アフリカ地域研究の泰斗による、エスノグラフィの伝説の名著が、このたび待望の復刊となりました!冒頭から1万字を大公開いたします!!
圧倒的な絶望世界を内部から突き崩し、自身の生活の便宜に合わせて、再構築していく。その「都市の飼い慣らし(ドメスティケーション)」という、ダイナミックな営みが克明に記された本書は、あらゆる人の胸を打つ傑作です。
●身内・友人・面識のない人の家に突然訪問し、そのまま帰らず、数週間~1・2か月居ついてしまう「押しかけ」。(著者も幾度となく「押しかけ」を経験することに…)
●仕えている屋敷の主人に、わざと「無邪気で鈍重なアフリカ人」というステレオタイプである「偽の自分」を、徹底的に演じてみせる。
●都市での生活基盤を安定させるために、互助講を活用。「都市で死ぬこと」という未知の観念にも対応し、都市型の儀礼を発明していく。
●都市における協同を実現するために、「自然」に「身内」として助け合える、村をベースにした共属意識を新たに「開発」する。
彼らのひとつひとつの生活実践が、支配システムへの抵抗と創造の道を示してくれ、それは私たち自身の、世界への抵抗と創造の可能性と地続きになっています。
ナイロビの出稼ぎ民たちの生き延びる戦略を、ぜひ目撃してください!!
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都市を飼い慣らす
松田素二
序 章 アフリカ――都市との出会い
都市生活の光と影
ムダカの夢
1994年の年の瀬もおしせまった頃、ケニアから二通の便りが私に届いた。その便りは、現代アフリカの都市生活にまつわる光と影を象徴しているように思われた。一通は、西ケニアの山村に暮らす11歳になる男の子からの近況報告だ。彼の名前はムダカ、私が村を訪問するたびにお世話になるベリス婆さん(私は彼女のことをママと呼んでいる)の自慢の孫である。ムダカはママの七人の孫のなかでもとくに心優しい男の子だった。私がママの家に「帰って」きたとき、いつも歓迎のための食卓に並べるニワトリを捕まえるのが幼い彼の役目だ。畑と岩場のあいだを逃げ回る目当てのニワトリを、猟犬顔負けのすばしっこさで追いかける彼の勇姿に私は感嘆したものだ。彼の家はいつも貧しかった。食べ物はほんのわずかしかなかったし、半ば強制的に集められる寄付金を持って行けなくて小学校を休むこともしばしばあった。そんなとき彼は、近所の同じ境遇のちびっ子たちと屈託なく野原を駆け回る。腹がへっただろうと、私がもらった一本のトウモロコシを昼食代わりに与えると、彼は律儀にそれを八等分して仲間に分けてやるのが常だった。なかでも貧乏で朝食を食べることのできない近所の幼な子には、ほんのわずかになってしまった自分の分を当り前のように分けてやるような少年だった。
ムダカ少年からの手紙には得意にしている鳥や自動車の絵とともに、ささやかな将来への夢とそれに向かう確固とした意志が書きつらねてあった。それは自動車修理工になってナイロビで暮らすという夢である。彼にとってナイロビという都会は、無限の可能性に満ち溢れた夢と希望の世界だった。
「親愛なるマツンダ(私のこと)、私は早く中学校を卒業してナイロビに行きたいです。そこにはカッコイイ車や大きなバスがたくさん走っているし、毎朝マンダジ(揚げパン)も食べられます。僕は青いつなぎの服を着て車の下にもぐり込み、それをたちどころに直してしまうんです。お金ができたら、黒の革靴と長ズボンを買います。ママや妹たちそれにグク(おばあさん)にも服を買ってあげる……」
しかしながらムダカの夢をとりまく現実は、あまりにも厳しい。都会の暮らしに対してムダカが抱くバラ色の希望に反して、現実の都市世界は冷ややかで絶望的な様相を呈している。まず彼は自動車修理工場で働くことなどできないはずだ。ナイロビには、修理工一級二級のライセンスを持ちながら仕事にあぶれた大量の若者たちが路上にうごめいている。そのなかで資格もツテも金もない彼が職を得ることは、至難のわざだ。職のない者にとっては寝場所の確保も大問題になる。ナイロビの出稼ぎ民街では、共同のトイレや水道さえない無認可の掘っ立て長屋が急増しているものの、依然として圧倒的な住宅不足が続いている。さらに定職に就くことができなければ、バス代や一日の食事代にもこと欠くようになる。だからムダカが毎朝、パンやマンダジを口にすることなど、夢のまた夢の話なのである。
