ためし読み - 日本文学
児玉雨子『##NAME##』冒頭一挙20ページ無料公開!! かつてジュニアアイドルだった雪那。少年漫画の夢小説にのめり込みーー
児玉 雨子
2023.07.21
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「##NAME##」
児玉 雨子
二〇〇六年 七月
ハウススタジオの二階にある一室で、美砂乃ちゃんがニップレスシールを私に手渡しながら「てか台形の面積の公式知ってる?」と訊いてきた。ちょうど習ったばかりだったので、じょうていたすかていかけるたかさわるに、と暗唱すると、美砂乃ちゃんは「なんで知ってるの⁉」と少し離れた大きな目をぎょろっと剥いて驚いた。塾だよ、と答えながら私はニップレスシールのシートを剥がし、Tシャツの中で乳首の上に貼り付けた。
「みんな知らないと思ったのに」
「美砂乃ちゃんも塾行きはじめたの?」
「ううん。ファンレターにあった。でもぶっちゃけ何回見ても覚えられなかったから、逆にせつなにきかれたらちょっと、やばかった。さっきみたいにすらすら言えなかったと思う。すらすらどころか、もう忘れたかも。美砂乃、ばかだから」
美砂乃、ばかだから、は最近の美砂乃ちゃんの口癖だった。ペットボトルの蓋が固くて開けられない時もそう言っていて、それとばかは関係ないんじゃないかと訊くと、美砂乃ちゃんはそれにさえ「やめてやめて、むずかしいよ。美砂乃、ばかだから」と答えた。
「いや、でも、合ってるかわかんない、自信ない。塾の先生が発展問題だって言ってたから、私もまぁいっか、って適当に覚えちゃったし」
慌ててそう言い募ったのは美砂乃ちゃんに気を遣ったのではなく、本当に記憶違いなのかもしれなかったからだった。美砂乃ちゃんは自分をばかと自称し、そして私をひじょうに賢い人間だと見做しているようだったけれど、通っている中学受験専門塾で私は一番下のクラスにいたし、授業に追いつくので精一杯だった。私が唱えた呪文みたいなそれは、意味が脱落して、もはや呪文というより抜け殻と呼ぶべき音だった。答え合わせのない問いかけは初めてで、結局正しかったのかもわからないままその抜け殻は私と美砂乃ちゃんの足元に転がっていた。
着替える気になれずに膝の上に載せたスクール水着とベージュのインナーショーツを握りしめる。とは言っても、今日の水着は紺色の、学校で着るものとよく似ていて私は少しだけ安心していた。美砂乃ちゃんは話しながらするすると私服を脱ぎ、ビキニみたいな三角形のスポーツブラジャーを外した。視界の端にいる美砂乃ちゃんが全裸になったのかと思って、その体を見ないように咄嗟に俯いた。そうしていると、「早く着替えないと」と、美砂乃ちゃんは私の顔を覗き込んできた。美砂乃ちゃんはちゃんとベージュのインナーショーツを穿き、ニップレスシールを貼って、ひょろんと伸びる片脚を淡いピンクのレオタードに通していた。私たちは水着とレオタードに着替えると、さらにその上から半袖の制服衣装を着た。美砂乃ちゃんの分の白地にタイのないセーラー服は、私の第一志望中学の制服と少しだけデザインが似ていた。私はブラウスとスカートで、てかてかした赤いサテン地のリボンを襟の下につけた。
ふたりで控室から一階に下りると、そら豆みたいな頭で、髪をスポーツ刈りにした恰幅のいい狭山さんが「おっ。ちゃんと五分前集合じゃん」と目を細くして私たちを褒めた。狭山さんはいつも長袖のワイシャツにスラックスと揃えたジレを重ねていて、季節感は袖を捲っているかカフスをきっちり締めているかの違いしかなかった。ハウススタジオの中はエアコンがよく効いているものの、外が暑かったのか、袖を捲って何かしらの資料を入れたクリアファイルで首元を扇いでいた。
ハウススタジオの広い芝生のあるベランダには、ビニールプールが広げられていた。うちにあるような子供ふたりでいっぱいになる丸形のものではなくて、アメリカの広い家にありそうな、五人くらい入ってもまだ余裕のある大きな長方形のものだった。美砂乃ちゃんが「今日プールなんですか?」とはしゃぎながらベランダの方に駆け寄ると、後ろから「美砂乃、髪!」と、低い女性の声が飛んでくる。美砂乃ちゃんの細さともまた違った、骨盤がぐっと張った砂時計のような体つきのマミさんが、スーパーハードスプレーと持ち手の先が細く尖ったを持って美砂乃ちゃんの後を追って、私の横を通り過ぎていった。スタジオはどの部屋もヘアスプレーの臭いがした。
