ためし読み - ノンフィクション
人生でこんな原稿は、誰からも、もう二度ともらえない。編集者が確信した、西加奈子 初のノンフィクション『くもをさがす』試し読み公開
西加奈子
2023.03.08
西加奈子
『くもをさがす』
蜘蛛の多い家だった。
木造の、古い家だ。一軒家を二つに割って隣家と共有するduplex(デュプレックス)は、こちらではよくある構造で、でも、我が家は変わっていた。5階建てなのだった。ベースメントと呼ばれる半地下(これも、カナダではよくある)に一つ目のベッドルームと洗面所とシャワールーム(私たちはここを潰して物置として使っていた)があって、2階部分がリビング、3階がダイニングキッチン、4階がもう一つのベッドルームで、5階がバスルーム、つまり1階に1部屋ずつ、という構成だった。
引越し業者や修理業者、友人、あらゆるカナダ人がやって来たが、皆「こんな家は初めて」だと驚いていた。半地下に洗濯機と乾燥機があるので、5階の風呂で出た洗濯物をわざわざ地下まで持ってゆき、乾燥したらまた最上階まで持ってゆかなければならない。随分と、足腰が鍛えられる家だった。
そして、蜘蛛だ。ダイニングに、半地下に、ベッドルームに、あらゆる場所に蜘蛛の巣があった。なるべく掃除はしていた。でも、あまりに美しい形状だから、掃除せずに残しておいた蜘蛛の巣もあった。そもそも蜘蛛はみだりに殺してはいけないと、小さな頃から祖母に言われていた。彼女は、蜘蛛が弘法大師の使いだと信じていた。
蜘蛛はあるものは大きく、あるものは小さかった。そして、あるものは黒く、あるものは透明だった。猫のエキが蜘蛛を殺さなかったのは、彼が根っからの怖がりだからだが、それにしてもたくさんいた。
ある日、私の左足の膝と、右足のふくらはぎに、ぎょっとするほど大量の赤い斑点を発見した。そしてそれらは、見つけた瞬間から、耐え難いほどの痒みを私にもたらした。前日に友人たちと公園に行き、芝生の上に座ったので、ノミか何かに刺されたのかと思った。友人たちに患部の写真を送って聞いてみると、彼女達は何もないらしい。一人が言った。
『それ、もしかしたらベッドバグじゃない?』
思わず、唸り声が出た。ベッドバグとは、いわゆる南京虫だ。それが家に現れたら、大ごとになる。シーツはもちろん、ベッドマットから、ソファから、衣類からカーテンから、とにかく布製のものは全て専門のクリーニングに出さなければいけない。蒼白になった私は、重い腰を上げて、クリニックに連絡したのだった。
カナダの医療制度は、日本と異なる。日本のように、皮膚科や婦人科などの専門医に直接行けるシステムは、カナダにはない。それぞれにファミリードクターと言われる総合医がいて、まずはそこに連絡を取る。そこでドクターに症状を診てもらい、然るべき専門医への紹介状を書いてもらって、やっと予約を取ることが出来るのだ。
ファミリードクターがいない私のような人は、誰でも受け入れているウォークインクリニックに行く。そこで診察を受け、やはり紹介状を書いてもらって、専門医に予約を取る。
このシステムでは、例えば、明らかな中耳炎のときなども、耳鼻科に直接行くことが出来ない。緊急を要する場合は、救急に頼ることになる。緊急でなくても、専門医との予約が随分先になって、に流石に待てない、という人も救急に行く。結果、救急がとても混む。症状によっては8時間、9時間待ちが当たり前という状況だ。
カナダ人は、自国の医療システムに誇りを持っている。特にブリティッシュ・コロンビア州では、MSPと呼ばれる健康保険に入っていれば、医療が全て無料で受けられ、それは私のような外国人や留学生にも適用される。皆の命は平等で、だから救急では、症状の深刻度だけを考慮される。保険のある無しで命に差が出る隣国とは違うと、たくさんの人が言う。
腰が重かった、と書いた。本当は、足を刺される前に、クリニックには行かなければと思っていたのだ。右の胸に、しこりを見つけていた。シャワーを浴びているときに気づいた。触ると、そこだけコリコリと硬かった。
その頃、バンクーバーは新型コロナの感染者数が最悪の状況だった。ウォークインクリニックに電話しても、コロナにまつわる早口のガイダンスが流れて心が折れたり、そもそも予約が取れたとしても対面での診療が出来ないクリニックが多かったりした(私の英語力では、電話での診察は自信がなかった)。だから、どうしても腰を上げる気になれなかったのだ。
