠畜屋ブッチャーで、素晴らしく太った牛を解体する。叔父の仕事場は脂と金属のにおいだが、ここは植物のにおいがする。稲森は歩きながら流れる箱をさわってみた。岩のようにざらついて、撫でた指先に鋭い摩擦が走った。口端から小さな悲嘆が漏れた。神代から受け取った軍手をすぐさま装着した。
レーンの上には英数字の書かれた大きな看板が吊り下げられている。二人はNS-199 と書かれた看板の真下にたどり着いた。「今日、稲森さんにはここを担当してもらいます」
稲森は、仕事のために手渡された軍手や靴が、みずからの身体に釣り合わないように感じられた。軍手を着用して作業するのは難しかった。荷物をさわると、軍手の厚さのせいでふだんの意識の0コンマ数秒先に指先に感覚が走る。これが、低気圧のときに身体が膨張するような感覚に似ていて、交感神経が乱れたように錯覚してしまう。ベルトコンベアのスピードは速すぎて数字を確認するのは困難だった。また、霧が濃いせいで、隣に立っている神代以外はだれの姿も見えない。霧によって宅配所全体の容貌ようぼうを把握できない、この目くらましの不安が稲森のモチベーションを奪っていった。
「数字が見えたら、箱を抱えて引き込んじゃうといいです」と神代が手本を見せ
た。彼女の手付きは熟練していて、流れてくる荷物の力を逃がして手元で回転さ
せ、後方のレーンに放りこんでいく。神代の一連の動きには敬意がまったく失わ
れていた。
引き込むより押しやったほうがよいのではないか、自らの身に引き寄せることより、遠くへ押しやることのほうがこれまで多く経験してきたのだから、と考えた稲森は、
「反対側に立ってもいいですか」
「え?」
「こう引き込むより、押しやってレーンに載せたほうが楽だと思うんですよね」
「うーん、どうでしょう、まあまだ初日ですし慣れていくんで。ていうか寒くないですか?
上着とか持ってきてもいいですよ」
そう言われたので稲森は「いえ」と半分腐ったような気持ちになって黙った。
ええ、素人の思いつきでしょうとも、職人には相手にされなくて当然ですが。
「では私はこれで。30分後に様子を見に来ます」と言って神代は去ってしまった。稲森はもうすっかり仕事にうんざりしていて帰りたかった。NS-199 のラベルが流れてくるのが見えたので手を伸ばすと、その荷物は片手で摑めるほど小さいのにとても重たい。上半身がつんのめり、他の荷物に衝突して、いくつかの荷物をコンベアからこぼしてしまった。稲森は角の潰れた荷物を拾いあげて、ベルトの上に放り投げた。しばらくして、また一つの荷物が流れてきたので、左手で堰き止めると、箱の大きさのわりには軽すぎて、掌に吸いついて浮き上がった。こうしてとらえるのに手間取っているあいだに、つぎに流れてきた大型の荷物にぶつけてしまった。箱は粘土ねんどのようにへこんで、流れてくる箱の群れと合流して流れて行ってしまった。下流の先は霧で見えない。稲森はもう、このアルバイトを選んだことを後悔していた。この作業環境に、最低賃金プラス二百円の時給は妥当だろうか? しかし稲森は次の派遣先が決まるまでの目算二週間で、少なくとも一ヶ月の家賃四万八千円と交通費九千円、食費三万円、通院代八千円をかせがねばならなかった。
休憩室にいる陰気いんきな作業員たちが皆おなじ黒いスニーカーを履いていることが気持ち悪かった。社員を名乗る神代がその靴を渡してきて「これを履いてください」と言ってきたときはぞっとした。履いてみるとこれは安全靴で、つま先から足の甲にかけて湾曲した、鉄板のような硬いプラスチック板が仕込んである。バレエダンサーのようにつま先立ちをしても一切の感触が得られず、それが面白かった稲森は作業中にベルトコンベアをった。稲森はこの宅配所がまったくエキサイティングでないということを直感したので、この煩うるさい音をたてる機械の未来が、安全靴の一撃によってゆるやかに、しかし確実に、破壊される方向へ進んだことをみ締めている。