本来なら食卓を囲むことを想定して設計し造られたダイニングの壁には、誰かがポケットや鞄に入れていたのをそのまま使っているのだろうか、いくつも折り目がついてよれた香盤表がセロハンテープで貼り付けてあった。昼間のレッスンシュートは私と美砂乃ちゃんのふたりで、十五時にりのちゃんとゆりちゃんがスタジオ入りして、メイクをしたあと十六時半からそのふたりの撮影が予定されているようだった。ベランダの方から「このまま美砂乃から始めちゃうから!」と、狭山さんの大きな声がした。私に言っているのかもしれなかったので、念のためはーいと返事をしながらダイニングを出て、リビングのソファに座ってベランダの向こうを見遣った。ベランダで、美砂乃ちゃんがよろしくお願いしますー、と言うと、それに追随して大人の声のよろしくお願いしますー、がまばらに重なった。
セーラー服を着たまま、美砂乃ちゃんは大きなビニールプールに足を浸けて次々とポーズをとる。それにともなって表情も変わってゆく。美砂乃ちゃんはポーズも表情も引き出しが多く、そのすべてを自在に操っているようだった。私は二パターン、多くて三パターンしか笑顔がなく、レッスンシュートや撮影会など、シャッターの音やストロボの光を浴びた日の帰りの電車の中で、毎回えくぼのあたりを痙攣させているのに。
美砂乃ちゃんはほとんど百八十度に近い角度まで右脚を蹴り上げて、カメラにかからないよう器用にプールの水飛沫を上げた。その隙に、スキンヘッドでずんぐりしたカメラマンがぐっと屈んで、美砂乃ちゃんを下から舐めるように撮影した。バレエや新体操を習っているわけでもないのに、美砂乃ちゃんの体はゴムのようにやわらかくて、ああやってほっそり伸びた白い脚を上げたり、開いたり、よく動く。そのたびに、ハーフツインテールに結び、アイロンで巻いてスーパーハードスプレーで固めた毛束がくるくるとリボンのように舞う。私は美砂乃ちゃんがそうやって自分の体を思うがまま使いこなしているようすを見るのが好きだった。どれも私にはできないことだったから。ただでさえ普段から上手に動かせないのに、カメラの前だといっそう、油が注されていないブリキのおもちゃのように、体じゅうの関節が軋む。レッスンだからいいけど、本番はそうはいかないよ。オーディションに受かったらね、もっといっぱい、こんなの比じゃないくらいいろーんな人が動くんだから、早く慣れようね。先月のレッスンシュートが終わった後の狭山さんの言葉が次々とよぎった。美砂乃ちゃんは自分の体だけじゃなくて、照明さん、マミさん、今日はいないけどマミさんの助手のひと、狭山さん、社長─自分よりうんと、倍どころじゃないほど年上の人々を、自分のために動かすのも上手だった。
じゃあそろそろいっちゃってみようか、とカメラマンがへらへら笑いながら言うと、美砂乃ちゃんはカメラの前でスカートのホックを外し、ファスナーを下ろした。その瞬間も絶えずシャッター音が空気を切り刻むように鳴り響く。美砂乃ちゃんはスカートを濡らさないよう、開きっぱなしのリビングの掃き出し窓に放り投げる。床に落ちたスカートをマミさんが拾い上げて、どこからか用意していたハンガーにかけた。下半身はレオタードのまま、また美砂乃ちゃんはしばらくポーズをとった。そしてまた合図があると、セーラーをがばっと脱いで同じように掃き出し窓へ放り投げた。
レオタード一枚になった美砂乃ちゃんに、暑いねぇと笑いながら狭山さんがアイスキャンディを渡した。「やったー!」と美砂乃ちゃんはビニールプールを見つけた時よりも高い声を上げて、白いアイスキャンディに口をつけた。その間もシャッター音は鳴り止まなかった。
スタジオはいつも乾燥していた。ポーチから取り出した学校のプール用の目薬を注していると、マミさんがゆっくり歩いてきて、軽く目を瞑って、と言った。腰に提げた黒いメイクバッグから綿棒を取り出して、目薬で濡れたまぶたを拭った。