都市からの無慈悲な暴力
ムダカからの便りが、都市生活の光の部分に対する一種の信仰のような熱い思いに溢れていたのに対して、次に受け取った便りはそれに冷水をかけるような暗い知らせだった。それはムダカの父親の上に襲いかかった、都市からの無慈悲な暴力に対する、一家の悲鳴であった。便りは12月のある日、私宛のファックスという形で突然にやってきた。発信人はケニアのナイロビに住むムダカの父の弟だ。小さな事務所に勤める彼は、社長の目を盗んで通常禁じられている私用のファックスをこっそり使ったのだ。スワヒリ語の字は乱れ、文章も間違いだらけ。よほどあわてて送信したのだろう。まず「最悪の知らせ」とあり、次に彼宛の電報のコピーが読める。そこには「ジュンバはキスム警察署を出てナイロビに連行された。そちらで居場所を至急探せ」とあった。私はまずぎょっとして次に大きくため息をついた。
ジュンバというのはムダカの父親の名前で、1979年、私が初めてケニアにやってきて以来の親しい友人である。ナイロビの出稼ぎ民街で生活するとき、私はいつも彼と同じ長屋に暮らしていたし、西ケニアの村に行くときも彼の母親ベリス婆さんの家に居候させてもらっていた。
ファックスによると、事件の顛末は次のようなものだったらしい。ジュンバの従弟の一人(といっても年齢は一七歳だが)が、学費未納で中学校を除籍され村を出た後、運良くナイロビ郊外の白人屋敷でボーイの仕事を手に入れた。その従弟が先月、雇主のところから現金を盗んで遁走したのだ。彼はひとまず故郷の村に戻って、ほとぼりのさめるのを待とうとした。ここまでは白人マスターに仕えるサーバントが歴史的に編み出した「逃散」マニュアル通りの行動であった。植民地支配の歴史とともに誕生したアフリカ人サーバントにとって、白人マスターの目を盗んで「必要なモノ」をちょろまかすことは「当然の権利」であり、最後にはまとまったものを失敬して村に逃げ帰るというのが、お決まりのコースだったのである。
しかしナイロビの警察にしては珍しく犯人逮捕に執念を燃やした担当刑事は、西ケニアの郡役場まで連絡して、早朝彼の村にアスカリ(郡のチーフの用心棒)の一団を送り込んで、逃げた少年を逮捕させた。その捕りもののさいに巻き添えをくらって、隣に住むジュンバと一族の長老一人が、なぜか共犯として一緒に逮捕されてしまったのである。彼らはひとまず、村から30キロメートルほど離れたキスムの町にある警察署に留置され、そこからナイロビに移送された。逮捕以来、警察署前で隠れるように見張っていたジュンバの末弟は、それを見てすぐさまナイロビにいる次兄に電報で危急を知らせたというわけだ。
電報を受け取った次兄は、片っ端からナイロビの警察署を訪ね歩き、兄たちの安否を確認した。二日後、彼はンゴング警察で手ひどく尋問され足腰が立たないほど撲られたジュンバたち三人を発見した。ケニアの警察の取り調べの苛酷さと拘置所の条件の劣悪さには定評がある。兄たちの生命の安全を危惧した彼は、日本にいる私に相談を求め、保釈金(一人当り彼の給料の一年分をはるかに超える5万シリング、日本円で約10万円)集めの救援講の講元の一人になるよう要請したのであった。
都市を飼い慣らす力
ナイロビという都市の暮らしには、この種の理不尽な暴力が充満している。夜歩いているというだけで警官に逮捕され、三週間後片足を骨折させられて戻ってきた夜警の老人。路上で強盗に襲われ、片方の目をナイフで刺されて失明した職探しの青年。数え上げたらきりがないほどの犠牲者が、ムダカの村からも生まれている。ジュンバも一年前に、ナイロビで門番をやっていたときに起きた盗難事件の共犯の嫌疑をかけられ、警察に顔の形が変わるほどひどく拷問されたことがあった。そのうえ釈放されると、すぐに解雇され、以来村に戻って都市生活の敗者復活戦の機会をねらっていた最中に今回のできごとが起こったのであった。
