ためし読み - 新書
花に心を感じる人は、AIとも心を通わせるのか?——言語脳科学者のユニークな思考実験を通して、人間本性の謎へ挑んだ酒井邦嘉『人間とは何だろうか——脳が生み出す心と言葉』第1章冒頭無料公開。
酒井邦嘉
2026.03.03
「人は人工知能と対話ができているのか?」
「花や鳥は、言葉が分かるのか?」
「人はどこまで進歩するのか?」……
言語によって自身や他者と対話し、思考を深める私たちは、生物や機械とどのように違うのでしょうか。
本書は言語能力や創造性の解明を目指す言語脳科学者・酒井邦嘉さんが、ユニークな思考実験による物語を通して根源的な謎に迫った話題作。
刊行を記念して、本書の第1章冒頭を特別公開します。ぜひご覧ください。

第1章 花をめぐる対話——人は植物と何が違うか
プロローグ 花屋の話
富人は駅前の花屋で鉢植えを買うことにした。独り者の部屋があまりに殺風景だと思ったからだ。植物に詳しいわけでもなく、春らしいピンクの花が鮮やかなアデニウムを選んだ。アラビア半島の原産で、イエメンの都市アデンからつけられた名だと札に書いてあった。花が咲く観葉植物として人気らしい。
会計を済ませると、女性の店員が「よく話しかけながら、手入れしてくださいね」と言って、ほほえんだ。
「えっ、話しかけながらですか?」富人は少々面食らった。
「植物は言葉が分かりますからね。音楽を聞かせるのもいいですし、それに花が応えてくれますよ」
富人は耳を疑った。花に言葉や音楽が分かるはずはない。富人は軽くうなずいたまま、店を後にした。店内の植物はどれも生き生きとして美しかった。あの店員は、いつも話しかけながら手入れをしているのだろうか。
鉢植えを抱えながら近くの公園に入り、ベンチに腰掛けて一休みした。酒の醸造タンクにスピーカーを取りつけ、ジャズやクラシック音楽を流すという話を聞いたことがある。「音響熟成」とか「加振酒」という言葉まであるそうだ。振動の効果なら、音楽である必要はなさそうだが。
富人は鉢を手に取り、アデニウムの花をまじまじと見つめながら、「おまえ、言葉が分かるのか?」とつぶやいた。
「もちろん分かるわよ」と、腹話術のような声がした。
ぎょっとして辺りを見回すと、見知らぬ女性が立っている。歳は自分と同じくらいか。「驚いた? さっき、お花屋さんでお見かけして、たまたま歩く方向が同じだったから」と声が普通に戻った。「ところで、花屋さんが言ってたことは本当なの?」
「いや、それはないでしょう。植物には目や耳や脳もないわけだし」と、富人は戸惑いながら応じた。
「でも、植物は生きているわけだから、空気を感じることはできるでしょ」
「うーん、それは「空気感」とは意味が違うよね——。ちょっと待って、僕らは初対面だよね??」
「驚かせてごめんなさい。わたしは田筆子、よろしくね」
「僕は阿部富人。理系でも植物には疎いんだが……」
「この先の植物園に、知り合いの植物学者が勤めているんですよ。ちょっと話を聞きに行ってみません?」
筆子は富人の返事も聞かずに歩き始めた。これが二人の出会いであり、知的冒険の始まりだった。
植物と動物
筆子はまるで自分の家に帰ってきたような気軽さで、植物園の通用門を開けて敷地内に入っていく。そして温室の中をいくつかのぞき込み、ある温室の扉を開けた。
「先生〜っ!」と、筆子が大声を出した。すると、剪定作業をしていた人が振り返り、こちらに手を振る。
「こちら、父の恩師の千代田先生。先ほど知り合ったばかりの富人さんよ」手短にあいさつを交わす。千代田は、突然の訪問なのに二人を歓迎してくれた。
「ちょうど休もうと思っていたところじゃよ。ハーブティーでもいかがかな」と千代田は言って、作業台の椅子を勧めた。
さすが専門家の選ぶハーブは、香りが違う。爽やかな風味だから、レモングラスだろうか。お茶を飲みながら、筆子は先ほどのやり取りを説明した。富人は少し気後れしていたが、千代田は動じることなく話に耳を傾けている。
「なるほど、花は人の言葉が分かるかとな。お二人とも、生物の謎に関心がおありとお見受けした。雰囲気はトミーとタペンスのコンビのようじゃな」
「先生はアガサ・クリスティの大ファンなのよ。トミーとタペンスは幼なじみの探偵だけれどね」と筆子が快活に言う。「わたしは短編集のテンポ感が好きかな」
「えーと、千代田先生。植物は人間の言葉など分かりませんよね?」と、富人は単刀直入に聞いてみた。
「どうしてそう思いますかな?」千代田は白いあごひげをなでながら富人の顔をのぞき込む。
「だって、植物には目や耳や脳もないでしょう」
「よろしい。では、植物と動物の違いは何じゃろう?」
「脳を持つか持たないか——。あっ、脳のない動物もいるんですよね」と富人。
「そう、カイメンやセンモウヒラムシは、神経すら持たない原始的な動物じゃよ」
「一番の違いは、光合成をするかどうかじゃない?」と筆子。「植物は、光と水と二酸化炭素から、でんぷんと酸素を作るでしょ」
「うむ、光合成は大事な手がかりじゃな。ただ、鞭毛を持って動き回るのに、光合成をするミドリムシがおる。動物でも植物でもない単細胞生物とでも言うべきかのう」と千代田。「では、植物と動物の共通点は何じゃろ?」
「細胞でできていることや、遺伝情報としてDNAを持つことですね」と富人。
「もっとほかには? それがなければ生命を維持できないくらい、基本的なことじゃが」
筆子は見当がつかない。富人が大げさに深呼吸をして見せた。
「あ、そうか。呼吸ね!」
「ご名答。富人さん、ナイスアシストじゃ」と千代田が目を細めた。「植物は肺がなくとも呼吸ができるじゃろ。呼吸のように「生きる」というイメージを改めないと、多様な植物とは、よう付き合えんことになる。なにげない樹木でさえ、不思議な生き物だと言えるわな」千代田はそう言って温室の中にある一本の木を指さした。
「そうか、幹の木部にあるほとんどの細胞は死んでいると聞いたことがあります。細胞分裂して成長するのは、樹皮のすぐ内側にある形成層だと」と富人。
「自分の体で死にゆく部分は内側に押しやって、その外側に張りつきながら生きてるんじゃな。じゃから長生きだとも言えるわい」
「屋久島の「縄文杉」などの樹齢は、三千年を超えるそうね。先生もあやかって、長生きしないと」と筆子。千代田がお腹を抱えて笑った。

==続きは『人間とは何だろうか——脳が生み出す心と言葉』でお楽しみください。==


