拭き取ってもらいながら「すみません」と呟いた。「動かないでいてくれればいいから」とマミさんは表情を変えずに口元だけでそう言った。
帰りの電車のドアの近くで、ポニーテールのゴムを解けない程度に引っ張ってゆるめる。こめかみや生え際のあたりが少しだけ楽になった。撮影の時は普段自分が使っている輪っかになっているゴムではなく、糸のように細いゴムを何重にも巻かれ、文字通り髪を縛り上げられるのだ。ポンポンなどの髪飾りはその上から結く。事務所に入ってから知った髪の結び方だった。
車内のエアコンの風が、美砂乃ちゃんの細いハーフツインテールの髪に吹き付ける。昼間よりは少し崩れた毛束が、その風を受けてごわごわと揺れる。美砂乃ちゃんはディズニーキャラクターやお土産でもらったご当地キューピーのストラップを大量につけた折り畳み式の携帯の文字盤に、右手の親指を強く押し込んでメールを打っていた。恵比寿から乗った電車は目黒に着こうとしていた。冷たい風に晒されている美砂乃ちゃんが「今日ってこのあとひま?」と訊きながら、唇に張り付く毛束を取った。日曜日は塾がなかったので、私は痙攣する頬を指で押さえながら、うん、と答えた。
美砂乃ちゃんに連れられて、目黒駅で降りた。東口の方に出ると、タクシーやバス乗り場のあるロータリーがあって、そこを渡るとマクドナルドがあった。毎週土曜日にやっているダンスレッスンは目黒のスタジオを借りているらしく、美砂乃ちゃんはその帰りによくこのマクドナルドか、同じテナントの地階にあるはなまるうどんに寄っているらしい。私はダンスレッスンに通っていなかったから、レッスンシュートのスタジオがある恵比寿、事務所のある渋谷と、乗り換えの品川以外の駅に降りたのは初めてだった。
てりやきマックバーガーセットかマックチキンに飲み物とポテトをつけるかで迷って、手のひらに筆算を指で書きながら総額を計算して、後者にした。先に二階に上がって席についていた美砂乃ちゃんのトレーには、マックチキンと、白い小さな紙コップに入った水と、レッスンシュートの差し入れから持ち帰ってきたビタミンウォーターのペットボトルが置かれていた。ポテトを全部ひとりで食べると太る、とミラクルの子が言っていたのを思い出して、美砂乃ちゃんと一緒に食べられるようポテトを紙が敷かれたトレーの上に出した。
絵の具みたいなマヨネーズにまみれたレタスを噛み切れず、一気に一枚まるごと口の中に入れて咀嚼していると、「せつなって、本当にせつな?」と美砂乃ちゃんがポテトを貪りながら言った。どういうこと? と訊くと、美砂乃ちゃんは「だからぁ、せつなの名前って、本当にせつな? ってこと」と、かわいく苛立ちながら言い直した。まったく言い換えになっていないけれど私はそれにやっとぴんときて、ぐにゃぐにゃのレタスを飲み込み、ファンタグレープを飲んでから「一応、芸名、って言えるのかなぁ。音は同じだけど、本名だと全部漢字」と答えた。他の事務所はどうなのか知らないが、ミラクルロードに入った子たちの多くは下の名前をひらがなやカタカナ表記に変えて、表記上の芸名を使っていた。
所属契約をする時、芸名の欄でペンを止めたお母さんに狭山さんが「あぁ、まぁ、ひらがなが多いですよ。違う名前を考えるほどじゃないけど、やっぱりプライベートと仕事で名前を分けさせたい、って親御さんも多いですし。あと、読みが、ね。雪那ちゃん、結構読み間違えられません?」と太めの眉毛をぐにぐに動かして表情豊かに話した。ベージュの口紅を塗った唇ををきゅっと結んでいたお母さんは、ひとつ決心したように「じゃあ、せつなで」と言って狭山さんと目を合わせると、小さくて丸い文字で「石田せつな」と契約書に書き込んでいた。私は私の名前が決まるのを、応接スペースのソファに座りながらぼんやりと見つめていた。美砂乃ちゃん以外の、りのちゃんや他のみんなも、きっとそんな感じだったのだろう。学校や塾ではひらがなやカタカナの名前の方が目立つのに、事務所では美砂乃ちゃんのようなすべて漢字の名前の方が珍しかった。
「字、なんて書くの?」