ムダカの描くバラ色の希望に溢れた都市像と、ジュンバが経験した暗黒で絶望的な都市像とのあいだのギャップはあまりにも大きい。ムダカはまだ小学生だが、あと数年もしないうちに出稼ぎ適齢期を迎える出稼ぎ予備軍でもある。彼が町の暮らしに対して抱く夢と希望は、実際のナイロビ出稼ぎ体験のなかで、押し潰され消えていく運命にあるのだろうか。私には希望の都市というのは虚像にすぎず、絶望の都市こそが実像であるように思われてならなかった。ムダカたちの将来は、絶望的で暴力的な都市生活によって、惨憺たるものになるのではないかという気がしてならなかったのである。
事実ムダカの世代の未来に、明るい話題は何一つとして見つからない。第一、彼が父親から相続する土地は、確実に10アールを下回る。これでは宅地だけで精いっぱいで、畑はせいぜい庭園サイズがいいところだ。かつてのように町で暮らしていけなくても、村に戻って畑を耕していれば何とか生きていけるさ、という古き良き時代はもはや確実に終わりを告げているのである。また仮にムダカが中学校に進学できたとしても、定職のない父親の力では無事卒業することはおろか、数カ月で学校を追い出されることは目に見えている。ケニアにおける中学校の学費の高さは親たちの最大の悩みの種で、一人の子供を一年間通わせるのに、門番時代のジュンバの年収の半分以上が消えていくのである。だからムダカは恐らく中学校をすぐに中退して、ナイロビに流れて行くことになるだろう。それが村の少年たちのお決まりのコースなのだ。だがナイロビでの生活も決して楽ではないはずだ。彼が手に入れることのできる仕事は、最高にうまくいっても、建築現場での日雇いか白人屋敷のサーバント以外にはないからである。ムダカの将来のことを考えると、私は暗澹たる気分に陥ってしまう。
ところがムダカの父親であるジュンバは、まったく違う考えを持っていた。私が何度も「余計なお世話かもしれないが」と前置きして、ムダカの将来についての危惧を話してみても、彼はいつも平然としていた。
「マツンダ、それは違う。たしかにこれからはますます土地もないし、町に行っても仕事はなくなるだろう。将来の生活はきついものになるかもしれない。けれどそれはずっとそうだったんだよ。いつの時代だってきつかった。でもそれで自分たちの暮らしが壊されたことなんてただの一度もなかったんだ」と答えるのである。
これは「なるようになるさ」というただの極楽トンボ的楽観ではない。そうではなく、いかに巨大な変化が押し寄せてきても、最後にはそれを咀嚼してしまうという自らの生活力への限りない信頼であるように思えてならなかった。ジュンバのこの信念は、警察に拷問され職場を解雇され、三度の食事すら満足にできなくなったときですらも揺らぐことはなかった。客観的に見たら絶望的としか形容できない都市生活の情況に対して、ジュンバたちの口からあきらめや居直りの言葉を私は聞いたことがない。絶望の都市世界に跳び込んでも、彼らは自らの能動性によって、最後にはその世界を彼らの側に奪い返してきたからである。圧倒的な絶望世界を内部から突き崩し、自身の生活の便宜に合わせて、再構築していく。それはまるで「都市の飼い慣らし(ドメスティケーション)」過程といってもよいものだった。この本のなかで私は、ナイロビという巨大都市を飼い慣らそうと働きかけてきたジュンバたち出稼ぎ民が示す、ダイナミックな営みの一端を紹介してみたいのである。
生活実践派宣言
ナイロビ留学
そもそも私が、ジュンバと知り合ったのは、入ったばかりの日本の大学院を休学して、ケニアにやってきた1979年の11月に遡る。二年間の奨学金をもらって、アフリカで好きなことができると浮かれ舞いあがったのはよいが、はて何をしたものかと思案にくれながら、ナイロビの宿屋で頭を抱える日々を送っていた。そのなかで漠然と考えていたことは、同時代のアフリカと向き合いたいという思いだった。当時アフリカに調査に来た人類学者のあいだで、自分のフィールドの「未開さ」を競う冗談がはやっていた。もちろん彼らが一種の愛情を込めて対象の人々を語っていることはよくわかったのだが、「未開さ」を愛でる習性がなんとなく腑におちなかった。彼らにとっては、ナイロビでうだうだしていることは貴重なアフリカ滞在時間をロスすること以外のなにものでもなかった。だから、私もよく彼らから善意の忠告を受けたものだ。「いつまでこんなところにいるつもり。