インターネットで、「胸 しこり」と検索した。なるべく楽観的な情報が書かれていそうなサイトを選んで、どうやら乳腺炎ではないかという結論に至った。私のしこりは痛くなかったし、よく動いた。「よく動くしこりは良性の可能性が高い」という情報に、勝手に賭けた。秋には一時帰国をするつもりだったので、そのときに人間ドックに行こうと思った。ウォークインクリニックには、だから連絡をしてこなかったのだ。
でも、南京虫だ。これは大ごとである。重い腰を上げて、クリニックに電話をした。受話器に耳を押し当てて音声ガイダンスを聞き取り、やっと受付の女性までぎけたが、やはり、すぐに対面の予約は取れなかった。とりあえずテレメディシンと呼ばれる、電話での診療になった。口頭で伝える自信がなかったので、あらかじめ、患部の写真をメールで送っておいた。
電話をくれたのは、女性医師だった。
「写真見たけどな、あれは虫刺されとちゃう、帯状疱疹や。」
彼女はそう言った。帯状疱疹は、疲れて免疫が落ちた時になると聞いていた。疲れている自覚が全くなかったので、驚いた。
「南京虫ではないんですか? 痒いんですけど?」
「ちゃうちゃう、帯状疱疹や! 薬だけ取りに来て!」
とりあえず処方された薬を、クリニック併設の薬局に受け取りに行き、2日ほど飲んだ。すると、対面でのフォローアップの診察予約が取れた。行ってみると、電話をかけてきたのとは別の女性医師が私を診察した。彼女は、私の足を見るなり言った。
「ちゃう、帯状疱疹とちゃう!」
なんやねん、と思った。すでに帯状疱疹の薬を飲んでいるのに、どうしてくれるのか。
「その薬はほかして! 帯状疱疹とちゃうから!」
「じゃあ、やっぱり南京虫なんですか?」
帯状疱疹より、南京虫の方が怖かった。夫や子供もまれていたらどうしよう。一緒に寝ているエキは? ぐるぐると考えている私に、彼女は言った。
「南京虫でもない。」
「じゃあ、何なんですか?」
「多分、蜘蛛か何か。」
蜘蛛?
蜘蛛って噛むの?
私の脳裏に浮かんだのは、家にいた蜘蛛たちだった。黒いの、白いの、透明なの、大きいの、小さいの。あの蜘蛛たちが、私を噛んだ?
「虫刺されの薬出しとくから、それ塗って。なんか質問ないな?」
医師は忙しそうだった。明らかに、さっさと診療を終えたがっていた。でも、私は立ち上がった彼女を制して言った。
「あの、気になることがあるんです。虫刺されと関係ないんやけど。」
「何⁉ 時間ないねん、1分だけやで‼」
「胸にしこりがあるんです。」
彼女の表情が、わずかに変わった。
「脱いで。上半身全部。」
慌てて服を脱いだ。医師は、私の乳房を真正面からじっくり見た。それから、私をベッドに横たえ、指で胸をゴリゴリと触った。彼女は診察に、結局1分以上かけた。
「ああ、あるな。1センチのしこり。よく動くし、見つけにくかったやろ?」
よく動く、1センチ、という言葉が耳に残った。
「紹介状書くから、超音波検査に行って。」
それが、2021年、5月の終わりのことだった。
超音波検査は、3週間後になった。
指定されたメディカルビルディングに行き、順番を待った。待合室には女性だけではなく、男性もたくさんいた。当たり前のことなのに、何故か少しハッとした。
超音波検査用のゼリーはひんやりと冷たく、部屋は暗かった。モニターの灯りだけがぼんやりと私たちを照らしていて、とても寂しい気持ちになった。先生が、
「今日たまたまマンモグラフィも空いてるからやってく? あんたラッキーやで。」
と言った。つまり本来なら、マンモはマンモで予約が必要、ということなのだろう。
マンモグラフィの部屋も、暗かった。私の小さな胸が、機械でぎゅーっと押しつぶされた。これが嫌でマンモを敬遠してしまう人がいると聞いた。私もそうだった。過去、一度だけマンモをやったことがあったが、胸があんまり小さいから、機械で挟めず、係りの人がとても苦労していた。痛くて、惨めで、だからもうやらないと決めていたのだ。
結果、超音波検査でも、マンモグラフィでも、はっきりしたことは分からなかった。1ヶ月半後に、針生検をすることになった。
その頃の私は、それでもまだ楽観的でいられた。特に乳がんに関しては、何の根拠もなく、自分は大丈夫だと思っていた。なるとしたら、卵巣か子宮系の病気だろう、と。だから生理にはすごく注意を払っていたし、身体を粘膜から温めるため、婦人科系に良いと言われるよもぎ蒸しにも定期的に通っていた(バンクーバーでも、友人のヨウコが、自宅で本格的なよもぎ蒸しをやっていたので、ありがたく通わせてもらっていたのだ)。