「えっと、雪に」私はいつも学校や塾のプリントの氏名欄に書く漢字を思い浮かべる。「那覇の那、ってわかる? 沖縄の那覇。なんていうかな、洗濯物吊した感じの字なんだけど」
我ながら変な喩えだと思っていると、やはり美砂乃ちゃんが「何それ、全然わかんない」と困ったように笑った。バッグの中から、レッスンシュートやオーディションでの反省点を書くための小さいノートと、そのために買った細いシャープペンシルを取り出して、空いているページに自分の本名を書いた。
「あー、なんか、見たことある。てか、雪って書くのに、ゆきなじゃなくてせつななの?」
「うん。積雪っていうじゃん」
「ふうん。その、雪那ってどんな意味?」
「冬生まれだから雪で、那はきれいとか美しいとか、そういう意味。雪みたいにまっさらできれいな心の人になってほしいらしい」
「へー」
「美砂乃ちゃんは?」
「なんか、パパの方のおじいちゃんが勝手に神社かお寺に考えてもらってきたらしくて、よくわかんない。気づいたら美砂乃だった。パパもどっか行っちゃって、あんま会ったことないし」
なんとなく複雑なことを聞き出してしまったことに気づいて、私は慌てて早押しクイズ番組の回答者のように「私もお父さん福岡で単身赴任してる!」と一息で言った。たんしんふにんって何? と言って、美砂乃ちゃんは興味なさそうにマックチキンの包み紙の模様を指でなぞったり、その上からバンズを指で押したりしていた。
「仕事のために家族とは離れてひとりで暮らしてるってこと。お父さんと会うの、二、三ヶ月に一回とか、それくらい。ほとんどお母さんとふたり暮らし」
「え? じゃあ同じじゃん、うちら」
そう言って美砂乃ちゃんは茶色と黒と薄い緑色が混ざった瞳を見開き、やっと包み紙を解いて、マックチキンを一口食べた。美砂乃ちゃんは小柄で華奢だけど、口が大きくて食べるのが早い。というより、顔が小さいから口が大きく見えているだけで、単に食べるのが早いだけかもしれない。あっという間に半分ほど齧ってしまう。いつも通りよく噛まないまま飲み込んでしまったようで、喉元を押さえながら眉を顰めた。紙コップを美砂乃ちゃんの目の前に寄せたが、彼女は慌てて持参したビタミンウォーターのペットボトルを手に取り、シトリン色の液体をラッパを吹くように呷った。
「でも、せつなはゆきなっぽいから、レッスンとか、ミラクルのみんながいない時、ゆきって呼ぶね」
せつよりはなんか、よくない? せつって『火垂るの墓』の節子っぽいし、美砂乃のこともみさって呼んでいいよ、と、唐突な呼び名の変更に追いつけていない私の沈黙に、美砂乃ちゃんは蟻の巣に水を注ぐように、無邪気に隙間なく言葉を埋めた。たぶん、美砂乃ちゃんはその時読んでいた漫画のヒロインの名前が「ミサ」だったから、私にそう促していたのだと思う。何でもかんでも流行に乗るわけではなかったけれど、美砂乃ちゃんは一度何かに嵌まると、徹底的にその対象と同一化を図ろうとした。男性アイドルや俳優に恋することはなくて、女の子のタレントやキャラクターに憧れて、ファッションや髪形を真似することが多かった。
「美砂乃ちゃんって、本名なの?」
「うん。全部そのままだよ。ねぇ、ちゃんとみさって呼んでね?」
「なんか、美砂乃ちゃんは『美砂乃ちゃん』まで言わないと美砂乃ちゃんっぽくない感じがするんだけど」
「またなんかそういうむずかしいこと言ってさぁ。やめてよー。美砂乃、ばかなんだから」
「美砂乃って言ってるじゃん」
「ちがうんだよ、呼ばれたいの」
私はポテトを一本取った。さっきよりだいぶやわらかくなっている。「みさ」と声に出してみる。のちゃん、と続けたい口に、ポテトを含むことでそれを抑える。美砂乃ちゃんは「うん、それにして」と満たされたように微笑んで、残りのマックチキンをあっという間に平らげて、トレーのポテトを二、三本ずつ次々と食む。私には物足りない響きだった。