ナイロビにいては本当のアフリカは見えないよ」「本当のアフリカ」というのが遠くの奥地にあって、そこには私たちの想像もつかない、わくわくするようなエキゾティックな習俗や思考が満ち溢れている、というロマンティックな信念は、私たちのあいだでは広くそして素朴に共有されていたように思う。この信念について今、たとえばサイードやムディンベの著作を引用しながらその認識の根源を批判することはたやすい。だが多くのフィールドワーカーにとって、この信念が自らの営為の原点であったことも疑いない。私自身、ターンブルの『森の民』や『山の民(ブリンジ・ヌガグ)』を読んでから、この信念で密かに胸を膨らませてアフリカにやってきたフィールドワーク志願者の一人であったのだから。
しかしナイロビの宿屋でくすぶっているうちに、ロマンティックな信念への素朴な懐疑が頭をもたげてきた。それは最初、ナイロビ滞在を「犯罪視」されたことに対する、単純な感情的反発だったかもしれない。しかし、これだけ多くの人間が日々暮らしている都市の現実を、同時代の現実として見ようとしないアフリカ研究は、やはりどこか欠陥があると実感するようになった。さらに私が在籍していたナイロビ大学で、同じゼミの大学院生たちから示された露骨な挑発も、この実感を結果として補強することになった。彼らは、「私が人類学的なフィールド調査をしたい」と言うと、声をたてて笑い、着ているTシャツを脱ぎ捨ててサルの真似をしたり、原始人の格好をしておどけてみせた。「これを探しにアフリカまでやってきたのかい」と聞かれた私は、恥ずかしさとやりばのない怒りで沈黙するしかなかった。今でこそナイロビ大学には人類学のコースが整備されているが、当時、人類学は「未開なアフリカ」を喰いものにする植民地主義の学問として忌避され嫌悪されていたのである。ゼミのアフリカ人教師は、大学院生たちのきつい冗談を抑えて、私に人口問題とか開発計画といった現実のアフリカに貢献するテーマを選びなさい、と優しくアドバイスしてくれたのだった。
これはもっともなアドバイスではあったが、こうした研究がともすれば公式統計と図表の羅列に終わってしまい、普通の人々の現実の暮らしを「病理」とか「問題」扱いする態度に、私は多少へきえきとしていた。もっと生活感のあることをしたい。今から思えば気恥ずかしくなるほど素朴なフィールド願望を、私は胸に秘めていたのである。
ジュンバとの出会い
あれやこれやで何をするのかまとまりのつかない状態が続いた。ただ「奥地へ奥地へ」という人類学者の習性への反発だけは確固としたものになっていった。そのころ英語もスワヒリ語もままならない私は、言語実習と自ら名づけた安酒場通いを毎晩続けていた。そこで英語の下手な変なムズング(白人=私 日本人もそう呼ばれる)相手に、辛抱強くスワヒリ語の先生役を務めてくれた親切なバーテンが、ジュンバだった。私がカウンターに座ってビールを注文するたびに、彼はゆっくりとそしてはっきりと、「ジナラング ニ ウィルソン・ジュンバ・オンビマ(私の名前は、ウィルソン・ジュンバ・オンビマです)」とスワヒリ語のレッスンを開始するのだ。
知り合って1カ月ほどがたったころ、ジュンバが「次の日曜日に僕の住んでいる長屋に遊びにこないか」と誘ってくれた。さっそく訪れた彼の長屋は、ナイロビの中心部から西に10キロメートルほどのところに広がるカンゲミという出稼ぎ民の町にあった。初めて間近にしたアフリカ人の町は、白人の観光客が闊歩するナイロビの繁華街とはまったく別の空間だった。私は、もう一つのナイロビの顔を見た気にさせられた。赤茶けた土からまきあがるもうもうとした土埃と、走り回る子供や路上の物売り女たちとアルコールまじりの男たちの叫び声が一体となって生じるグワーンという騒音が、町全体を包み込んで、私を心地よく圧迫した。その日のことはそれ以外何も覚えていない。しかし、この日を境に私の頻繁なカンゲミ通いが始まった。
ジュンバと私は、1955年4月の同年同月生まれということもわかり、ますます親密になった。彼がナイロビから400キロメートル離れた、ビクトリア湖岸にほど近い西ケニアのケロンゴ村の出身であることや、マラゴリ語という聞き慣れない言葉を母語とする民族集団に属していること、彼の名前のなかのオンビマは父の名で、その父は祖父の四人の妻のうちの第一夫人の次男であることを私が教わったのも、それから間もなくのことだった。