稲森にぶつかってね転がった40㎤ほどの立方体は、しばらくコンベアの上を移動して、斉藤の吐くアルコールを含んだ灼熱しゃくねつの息に撫でられたあと、安の手に渡った。安は、上流から流れてきた箱に視線をすべらせて、NS-201 の印字を確認すると片手で軽く受けとめ拾い上げてレーンに流す、という作業を肉体の記憶どおりになぞった。同時に、箱の内部を想像する思考機構がなめらかに駆動していた。人が手足をしまいこめばぎりぎり入れるくらいの大きさの箱。開け口や底面にテープが幾重にも貼ってあるものはたいてい重たいので、大量の本か、米か、衣類か、スピーカーだろうかと想像しながら片手で受けとめると案外軽い。持ち上げると重心がごろごろ動くので、これはぬいぐるみか造花のたばだろうと決めてレーンへ流し込む。
細長い箱は竹刀しない、ゴルフクラブ、鉄パイプ、太いのは絨毯じゅうたん、トロフィー、和傘、針金の束、ほうき。細いのは丸めたポスター、物干竿ものほしざお。板状のものは額縁がくぶち、机の天板、畳、テレビ。大きすぎて重すぎる箱の多くはほとんど外装に広告用写真が貼ってあって、何が入っているかわかるのでつまらない。小さくて軽いものは逆に、どこまでも想像が広がって困るので、さっさと決めつけて放り投げる。
これは文庫本、これは茶葉、マグカップ、薬、釘、ピアス。たまに流れてくる発泡スチロールの箱のなかには、はじめは肉や野菜、もしくはアイスクリームなどが入っているんだろうと思って鮮度を心配していたが、そういうものは冷蔵のクール便で送るのだろうと気づいた。気づいたとたん、これまで冷気を放っていた果実やクリームたちが、漬物や多肉植物、熱帯魚に変貌した。
とくに想像するのが楽しいのは、人間が手足を小さくたためば入れるくらいのほどよい大きさの箱だった。これには想像の余地が潤沢に残されていた。すんなりと想像できないこの大きさの箱のことを、安は「人間サイズの箱」と名付けていた。 
安が箱をみつけて、持ち上げて、レーンに流すまで、この一連の動きのあいだ、箱の中身はさまざまな可能性が変幻自在に重なり合って、ぬいぐるみでありながらポテトチップスであり、肥料袋であり水槽すいそうでありつづける。不可視の箱のなかは思考の0コンマ数秒でまたたき、混ざりあいながら、安の手に渡り、可能性を何十にも保留している箱として、安の背後に列をなしている。
ごく稀に、箱の梱包や重心の動きかたの機微から、箱の中身を確信できる瞬間がある。イメージした箱の中身と、持ち上げたときの重量や重心、それを入れるにふさわしい箱の厚み、規格が正しく想像通りになじむ瞬間。ふと訪れるその瞬間に、安は巨大な欲望を感じた。テープを引き剝はがし、蓋を開けて、覗き込みたい、想像の答え合わせをしてやりたいという欲望に駆り立てられた。安は労働時間のうち半分ほどを、箱のなかに何が入っているだろうか、ということを考えて過ごしていた。包装の隙間から、ほんのわずかに漏れる光の糸が中身の物品の輪郭をなぞっている。
もう半分の時間、荷物が少ないあいだは、読んだ漫画のことや、見た動画のことを思い出していた。安は荷物を想像したり、漫画や動画のことを考えることで肉体から意識を解放させて、退勤までの時間を凌いでいた。

* * *

続きは『BOXBOXBOXBOX』でお楽しみください。

 

◼︎書誌情報

『BOXBOXBOXBOX』
著者:坂本 湾

仕様:単行本/46判/120ページ
ISBN:978-4-309-03246-7
定価:1,650円(本体1,500円)
URL:https://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309254951/

関連本

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著者

坂本湾(さかもと わん)

1999年、北海道生まれ。2025年、「BOXBOXBOXBOX」で第62回文藝賞を受賞。同作で第174回芥川賞候補。

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