ゆきもレッスン受けないの? 演技とかダンスとか、と美砂乃ちゃんはさっそく「ゆき」呼びを始めた。土曜日は午前中に塾があり、レッスンの時間に間に合わない。受験が終わったら考えています、とお母さんが事務所のパーテーションで区切られた狭い応接スペースのソファに座って、そう答えていたのを思い出した。そうなんだ、と思ったのと同時に、受験が終わったら、といきなり二年も先の話を当然のように話されたことに愕然としていた。お母さんはそんな先のことまで考えているけれど、私は月に一度塾で受ける診断テストと事務所のレッスンシュート、たまに書類審査を通過していたオーディションの二次面接だけで、肺がはちきれそうになっていた。
塾の時間が、と答えると、美砂乃ちゃんは「中学受験ってそんなに前から勉強するの? 六年生になってからするのかなって思っていたんだけど」と大袈裟なほど眉を八の字に下げて、私は勉強が嫌いです、と誰にでもわかる表情をしてみせた。
「でも、私は遅い方だよ。もっとちゃんとしてる子は三年生からやるらしいけど、私は四年生の終わりからだったから、全然追いつけない」
「うわあ、無理無理。三年生の時ってうち……みさ、ミラクルのスカウトされたぐらいしか記憶ない」
美砂乃ちゃんは来年から公立の中学に行くようで、制服衣装を着る時に「リアル制服早く着たい」とか「うちの学区の中学、制服ださい説があるっぽい。行きたくないんだけど〜」とか時折私に聞かせるように呟いた。制服衣装のスカートのプリーツが揺れるのを見るだけでも合否への不安がちらつくので、そんなふうに何もためらわずに言うのは正直やめてほしいと私は思っていたものの、なんとなく歯向かう気が起きなかった。美砂乃ちゃんは年上でかわいくて、ファンレターはもちろんエンジェルブルーみたいな高い服をファンからたくさんプレゼントされて、事務所のひとたちから一目置かれて、何より普通にやさしかったから。悪意があってそう言ってるのではなさそうだった。
受験が終わったらダンスレッスンも考えているよ、とお母さんが狭山さんに言ったことをなぞるように言うと、美砂乃ちゃんは「まじ? ゆきがいたらもっと楽しいわ。みささー、りののこと苦手なんだよね。うまく言えないけど、じっとりしてない? だからゆきにいてほしいっていうか。今日りのが同じ時間じゃなくてちょっと嬉しかったし」と、急にりのちゃんの話が始まったと内心驚いていたら、「わーもう早く中学生になりたい〜……なろうね⁉」と、ポテトの油が付着した指先で、私の手首を掴んだ。美砂乃ちゃんは腕に手作りの古いミサンガを結んでいた。私の学校ではそんなのをつけていたら怒られるけれど、美砂乃ちゃんの学校では禁止されていないのだろうか。ミサンガだけじゃなくて、美砂乃ちゃんはイヤリングやネックレスをいつも身につけていた。今日も金色のフープの中に透明の蝶が揺れるイヤリングと、オープンハートにピンクのきらきらがついているネックレスをしている。動くたびに顔の周りや手首がきらめいていた。
「中学生には誰でもなれると思うけど」
「いやいやいや、ゆき? 早くなりたいっていう、気持ち! 気持ちのこと!」
私の目を見ているのに「ゆき」って呼ばれると私ではない誰かに話しかけているようで、さみしかった。でも美砂乃ちゃんはきっとこのまま飽きるまで戻してくれないだろう。頑なでわがままなのは知っていたから、すんなり諦められた。
ポテトをすべて平らげて、丸めたマックチキンの包装紙やポテトの箱や紙コップを載せたトレーを半分ゴミ箱の中に突っ込んで、揺さぶりながらゴミを捨てた。美砂乃ちゃんはビタミンウォーターを網のようなバッグにしまった。日焼け止め、どうする? と訊くと、あとちょっとだけだからいいよね、と美砂乃ちゃんは腕をさすった。その代わりになるべく紫外線にさらされる時間を減らそうと、目黒駅まで小走りで移動した。私はお母さんにSuicaを渡されていたので美砂乃ちゃんが券売機で切符を買うのを待ち、一緒に改札を通って山手線に乗って、品川駅で私たちは別れた。美砂乃ちゃんは京急線の連絡改札を通って帰っていった。私は京浜東北線に乗って、座席に座った。鼻の中にポテトの油の臭いが溜まっている。私はバッグにしまっていた日焼け止めを取り出して、腕と膝から下だけ塗り直してから目を閉じた。
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