初めてのカンゲミ訪問から半年がたち、長く続いた雨期が終わって新たな乾期が始まったころ、私は思い切ってカンゲミに引っ越した。この半年のあいだに、私は自分なりにこれからやろうとする方向を決めていた。奥地へ「未開社会」を求めて行くロマンティックな調査は、すでに選択肢にはなかった。かといって、大量のアンケート調査や統計の操作には気が進まなかった。具体的な生活や人生を見ずに導き出される科学的な青写真は、ロマンティックな想像よりたちが悪いと思われたからだ。この揺れのなかで私は、ナイロビの出稼ぎ民の町を舞台にフィールドワークをおこなうという選択をした。出稼ぎ賃労働というアフリカ人にとっての新たな経験は、同時代の現代世界につながる拡張性と、具体的な人間の暮らしや人生が凝集された収束性とが交錯する魅力的な場であるように思えたのである。
都市をフィールドワークする
都市を舞台に人類学的なフィールドワークをするという決意は固めたものの、さて何をどうするのか具体的なイメージはさっぱり浮かんでこなかった。それはある意味では、都市人類学という学問が当時ぶつかっていた壁でもあった。一九五〇年代以降アフリカにおいても、人類学者が愛好した「未開社会」は次々と姿を消していた。代わってさまざまな人種・民族が、多様な階層・階級が、異なった思想・文化が、衝突したり共存する複合社会が視界に入ってきた。こうした状況に直面した人類学者は、「閉鎖的で自足的な未開社会」から複合社会のシンボルである都市社会へと、フィールドを移しはじめた。
だがその都市社会でいったい何をするのかについては、明確な方向性はついに生まれなかった。人類学者たちは、それまでの都市研究の定番だった質問紙を用いた量的調査を批判したものの、彼らが「未開社会」で慣れ親しんできた参与観察を、都市という新たな巨大なフィールドの片隅でおこなう以上のことはできなかった。つまりそれは都市の人類学(of the city)ではなくて、都市でおこなう人類学(in the city)に過ぎなかったのである。「未開社会調査は嫌だ」、かといって「量的調査も気が進まない」という消去法で、フィールドを選んだ私は、こうした都市人類学の歴史的限界を忠実に再現していた。都市という巨大で魅力的な生活空間をまるごと対象にする、そんな人類学を意識しはじめたのは、もう二年間のフィールドワークが終わろうとするころであった。
ジュンバが彼の長屋のはす向かいの棟の一室が空いたと知らせてくれたのは、ちょうど、この魅力的な場にとにかく自分を置いてみたいと、思いはじめたころだった。薄い板で周りを囲み、上はトタン屋根、下は土間の四畳半ほどの一室が、以後私の城となった。電気も水道もない異郷の生活を想像するのは、日本では大変なことかもしれない。だが、住んでみると何のことはない、食べて寝ておしゃべりをする当り前の日常生活があるだけ、ということもだんだんわかってきた。こうして私は、カンゲミではごく一般的な、単身男性出稼ぎ民の世界に身を置くことになった。この「当り前の日常生活があるだけ」という感覚は、以後私のフィールドワークの原点となっていった。つまりそれは、地域が変わり文化が異なっても、日常の生活実践に対する構えはそんなに大差はないのではないか、という感覚である。
たとえば「食べる」という実践を考えてみよう。それは食欲という生理的欲求の観点からみれば人類社会に普遍的な生物学的な実践だし、何を食べ何を食べないかという食物規制の点からすればそれぞれの文化によってヴァリエーションのある文化的実践でもある。しかしこの実践には、その両者だけに還元されない共通の構えのようなものを持っている。おいしいものであれば、人にすすめたり足りない人に分けてあげたりすることがありうる、という生活実践に対する構えがそれである。この生活実践の構えに入ってしまえば、異文化とのあいだにある種のコミュニケーションが成立することが可能なのだ。たしかに出稼ぎ民の世界で日常実践を繰り返すなかで、私はなんとなく彼らと共鳴したり共感したりする自分に気づくことがあった。