胸が小さいから? それとも、授乳中よく乳腺が詰まったから? つまり、乳房のトラブルは大抵乳腺に関することだろうと? どうして自分は、乳がんをあんなに他人事と思えていられたのだろう。本当によく聞く、ベタな言葉を、私も繰り返していた。
「まさか私が。」
初めて楽観的なことを言われたのは、針生検でだった。
超音波検査の時と同じ、あの暗い部屋だった。麻酔の注射をして、ホッチキスのような音が出る針を胸に刺した。バチン! バチン! 女性技師が、モニターを見ながら言った。
「ああこれ、多分大丈夫やで。」
力が抜けた。体の中の昏い塊が、すうっと溶けてゆくような気がした。そうやんな、と思った。そうやんな、大丈夫やんな。
暗い部屋から出ると、バンクーバーは美しく晴れていた。私の家は街の西側にある。西日が強かったので、サングラスをかけた。途中でガソリンを入れ、パン屋に寄ってベーグルを買った。家の近くの赤信号で止まっている時、ふと思った。じゃあ。
じゃあ、何故。
大丈夫なら、何事もないなら、私は何故、蜘蛛に噛まれたのだろう。
蜘蛛はどうして、私をあんなにも噛んだのだろう。
蜘蛛のことは、祖母だと思っていた。
ウォークインクリニックに行った日の数日後、母から電話がかかってきた。母の夢に、祖母が現れたのだそうだ。
祖母の名は、サツキという。
小さな体をして、とても働き者だった。祖父は働いていたが、4人の子供を育てるのには厳しく、祖母は時々、夏は氷屋を、冬はうどん屋とお好み焼き屋をやっていた。私が覚えているのは、家に来る時、いつもおまけ付きのグリコのキャラメルを持ってきてくれる、朗らかな祖母の姿だった。
彼女はとても人懐っこく、物怖じしなかった。商店街で当たった旅行に、タオルを持って一人でさっと出かけ、そこでたくさんの友達を作って帰ってくるような人だった。一度、家の前で長く女性と話し込んでいる祖母を見つけた。あんまり熱心に話しているので、てっきり古い友人だと思っていたら、「そこのバス停で会うた人、ちょっと今から家遊びに行ってくる」と言った。
母が私をテヘランで産んだとき、彼女は海を越えてやって来た。祖母にとっての最初の、そして最後の海外がその3ヶ月のイラン滞在だった。新生児の私のおむつを替え、3歳上の兄の面倒を見て、母の睡眠時間を確保した。ペルシャ語など全く話せない彼女だったが、メイドのバツールともすっかり仲良くなった。バツールが風邪を引いた時は、持参した改源をあげて治し、後々まで感謝されたという。
大活躍の祖母だったが、帰国後、長男(母の兄)に地球儀でイランの場所を教えられ、
「え、うち、インド越えて行ったんか?」
そう驚いて倒れたそうだ。弘法大師贔屓だった祖母にとって、海外の最高峰といえば「天竺」、つまりインドなのだった。イランがどこにあるかも分からない状態で、生まれて初めて国際線に乗って、(知らぬまに天竺を越えて)自分を助けに来た祖母は、母にとって、もちろん特別な存在だった。
「おばあちゃんが帰るとき、泣けて泣けて仕方なかったよ。」
母は4人兄弟の末っ子で、唯一の女だった。娘の孫には気を遣わないのか、私と兄は、よく祖母に叱られた。祖母と二人で出かけると、電車で座る席がない祖母が、床に新聞紙を敷いて座ってしまうのが恥ずかしかった。それでも私は彼女が大好きで、特に彼女の手芸の技術は尊敬していた。彼女は母の着物を縫い、私にたくさんのお手玉や編みぐるみを作ってくれた。どれだけぐちゃぐちゃになった糸も、祖母の手にかかれば、絶対に綺麗にほどけた。魔法みたいだった。
ある日、テニスの素振りをする兄をじっと見ていた祖母に、彼が、
「おばあちゃん、このラケットめっちゃ軽いねん。」
と言った。「持ってみたい」と言った祖母に渡すと、彼女は重さで、ラケットを落としそうになった。それでも、
「軽い! これは軽い!」
そう言い張った。祖母の周りでは、笑いが絶えなかった。
彼女は、私が12歳の時に胃がんで亡くなった。最期の言葉は、「みんな仲良うしてな」だった。亡くなってからも、私たちの会話に度々登場し、いつだって強く存在してきた。その祖母が、蜘蛛になった。
「お母さん。夢の中で、おばあちゃん笑ってた?」
「ううん。笑ってなかったよ。」
蜘蛛になって、私を噛んだのだ。
「なんでそんなこと聞くん?」
つづきは西加奈子『くもをさがす』でお読みください。