こうした生活実践派の述懐は、近年の民族誌に対する懐疑の流れのなかでは、オールドファッションな経験主義として処理されてしまうものかもしれない。昨今、民族誌をめぐる論争において「私(人類学者)は彼ら(現地人)をわかった」というスタイルは、道徳・倫理的にも、政治的にも、また認識論的にも傲慢不遜な態度として徹底的に解体され尽くしたかのようだ。金力と権力を背景にした先進国の人類学者が、「未開社会」に出向いてそこで「原住民」と艱難辛苦を共にしながら最後には彼らの仲間として受け入れられ、その社会や文化の謎を解き明かすというサクセス・ストーリーの持つ胡散臭さと罪深さが、ほかならぬ人類学者自身によって告白され解体の対象とされてきたのである。この強力な思想風潮の前では、「彼らをわかった」とか「彼らと共鳴した」という言葉は、独りよがりで陳腐な旧時代の言説と化してしまう。にもかかわらず、私は、出稼ぎ民の生活世界のなかで、「彼らと通じ合った」と感じてしまうことがある。これはなぜなのだろうか。何が私と彼らを同一の土俵に立たせるのだろうか。人類学を脱構築するシャープな懐疑の論理に対して、その先にいったい何が生まれるのか、何か漠然とした居心地の悪さが私のなかで膨らんでいったのはたしかだ。人々が現実を微細に変革し創造していく力のようなものは、その懐疑からは見えてこない気がしたのである。私は考えてもよくわからないままに、出稼ぎ民の町でのフィールドワークを続けた。
しかしながら漠然とした見通しはあった。私は、この人類学批判の言説のなかに、逆に傲慢な決めつけの眼差しを感じてならなかったのだ。たしかに人類学者の政治性(人類学は植民地支配の構造に寄生した)や人類学的知識の権力性(西洋の「われわれ」が非西洋の「彼ら」を独占的に理解する)を指摘し批判することは、重要なことである。だがこうした言説そのものが、対象とする社会に生きる人々の可能性を一方的に切り縮めてはならない。
それはこういうことである。人類学の権力性を語るとき、「彼ら」と「われわれ」のあいだの不平等性がよく問題にされる。たとえばアフリカと日本や欧米との関係を考えてみると、アフリカは一方的に調査され理解される側であり、日本や欧米はつねに調査し解釈する側に立っている。この両者の固定的な配置は、現代世界を秩序づけている政治力学の反映である。したがってこの構造のなかでは、「われわれ」はどんなに善良に振舞ってみたところで外来の加害者であり、「彼ら」はどんなに頑張っても無力な被害者だということになる。
だがこうした機械的で決定論的な見方にしたがうと、当然見失うものがでてくる。それは、圧倒的に優位な力に支配され押しつけられた生を生きる人々の、創造と抵抗の可能性である。一方的関係を暴露し批判する言説は、たしかにもっともらしく聞こえるけれども、その反面弱者の生を生きる人間の努力を無視し、自分たちと同じ自由かつ不自由な主体として相手を見ることを妨げている。そこからは、同じ時代を生きていく相手と対等に交わる視線は生まれてこないのである。ジュンバたちアフリカの都市出稼ぎ民と私が共鳴する何かがあるとしたら、この交錯する同時代の視線の作用に違いない。
もちろん同時代といっても、ジュンバたちが生きる都市生活と私たちのそれとは、置かれた位相が大きく異なっている。それは世界の中心と周縁というシステムの構造上の差異でもある。しかしながら自由と不自由さに包まれながら、それらと葛藤する生の営みにおいて、両者は同じ地平に立っている。というのは、一見豊かで自由な社会に生きているように思える私たちも、じつのところ目に見えないさまざまな近代支配の網の目に絡みとられているからだ。この点、植民地支配によって強制された都市生活を送るジュンバたちとまったく変わるところはない。だがジュンバたちは、この押しつけられた生において、たんなる被害者の地位には決して甘んじなかった。巨大な支配の力に押されながら、それと真っ正面から衝突することなく抗っていく創造性を編みだしていたのである。こうした不自由さと向き合い、それを巧妙に突破して行く知恵と力こそが、私とジュンバたちの共鳴共感の原点であり、私が彼らから学びたいと思う生活の構えなのであった。
続きは書籍でお楽しみください!
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